どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話02

 


 さてさて斯くも奇妙な物語。今や幕は上がり切り、舞台の役者も正しき位置に立ち並びました模様で御座います。神とその巫女は十年近くの時を経て再び本来在るべき関係に相成りますれども、時代はまさに近代化の只中。人々の中には神や仏や妖怪等と云う存在を信じない者も増えて参った時分で御座います。深川、本所、浅草等、下町の名残ある場所では未だ信心深い者も多御座いましたけれども、丸の内、銀座、日本橋と云った商業オフィスの立ち居並ぶ近代的な通りでは”滅多な事”と狐狸妖怪の類の話はめっきり口数も少なくなって参りました。開国から明治の四五年を経て大正に入りましたこの時分、人々の心は”サイエンス”と云う物に捕らわれつつあったのです。
 此の頃には洋式の建物も当たり前となって参りまして、先に上げ連ねました商業オフィスの立ち居並ぶ地域等はまさしく近代化の象徴とも呼べる美しい街並みと相成って御座いました。銀座をぶらつく……所謂”銀ぶら”と呼ばれる言葉が生まれたのもこの時期で御座います。帝都の書生達は時間が有れば銀座へ繰り出し、時には悪い遊びもした事で御座いましょう。
 さて、この時代と申しますれば、女性の社会進出はまだ然程進んでおらぬ時分でございます。されども皆々様が想像する良家の子女と、この時代を生きた彼女達の中では、恐らく大層な”認識の差”と云う物が御座いましょう。箱入りで物静か、男の後を三歩遅れてついていく。大和撫子のイメージはそのような形である方もいらっしゃる事かと存じます。けれど、当時の女性もそれは逞しい物で御座いました。スキーに登山、テニスに水泳。男性の目がない場所では、少し怪しい会話も飛び交います。そして何よりも彼女達が関心を持ち花を咲かせたのは恋の話。今より自由が少なかった時代、断る余地はあったにせよ、恋愛婚より見合い婚の方が多御座いました。少女達は恋と云う物に強い憧れと、夢を抱いていたので御座います。時には他の全てを投げ打ってしまえる程に……。

 

 


「……お見合い?」
「はい。断ってしまいましたけど」
 険を孕んだ声に、いろはは作業をしていた手を止めた。ここ一週間くらいずーっと続けてきた刺繍は、あともう少しで完成するだろう。狩衣を脱がされたやちよはいくらか寒そうな見た目だが、神に気温は然程関係がない。いろはの部屋には火鉢もあるし、風邪をひくという事もないだろう。
「”おぼこ”でないと巫女は務まらないかと思って」
「……そういうわけではないけれど」
 ベッドに座っていたやちよは、いろはの口から飛び出した言葉に少し眉を下げる。十年近くの月日は二人を、特にやちよを混乱させるには十分で、片腕で抱え上げるも容易だった少女が結婚適齢期の女性となっている事実に、未だ少し落ち着かない心持ちでいる。
「いつの間にそんな言葉を覚えたの」
「私の友人は、もう二人の子供の母親ですよ」
 そも女学校に通っていた六年間に、育児課程を履修済みだ。育児について学ぶのは二年目からだったし、勿論俗語を学ぶ場ではなかったけれど、女子がおしゃべりなのはどの時代でも変わらない。良家の子女が集まるとは言っても、親や教師の目から解放されれば、お話し好きで少しやんちゃな少女達なのだ。八歳から十二歳くらいまでは鬼婆ごっこや旗取り合戦など、体を使った遊びもよくやった。そこから先、少し落ち着いてきてからは恋愛話に花が咲く。
「今までもあったの? お見合いの話」
「十を過ぎてからちらほらとは。その時はまだ早いとお母様が反対なさって、写真を拝見するまでには至りませんでしたけど」
「あなたにまで話が降り始めたのは?」
「十四を数える頃です。でも、どうしてもそういう気持ちになれなくて」
 もしかしたら、奥底では覚えていたのかも。そう言って微笑み、彼女は刺繍を再開する。その手で飾りつけられていく自身の狩衣をしばらく眺めて、神はゆらりと尾を回した。
 糸の色は、銀に青藍、薄浅葱に孔雀緑、桔梗がその物の色で花開けば、無地だった衣も随分と賑やいで見える。元地の色が青白磁だったので、華やかながらも決して華美に過ぎるという事もない。銀糸で流された水の紋は涼やかに、桔梗咲く川辺を色成していた。
「……綺麗ね」
「ありがとうございます」
 女学校で学んだ事は、しっかりと彼女の力になっているようだ。本来ならば嫁いだ先で夫や子供の衣服を、というための授業だったろうが、それを惜しげも無く使ってくれるのは嬉しかった。
「あとどれくらいで完成するの?」
「そうですね……二日もあれば、きっと」
「そう」
「はい」
 いろはの神は口数が少ない。蘇って来た幼い頃の記憶では、あれやこれやと世話を焼いてもらった気がするのだが。草花や鳥の事もよく教えてくれたし、危ない事をすれば叱られた。雪にはしゃいで走り回り、案の定転んだ時など、それ見た事かと抱き上げてもくれたのに。
「……やちよさん?」
「なに」
 ベットの上で胡坐をかき、窓の外を眺める彼女は無表情だ。呼びかければこちらを向きはするが、微笑んではくれない。そもあの日の再会以来より、あまり笑うのを見た事がなかった。能面のように張り付いた美しい顔をしばらく見つめて、いろははゆるりと視線を逸らす。そして再び衣に針を通しながら、囁くように問いかけた。
「怒っていますか?」
 十年ひと昔だ。正確にはまだ十年経ったわけではないが、その間ずっと放置していた事には変わり無い。巫女は神のために働く神職であり、その神を投げ置いていたとあれば、それこそ祟られても呪われても文句は言えないだろう。ましてあそこまで自身の神を弱らせてしまったのであれば、無残に食い殺されても仕方ない。
「……怒っては、いない」
 ある種覚悟を決めたような顔をしている巫女をじっと見つめて、神は小声でぽつりと呟く。それから一つ大きな溜息を吐くと、所在なさげに自身の髪に指を通した。
「寝て、起きたら、小さな子供が綺麗な女性になっていた。見違える程だったから、少し……照れくさいだけよ」
「っ……いたっ」
 吐き出された内心はあまりにも直球な賛美で彩られており、驚いたいろはは思わず手元を狂わせる。ぶつりと音がして針が皮膚を穿つと、その穴からぷくりと赤い雫が溢れてきた。
「いろは」
 生地に血が落ちないようにと慌てて左手を抱えた彼女の元に、すぐさま神が近付いてくる。音も無く床を歩くと巫女の手をそっと取り、神は少しだけ眉をひそめた。それからおもむろに顔を寄せると、躊躇いもせずに白い指を口に含む。
「やっ……やちよさ……っ!」
 ぬるり、と舌が触れた瞬間、全身にぶわりと鳥肌が立った。胸元からすごい速度で熱が這い上がってきて、頭の天辺までが心臓になったような感覚がする。鼓膜に直接自身の心音が響き渡れば、湯気が出そうな程だった。
「これで大丈夫……いろは?」
 対する神はと言えば、一瞬で真っ赤になってしまった自身の巫女にのんびり首など傾げてみる。何故彼女がそうなってしまったのか全く理解できず、訝しむ姿は無垢でもあった。
「どうしたの」
「ひゃい! いえ! 大丈夫です!!」
 心配そうに手を伸ばしてくるやちよに、いろはは慌てて首を振る。今触れられたら体が壊れてしまいそうだ。伸びてくる手から逃げるように体を引いたら、神はむっとした表情になってそのまま腕を組んでしまった。
「……私の事をとやかく言うけれど、あなただって大概じゃない? 私は昔のように触れたいと思っても、いろはがそうやって逃げるから……子供の頃とは違うんだと思って遠慮をしているのに」
 不満を隠そうともしないやちよは、そう言って視線を斜め下に投げる。それはもしかしたら、いろはの内心を盗み見た事に対する気まずさもあったのかもしれない。けれどいろははそれを不快と思うどころか、少し嬉しく感じてしまった。何百年、あるいは何千年も前からこの土地を守護してきた神が、自分一人との接し方に躊躇って通力まで使ったのだ。それは紛れもない特別扱いで、それを想うと心がくすくすとざわめいた。
「……やちよさんは、お綺麗ですから」
 神がそこまで自分を大切に想っていてくれるならば、それに応えるのが誠意だと思う。心を読めるならば想うだけでもいいかもしれないが、それではいろはの気持ちが許さない。しっかりと言葉にして伝えなければ、自身の神に対して申し訳が立たないと思ったのだ。
「やちよさんは出会った時からお綺麗で、むしろ私は、幼い自分がどうしてあそこまで無邪気でいられたのか信じられません」
 左手を右手で包み、それを胸に当てる。あまりの恥ずかしさに顔は上げられなかったので、知らず視線は下がってしまった。けれど何分初めての事なので、それはどうか許して欲しい。いろはにとって、告白、という行為は”少女の友”に載っている小説の中の出来事で、まさか自分がする事になるなどと思いもよらなかったのだから。
「お顔を見る度にどきどきします。触れると胸が疼くようで、体が熱くなってどうしようもありません。だから、触れられたら壊れてしまいそう」
 いつか見合いをして結婚し、そこから情という名の愛が湧く事はあるだろうと思っていた。屋敷に出入りする書生にも特別な感情は抱かず、海軍士官学校に通うという美青年を紹介されても戸惑うばかり。友人が惚れた腫れたの話をしている時も、どこか上滑りの賑わいで誤魔化し続けていた。
 きっと自分には恋などできない。長い年月をかけて、夫となった人へと情を移していく事しかできないのだろう。そう思っていたのに。
「やちよさんは、私が今まで見てきたどんな人より、どんな存在より綺麗です。だから、だから……」
 だから、恋などしようもなかった。幼い頃に、まるで刷り込みのように、美しさの基準が作られてしまったのだ。優しさと、愛され守られる実感すらも。綺麗で輝くもの全ての基準を神としている自分が、恋などできようはずもない。
「……いろは」
 泣きそうになりながら、それでも必死に想いを伝えてくるいろはに、やちよは微笑んだようであった。なんの遠慮も躊躇いも無くその指が頬に触れ、そっと顔を上げられてしまう。真っ赤になった自身の巫女を数秒見つめ、神は音も無く顔を寄せた。
「……っ」
 あの夜にしたように、薄い皮膚同士がそっと触れ合う。唇の上を柔らかな感触が滑れば、意図せずに体が震えた。
「……どうして」
 ほんの一、二秒の触れ合いの後、気がつけばそんな疑問が口から零れ落ちている。いろはの頬を包んだままのやちよは、震える巫女を見て首を傾げた。
「人間は、愛情を伝えるためにこうするのではないの?」
 心底不思議そうな表情に、それ以上何か考えている様子は見えない。いろはからすれば口付けは恋人同士がするもので、心が通っている事が最低条件だと思う。けれどそこはやはり、神と人だ。姿かたちは人を模してはいるが、やちよは決して人ではない。それを痛感すると少し悲しくなって、しょんぼりと眉を下げた。
「なぜ、悲しそうな顔をするの」
「……いいえ」
 いろはのこの感情が、恋なのかは自分でもわからない。ただ美しく輝く者である彼女の事を、尊く思い敬っているのか。それともまさしく刷り込みのように、最初の口付けの相手として意識してしまっているのか。
 いや。
 どちらでもないな、といろはは思った。ただそれだけならば、こんな風に胸が痛みはしないだろう。獣のする毛繕いと同じ想いで唇を奪われたとして、そしてそこにやちよの心がないとして、ただ敬いや刷り込みの気持ちだけならばここまで落ち込んだりはしない。
「いろは」
 先程とは打って変わって沈んでしまった巫女を見つめて、神は真剣な表情のままだ。頬を包み込む両の手は優しく、細められた目元すらも柔らかいのに、その奥の瞳はやけに真剣な色をしていた。
「神に愛されれば、現世からは永久に消える事になるわ」
「……え?」
「神の妻になるという事は、人の世との別れを意味する。あなたにその覚悟はある?」
 その、目と。その、言葉に。心が震えた。けれどそれは感動などではなく、純然たる恐怖からだ。人の世との別れとは、死ではない。いろはが死ぬような事を、この神は望まない。その確信はある。けれどやちよの言葉で、今まで感じていた親しさや近しさが全て吹き飛んでしまった。人の世、神の世、と世界を分け、それを語る目の前の存在は、間違いなく人知を超えた存在だ。恋をしていい相手ではない。触れて欲しいと、抱きしめて欲しいと、そう願っていい相手では……ない。
「そんな寂しい事を考えるのはやめて」
「ん、ひゃっ……!」
 どんどん沈み込んでいく巫女をひょいと抱き上げて、神は眉を下げて微笑んだ。久しぶりに、本当に久方ぶりに滲むような笑顔を見せて、やちよはそのままベッドに歩いていく。いろはの膝から滑り落ちた狩衣が不満そうな音を立てるが、それを振り返るのすら許してはくれなかった。
「私に恋をしているのね、いろは」
「……あ、あの」
「何も怖がる事なんてないわ。引け目を感じる必要もない。神が人と交わった例はそう少なくもないし、自らの巫女を娶った同胞も多い。そもそも波長が合って極端に近しい者を巫女や神和に選ぶのよ。傍にいて心地良いのだから、我々からすれば巫女と”めおと”になるのは当然望むべく事なのよ」
 そっと寝具の上におろされると、すぐにやちよが覆い被さってきた。ゆらりと尾を回してから目を細める姿に、いろははただ目を瞠るしかない。やちよは狩衣一枚を脱いでいるだけで、別に夜着でもなんでもないのに、普段は見えない着物の合わせが見えるとどきりとした。
「わ、わたし……私」
「獣が舐めるような物? 愚弄されるのは嫌いだわ。あなたの何百倍生きていると思っているの」
「……っ」
「情愛ではないわ。愛情と言ったの。人の耳があまりよくないのは知っていたけれど、自身の神の言葉を聞き違えるなんてね」
 羽織っていた綿入りの着物を肩から滑らせ、夜用の薄い浴衣の合わせからやちよの手が滑りこんでくる。他人に触れられた事などない肌に指先が触れると息が詰まった。
「……っいや」
 思わず、拒絶の声が漏れる。その声にやちよが手を止めて、じっと覗き込んできた。深い色をした瞳は静かで、特別荒れている様子も無い。ただ少しだけ熱っぽく、そしてやけに潤んでいるように見えて、今度こそ感動で心が震えた。
「……本当に、嫌?」
「っ……」
 求められている。そう思うと心が揺れたけれど、いろははまだ決定的な言葉を貰っていない。やちよの口ぶりからいろはを女として愛している事は察せられても、それでもまだ乞われてはいなかった。
「……それを言ったらあなたもそうだと思うけれど?」
「こ、心を盗み見るのは、やめていただけませんか……」
「見えるのよ。あなたが私に心を開いているから」
「……っもう!」
 通力の無駄遣いと思っていたのに、然程力は使わないらしい。じっと目を覗きこめば大抵の事はわかるのだと言って、神は笑った。
「言葉にするのが恥ずかしいのなら、想って。それだけでいいわ」
「先に言葉が欲しいと言ったら、わがままですか……」
 だだ漏れの内心に真っ赤になりながらも、いろははそう言ってみる。するとやちよは艶やかに微笑んで、いろはの頬を二度撫でた。
「あなたを愛しているわ、いろは。叶うなら今すぐ娶ってしまいたいけれど、あなたの覚悟が決まるまで待ってあげる。その代わり、今ここで私に抱かれなさい。当面はそれで十分」
「そ、そこまでは……」
「求めてなかった? この状況で?」
「うぅ……」
 長く生きているだけはあるようだ。恥じらいもなく睦言にまで言及され、これ以上は無理と思っていた熱がもっと上がってくる。それでもいろははやちよを見つめると、必死になって震える唇を開いた。
「……お慕いしています」
 たった一言。それ以上は無理。ごく短い言葉だったけれど、それで神は満足したようだ。艶やかな笑みがもっと深くなり、極上のそれへと変わる。そして後は言葉も無く、ただその体を開いていった。
 声を殺すなと言うやちよに首を振れば、結界を張ったからと返される。外に聞こえるとかそういう意味ではないと思えば、吐息だけで笑うのが聞こえた。やちよが触れる場所全てが熱く、同時に感じた事も無い気持ちになる。心どころか体までもが切なく疼けば、知らず足を擦り合わせる自分がいた。いつか友人と回し読みした小説を思い出すと、羞恥心から涙が出る。初めての恐怖心など遥かに上回る心地良さに押し流されれば、嫌われはしないかと不安になった。
 そんな少女の”封”を解きながら、彼女だけの神が笑う。可愛い好きだと愛を囁く。蕩けそうな声で”少女”をふやかし、その内に隠れていた”実”をむしゃぶりつくそうとしていた。胸に、腹に、腰に、そして秘めた場所にまで。熱い手のひらと舌が滑り、皮を剥いていく。女性だとばかり思っていたやちよが実はどちらにもなれるのだと知ったのは、そのすぐ後。闇夜の変化は然程激しい違和感をいろはに与えたわけでもなく、光ある所で見てもそれは変わらなかっただろう。いろはは幼い頃から変わらない。やちよの存在そのものが愛しいだけだ。ただ、そうなると言葉遣いまで変わるのだなと、少しおかしくなった事だけは覚えていた。普段のそれよりいくらも逞しい腕に抱かれながら、初めての夜は過ぎていく。姉の在る者の伝聞や婦人雑誌の投書等で痛いだとか苦しいだとか聞いていたのに、そんな不快感は微塵も無い。ただ心地良さと充足感を感じている自分をいやらしく思い、また聞いた事もない嬌声が恥ずかしくて仕方なかった。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
 いつ眠りに落ちたのか覚えていない。そしてなぜ神に膝枕をされているのかもわからない。ぼんやりとした頭で数秒考えて、とりあえずころりと寝返りを打つ。柔らかな単の感触。あぐらをかいた膝になかば上半身を乗せるようにして、いろはは自身の神を仰ぎ見た。
「体は痛くない?」
「……はい」
 笑顔のやちよは輝いているように見える。そして事実それは目の錯覚でもなく、その輪郭はぼんやりと光を放っていた。
「きれい……」
「あなたと体で繋がったから。交わりがより強くなって、今は力が溢れているの」
「……そう、なんですか」
 今は女性の姿をして、神は至極ご機嫌だ。そういえば昨夜、男性の姿よりも女性の姿の方が好きだと言っていた。力は圧倒的に男の方があるが、やちよを視て話かけるのは女の方が多かったからと。そしてその時男の姿だと、容易に近付いてはくれないとも言っていた。つくづく、人とかかわるのが好きな神だと……。
「っ!!」
 そこまでを考えた瞬間、いろはの頭は覚醒する。ばっと自身を見下ろして、裸である事に気付くと慌てて寝具を引き寄せた。
「……なぜ隠すの?」
「隠します!」
「もう全部見たわ」
「そ、そ、そういう問題ではありません……っ!」
 そんないろはを見下ろして、神は不満そうな顔をする。丸まろうとするいろはの肩を押さえつけると、じーっと顔を覗きこんできた。
「なぜ混乱しているの」
「混乱くらいします!」
「満たされてはいない?」
「……っそ、それは」
 今のいろはの心はぐちゃぐちゃで、繋がりの深くなった神でも容易に覗けはしない。しっちゃかめっちゃかなその中から喜びや幸福を探し出そうとしても、他の感情が邪魔でよく見えなかった。今見えているのは焦燥と羞恥、そして大きな罪悪感。
「いろはは、私と交わった事を後悔しているの?」
「違いますっ!!」
 問いかけには、思った以上の大声が返ってきた。それには流石の神も驚いたらしく、目をまん丸にして耳が後ろへ逃げていく。少し体を引いたやちよにいろはは慌てた顔をして、それから思い出したように扉を見た。
「い、今何時……っ!」
 それからあたふたと時計に目をやる姿を見て、やちよがのんびりと口を開く。
「起こしに来た女中と母君なら、私が適当にあしらったわ」
「えっ」
 なんでもない事のようにそう言われ、いろははさっと青ざめた。この状況を見られたのかと思ったのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
「幻術をかけておいたの。彼女達は部屋に入ってもいないけれど、記憶の中ではあなたに会って、体調が悪いと言うので医者を呼び、診てもらってから安静にさせている状態」
「……ありがとうございます」
 部屋は、昨晩と同じように結界が張られているようだった。まるで水底に沈んでいるかのように光を乱反射する壁を眺めて、いろははもう一度やちよを見る。
「違うんですよ」
 そしてそっと囁くと、神は少しだけ眉を下げた。ようやく冷静になってきたいろはの心に、罪悪感の正体を見て苦笑が漏れたのだ。
「……お父様とお母様を、裏切ったようで」
「わかってる」
 二人とも、いろはに危険な事がないようにとあれこれ手を尽くしてくれた。郊外から学校に通う娘が暑さ寒さにさらされるのは可哀想だと、車を買って運転手まで雇ってくれて、どこかに出かけると言えばお付きの女中にガードマンまで。親にとってどんなに良縁でも、いろはの気持ちが向かないのであれば見合いもきっぱり断ってくれた。大切に大切に、慈しみを持って育ててくれたのに、親に隠れて女になってしまったのが申し訳ないのだ。
「後悔は、していません。求めた方に求めていただいて、これ以上の幸せはないと思っています」
「……それでも罪悪感は拭えない」
「申し訳もございません……」
「謝る必要はないわ」
 巫女を膝に乗せたまま、力の満ちた神は笑う。先程とは打って変わって薄い微笑みは、どこか寂しそうにも見えた。
「私は親というものを……家族というものを知らないから、あなたの気持ちを全てわかってやる事はできない。けれど、人が様々なモノを大切に想う気持ちは理解できる」
「……やちよさん」
「それを私は、貴い物だと思うわ。何かをした時罪悪感を抱けるのは、心の優しい証拠だから。私に申し訳なく思う必要はない。大切になさい」
「はい……」
 そっと、まるで壊れ物を扱うようにいろはの髪を撫で梳いて、やちよは穏やかに微笑んだ。その瞳から滲むのは見間違いようもない愛しさで、それを感じるとしゅわしゅわと胸が疼く。今罪悪感を抱くのがわかっていたとして、それでもあの時いろはは自分を律する事はできなかっただろう。そういう事への憧れが無かったと言えば嘘になる。そして想い人に求められたいという欲もあるのだ。
「……そそられるわね」
「え?」
「夜の匂いをまとったままの恋の相手が、潤んだ瞳でこちらを見上げる。いい気分だわ」
 じっと見下ろしてくるやちよを見つめ返せば、満足気な笑顔が零れ落ちた。それに再び顔を真っ赤にしたいろはは、寝具を押さえて体を起こす。
「き、着替えます」
「どうぞ」
「……あっち、向いててください」
「もう全部見たわ」
「っだから……っきゃ!」
 そういう問題ではない、と再度告げようとした瞬間、素早くベッドに引き戻された。驚いてきつく目を瞑れば、その隙に唇が触れる。
「人は夜目がきかないのを忘れていたわ。明るい中で私を見ればいい。そうすれば”あいこ”でしょう」
「ち、ちが、そういう事じゃ……んっ」
 ただ羽織って軽く止めていただけの単を脱ぎ落し、すっかりその気の彼女が笑う。それに反論しながらも実力行使に出られないいろはも、また同罪だろう。憧れは罪悪感よりも強く、恋は道徳よりも重い。それに、やちよと繋がった時の心地良さと充足感は、例えようもない物だったのだ。お互いの間を何かが行き来し、それが続くごとにどんどん大きくなっていく。やがて抱えきれない程に何かが大きくなった時、それは淡く弾けてお互いを満たした。まるで魂に触れたようだと思ったのだ。
「いろは。可愛いいろは。私の巫女。あなたを乞うわ」
「……はい。望むままに」
 それを知ってしまったら、もう後戻りなどできない。決心はまだつかずとも、世間から誹りを受けようとも、例え親に泣かれようとも。もう戻れないし、戻りたいとも思わない。

 そしてこの時の判断は、後にいろはを酷く満ち足りた気持ちにしてくれるのだ。ああ、あの時抱き合っておいてよかったと、薄れゆく意識の中で考える事になる。
 人も、神も。いつ終わるかはわからない。ある日突然何の前触れもなく、世界が崩れる事だってあるのだから。