どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話03

 

 皆々様におかれましては”ペット”をお飼いの方々も多数いらっしゃる事かと存じます。そもこの日の本におけるペットの歴史を掘り下げますと実に縄文の頃まで遡りまして、犬はその頃から人間の友で御座いました。されどその頃においてはまだ”愛玩”には至らず、敢えて言葉として述べるならば”家畜”としての飼育に留まるのみで御座います。平安の頃より”愛玩”する生き物として猫が飼われるようになり、かの有名な藤原氏の一族の中にも猫を寵愛する方がいらっしゃったようで御座いました。平安の頃においては猫は神聖な生き物でございまして、大切な経典を食い荒らす鼠を狩ってくれる存在として、非常に大切にされておりました。”猫王”等と申しまして、神格化された存在も御座います。
 対する犬はと言えば、実は江戸の後期に至るまで番犬以上の意味をあまり持たずにおりました。犬公方と揶揄された五代将軍徳川綱吉公の施行しました生類憐みの令の時代を除き、その殆どは野良犬同然。あるいは高貴な方々のステータスとして大型犬のみが高値で取引されるような具合で御座いました。
 さて、ここで話は舞台の二人に戻ります。狐を拾いました少女は両親の許可を得てその手当をして参りましたが、今やその毛並みも美しく、しなやかな体躯も活き活きとしたもので御座います。となれば当然、狐の今後の身の振り様に話は及んで参ります。そしてそれは奇しくも、少女の今後へとも繋がって行く事と相成りました。
 今回は、神に降りかかった小さな災難と、その後に起こった一つの事件についてお話して参りましょう。

 

 


「狐の様子はどうだい」
 朝、食卓についた父にそう声をかけられて、いろははびくりと体を緊張させた。
 その狐が実は神で在った事、そして娘がその巫女である事、二人が正しき関係におさまり直し、そこから少しばかり正しくない位置に再度座り直した事を両親は知らない。ただ純粋に拾った狐の体調を心配しての問いかけに、気付かれないよう深呼吸した。
「もう大丈夫だと思います。えっと……元気ですし」
 いろはと二人きりの時は狐の姿を取らないので、なんと答えていいのか少し迷ってしまう。一線を越えてからのやちよは常にご機嫌で、夜もそれは旺盛だ。交わる度に力は増し、時折など狐の姿でも光放っている事がある。
「熱は下がったのかい? 食欲は?」
「はい、どちらも良い状態です」
「口を開けて息をしたり、逆にじっと動かなかったりする事は?」
「どちらもありません」
「そうか。よかったね」
「はい」
 父方の祖父は植物学者、そして父はドイツ語と動物学の権威だ。どちらも長男ではなかったために家は継がず割合と自由に生きているが、趣味が高じて権威にまで上り詰めてしまったのが面白い。見てくれにもそこまで気を使わない父ではあるが、母は父のそういうところを好きになったのだと言う。貴族の令嬢、しかも一人娘。引く手数多であった母が選んだのが寝ぐせだらけの研究馬鹿であったのは、その両親、つまりいろはの祖父母にとっても驚くべき事ではあったらしい。けれどいざ婿に迎え入れてみれば、何かと気は利くし穏やかで真面目、大事な一人娘を泣かせる事もなく、よい夫でありよい父親ともなった。娘の目に狂いはなかったと笑う祖父母は、今は父に全ての事業を託して那須で心穏やかな余生を過ごしている。
「あなた、聞いてくださいな。あの狐ったらすっかりいろはにべったりで。どこに行くにも着いていくんですよ」
「そうかそうか。狐はあまり慣れない生き物だと思っていたけれど、やはり親身になった者には心を許すんだね」
 朗らかに笑う両親に、いろはは乾いた笑いしか返せない。やちよがいろはにべったりなのは他に理由があるのだが、それをここで言うわけにはいかないだろう。実はあの狐は神様で、自分はその巫女になっていて、十年近く忘れていたのだけれど最近になって思い出し、そして。……そして。
「……っ」
 いろは、と。甘えた声での囁きが蘇る。惜しげもなく肌を晒し、見下ろす瞳は確かな熱を孕んでいた。慣れないいろはを労わってゆっくりゆっくりと、焦れったい程の優しさで触れてくる手。痛みを感じぬようにと何度も何度も愛撫を繰り返し、いざ交わる時にはいろはは既に蕩け切っている。それでもそこから更なる熱に貫かれ、やちよが達する頃には意識のない事の方が多かった。何回目までを慣れぬ内と数えていいのかはわからないが、朝に抱きしめられたままで目が覚めるとやはり恥ずかしくて仕方ない。
「いろは? どうかしたかい?」
「い、いえ! なんでも……なんでもないんです」
 狐を拾って早一月。初めて肌を合わせてからもう三週間近く。間に一週月の物を挟みはしたが、それ以外の夜は殆ど彼女に抱かれている。いや、夜の事だけ述べるならば、彼、の方が正しいかもしれないけれど。
 未婚の内に処女を失った事には罪悪感があるが、それよりも喜びの方が大きくなりつつあった。敬い畏れられる存在が、毎夜のようにいろはを求めるのだ。人間のようなまぐわいは本来必要のない物と言いながら、それでもわざわざそうしようとする。いろはの着物を脱がせて肌の全てに唇で触れ、可愛い愛しいと囁いてくれた。それ以外にもいろはの傍につき従って、この間も暴走する車から守ってくれたばかりだ。
 愛されている。確かに大切にされ、守られていると実感すれば幸せで、いろはの心は満たされていくばっかりだ。
「いろは。言わなければいけない事があるんじゃないのかい?」
 けれど幸せが続けば、まるで帳尻を合わせるようにして、現実が押し寄せる事だってある。父親の言葉に体を緊張させたいろはは、ややあってから徐々に白くなっていった。じっと見つめてくる瞳から目を逸らし、眼前の紅茶に視線を落とす。父親の言う事が頭の中で木霊して、じわじわと体温が下がっていった。
 ……ばれているのかと、思ったのだ。やちよの結界とその通力を疑うわけではないけれど、自分に視る力があるのだから、親族の誰かしらに同じ力があってもおかしくない。そしてそれがいろはよりも強いのであれば、この身に纏う神気に気付く事もあるだろう。
 交わりの回数が片手を超えた朝、いろはを見たやちよが面白そうに首を傾げたのを覚えている。だいぶ気が混ざったわねという彼女は嬉しそうで、その瞳に映る自分は少しだけ輝いていた。神の寵愛を受けた者は、その守護を受けて神気を纏うのだと言う。そして視る人が見ればそれは容易にわかるとも。
「……あの、私」
 やちよの言う寵愛が、どこまでを指すのかはわからない。だがもしも交わりも含めた話をしているならば、それを見透かされる事は恐怖以外の何物でもなかった。
「もう、あなた。そんなに深刻な物言いをなさったら駄目ですよ。いろはは繊細なんだから」
「ん? ああ、そうか、そうだね。この間友人に父親の威厳云々の話をされたものだから、つい。やはり私には向かないな」
「……え?」
 俯いてしまったいろはを見て、両親は顔を見合わせる。そのままくすりと笑うのを見て、思わずぽかんと口を開けてしまった。
「あの狐を、そのまま飼いたいんじゃないかと思ってね。私としては何も言わずともそうさせてやるつもりだったんだが、それではいかんと怒られてしまって」
「だからって今更ですわ。急に方針を変えたりしたら、怖がらせてしまうだけじゃありませんか」
「はっは、そうだね。すまなかった。それでいろは、どうしたいか教えておくれではないかい? せめて私に、娘に懇願されたという言い訳くらいはさせてもらえると嬉しいよ」
「っ……はい! はい、お父様。私どうしても、あの狐さんを家に住まわせて差し上げたいの。お願いします」
 よかった。どうやら取り越し苦労だったようだ。いろはが俯いたのも言い淀んでの事だと理解したらしく、二人の表情は穏やかなままだ。両手を組み合わせて父にねだれば、彼の表情はだらしなく緩む。
「いいとも。いいとも。可愛い娘のお願いだ。あの狐も利口である事だし、許可してあげよう」
「ありがとう! やっぱりお父様は優しくて素敵です」
「そうかい。嬉しいよ」
 嬉しそうに破願する娘に、両親は再び顔を見合わせて笑った。その表情にほっと息を吐いたところで、父親が思い出したように声を上げる。
「ああ、そうだ。いろは、予防接種をしよう」
「予防接種、ですか?」
 大正に入り、ソ連から”レコード注射器”なるものが大量に輸入されるようになった。今とは違い金属で出来ているそれは、煮沸消毒が容易なので急速な広まりを見せている。そしてこの時期に、世界に先駆け日本で狂犬病の減毒ワクチンが作出され、上流階級の人々の中には、飼い犬への予防接種を受けさせる者も増え始めていた。
「狐は犬科だからね。狂犬病は怖い病気だ」
「はい、あの、えーっと……」
 確かに狐ではある。狐ではあるのだが……難しい問題だ。けれど動物に関しては父の意見を無視するわけにはいかないし、実体があってそれが狐である以上、そういうウイルスに感染する可能性も……なきにしもあらずだろうか。
「後で私の書斎に連れておいで。すぐに済むから」
「……はい」
 結局上手い逃れ方がわからずに、いろはは頷いてしまった。そして一足先に朝食を済ませるとやちよ用の食事片手に部屋へと戻り、そこで事情を説明する。
『いいわよ』
「いいんですか?」
 狐の姿でさっさと食事を済ませ、耳の裏を掻きながらやちよが言った。手を伸ばしてそこを掻いてやりながら、首を傾げるいろはは不安げだ。
『それであなたの家族が安心するなら安い物よ。私には人の薬も毒も効かないけれど、家に置いてもらっている身だし従うわ』
「ありがとうございます」
 心地良さそうにいろはの手を受け入れて、なんならそのまま膝に乗ってくる狐を撫でる。十キロ以上ある獣に乗られると少し重くはあったが、甘えられているのがわかれば悪い気はしない。
「……気持ちいいですか?」
『あなたが触れてくれる時は、いつだって心地良いわ』
 いろはと二人きりの時はあまり狐の姿にはならないが、食事の後はこの姿でいる事が多い。一日に二回。朝と夕の食事の後は、ただこうして身を寄せてくる。その時間を大切に思っているのはいろはも同じで、甘やかされる側から甘やかす側に回るのも楽しかった。
「やちよさん」
『……』
 そっと囁けば、獣の耳がぴくりと動く。けれど特に返事はなく、目を閉じた狐はただ満足気な息を吐いただけだった。

 


「ギャン!!」
 思ったよりも大きな悲鳴に、いろははびくりと体を震わせる。あれから四半刻……三十分程して父の書斎を訪れ、狐を抱き上げて用意されていた少し高めの机に乗せる。その上で大人しくお座りをした狐に対して父がとった行動は、確かに少し乱暴だったかもしれない。
 まず、利き手と逆の手で、その首根っこをがしっと掴む。そのまま強制的に狐の体を伏せさせると、逃げようと突っ張った後ろ脚を素早く払いのけて、体を横倒しにした。そして全体重でしっかりと獣の体を押さえ込むと、その背中に容赦なくブスリ、だ。
「はいおしまい」
 現代であれば苦情が来そうな接種の仕方だが、当時はまだまだ愛玩動物より家畜達の相手が多かったのだ。家の者以外には懐かない番犬に接種をする事があれば、扱いも乱暴になる。
「ギャウ! くぉあ……きゃうあうあう……っ」
「……よ、よしよし」
 力が緩んだ途端に父の手から逃げ出して、ずぼっと脇に鼻先を埋めてくる狐。その姿に眉を下げて、その背をとんとんとあやしてやった。
「ははは、すっかり懐いているね」
「……えっと、はい」
 彼女の体に前足をかけ、抱き上げろとせがむやちよをなんとか宥めて、いろはは曖昧な笑顔を浮かべる。懐いているのは確かにそうなのだが、これはどちらかというと恋人に甘えるそれだ。しきりに鼻先を押し付けてくる姿が獣だからまだいいが、人の姿で想像するとかなり照れくさい。
「予防接種は済みまして?」
「ああ、今終わったよ」
「あら、案の定嫌われてしまったのね」
「獣医の辛いところだね」
 そんな娘と狐をにこやかに眺めて、父はかちゃりと注射器を置いた。その横顔は大層機嫌が良く、ノートに文字を書きつける姿すら少し弾んで見えた。紅茶と共に手作りの茶菓子を持って入ってきた母に返事をする彼は、心底から楽しそうだ。
 そして三人はそのままソファまで移動すると、ちょっとしたお茶会を始める。先程朝食を食べたばかりだが、出来たてのクッキーの匂いには誰も抗えないだろう。いろはの手からおこぼれをもらった狐も、満足そうに目を細めた。この神は甘い物が大好きなのだ。
「それにしても本当によく懐いているね。野生の狐を保護した人のところまで話を聞きに行った事があるが、せいぜい近付いてくる程度だったよ。毛の色も変わっているし、是非詳しく調べてみたいものだなあ」
 しみじみと呟く父親に、狐は臨戦態勢だ。いろはの足元で鼻筋に皺を寄せ、毛を逆立てる彼女をそっと撫でてやる。するとすぐにその耳が倒れ、尾を小刻みに動かして手を舐めてきた。
「言葉がわかるのかな?」
「前にうちの犬が腹を見せていましたから、もしかしたら神格かもしれませんよ」
 朗らかに会話する両親に眉を下げ、意外と核心をついた言葉を受け流す。そして父親の顔をちらりと盗み見ると、気付かれないように深呼吸した。穏やかな笑顔に少しの勇気を貰って、いろははかねてより尋ねたかった事を口にしてみる。
「……あの、お父様」
「ん? なんだい姫君。まだ何かおありかな?」
「裏の森に、小さな枯れ井戸があるのをご存知ですか?」
 すっかり機嫌の良い今ならば、失っていた過去の記憶についても話していいのではと思ったのだ。この家でその時の事は禁句であり、少し前、まだ記憶が蘇る前に小さい頃の思い出を尋ねた時には、怖い顔で黙りこんでしまった。
 それでも今ならば、この雰囲気ならば、と思ったのだが。
「……うちには井戸なんてない」
 父親は、それだけ言って黙りこんでしまう。一気に剣呑になった雰囲気にいろはは唇を引き結び、母親は少し眉を下げた。
「あなた」
「井戸はない! あれは埋めた!!」
「あなた!」
「……っ」
 普段は穏やかな父が、激昂してテーブルを叩く。どんっ、という強い音にいろはが肩を震わせれば、気遣うように母が声を上げた。
「あなた。落ち着いてください。なにも井戸がいろはを食ろうたわけではありません」
「っ……ああ、ああ、うん。そうだね。ごめんよいろは」
 そっと夫の肩を撫でて、落ち着かせようとする姿は中睦まじい。いろはにとって理想の夫婦だ。女性の権利が殆ど確立されていないこの時代においても、父は一度だって母を粗雑に扱った事はなかった。ただの一度もだ。
 けれど今は目の前の光景よりも、父の激昂よりも、その言葉が頭に引っかかってしまう。
「うめ、た?」
 呆然として呟けば、父親が気まずそうな顔をする。すっかりいつもの様子に戻った彼は、愕然とした娘を見て、それから重く口を開いた。
「……井戸の話をするという事は、八歳までの事を思い出したんだね」
「はい……」
「お前が井戸に落ちて生死をさ迷った事も思い出したかい?」
「……うっすらと、ですけれど」
 それもやちよからの又聞きでしかないのだが。彼女がいろはを治したと言っていた以上、怪我は然程の物でもなかったはずだ。けれど生死をさ迷ったと父は言う。
「外傷は殆どなかった。石壁に血がついていたが、驚く程に綺麗な物だったよ。小さな擦り傷はあったけれど、他は健康そのものに見えた。けれどね、いろは。お前はずっと目覚めなかったんだ。一ヶ月も眠っていたんだよ」
「……一ヶ月も?」
 やちよはあの後、すぐに眠りについてしまったと言っていた。その後の事はよく知らないはずだ。いろはが一ヶ月も目を覚まさなかったなど、今回初めて聞いた。ちらりと足元の狐を見下ろせば、彼女も目を瞠っている。本当に知らなかったらしい。ぴんと耳を立てて父の言葉に聞き入る姿は、真剣そのものだった。
「どこも悪くはなかった。むしろ健康そのものだったんだ。なのに目覚めず、頭をやられたかもしれないと医者は言った」
 もしかしたら一生このままかもしれません。そう言った医者に、泣き崩れる妻。ただ眠り続ける娘に、父として何もしてやれる事のない絶望感。
「一ヶ月後、やっと目を覚ましてくれた時はそれはもう喜んだものさ。けれどお前は全てを忘れてしまっていた。覚えているだろう? 私達に向かって、だれ? と問いかけた事を」
「……はい」
 そこからはいろはにも記憶がある。ぱちりと目を開けた時、最初に感じたのは喉の渇きだった。一つ呻いて体をよじれば、傍にいた少女が慌てて部屋を駆け出していく。そしてばたばたという大きな足音が響いたかと思えば、見知らぬ男女が駆け込んできたのだ。
 いろは、いろは、と呼びかけられ、それが自分の名前なのだろうと察しはした。けれど涙を流す二人に見覚えはなく、ただ世界がぼんやりと沈んで見えただけ。何かを失った喪失感だけが悲しく胸を埋め尽くしていて、それだけが途方もない程に辛かった。
「それでも私達は希望を取り戻したよ。お前が井戸の傍で冷たくなっていた時など、心がひしゃげて潰れるかと思った。もう二度とあんな思いはしたくなかったから、井戸は埋めてしまったんだ。わかっておくれだね?」
「……でも、でも! あそこには、神様の社が……っ」
 そうだ。あの枯れ井戸には、やちよの社が沈んでいる。いろはが見つけた時には苔と水草に絡まれて、大分色を変えてしまっていたけれど。それでもあそこには、やちよのご神体が沈んでいるのに。
「わかっているよ。お前はあれを引き上げようとして井戸に落ちたんだ。それくらいはすぐに察せた」
「じゃあ……?」
「いや。あの社は、そのまま一緒に埋めてしまった。長く打ち捨てられた神は祟り神になる。かつてはこの地を守護した存在だったろうが、お前を引き寄せ喰らう邪神になってしまったんだよ。だから丁重にお祓いをして……」
「っ……!!」
 父親の言葉を最後まで聞いている余裕などなかった。いろはは乱暴に椅子から立ち上がると、そのまま部屋を飛び出していく。後ろから両親の呼ぶ声が聞こえたけれど、そんな物に構ってはいられない。どたばたと階段を下りると普段は入る事を禁じられている台所を横切って、使用人の驚く声も気にせずに、半分泣きながら勝手口より裏庭へと転がり出た。
 幼い頃の記憶を頼りに少しも変わらない森を走り、やっとの思いで井戸のある場所へと辿り着いたところで、がっくりと膝から崩れ落ちてしまう。
「はっ、はぁっ、はぁ……っ」
 走る勢いをそのままに膝をついたので、地面と擦れて酷く痛かった。けれど今はそんな事よりも、目の前の光景に心が悲鳴を上げている。やちよの社が沈んだその井戸は、天辺まで石と土で埋められてしまっていたから。
「……っうそ」
 もはや色を変えた青竹と注連縄で囲われ、玉串のみが新しいその場所。この地に禍を為すべからずと、鎮められた神の墓場。井戸の神が苦しくないようにと一本だけ刺された呼吸用の筒だけが、井の底と現世を繋いでくれる。
「いや、やだ……っ」
 もはや朽ちかけの注連縄をくぐり抜け、捧げられた玉串を掃い、いろはは井戸の上に膝をついた。もはや草の広がった地面に必死になって爪を立て、神の社を掘り起こそうとする。
「いろは! 何をしている!」
「お父様! 土を退けて! 石を退けて! おねがい……おねがいですから……っ!」
 後を追ってきた父親が、泣きじゃくる娘を見て呆然と立ち尽くした。まるで状況が理解できていない彼はただ困惑の表情を浮かべるだけで、手伝う事も諌める事も出来ずにいる。そんな彼を一度だけ強く見つめてから、いろはは再び地面を掘った。指の先が石に当たろうとも、それで爪が割れようとも、そこから血が滲もうとも。何度も何度も地面を抉っては、神の社を取り戻そうとする。
「どうしたんだ、いろは。そこに神はもういないよ」
「います! 神様は、あの方はまだここにいる……っ私を助けて下さったのはこの社の神様です!!」
 その言葉に、父は素直に驚いた顔をした。様子のおかしい娘を訝しむ気配も確かにあったけれど、それ以上に驚きに満ちた表情を浮かべている。
「いろは……」
「お願いですお父様……っ! ここを掘り返してください、あの方の社を……あの方を殺さないで……っ!」
『……もういいわ、いろは』
 泣きながら、心をぐちゃぐちゃにしながら、それでも必死になって地面を掘るいろはに、穏やかな声がかかった。はっとして振り返れば青光りする狐が歩いてくるところで、その姿を見たらもっと泣けてしまう。
「……っやちよさん」
『もういいのよ』
 狐はそのまま立ち尽くす父親の横を通り過ぎると、注連縄をするりとくぐった。その瞬間にその姿がはらはらと崩れ、狩衣を纏った女神がその姿を現してゆく。
「もういいわ。必要ない」
「でも、っでも……!」
「大丈夫だから。ほら手を出して」
 ぽかん、と口を開ける父親には構うことなく、やちよの手がいろはの手を包み込んだ。神の手が淡く光放てば、たちどころに痛々しい傷は癒えてゆく。元の美しさを取り戻した白い指先に唇を寄せて、いろはだけの神は満足そうにゆるりと微笑んだ。そして泣きじゃくる巫女を抱き寄せて、その背を数度叩いてやる。
「大丈夫よ。もう社は必要ないから」
「……っうそ」
「嘘じゃない。神は嘘をつかないわ」
 立ち尽くす父親は、相も変わらずぽかんと口を開けたままだ。全く状況を呑み込めていない彼にちらりと視線を向けて、それから神は嫣然と微笑んで見せる。
「そなた」
「へ、あ、はい!!」
「我が社への冒涜と、我が巫女を泣かせた不敬、許されざるものぞ」
 片腕でいろはを抱いたまま。膝はついていても、視線は己より低くとも、その神々しさは疑いようもなくいろはの父を突き刺した。目の前の存在は間違いようもなく人知を超えた者であると察すれば、自然と膝をつき祈る体勢になる。
「本来ならば謹んで罰を受けるべしと告げるべきところではあるが……そうすれば我が巫女はもっと泣くのであろうと想像に易い」
 神の言葉は厳かで、耳で聞くと言うより脳裏に直接響くようであった。それでも恐ればかり、畏ればかりを抱くわけでもないのは、いろはを抱く手が驚く程に優しいからだろう。
「そなたの不敬、我に巫女を与えた事で全て許そう。いろはをこの世にもたらした事で、全ての罪は不問とする」
「は、はい、ありがたき、ありがたく……っ!」
「娶ろうという女の父君を罰したのでは寝覚めも悪い故な」
「はい……っえ? めと、娶る?」
 穏やかな声で笑われれば、なんだか不思議な気分にもなった。見た目は自分よりいくらも年若いというのに、まるで母親にたしなめられているような心持ちすらする。なんだか懐かしい気持ちで涙が滲むかとすら思ったのに、続く神の言葉で素っ頓狂な声が出た。
「お、お待ちください神よ! む、娘を娶るとは……いったい」
「……言葉通りの意味だ。いろはは我の妻になる。明日明後日の話ではないが」
「い、いろは!?」
 思わず娘に詰めよれば、彼女は気まずそうに視線を逸らしてしまう。先程まで泣いていたのに、今では頬を染めて乙女の顔だ。俯くいろはに頬を寄せる神は得意気で、どこか見せつけるようですらあっただろうか。
「……む、娘を、娘を生贄に、という事でしょうか……っ」
「たわけ!!」
「ひぃ!!」
「きゃあっ!!」
「わぁ! なんだいお前! いつからそこに!」
 自分のした行いで娘を連れて行かれてしまうのなら、自分は許されなくたっていい。そう思って問いかければ、吠えるような声が響いた。いつの間にか傍に来ていた母親が一緒になって悲鳴を上げ、それにもっと驚く父親は少し面白い。
「これだから人間は嫌いよ! 何かあればすぐに生贄って! 食べるわけないでしょう! 命は大事になさい!!」
「や、やちよさん、話し方が……」
「もういいわ。疲れてしまったもの。私がどういった存在かはわかったと思うし、普通に話すわよ」
 父親の言葉に青筋を立てたやちよが、ふんと荒く鼻息を吐く。言葉遣いは柔らかくなったはずなのに、鋭さは増した気がするのは何故だろうか。
「男って本当に野暮ね。この顔が生贄の覚悟を決めた人間のものに見える? 完全に恋する女じゃない」
「やちよさん」
「想い合った二人が結ばれる。そこに神も人も男も女もない。あるのは幸福。それだけの事でしょう」
「わかります」
「お母様!?」
 しまいにはいろはをきつく抱きすくめた神に向かって、ぽろりと母親の本音が漏れた。それに驚く間にも、彼女が更に口を開く。
「神様。ただ一つだけ不安が御座います」
「……なにかしら」
「嫁いだ娘には、もう二度と会えないのでしょうか」
 自らの娘を抱いた神に向かって、顔を上げた母の目は真っ赤だった。ゆらりと揺れる水面を見ればいろはも息が詰まり、容易に言葉は紡げなくなる。
「わたくし共は、すでに一人娘を亡くしております。病弱な子で、三つの詣も迎えさせてやれなかった。子を失うのは親にとって途方もない悲しみで御座います。この上たった一人残されたいろはまで失っては、わたくしはもう生きてまいれません……っ!!」
 決意が、揺らいだ。
 いつか。今すぐではない。けれどいつかはやちよの物になるのだと思っていたいろはの心に、それは深い影を落とす。自分に妹がいたのは知っていた。蘇った記憶の中でもそれは大分とおぼろげだけれど、揺りかごに乗せられた小さな命を覚えている。いつしかその手は滑り落ち、彼女は物言わぬ石となる。無感動にそれを見下ろしながら、燻ぶる線香の匂いに目を細めた。
 そんな、幼い頃の記憶。
「……年に、一度」
 泣き崩れそうな母親を静かに見つめて、やちよがぽつりと呟いた。穏やかな声は慈しみを持ち、心底から母の悲しみを憂いているのがわかる。その横顔をじっと眺めて、いろはは少しだけ目を細めた。
 眉を下げて微笑むやちよの表情が、ああそれは一等好きだと思う。誰かを想って表情を緩める瞬間が、この神を人に近付けてくれるのだ。人の世、神の世と世界を分けながらも、それでも手を伸ばしてくれる。歩み寄り、肩を抱き、人を見捨てずに膝をついてくれる。その姿が、好きだと思った。
「年に一度だけ、年が明けるすぐ前。そこから三日間だけ、里帰りを許しましょう。歳神の降りる時は神の世と人の世が交わる時でもある。その時ならば、人の身でも神の世の門をくぐれます。その時だけいろはを現世へ帰しましょう」
 優しく微笑みかける姿に、母親の目から涙が零れ落ちる。ありがとうございます、と震える声が聞こえれば、いろはも思わず目頭が熱くなった。
「……母君のためでもあるけれど、これは私自身のためでもあるわ」
 今日は泣いてばかりの巫女の目元をそっと撫でて、やちよは囁くようにそう言ってくる。大人しく涙を拭われながら目顔だけで問いかければ、彼女は少しだけ意地悪に微笑んだ。
「一瞬心が揺らいだでしょう。母子の愛は時に恋よりも強い。今更婚約を破棄されたらたまったものではないわ」
「っ!!」
 簡単にいろはの心を覗いて、それを悪びれもしない。そしてすぐに逃げ道を塞いでくるのは、神という存在にしてはあまりにも子供に過ぎていた。いろはを自分の物にするためには手段など選ばないという覚悟を感じれば、手玉に取られる腹立たしさと希われる嬉しさを同時に感じて、くすくすと胸が痛んだ。
「神など皆身勝手で強欲よ。求められる事はあっても、求める事などそう多くはないのだから。たまに欲しいと思った物はそれこそ心の奥底から欲しい物で、我々にとっては極上の宝石。そうなってしまえば何が何でも手に入れなければ気が済まないの」
「いままでも、あったんですか……?」
「……宝物は一つでいい。多く持てば、神の手でも零してしまう」
 言外にたった一人と告げられれば、胸の痛みはいや増した。両親の前だとて我慢はできず、そっとその肩に頬を寄せる。その姿を感慨深く眺めやって、父親が深い溜息を吐いた。
「……正月くらいしか帰ってこないのは、人に嫁いだところで変わらないか」
 そして諦めにも似た言葉を漏らすと、いっそ清々しい笑顔を浮かべる。
「最上の白無垢を仕立てます。絹糸の一本から厳選して。それを着せて、せめて我が家から送りだしたい。何卒お許しいただけますよう」
「よい。しからば待とう。より美しく着飾った我が巫女を、我もこの目で見てみたい」
 丁寧に頭を下げる父親を真っ直ぐと見詰め、神は厳かにそう告げた。けれど最後に少し悪戯っぽく微笑むと、もったいぶって口を開く。
「して、父君よ。そなたには罰を受けてもらう」
「え」
 口調からも声からも、どことなく楽しそうな様子が見て取れる。内心どころか表情まで微笑んでしまったいろはを自身の体で隠し、悪戯好きの神は笑った。
「な、なんの、なんの罰で御座いましょう。どのような罰で……」
「そなたも注射を受けよ」
「……ん?」
「神の体に傷を付けた罪は重いぞ。あれはかなり痛かった。故にそなたも注射を受けよ」
「……先程、全て許すと」
「あれはあれ、これはこれ」
 最後だけやけに人間くさくそう告げて、やちよはにっこりと微笑んだ。
「なんなら私が打ってあげましょうか?」
 その言葉に慌てて首を振る父親は、まるで風に吹かれた赤べこだ。神の腕の中でくすくすと笑い、その背中へと手を伸ばす。人間の姿だったらこの辺りかな、という部分をそっと撫でてやれば、やちよが心地よさそうに尾を回した。
「さあ、戻りましょう。ちゃんと臀部に打ちなさい。しっかり見てるわよ」
「は、はいぃ……!」
 正確には腰の辺りだが、人の体にとってより打撃の大きい方を選んだらしい。注連縄を抜けて狐の姿に戻った神は、ふん、と荒い息を吐いた。それからすりすりといろはの足に頬を寄せるのを撫でてやって、改めて両親を見る。いろはの視線に気付いた二人は、寂しそうながらも穏やかに微笑みを返してくれて、それがやけにほっとした。
 そして三人と一匹は並んで屋敷に帰り、いろははそこから湯浴みをする。しれっと浴室に入ってきた狐を一度は追い出そうとしたのだが、寂しそうに鳴かれて諦めてしまった。体についた土を清めている間中じーっと見つめられるのは落ち着かなかったが、人の姿でないだけまだ平静でいられる。最終的に一人と一匹は仲良く湯につかり、二人揃って花の香りを纏う事になった。
 その後、わざわざ医者を呼んだ父が、どこも悪くないのに注射などできないと小一時間怒られるのを眺め、それからようやく部屋に戻る。その途端に人の姿を成すやちよにいつも驚くのだが、彼女は特に気にした様子もなかった。
「いろは」
 まだ陽も高い内から手を引かれ、そっとベッドに横たえられる。さすがに抵抗しようと肩を押しても、すぐに絡め取られて縫いつけられた。
「気が昂っているの。ちょっとやそっとじゃ引きそうにない」
「でも……」
「黙って」
 言葉は強いものなのに、触れてくる手は優しかった。せっかく着た新しい着物を脱がせながら、常に結界が張られている室内に、もう一度新しい結界を張り巡らせていく。
「……これは?」
「人避け」
 言葉少なにそれだけを返し、次の瞬間には唇を寄せた。少し深く口付けて口内を犯してやると、やちよの下でいろはが震える。ぴくりと緊張し熱い息を吐く彼女の体を撫でながら、押し寄せる幸福感に目眩がしそうだ。
「いろは、いろは……」
「やちよ、さ……あっ」
 自身の社が、もう帰る場所として機能していないのはわかっていた。微かにその存在を感じたとしても、もうそこには戻れない。何故深い眠りに落ち、何故いろはが記憶を失ったのか。そして何故いろはに触れるとこれ程までに力が増幅していくのか。全てに合点がいくと眉根が寄る。
 幼い体は、まだ人として固定されきっていなかった。人は産まれ落ちても、お七夜まではまだ神の子。七日を超えて初めて人となり、その存在が固定されるのはもっと後だ。子供に神が視えるのが多いのも、魂が現世に固定されていないからだと言う者もいる。いろははまさしくそうだった。神を、人ならざる者を視る力を持った彼女は、人より神に程近かった。そしてやちよに名前を与えその存在と自身の魂を繋いだ瞬間、彼女は人としての鎖を殆ど千切ってしまっていたのだ。だからやちよの神気を浴び過ぎた時、その存在が大きく揺らいだ。人として生きるか、神となり器を捨てるか。その瀬戸際を一ヶ月さ迷って、やちよが封じられた事で人として戻ってきた。
「……埋められて当然だった」
「やちよさん……?」
「私はあなたを救ったつもりで、実のところは奪いかけていたのよ……」
 やちよが深い眠りにつき、彼女自身も森へ近付かなくなった事で、繋がりは完全に断たれていたのだ。けれど再び足しげく森へ通うようになり、断たれていた繋がりが修復され始めた瞬間、神は目を覚ましてしまった。
「……ごめんなさい、いろは」
 目を覚ました神に、帰る場所はない。すでに家と呼べる場所は埋められてしまい、どうあってもそこに戻る事は叶わなかった。そんな中で、自身の巫女に触れたらどうなるか。
「今の私の社は、あなた自身だわ……」
 もとより、波長が合って極端に近しい者が巫女や神和に選ばれる。それはすなわち神の器として相応しく、神の住める人間の事を指していた。今のやちよは、いろは自身を帰る場所と認識している。彼女の器に存在を置き、彼女自身がやちよのご神体でもあったのだ。ならばそれと交われば、力が増すのも当たり前。社自身が神を敬い、信仰の念を常に抱いている。やちよを想う気持ちで満たされたいろはと繋がり、またやちよも彼女を想うのだから、霊力などいくらでも補充されるだろう。ましてお互いがお互いを唯一無二として愛しく思うならば、その感情こそが何よりも強い信仰になる。
「……私が、やちよさんのお家ってことですか?」
「そうよ。あなたは私の器。私の社。私の存在と直接繋がって、もう切り離せる事は絶対にない」
 いずれは彼女を連れていくつもりだった。神の世に招き入れ、そこで無限の時を過ごす。それは確かにやちよの望みだったが、何も彼女を人でも神でもない半端者にするつもりはなかったのだ。彼女は友人との間に強固な壁を感じていたようだが、それももしかしたら魂が変容してしまったせいかもしれない。
「……うれしい」
 生じてから初めての罪悪感に溺れそうな神に、ぽつりと小さな声が降った。驚いて顔を上げれば泣き出しそうないろはと目が合って、やちよは心を握りつぶされたような痛みを感じる。
「うれしい。うれしいです。私が、やちよさんの帰る場所。私がやちよさんの家。私が、あなたの存在を支えているんですか……?」
「っ……そうよ」
「……うれしい」
 くしゃりと、眉を下げて微笑んだ拍子に、その眦から涙が零れた。それはあまりにも綺麗で煌めいていて、神は痛む心に知らず手を胸へ当てる。
「やちよさん……やちよさん」
「……っいろは」
 そんなやちよの頬を包みそっと引き寄せては、いろはの唇が顔中に押し当てられた。初めての彼女からの口付けは優しく、まるで真綿に触れるかのように柔らかだ。
「あなたが存在してくれて、私に出会ってくれて、私を巫女に選んでくれて、幸せです」
「……ええ」
「あなたのために出来ることがあって、それが何よりも嬉しいの」
「ええ」
「あなたが消えないで、よかった……っ」
「っ……!!」
 ああ、これが恋の痛みだと、唐突に理解する。本当に求められるというのはこういう物かと、すとんと府に落ちた瞬間でもあった。いろはが触れている全ての場所が暖かく、そしてそこから彼女の感情が流れ込んでくる。やちよに対して開かれた心は、ただ眩いほどに光で溢れていた。
「いろは……っ」
 幸せだと、嬉しいと、愛しいと、いろはの心が告げてくる。その感情は出会った頃からずっと、ただやちよの存在に感謝を続けていた。ただそこに在るだけで、ありがとうと告げてくれた。
「火を点けたのは、あなたよ」
「ん……っ」
 いろはの心は暖かい。やちよへの愛しさばかりが溢れている。唯一の変化として恋心を見つければ堪らなくなって、ただ乱暴にその体を押し開いた。
「いろは、愛しい。好きよ。ああ、可愛い子」
「やちよさん、やちよさん……私もあなたを……愛しています」
「ええ。…………ええ」
 神はこの日、感情に呑まれるという現象を生じて初めて経験する。いつもどこかしらで大地を眺めていた神経さえも塗りつぶされて、たった一人の少女に溺れていった。乱暴に、気遣いなどなく、まだ固さを残した蕾を押し開き、それでもまだ足りぬと貪欲に彼女を貪る。少女の何百倍をも生きた余裕など全て吹き飛び、まるで何も知らない子供のように、必死なってその体を掻き抱いていた。彼女の爪が背中に傷をつけても、不敬だなどとは思えない。それを幸福だとしか感じない。
 口先ではない。上辺ではない。宝を見つけた高揚でもない。たった一つの命を、信じられない程に愛しく想った瞬間だった。