どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話04

 

 この時代の学業と申しますれば、男と女では大分差異がございました。男はあくまでより良い職を得るため。あるいは将来お国の役に立つために、医者や官僚、学者や政治家を目指して勉学に励む物で御座います。対する女は家庭に入って後に苦労しないため、家事や裁縫、編み物や生け花などを中心に、僅かばかりの国語と数学を学ぶに留まっておりました。
 そしてこの時代、貧富の差は悲しい程に大きく、超えられない壁と云う物が存在致します。学ぶだけの頭はあるのに金がないので勉学はできない、という者も多くおりました。そこで出てきますのが”書生”と云う制度で御座いました。華族や貴族、資産家達は、学ぶ意思と将来性のある若者を屋敷に住まわせまして、食事や部屋を与え、あるいは学費を出してやり、勉学を助けてやったので御座います。
 これをただ金のある者の娯楽のようにも思われる方もいらっしゃいましょう。けれど将来有望な若者を育てる事はお国のためにもなりますし、高貴な人間にとっても得のある話であったのです。自らが世話をした書生が著名な学者や医者になれば自身の評価も上がりますし、そこから官僚や政治家が出たとなれば今後の事業の何某かで強いパイプを得る事にも繋がります。そして住まわせている間のメリットとして、屋敷の自衛、と云う側面も持ち合わせておりました。
 なにも、全ての貴族、全ての資産家が大きい家を持ちたいわけでも御座いません。この物語の舞台に立ちます少女の父親など、六畳半が二間あれば十分と云うような人物でも御座いました。けれど上流階級に身を置く以上、自分より高貴なお方、場合によっては徳川宗家の方であったり、皇族の方であったりを招く機会が無いとは言い切れないのです。そうなって参りますれば質素な家を持つ訳にもいかず、やれ客間、やれ遊技場、テニス場に車庫にワインセラーに……屋敷が大きくなる訳で御座いました。
 さて、そうなって参りますと、次に気になるのは防犯面で御座います。まだ現代のように”警備会社”等と云う物も御座いませんので、自身で金を出して人を雇うのも良いのですが、そうなると安全な時は完全に給料泥棒です。しかも金で雇われて護衛をするような輩はより大金を積まれれば簡単に寝返る者も御座いまして、中には守るべき主人の元から権利書などを盗み出し、他の貴族の元へと行ってしまったような者もおりました。
 広い屋敷の自衛をどうするか。そこで書生が一役買ったので御座います。強盗とて、男手が多い屋敷にはあまり侵入したくありません。しかも当時の男性達は、皆そこそこの武道や自衛術を身につけている物で御座いました。そうでなくとも体育の鉄棒では大車輪くらい出来て当たり前、というような、男子頑強たれという教育方針の真っ只中で御座います。皆血気盛んで、学生同士の派閥争いや乱闘などは今よりずっと多かった物で御座いました。
 しかも書生たちは、衣食住の一切をその屋敷の主人に世話して貰っている状態です。屋敷や主人に不利な事があれば当然自分の学業も不安になってくるわけですから、滅多な事では裏切りません。故に、書生を何人か招き入れて世話をしてやる事は、高貴な方にとって、一石二鳥にも三鳥にもなったわけで御座います。
 そして当然、この物語の舞台に立ちます少女の住まう屋敷でも、数人の書生が共に生活を続けておりました。

 

 


「おい、聞いたか」
「何をだ」
 書生用に解放されているサロンの一角で、ぷかりと煙草の煙が浮いた。火の点いた場所から立ち上るそれは灰紫。口から吐かれた物はやや黄色がかった灰の色だ。二色の煙は彼の頭を越えた所で混じり合い、ゆらりと空気に溶けてゆく。
「水島が寄宿先のお嬢様と婚約したそうだ」
「堂本家の?」
「そうさ。奴は首席だからな。官僚は確実だろうし、既に重要な”ポスト”に呼ばれていると聞くぞ」
「一人娘の夫としては申し分なし、か」
「堂本氏自身が学者で婿入りだからな。遊んでばかりいる貴族の放蕩息子より、勤勉な男の方が好きなんだろう」
「なるほど」
 女を気にする男は”軟派者”などと揶揄される時代ではあるが、書生たちとて思春期の少年だ。社会に出れば”結婚”の二文字も近付くし、そうでなくともそういう話に興味のないわけでもない。特に自分達の置かれる環境と似たような話が出れば、否応なしに盛り上がりもするだろう。
「いろはお嬢さん、この間も見合いを断ったらしいじゃないか」
「もう何件目だ」
「想う相手がいるともっぱらの噂だが」
「それにしては外に出たがる様子もないな」
 父親が学者で婿入り、そして一人娘。先に出た堂本家の例とこの屋敷の現状は全く一緒で、そうなれば少しの欲も湧く。これでいろはが”しこめ”ならば書生達も騒ぎはしなかったろうが、彼女は十二分に整った顔立ちをしていた。あえて俗な言葉を使うなら”上玉”と評して申し分ないだろう。
「優しくて気立てもいいし」
「美人だしな」
「彼女の刺繍を本職の者が手放しで称賛したと聞いたぞ」
「使用人にも気遣う言葉を投げて」
「将来嫁にするならあんな女性がいい」
「貴様、それは建前だろう」
「本当はお嬢さん自身がいいくせに」
「それを言ったら貴様もだろう」
 女三人寄ればと言うけれど、男だって数人寄れば中々に騒がしい。一応声をひそめてはいるが、歯を見せて笑い合う姿は少年そのものだ。まだ二十歳にもならぬ彼らは男と少年の中間におり、普段は必死に勉学に勤しんでいるが故に、女性に対して免疫もない。近場にいる妙齢の女といえば主人の一人娘で、話題が女性の事となれば、当然のように彼女の話に行きついた。
「部屋に毎週花を生けてくれるのはお嬢さんだそうだ」
「なんだと? 本当か」
「本当だとも。奥様にお礼を申し上げたら、あれは娘がやっているから礼ならそちらにと言われたよ」
「本当にお優しい方だ……」
 身近な女性がそうであると、ここの書生たちの理想像はかなり高くなっていそうだ。皆のイメージする大和撫子をそのまま体現したような存在は、日々必死になって勉学に励む彼らにとって、天女にも等しい癒やしだった。
 そして低い身分の知り合いが実際に貴族の令嬢と婚約したとあれば、高嶺の花と思っていた相手にも手が届くような気がしてしまう。ここにいる書生たちは同じ釜の飯を喰らう仲間でありながら、同時に一番のライバルともなったのだ。
 と、そこへ。
「……ヴァイオリンか」
 薄く開けた窓から、高く美しい音色が入ってくる。敷地内の森で演奏されるこの音楽も、彼らにとっての癒しの一つであった。
「麗しいな。まるで川辺の桔梗だ」
「なんだ、詩人気取りめ」
「だがお嬢さんは詩を読むのも好きだと聞くぞ」
「詩人への転向も視野に入れるべきか」
「現金な奴め」
 凛として高く、けれど慎ましやかに優しく。清流の傍の花のように、清廉で気高い音色。風に揺れる髪に、波を作る黄金の原を感じれば、わいわいと騒いでいた書生たちもじっと黙りこんだ。
 音は優しく、けれど段々と強くなっていく。まるで何かに捧げるかのように響く音色は真っ白く、まだ何物にも染まらぬ無垢な美しさすら感じさせた。聴衆とするのは草や花、森の動物達で、そこに少しの驕りも見栄もない。祈るように、あるいは希うように空気を震わせては、彼女は緑に佇むのだろう。その美しい後ろ姿すら簡単に思い描け、知らず数人の口から溜息が漏れた。
「……実際の話、だ」
「うん」
「桜井はいい場所にいるんじゃないか」
「俺かい?」
 名を呼ばれた書生は目を瞬かせ、それからじんわりと苦笑を浮かべる。
「そんなことはないさ。お嬢さんと話したのだって然程多くはない」
「けれどこの間、出かけるお嬢さんのお供を任されただろう」
「あれはたまたま俺しかいなかっただけさ」
「だが環先生は他の時にも俺たちに声をかけた事はないぞ」
「それに貴様は顔もいいし、前期では首席だったじゃないか」
「あれはたまたまだ。試験に得意な場所が集中したせいで、案の定水島に抜かれてしまった」
「だが五本の指から落ちた事はないだろう」
「それに動物と植物も好きだ。将来だって学者になりたいのだろう?」
「おいおい……」
 美しいヴァイオリンの音とは、まるでそぐわない会話だった。詰め寄る他の書生たちを両の手で押し留めて、桜井と呼ばれた彼は困ったように眉を下げ、控え目な笑顔を浮かべる。
「あと、それだ。その笑い方がお嬢さんによく似ている」
「似た者同士なんだ、貴様とお嬢さんは」
「待って、待ってくれ。そんな勝手な話をしてはお嬢さんに失礼だろう」
「何を言うか。貴様ならまだ俺達の気持ちも納得するんだ」
「むしろ下手な貴族の”ぼん”と結婚するなどとなったら憤死する」
「ならばまだ、よく知っている貴様の方が安心だ。清々しく負けたとも思える」
「落ち着け。落ち着いてくれよ」
 とらぬ狸の皮算用も甚だしい。そもいろはの気持ちも何も考えずに、こういう話をする事自体が憚られた。必死になって仲間を諌める彼にとって、この話題は嬉しくも何ともなかったのだ。
 まだ。
 まだこれで、いろはが自分を見て頬を染めるだとか、少しでも気のある素振りを見せてくれたのならばいい。少しは得意になって、そういう可能性もあったらいいね等と返せたかもしれない。けれどこの間供として一緒に出かけた時だって、彼女は一切桜井を気にする様子を見せなかった。女中を一名、彼女の父親のガードマンを一名、そして桜井がつき従う道中。彼がした事は荷物持ち以外の何物でもなく、故障によって暴走した車がいろはに向かって突っ込んできた時だって、彼女を助けたのはペットの狐だ。小さな狼くらいはあろうかと云う巨躯の狐は、迷わずいろはの首根っこを咥えると高く跳んだ。数瞬の後に彼女の立っていた場所に車が突っ込み、血まみれの運転手が助け出される。着地の衝撃で少しばかりの怪我を負ったいろはではあるが、事故の衝撃を考えれば微々たる物だろう。必死になって手の傷を舐める狐を抱きしめて、微笑んだ横顔は美しかった。
「お嬢さんは俺に一切興味などないさ」
「けれど女は父親の意向に従う物だろう?」
「最終的には書生の誰かが選ばれる可能性が高い」
 少し酷い物言いに聞こえるが、この時代はこれが当たり前だ。女は結婚して子を産むのが仕事であって、そこに愛情をと考えるのはまだ珍しい事でもあった。娘を溺愛する当家の主人の事だ。政略結婚はさせないだろう。ならば次に可能性の高いのが、人品骨柄を見極めやすく、勤勉である書生達だ。最終的にどの見合いでも娘が首を振った場合、あの父親ならば人間性の合う者を選ぼうとするだろう。
「……どちらにせよ、推測で話すものではないさ」
「真面目な奴め」
 いつの間にかヴァイオリンの音は止まっていた。気付けば少し陽も傾き始めていて、それに気付いた者が薄く開いた窓に手を伸ばす。
「わっ」
 そしてそこで声を上げるものだから、皆は一様にそちらを振り返った。
「ああびっくりした。狼かと思ったよ」
 青光りする不思議な被毛を持った狐が一匹。いつの間にか窓辺に佇んでいる。開いた窓から入ってきたらしい獣は、行儀よく足を揃えて書生達を見下ろしていた。
「お嬢さんの狐か」
「不思議な色だなぁ」
「ちゃんと見るのは初めてだが、かなり大きいな」
「いや、拾った頃より大きくなったんだよ」
「あれで子供だったのか」
「珍しい物だな」
 左の後ろ脚にいろはのリボンを結び、毛並みも艶やかな狐はひたりとした目をしている。その大きさと色、そして見透かすような瞳に気圧されて、誰一人として近寄ろうとする者はいなかった。ただまんじりともせず一匹と多数の男が見つめ合い、その内何人かがちらほらと目を逸らす。
「なんだろう。どうにも落ち着かない目をしている」
「頭の良い獣は少し怖いものだな」
「なんだ貴様ら、臆病な」
 桜井はと言えば、目を逸らしたくても逸らせずにいた。風の無い日の湖を思わせる、静かな瞳。それを見つめる程に、何かが変容していくような心持ちすらする。じっと眺め続けるうちに狐が輝いているようにすら見え、そう思うと自分の将来が不安になった。科学を学ぶ者が霊や妖怪を信じていては笑われてしまう。”サイエンス”の時代にそんな馬鹿げた事を信じていては、手元が怪しくなってしまうだろう。
『なるほど。確かにそなたはいろはと波長が合うようだな』
「っ……!?」
 そして声が脳裏に直接響いたような”気がすれば”彼は心底から震えあがってしまった。
「お、俺……今日はもう休むよ」
「おいどうした桜井」
「顔色が悪いぞ」
 心配してくれる友人達に軽く手を振って部屋を出ていく彼の後ろに、巨躯の狐がついていく。一歩歩くごとに足のリボンが揺れ、それはどこか誇らしげでもあった。
『これ、無視をするな』
「気のせいだ、気のせいだ、気のせいだ。昨日根を詰めすぎたから少し疲れているだけで俺はまとも、俺はまともだ」
『まったく、同じ学者とは言ってもいろはの父君とは雲泥だな。己が実際に体験した事も事実と認められないとは』
 ふん、と荒く鼻息を吐いて、呆れたような狐が言う。いや、言った”気がした”。
『いろはよりも早く出会っていれば、そなたを神和に選ぶ事もあったかもしれないが……このように頭が固くてはいずれ神など投げ捨てたか』
 散々好き勝手を聞きながら、彼は自室の扉を開ける。先んじて部屋に滑り込んだ狐は、中央に陣取るとまたひたりとした目を向けてきた。それにぐっと気圧されながら、桜井は幼い頃の記憶に苦虫を噛んだような表情になる。
「……変な物が視えると、人の世で生きるのは難しい」
『ほう。やっと答える気になったか』
「俺は自分を疑う程愚かではない」
『神を疑う程度には矮小だがな』
 答える狐は楽しそうだった。ひくりと口元を吊り上げる仕草は人間じみていて、それを見ると背筋に鳥肌が立っていく。
「お嬢さんに何をした」
『あれやこれや、口では言えぬ事をいくらでも』
「貴様……っ」
 相手は神と名乗ったが、実は狐狸妖怪の類ではないだろうか。どこまでが本当でどこまでが虚構であるかはわからなかったが、恩師の愛娘を傷付けたのであれば許せはしない。
『それは本心ではないな。素直に惚れた女を盗られて悔しいと言えばよかろう』
「っ……!」
 内心を読まれたのだと気付くまでに、少しかかった。そしてそれを理解した瞬間頬がかっと熱を持ち、彼は思わず拳を握る。
『獣に盗られたのが悔しいか。我がただの狐ではないと薄々察しながら、それでもずっと見くびっておったな』
「……お嬢さんは物じゃない」
『しかり。物ではない。その辺りに転がる石ではない。だが今は我の物だ。至上の宝石。輝く宝だ』
 どくり、どくりと全身が脈打っている。幼い頃に受けた誹りが脳裏に蘇ると呼吸が乱れた。あそこに神様がいるよと言った時の、母が自分を見る目が忘れられずにいる。まるでおぞましい物を、汚物を見るような瞳だった。心底から嫌がるように、繋いだ手すら離されてしまう。滅多な事をお言いでないよ、と冷たい声がして、立ち尽くした彼は足早に遠ざかる母の背を見送るしかなかったのだ。
『心を閉じたか。よい神和になったであろうに』
「うるさい!!」
 後で聞いた話だが、父はそう言って職を失ったのだと言う。見えない物を視えると言って、それに怯えて錯乱し、努めていた研究所から追い出された。結局そのすぐ後にその研究所は潰れたが、父がおかしくなってから母は大層苦労したようだった。だから自分の子供がそう言い出した時に、あそこまで憎悪の籠った目を向けたのだ。
「やちよさーん」
『いろはか』 
 視えるのは、決して良い事ばかりではない。むしろ科学が台頭してきたこの時代、そういった体質の者は虐げられるばかりになりつつある。精神科の確立に救われた者もいれば、殺されそうな者もいるのだ。
『我は去ろう。扉を開けよ』
「嫌だと言ったら?」
 神だか妖怪だか知らないが、憑き物ならば払った方が良い。自分には小さな懐刀しかないが、実体があるならば殺める事もできるだろう。
 いろはに、辛い思いはして欲しくなかった。
 この狐が神だとしても、たとえ守護する存在だとしても、その存在はいつか彼女を傷付ける。守るために行使された力によって、彼女自身を人ならざる者と周囲に知らしめる瞬間が来るだろう。それだけは防ぎたかった。彼女に自分のような想いをして欲しくなかった。たとえ神への不敬と裁かれようとも、ここでこの狐を殺せば……。
『できぬな。そなたにはできぬ。心根が優しく清廉であるが故』
 そっと、懐に手を伸ばしたところで静かな声が響く。内心を読んだであろうに一切怯える様子もなく、狐は彼に近付いてきた。
『それだけの力があれば、学者ではなく神職を目指すのもよかろう。実際に視える者が減ってきた今、神も困窮しておる。そなたのように実直な者であれば、名のある神にも気に入られよう。女神は浮気を好まぬ故、実直な男を選ぶ。よければ考えてみよと……それだけを告げるつもりだったのだが、噛み付く様な物言いであったな』
 そして狐は、彼のすぐ目の前で行儀よく足を揃えると少しだけ首を傾げる。目を細める仕草は微笑むようで、その向こうに苦笑する人の姿が見えれば力が抜けた。ふーっと溜息を吐いて苦笑を零し、言われたとおりに扉を開けてやれば、狐は素直にその隙間に体を通していく。そして廊下に出たところで振り返ると、ごく優しい声でこう告げた。
『惚れた女を盗られたくないのは神であっても変わらぬ。そなたの想いはあまりに真摯であった故、つい威嚇してしまった。許せよ』
 口付けたいだの抱きたいだの、そういう下卑た願望ではなかった。ただ純粋にいろはを目で追い、尊敬の念すら抱いているような美しい恋だった。いろはが人間として、女として幸せを望むならば、彼以上の相手は中々いないだろう。そう思うからこそ、神は彼に話しかけたのだ。
「神が人に恋をするのか?」
『……我は、心の底からあの娘を愛しているよ』
 そして牽制した。お前の敵は神であるぞと。そうして自分の存在を誇示しなければ、どうにも不安で仕方なかったのだ。いろはの気持ちを疑うわけではないし、自分が負けるとも思わない。けれど彼の波長があまりにもいろはのそれとよく似ているから、近寄られるのも少し怖かった。波長は気や性格などと言った、人間の判別する相性とはまた違う。言うなれば魂の形で、それが似た者同士は出会えば必ず惹かれ合うのだ。神がいなければ彼だった。それを考えると、少しだけ恐ろしい。
『悪いな。早い者勝ちだ』
「やちよさーん?」
『ここにいる』
 最後に一つ勝ち誇った台詞を投げて、狐はトンと床を蹴った。そのまま柵を越えて階下へ消える毛並みを見送って、彼は大きな溜息を吐く。高嶺の花は、さらなる高嶺へと行ってしまったらしい。
「早い者勝ち、か」
 どさりとベッドに腰を下ろしたところで、綺麗に生けられた花が視界に入った。週の頭、書生達が学校へ行っている間に取り換えられるそれは、彼女手ずから飾る物。のんびりと立ち上がって枝に触れると、この間彼女が身に纏っていた香りがした。
「……口では言えない、事」
 その瞬間に先程の狐の言葉が蘇って、彼は慌てて首を振る。一瞬だけ、獣とまぐわうあられもない姿を想像してしまったが、それは不可抗力というものだろう。
「あーあーあー! くそっ! やっぱり人ではない者は嫌いだ!」
 あくまで純粋な気持ちで彼女を想っていたはずなのに、その一言で邪念が入った。彼をそうさせるのが狐の目的だったのかはわからないが、一度邪な想いを抱いてしまえば、今後は近寄るのも躊躇ってしまうようになるだろう。
 最後にくそぉ……と呟いた彼の、新たな悩みを打ち明けられる相手はいない。どうにも引きそうにない熱を持て余しながら、可哀想な少年の夕は更けていった。

 

***


「あ、やちよさん。どこに行っていたんですか?」
 ふわりと。音もなく目の前に降り立った狐に、いろはが少し怒った顔をする。神に望まれるまま裏の森で音楽を奏で、いざ屋敷に戻ろうと思ったらその姿はどこにもない。あれこれと探しまわってみても見つからず、滅多に立ち入らない書生達のサロンにまで足を伸ばしてしまった。
「もう……」
 近くに他に人がいるので、やちよは獣のふりだ。するりと頬を寄せてくる狐の頭を撫でながら、呆れを含んだ溜息を一つ。すると彼女はちらりといろはを見上げ、それから甘えるように高く鳴いた。ケーン、という声が響けば謝罪であるとすぐに察し、知らず口元が緩んでしまう。
「部屋に戻りましょう」
 ここにいる事がばれたら怒られてしまう。書生達のいる棟はいわゆる”表”で、そこは男の世界。完全に入っていけないわけでもないが、未婚の男女が連れの者も無しに話をするのははしたないと言われたりもする。環の家ではそういった事も世間よりは緩めだが、過ぎれば当然怒られた。
「お嬢さん、部屋までお送りしましょうか」
「ふふ、ありがとうございます。でも自分の家ですもの。迷ったりしませんわ」
 サロンから顔を出した書生の一人が、傍らに狐を従えたいろはを見て声をかけてくる。それをやんわりと断って頭を下げると、彼女の手がやちよを促した。そのまま連れ立って広い屋敷を歩き、先程とは別の階段から二階へ上がる。家族の居住空間まで歩みを進めれば、人通りは一気に少なくなった。
「どこに行っていたんですか?」
 辺りに人がいないのを確認してから、いろははようやく口を開く。それにゆらりと尾を回した狐は、ややあってからつんと顎を反らした。
『他の雄の牽制』
「……私が信じられませんか?」
『縄張り争いは獣の本能よ』
「もう……」
 普段は獣扱いを嫌うくせに、こういう時ばかり都合の良い。ぴたりとくっついてくる狐のせいでだいぶ歩きにくくはあるが、独占欲を見せられれば悪い気はしなかった。
「あなたは勘がいいから、然程心配はしていないけれど」
 部屋の敷居を跨いだ途端、するりと姿を変えるいろはの神。下げていた視線をその変化に合わせて上げながら、いろはは少しだけ眉を下げた。
「桜井さんですか?」
「なんだ。気付いていたの」
「あの方からはあなたによく似た気を感じますから」
 やちよの言う”波長”がよく合うのだろう。彼と居ると、どこかほっとするような気持ちもある。何も言わずとも今何を思っているのかが理解できる時もあるし、体調を崩している時など一目見ただけでわかってしまった。
「……あなたがそうだから、彼のところに行ったのよ」
「でも、それを言うなら私だって同じです」
 神の言葉に、いろははきゅっと眉根を寄せる。それを驚きと共に見返せば、やちよだけの巫女は拗ねたように唇を尖らせて、ついとそっぽを向いてしまった。
「早い者勝ちは、私だって一緒です」
「……聞いていたの」
 神でなければ彼だった。けれど翻せば神にとっても、いろはでなければ彼だったのだ。どちらが先に出会ったか。運命など、ただそれだけの事で容易に狂って違う道筋を辿る。
「私には、やちよさんだけです。でも……」
「一度言ったわ。多く持てば、神の手からも零れてしまう」
 魂の寄る辺など一人でいい。やちよはただ永きを生きていたいわけではない。輝くような恋をしたいだけ。いろはが激しく燃え盛り、そのまま尽きてもいいと言うなら共に逝こう。今ならば、そう思う。
「恋の相手は一人でいい。そう言ったはずだけれど」
「……」
「妬いたのね?」
 まだ唇を尖らせたままのいろはを見下ろして、やちよは嬉しそうに微笑んだ。くすくすと痛む胸は温かく、いろはの感情が流れ込むとくすぐったくて仕方ない。
「私にだって、独占欲は……あります」
「……神を独占したいとは強欲ね。並みの精神じゃ考えつきもしない」
 ついには俯こうとする彼女を許さずに、その頬を両の手で包み込む。少し強引に上向かせると、涙目のいろはが真っ赤になりながら口を開いた。
「……私を、っお嫁にいけない体にしたのは……あなたですっ」
 もしかしたら、半ば自棄なのかもしれない。頬どころか首に耳までも赤く染めて、やちよの巫女はそう叫ぶ。震える指先が狩衣を掴み、皺になる程強く握った。真っ赤になって震える姿はそれだけでいじらしく愛おしいのに、彼女は更に言葉を紡ぐ。
「っなのに、……なのに、他の人なんか見たら……いや」
「っっ……」
 がつんと、きた。これ以上ない程の羞恥で泣き出しながら、それでもやちよを見つめ続ける瞳はあまりにも真摯だ。あえて目を逸らさぬのが心を読ませるためだと知れると、全身にぶわりと鳥肌が立つ。心の臓に太い杭を打ち込まれたのではないかという程の衝撃を覚えれば、耐えきれない程の苦しさに眉根が寄った。
「……っいろは」
 その心に求めねだるあでやかな女を見つければ、堪らず華奢な体を抱きしめる。項から手を滑らせて小さな顎を掴むと、少し乱暴に顔を向けさせ唇を重ねた。受け入れるように口を開いた彼女にぞくぞくしながら、遠慮なく舌を差し込み口内を蹂躙すれば、一回り以上小さなその手が強く背中に縋りついてくる。呼吸も許さぬ程の深い口付けに溺れては、背を掻く指先は淫らでもあった。
「可愛い、好きよ……っなんて愛しい、私のいろは」
 恋の痛みはあまりにも衝撃的で、自覚する度に神を呼吸困難にしてしまう。いろはへの感情だけで何もかもが埋まってしまえば、まるで全てが塗り替わったような鮮やかな心持ちがした。強い風が吹く日、視界全てを桜の吹雪が覆ったように、白地を淡くも強い色が染め上げていく。やがてお互いの境目がわからなくなれば、例えようもない幸福感がやちよを満たした。
「あっ……ふぁ」
「……人は、責任を取る、という言い方をするのだったかしら」
 満足いくまでいろはの舌を弄んでからそっと唇を離すと、その隙間から甘い声が零れ落ちる。涙に濡れ息を乱した姿は巫女という清廉な職についているとはにわかには信じがたく、艶やかに匂い立つ彼女は紛れもなく”女”だった。蕩け切ったその表情を覆い被さるようにして覗き込みながら、唾液で濡れ光る柔肌を舐めてやる。そしてそっと囁けば、いろはは苦しそうに眉根を寄せた。
「責任、とってくれるんですか……?」
「それはもう。喜んで」
 甘えたような高い声が触れれば、そのむず痒さに耳が倒れる。お互いをきつく抱いたままで、もうこれ以上近付きようもないのに、それでもいろはがやちよの着物を引いた。精一杯のおねだりを正しく受け止めて、いろはの腰に手を回す。そのままひょいと抱き上げると、すぐに彼女の腕が首に縋りついた。
「陽のある内は嫌なんじゃなかったの?」
「……いじわるしないで」
「っ……もう、あなたはどこまで可愛いの」
 魂の片割れを寝具の上にそっと下ろし、やちよもすぐに膝を乗せる。珍しく手を伸ばしてきたいろはに手伝ってもらって着物を脱ぎ落とせば、残った布は左足に結ばれたリボンだけになった。
「これも独占の証って事ね」
「……はい」
 嬉しそうにそれを撫でる指先を絡め取り、項を支えて体重をかける。ゆっくりと押し倒してから袴の結び目に手をかけると、いろはは大人しく目を閉じた。しゅるり、と衣擦れの音がすれば、その体がぴくりと震える。先程から真っ赤なままの顔を恥ずかしそうに背けて、人差し指を噛む仕草はいじらしかった。
「いろは……」
 すっかり慣れた手つきでいろはの着物を肌蹴ると、重ねの部分から手を滑り込ませていく。複数枚の布を掻き分けて指先で内腿に触れれば、堪えるように、あるいは期待するように、少しだけ彼女の眉根が寄った。顔の横に着いた手にそっと額を寄せて、ゆるく手首を撫でてくる仕草に鳥肌が立つ。産毛を撫ぜるように触れられれば否応なしに気が昂って、優しくしてやろうという気持ちなどすぐにどこかに消えてしまった。
「……煽るのが上手くなったわね」
「っそんなつもり……っん」
 やちよの言葉に慌てて顔を向けるのを唇で待ちかまえて、あとはただ彼女を溶かす事だけに集中した。唇を合わせたままでいろはの悲鳴を聞けば、まるで脳裏に直接響くようでもある。彼女の音が直にやちよを揺さぶれば、魂だけでなく心だけでなく、体中がいろはと一つになったようだった。

 

***


「郷に帰るそうだよ」
 後日、荷を纏めている桜井の姿を見かけ、父に問いかけてみたらそんな答えが返ってくる。なんでも逃げるのをやめるとの事で、他にやりたい事のできたらしい。
「勤勉で成績も優秀だったのにねえ……もったいない」
「……そうですね」
 残念そうな父の言葉に頷いて、ちらりと足元の狐を見る。呑気に首を掻いている彼女が何を言ったのかは知らないが、無関係というわけでもないだろう。けれどやちよはちらりと視線を返しただけで、後はくわっと大きなあくびをするにとどまった。
「……寂しくなりますね」
 その姿に小さく溜息を吐き、本音が口から滑り落ちる。両手で包んでいたカップをそっとソーサーに戻すと、言葉その物の物悲しい音が響いた。
「いろは、それはどういう……」
 娘の言葉を受け取った父親が、その傍らに着き従う狐をちらりと見る。徐々に冷や汗の浮いてくる彼の内心は、滅多な事をお言いでないよ、というそれだけだっただろう。
「……あの方には少し親しみを感じていましたから」
「う、うん、うむ。えー、……そうか」
 いろははこの空気に気付かないのだろうか。のんびりしていた神が、今や唇を捲り上げて完全なる不機嫌顔だ。お座りをした状態でその表情なので、狛犬を連想したのは黙っておこう。けれど何故だ。何故神はこちらを睨むのだろう。何も初めから婿になどと思っていたわけではない。確かに途中でちらりと考えた事もあるが、いろは自身にその気が無さそうだったので一度だって話した事など無いというのに。
「その……彼の代わりに、もう一人書生を入れようかと思っていてね」
「でも桜井さんはお一人です」
「ん……うん」
 やはり人の世に未練が? それとも彼に想いを寄せていた時期があったのだろうか。いやそれにしては今までそんな素振りは見せなかった。ただ単純に、父である自分が鈍いだけなのか。
 今や般若の形相で、低い唸り声を上げる狐。その怒りを一身に受けながら、父親はかたかたと震えだした。
「……お兄様がいらしたら、こんな感じかと思っていたのに」
『……』
「……」
 ふむ。やはり父の観察眼は間違ってはいなかったようだ。心底から寂しそうないろはに、神すらぽかんとした顔をしている。ぱちくりと瞬きする狐の横顔を数秒眺めてから、父親はずるずるとソファに沈んだ。
「お父様?」
「……なんでもないよ」
 彼には悪いが、本当に一切その気がなかったらしい。波長が合うのは確かにそうだが、あまりにも魂の形が近いと、恋の相手を通り越し家族になってしまうようだった。はあ、と溜息を吐く巫女をしばらく眺めて、神もへなへなとへたりこむ。床に伏せてふしゅーと息を吐く姿に、いろはは不思議そうな目を向けた。
「お二人とも、どうなさったんですか?」
『なんでもない』
「その通り」
 今や心を一つにした婿(?)と舅は、一度顔を見合わせるとしみじみ頷き合ってみる。
「?」
 たった数週間でやけに仲良くなった二人を交互に見て、それからいろはは朗らかに微笑んだ。嬉しそうに笑う姿は場違いではあったが、彼女の笑顔に弱いのはどちらも同じ。一人と一匹は同時に溜息を吐くと、よく似た苦笑をじんわり浮かべる。
 自分の事には鈍感な少女は、息の合った二人にもっと嬉しそうな顔をしただけだった。