どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話01



 美しい、音が響いて参りました。其れは笛の音とも琴の音ともピアノの音とも違い、何とも物哀しく心震わせる音でありました。故に長く眠りに就いていた其の者は目を覚まし、形を成して地を踏みしめたので御座います。

 

 
 胡弓、と申しますれば”今様”の方々は其の他の楽器を思い浮かべる事かとは存じますれども、其の時分の胡弓と申しますれば所謂”ヴァイオリン”を指す物で御座いました。此の日の本に胡弓の伝わりましたるは僅か百と数十年前で、伝わりました当時は出島の”女”が奏でる事がある程度の認知度しかなく、然程歴史の深い訳でも御座いません。鹿鳴館の時代には”ヴァイオリン”等と述べ連ねましても伝わるにそう易くはなく、仕方無しに”胡弓”とのみ表現しましたるは何とも苦肉の策。知らぬ物を伝えるには多くの苦労が有りますれば、已む無しとその名を用いたのやもしれません。
 何れにせよ明治に入りまして三十余年、国内におけますヴァイオリンの製造が始まりまして後は、やれ阿波踊り、やれ演歌、やれ民謡にと、ヴァイオリンは直ぐ様”今様”に取り入れられた次第に御座います。
 そうなって参りますれば華族貴族資産家の中にも、一つ嗜んでみようじゃあないかと云う方も現れます。ピアノと比べましたら幾らか普及度は低くとも、子息令嬢が嗜む事にも相成りました。すっかり西洋の文化を取り入れる事が当たり前となりました其の時分”音楽取調掛”……今で申し上げます”芸術大学”を卒業しました音楽教師に教えを請う者も多御座いました。
 そしてとある資産家の令嬢が其れを手に取りました瞬間より、この物語は徐々に幕を上げてゆくので御座います。

 さて、此の様な語り口調では”今様”の皆々様には些か堅苦しく、また些か面倒に思われる事かと存じます。此れより先は幾らか柔らかく、そして舞台に立つ役者の邪魔にならぬ様、語り部はじわりと声量を下げ、その存在感を溶かす事と致しましょう。




 狐を拾った。青光りする不思議な色の被毛を持った、美しい狐。敷地内の森で弱っている姿を、最初は狼か野犬と思った。けれどよくよく見てみればその尾は大きく太く、毛の流れを持たないでいる。ブラシのようにふっくらと毛の立った尾はふくよかで、体つきも普通の狐に比べれば大きかった。それなのに何故弱っているのかがわからずに、もしかしたら罠ではないかと訝しみもする。けれど結局放っておく事などできずに、少女はストールを剥ぎ取るとそれで狐を包んでやった。獣を抱えて戻って来た娘に父親は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を緩めてあれこれと用意を整えてくれたのだ。
 そして、わずか三日後。
『吾の命を助けてくれた事にまず礼を言う』
「……しゃべった」
 少女は、自分が拾った狐が人知を超えた者であると知った。
 ――そもそも、少女はヴァイオリンの練習が苦手だったのだ。ピアノはまだいくらか楽しいとも思えるのだが、ヴァイオリンときたら指はつるしタコは痛いし肩は凝るし、どちらかに集中したらどちらかが疎かになって注意される事も多々あった。元々教師と二人きりになるという事自体に苦痛を感じるタイプでもあったので、習い事はどれもあまり楽しくはない。そしてその中でも一番、ヴァイオリンが苦手だった。けれど手習いという物は往々にして練習せねば上手くならぬ物で、次にまた怒られるのが怖い少女は必死になってそれらを物にしようとしていた。どの教師も特別厳しいわけではないのだが、注意されると委縮する。それ故もっと肩肘に力が入って、いつも授業はしっちゃかめっちゃかだ。意図せぬ事ではあろうとも、教師の口から溜息が漏れれば心が萎んだ。
 そんな少女に、両親が笑う。そして言うのだ。人に聞かせると思うな。草木に語りかけなさいと。幼い時分より草花や動物が大好きであった少女は、その言葉に背中を押されて楽器片手に敷地内の森へと足を踏み入れるようになった。
 父方の祖父が植物研究の権威であった事もあり、研究がしやすいようにと少女の住まう屋敷はやや郊外に位置している。豪邸と言うにふさわしい住居の裏にはちょっとした森が広がっており、その向こうの川までがこの家の敷地だ。顔見知りの警備員が常に敷地の外周を見回っているので、幼い頃から一人で遊びに入っていた。よく手入れがされた森は日の光がある内はきらきらと輝いていて、恐ろしい事は何も無い。成長してからは中々入る事もなくなっていたが、あそこでなら落ち着いて練習ができそうだ。
 そうして来る日も来る日も楽器片手に森に入り、満足いくまで練習をしてから家に戻る。そんな生活をもう一月ばかり繰り返した時に、その獣に出会ったのだ。
「あ、あなたは……なんですか?」
『吾は日本全土に五万の社を持つ稲荷神の一柱。この森に古くから住まう豊穣の神』
「神、様……」
 今、闇世の中で仄かに光放つ狐に、少女はただ目を瞠るしかない。ベッドの上に行儀よく腰かけてピンと背筋を伸ばした姿は、まさしく稲荷の狛狐その物にも見えた。
『打ち捨てられて久しい社より、それでもこの土地そなたの一族を守護してきたが、力の衰えは已むを得ず長い眠りについていた。そのまま消えゆくかと思っていたが、そなたのおかげでまだここに存在している。礼を言おう』
「は、はい。あの、いえ、私、そんな……」
 これは夢か何かだろうか。何度も手の甲をつねり、その度痛みに顔をしかめながら、少女は必死になって現状を理解しようとする。けれどどうあってもこの光景を現実であると認識できず、段々と頭が痛くなってきた。
『命の対価にこれよりそなたを守護しよう。生憎と吾に願いを叶える力はないが、そなたを一生禍から護り続ける』
「えっと……えっ?」
『何かあったら呼ぶがいい』
「え、え?」
 情報を処理する間もなく新たな情報が入ってくる。せめてそれを整理して、質問が許されるならば質問をしなくては。少女はそう思っていたというのに、狐は言いたい事を言って満足してしまったらしい。小さな鈴だけ落として窓から去っていこうとするものだから、思わず手が伸びてしまった。
『いたーっ!! いたい! 痛いわよ!』
「あ、ご、ごめんなさい!!」
 器用に鍵と窓を開けて、いざ飛び出そうとする狐の尻尾を鷲掴む。踏み切った瞬間と掴まれた瞬間が同時だったので、尻尾の付け根にこれでもかという程の負荷がかかった。みぢりと嫌な音を立てた尾の骨に、狐が悲痛な叫び声を上げる。
「と、いうか……あれ?」
『……』
 先程、やけに砕けた言葉遣いが聞こえた気がした。声もしわがれた物ではなく、まるで女性のようでもあっただろうか。掴んだままの狐をまじまじと見つめれば、気まずそうに視線がそっぽを向く。長い長い、それは長ーい沈黙が一人と一匹の間に落ち、ややあってから深く長い溜息が聞こえてきた。
『離して』
「あ、はい」
 ややあってからぽつりと告げられ、少女はようやく狐の尻尾から手を離す。解放された狐は尻尾が無事点いている事を確かめてからぶるりと一度身震いし、それから急に姿を変えた。
「っっ、きゃ……むぐぅ!」
「しーっ」
 ゆらりとその輪郭が歪んだかと思えば、次の瞬間に現れたのは妙齢の女性。あまりの出来ごとに思わず悲鳴を上げそうになった少女の口を素早く押さえ、彼女は自分の唇に人差し指を当てた。
「むぐ……んぅ?」
「……思い出した?」
 その顔に、見覚えがある。頬と額に赤い隈取り。夜の入り口を映し込んだかのように青く輝く艶やかな髪。思いの外柔和な目元に、深い色をした瞳。
「やちよ、さん……?」
「…………ああ、よかった」
 知らず呟くと、彼女は心底からほっとした顔をして、少女の頬にするりと顔を寄せてくる。整った顔立ちが接近すれば体中が緊張したが、彼女は気にする様子もなかった。
「会いたかったわ。もう完全に忘れてしまったかと」
「……わたし」
 滑らかな頬がそっと触れれば、水に浮かんだような気持ちになる。さらさらと流れる清流に身を任せ、穏やかに洗われていくような。そしてその瞬間、少女は、いろはははっきりと思い出す。幼い頃の自分と、変わらない彼女の事を。

***

「あなたはだれですか?」
 問いかけてくる幼子に、神は面倒そうな顔をした。これくらいの歳の子供にはよくある事だが、この子もまた人ならざる者が見えるらしい。
「あっちに行きなさい」
「あ、こんにちは!」
「……」
 会話が噛み合わない。だから子供は嫌いなのだ。自分勝手に話して自分勝手に走り回り、不意に危ない事をする。神が人に出来る事などそう多くもなく、また手出ししてはいけない事も山程ある。神は人だけを救えはしない。
 里での糧が少なければ人は山に入り、あるいはそこで獣に襲われ命を落とす事もあるだろう。けれど食う物の足りぬは山とて同じ。それはまさしく弱肉強食であり自然の摂理と呼ぶべきものだ。食い荒らされた遺骸を見て人は神を呪うけれど、神は決して救う存在ではない。救いは仏に求めるもので、神は祟りも呪いもするのだ。そも万物から生じた神が人のみを寵愛するなどと、何故そのような勘違いをするのだろうか。
「あっちに行きなさい」
 この神は人間が嫌いだった。土地が豊穣であれば勝手に感謝し社の周りで騒ぎ散らかして、不作であれば要りもしない生贄を寄こす。子供が森で消えれば神隠しだの祟りだのと神のせいにし、数年の凶作が続いた時にはついに社を井戸に沈められてしまった。帰る家を突然奪われ流石に人を恨んで呪ってやろうかとも思ったが、もとより人間など短命なものだ。社を井戸に沈めた者達も、まるで枯れ枝のような腕をしていた。
「こんにちは! わたしね、いろはっていいます」
「……ご丁寧にどうも」
「あなたはかみさま?」
「はあぁ……」
 人間は、嫌いだ。自分勝手で感謝の気持ちなど殆ど無く、常に自然を踏み荒らさなければ生きてもいけない。死んで他の生き物の糧になる事もせず、毒の花を咲かせては死んでまで頑なに尊厳とやらを守ろうとする。
 その信仰は確かに神を強くもするが、同時に酷く脆くもした。膨れ上がった信仰心は薬と同じ。あまりに多すぎれば毒にもなる。最後には力を制御しきれずに、護ろうとした土地を滅ぼして壊れてしまった同胞もいた。
 この神はそうはなりたくない。まあ、もはやそれが成される事も有り得ないけれど。社を沈められた井戸は枯れており、元より人も寄り付かない。神がこの地に生じるより前から、澱んだ雨水を溜めるに止まっている。この状態では信仰も何も無く、今はただ、遥か昔からあったように自然の調和を見守るだけだ。
「そうだと言ったらどうするの? 勝手なお願いでもする? 叶える気はないけれど」
 先の問いに対して、吐き捨てるように答えると、目の前の幼子は不思議そうな顔をする。意味が解っていないらしい彼女にもう一度溜息を吐いて、神は体を屈めた。
「……そうよ」
「かみさまなんですか?」
「そう。忘れられて、随分経つけどね」
 同胞の中には打ち捨てられて狂い悲しみ、人を呪うたたり神になった者もある。けれどこの神は元よりいつか忘れられるものと理解していたので、悲しみはすれども狂いはしなかった。
 神を視る者など元よりそう多くもない。そして純粋な目を向けてくれる者はもっと少ない。子供は嫌いだ。きらめく物を置いていく癖に、忘れられなくする癖に、自分は先に行ってしまう。いつの間にか神の事など忘れ、視えない、会えない、大人になってしまう。
「かみさま! すごい! かみさまだ!」
 人は、与えなければ感謝などしない。与えなければ、見向きもしない。
「おかあさまからね、おそわったんです! かみさまはね、ずーっと、ずーっと、ずーーーーーっとむかしから、そこにいるんだって!」
 だから神は与えなかった。与えたところで虚しくなるだけだとわかっていたから。どれだけ愛しても、愛される事などないと知っていたから。
「しんじていたらあえるって! ほんとうにあえました!」
 無償の感謝など、存在への肯定など、神にとっては遠く遠く……見えもしない程遠い世界の。
「わたし、かみさまにあったらおれいをいいたかったの! わたしのゆめをかなえてくれてありがとう!」
「……私は何もしていないわ」
「ううん! ううん、ちがうよ! わたし、かみさまにあいたかったの! かみさまがいなかったら、あえなかったから! だから、あってくれて、ありがとう! いてくれて、ありがとう!」
 無理だ。そう思った。やはり、人は愛しい。愛しくて仕方ない。人はとても自分勝手だけれど、人だけが神に近付こうとしてくれる。鳥も獣も木々さえも、神に近付けば委縮する。畏敬を持って近付きはしても、微笑みかけてくれる事などない。人は、愛しい。
 この神は、今まで多くの子と触れ合い、その度別れを経験してきた。死は自然に還る事だから悲しむ必要などないけれど、忘れ去られるのは寂しかった。愛し護った人間同士が争い合って、死んでいくのは辛かった。だからいつしか与える事をやめ、ただ過ぎるに任せていつか消えるならそれも已む無しと諦めてすらいたのに。
「かみさま、おなまえは?」
「……名前はないの。あなたがつけてくれる?」
 やはり、無理だ。人は愛しい。そしてこの子供は、特別に。
 いつ生じたのか、いつからそこにいたのかもわからず、他の生き物のように親と呼べるモノも無く、ただ在るに任せてここにいた。いつしか人が豊穣を祈り、その化身として狐の姿を、そして人と触れ合うためのこの姿を得る。そうして神はここにいた。ここにいるしかなかった。
「わたしがつけていいんですか?」
「いいのよ。それで終わりにするから」
 名前を貰うのはご法度だ。咎めはないとしてもご法度ではある。名前を貰えばその者に縛られて、その者が死ぬ時には共に終わるとも聞いていた。けれどそれに、なんの恐れのあろう事か。人を愛し、人に絶望し、けれど愛しいその気持ちを捨てきれずにいた半端者だ。名を貰わずとも近いうちに消滅するならば、せめて人に縛られ終わりたい。最後まで、振りまわされていたい。
「じゃあ、ごほんをもってきます! じはちょっとしかよめないけど、いいおなまえをつけますね!」
「そうね。おねがい」
 握りこぶしを作った幼子は、元気よく駆けていく。その背中を見送って、神はまるで光差すように微笑みを浮かべた。
 そして、神は子供から『やちよ』という名前を貰い、そこから二人は徐々に、けれど確実に距離を縮めていく。
「やちよさん、ただいまかえりました」
「おかえり、いろは」
 二年の月日が流れた。女学校から帰って来た子供は、今日も今日とて着替えが済めばすぐにここまでやってくる。枯れた古井戸のすぐそばには苔むした大きな木が生えており、朽ちた後も一時の憩いの場を与えてくれた。その中で目を閉じていた神の前に、その巫女がしゃがみ込む。
「今日はね、かすていらを作ったんです。たべられますか?」
「いつものように」
「はい」
 ただ置かれても、神にはそれを食べる術がない。いや、実体を持つ事は不可能ではないのだが、それをするには相当な力を使うのだ。だから奉納されたとて、それは絵に描いた餅に近かった。
「……甘い」
「おさとうがたっぷり入っていますから」
「饅頭より甘いのね。おいしいわ」
「そう言えばおしおは入れませんでした」
 作ってから少し時間は経っていたが、差し出されたカステラはふわりとしていて甘かった。口どけも柔らかく、舌に心地良い。
「もう一口たべますか?」
「そうね。もらうわ」
 嬉しそうないろははカステラを手に持って、やちよの口元まで差し出してくれる。宣言通りもう一口それをかじってから、彼女は穏やかに微笑んだ。自分を明確に認識した者の手ずから差し出される物ならば、こうして口に出来るのだ。長い存在の中でも然程経験した事がないそれは、神をむず痒く幸せな気持ちにしてくれる。
「あなたは食べないの?」
「やちよさんにたべてほしかったから」
「そう」
 小さな子供の大きな優しさに目を細め、腹と同時に心も満たされていた。体の奥底からむくむくと湧いてくる力は信仰が強かった時代よりも強固で、決して消える事はないだろうという充実感をも与えてくれる。いろはとのかかわりは次第にやちよの力を強くして、たった二年かそこらで全盛期の勢いを取り戻させようとしていた。
 ――だからこそ、気が緩んだのかもしれない。
 いろはは今まで見てきた子供よりはずっと落ち着いていて、元気に走り回る姿などあまり見た事がなかった。けれど彼女とて子供は子供。ふと目を離した隙にとんでも無い事をしでかすという点においては、他の子供達と何も変わりがなかったのだ。

***

「私、井戸に落ちて」
「そう。そこから十年近く、全てを忘れていた」
 幼いいろはは考えていた。どうにかしてやちよの社を元に戻してやれないものかと。そしてあの日、父の釣竿を勝手に持ち出して馬鹿な考えを実行に移してみた。移してしまった
 やちよはいつも、いろはとの逢瀬の後に瞑想をする。森の隅々、川の先まで神経を張り巡らせて、大きな禍がないか確かめるのだ。いろはを自身の巫女としてから、彼女は再び土地を護るために力を使い始めた。神の力とは大したもので、腐りかけた木は治り、枯れた井戸は蘇り、田畑では数十年ぶりの豊作だと騒いでいたのを覚えている。やちよがこの土地に生じるより以前に枯れてしまっていた井戸を戻す事は叶わなかったが、それでも土地は大分良くなったと聞いていた。
 その姿をちらりと見て、いろはは森の入口に隠しておいた釣竿を取りに戻る。そしてやちよの目を盗み、枯れ井戸に糸を垂らしたのだ。
 結果として、その行為は失敗以外の何物でもなかった。確かに針に社を引っ掻ける事には成功したのだが、幼子一人で持ち上げられるはずもない。そして打ち捨てられた井戸は脆く、囲む板はとっくのとうに腐っていた。メシャリ、というくすんだ音がしたのを最後の記憶として、いろはの意識は途絶えている。
「……やちよさんが助けてくれたんですか?」
「当たり前じゃない。自分の巫女よ。持てる力を全て使ったわ」
 高い水音に瞑想から引き戻され、異常を察知したやちよが井戸を覗きこんだ時、すでにいろはは真っ赤だった。穴に引き摺られる瞬間に石の壁へと強かに頭をぶつけたらしく、そこから水面までを赤い帯が彩っている。頭を完全に水面下に落とした彼女は、そのままピクリとも動かなかった。
「ほとんど死んだようなものだったわ。息はあったけど首の骨が折れていた。そうでなくとも血が止まらなくて、いくらももたないとわかっていたの」
「……それを、治したんですか?」
「ええ。それこそ存在全部をかけたわ。結果としてあなたを無事に返してあげられたけれど、私は力の使い過ぎで、もう眠るしかなかった。何年、何十年、何百年かはわからない。もしかしたらそのまま消えるのかもしれないと思った。あなたが生きている間には二度と会えないかとも思ったくらいよ」
 それでもいろはが会いに来てくれれば、自分を呼んでくれれば。そうすれば必ずいつか目覚める事ができる。そう思っていたのに。
「夢うつつであなたの傍に行こうとしたわ。でも、うまく繋がれなかった。無理もないわね。あなたは全てを忘れてしまっていたんだもの」
 事故による後遺症か、それとも神の力を生身に受けすぎた影響か。物心ついてからあの日までの数年を、いろはは完全に忘れてしまっていた。そんな事があっては親も外へは出さなくなる。そうしていく内にやちよは完全に力が衰え、ついには真っ暗な眠りが訪れた。
「だけど、この間突然、音が聞こえたの。綺麗な音。弓が弦を撫でる音だったわ」
「……ヴァイオリン?」
「そう。きっとそれね。その音が、草に、木に、語りかけたわ。空気を何度も震わせた。あなたが私に入って来た」
 そうしたら、驚く程簡単に目が開いた。ぱかりと開いた瞼の先に眩い昼間の森を見て、その向こうに自らの巫女の存在を感じた瞬間、居ても立ってもいられなくなった。慌てて彼女の元まで走っていき、けれどそこでやちよは愕然とする。森を見つめる彼女に自分は見えておらず、相変わらず周波数も微妙なズレを残したまま。それでもそのまま引き下がる事などできず、せめてその目に映りたいと狐の姿を取り、そこで通力を使い果たした。
 このまま何もできずにその目から消えてしまうのかと思っていたら、彼女がそっと抱いてくれたのだ。十年近くの時を経て、見違えるほどに美しくなったいろは。その腕に抱かれた瞬間あの時のように心と体が軽くなり、見る見る力が戻って来た。
 けれど依然として彼女との回線は繋がらないままで、一度やちよは全てを諦めかけた。それでももしかしたら。彼女は大人になるために視るという力を押し込めているだけなのではと、最後の最後で悪足掻きをしてみたのだ。みっともなく縋る事がないように多少演じはしたけれど、あれは紛れもないやちよの本心だ。やちよを救ってくれたのは彼女が最初。あの時の怪我の治療はその礼だ。そしてまた、いろははやちよを救ってくれた。忘れているはずなのに、それでも力を分け与え生かしてくれた。ならば自分は彼女の一生に禍が起こらぬよう、存在全てをかけて守ってみせよう。
 その言葉に心動かされたのかはわからない。神を視た事による衝撃なのかもしれない。けれどあの瞬間に彼女の中の錆ついたダイヤルがギシリギシリと動き出し、ついに今、回線は再び繋がったのだ。
「私が見える? いろは」
「……はい」
「じゃあ……触って」
 甘えた声で懇願する神に、いろはは頬を赤らめる。幼い自分はよくこの存在を前にして平静でいられたものだとすら思った。彼女は今までいろはが見てきたどんな存在よりも、確かに美しかったのだ。
「やちよさん……」
「……ああ、いろは」
 恐る恐るその頬に触れ、指先だけでそっと撫でると、彼女は至極嬉しそうに破願する。それは幼子のように無垢であり、まるで恋するように鮮やかでもあった。その想いと眼差しはあまりにも真摯に過ぎて、到底逃げる事などできそうもない。そしてそれを望みもしない。だからいろはは目を閉じて、彼女の全てを受け入れる。そっと触れ合った薄い肌から様々な物が溢れ出していくようで、それがあまりにも苦しかったから、一粒だけ涙が零れた。