どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話05


 此処日の本は世界に比べて神の多い風土で御座いますれば、当然信仰の形も様々で御座います。風を畏怖する者、樹木を崇める者、水を神聖とする者、星に祈る者。八百万、全ての存在に感謝を続ける風土で御座いますれば、当然視える者もそれなりに多い国では御座いました。故に、この国には”魔女”と云う者が居りません。古代卑弥呼の時代より、視える者、聞こえる者は神聖なる神の使いであり、神の御言葉を賜る存在は丁重に保護され匿われてきたので御座います。
 そしてまたこれも、古代卑弥呼の時代より、神託と政治は切っても切り離せぬ関係で御座いました。故に戦国の世に至る頃までは、真に力ある巫女を一所に集め、朝に夕に神託を乞うていた時代も御座いました。
 そしてこの巫女が逃げ出しますと”抜け巫女”等と揶揄されまして、捕まれば引き戻されるか遊郭へ、酷い時にはそのまま殺されてしまう事すら御座います。と、申しますのも、先程にも述べましたるように、神託と政治は切り離せぬ物。つまり一所に集められた巫女達は、何故神に御言葉を賜るのか、すなわち時の政治家が真に憂いているのは何事であるのかを知っているからで御座いました。国家機密を握ったまま逃走なぞされては堪った物では御座いません。ならばいっそ処刑を……というのが、日本における”魔女狩り”でも御座いました。
 さて、大正の世に入りまして、人々の心が”サイエンス”に傾倒致しますれば、当然のようにこのような残酷な出来事は少なくなって参ります。されども人々の心はまだ完全に神から離れた訳でもなく、それを申しますれば”現代”を生きておられます皆々様方も同じ事かとは存じます。人は心のどこかで神を信じ、人知を超えた現象を目撃する事に憧れにも近い気持ちを抱いて居りました。
 そしてその中には、叶うならば神を降ろせる存在になりたいと、叶いもしない願いを抱く物も存在するので御座います。
 本日は、舞台に立ちまする神と巫女の身に忍び寄った、とある事件についてお話して参りましょう。

 

 


 年が明けて一月と少し。如月……二月に入って二週程が過ぎた。祖父の好みで沢山の梅の木が植えられている環の屋敷に、今日も新しい花が咲き誇る。
「月影ね」
「はい。いい香り」
 清白色の一重の梅は、枝も萼も青々とした美しい色合いをしていた。本来なら盆栽に向く品種ではあるが、この屋敷の庭では人の背丈をゆうに超える、確かな梅の木が枝を広げている。庭師に手伝ってもらってその枝を三本程貰い受けたいろはは、自室に花瓶を持ち込んで嬉しそうな顔をした。
 釜変(ようへん)の備前はいぶしの色も美しく、灰の他に少しの青も見えている。土台の緋の色は鮮やかに、投入に向く深い形はどっしりとしているのに、どこかしらすらりとも見えた。
「いい器だわ」
「それを聞いたら喜びます」
「誰が焼いたか知っているの?」
「直接お会いした事はありません。出入りの八百屋さんの御子息が、才覚を見出されて師を得たのだとか」
「その男の作品?」
「はい。やっとの思いで焼きを許されるまでになったそうです。お父様が気に入って、一つ買い求めました」
 広げた布の上でパチリ、パチリと鋏の音を立て、いろはの手が梅の枝を整えていく。太い枝を一番長く、後の細い二本を広がり過ぎぬようにそれに添わせて、彼女は一度花瓶を回した。様々な方向から梅を眺めて、均衡を見る横顔は楽しそうだ。
「好い気を感じるわ。いずれ名のある者になるかもしれない」
「神様がそこまでおっしゃるならきっとうそうですね」
 再びパチリと鋏を鳴らし幾らかの枝を断った彼女は、続いて葉物に手を伸ばす。孔雀のように広がりを見せる葉牡丹と、斑入りの桔梗蘭を少しだけ。それに梅を得る時一緒に切ってもらった白椿。迷いない手つきでそれらを整え花器に差していくいろはの頭の中では、もう完成図が出来上がっているのだろう。
「あなたは花を生ける時が一番楽しそうだわ」
「……美しい物が好きなんです」
 かけた言葉に数瞬黙りこんだ彼女に、神は薄い微笑みを浮かべる。いろははやちよを見なかったが、内心など覗かずともその真意はすぐに察せた。
「私はあなたの好みに美しい?」
「……一度、言いました」
「もう一度。賛美は何度受けても心地良い物よ」
 自身より大きく開く花を供として、花器に飾られる梅は誇らしげでもある。指先でその居住まいを正してやるいろはの耳は、すでにうっすら赤かった。
「私は……あなた以上に美しい物を見た事がありません」
 見える癖に、感じられる癖に、察するなど容易な癖に、それでも言葉をねだる神によって、一日に数度はこういう辱めを受けている。やちよの言うところでは辱めではなく慈しみらしいのだが、羞恥に震える姿を見たいと言うのは、どう取り繕っても”虐める”が精一杯だろう。
「……本当に、可愛い子」
 それでも神は思うのだ。自身の巫女の言うところの”意地悪”を、一々律儀に受けとめようとする姿がいじらしいと。本当に腹を立てたならば撥ね退ければいいし、いろはが心底から気分を害したのであれば、神とて謝る腹づもりもある。つんとそっぽを向けばそれで終わりにしてやろうというのに、逐一可愛らしい反応のあるものだから、あれやこれやと虐めてやりたくなるのだ。
「愛しいいろは。あなたはなんて可愛いの」
「っ……」
 そっと、音もなく近付いて後ろから抱いてやれば、腕の中で彼女が震える。華奢な背中にべったりと体重をかければ、それを支えるためにといろはの右手が敷き布についた。それでも更に体を預けていけば、ついにもう片方の手も布に触れる。必死になって倒れまいとする姿を少しだけ笑うと、彼女の体ごしにひょいと花瓶を避けてやった。
「いろは……」
 そこまでしてからようやく預けていた体を少し戻し、左手を彼女の腹に、そして右手を脇に忍ばせる。
「やっ……!」
 蛇のようにするりと、けれどやや強引に。身八つ口から侵入してきた指先に、いろはは高い悲鳴を上げた。抜いた衣紋の分少しだけ余裕のあるその隙間に、無遠慮に手を差し込んだ神が笑う。
「着飾る為に急所を晒す。人の為す事には時折驚かされるわ」
 くすくすと吐息だけで笑いながら、腹に回した左手で袴の結びと帯留を解いていく。そしていろはの肩に顎を乗せると背中を丸め、押さえ込みながらも体を離した。器用な事をするものだ。胸にもぞもぞとした愛撫を受けながら、頭の片隅で考える。
「やめて、くださ……あっ」
「慣れてきた? 他所事を考えるだなんて、随分余裕のある事」
 他所事というか今まさに行われている事というか。どちらにせよやちよのへの想いだけで埋められているわけではないので、それには反論しないでおく。彼女の手が触れた瞬間に頭が真っ白になっていた時期に比べれば、確かに慣れてきた部分もあるだろうし。
「また考え事」
「……っあなたの、事です」
「それは当然。けれどまだ翻弄されていない」
 浮いた隙間に左手を滑らせて、帯を解すやちよはご機嫌だ。腹部の締め付けが少し緩くなれば、差し込まれていた手が去っていく。そしてその手が着物の合わせにかかると同時に、伊達締めがしゅるりと音を立てて抜き取られた。
「っっ……!」
 長襦袢はまだ留まったままなのに、やちよの手が強引に胸元をくつろげていく。温まっていた肌が冬の冷たい空気に触れれば、その温度差にぞわりと鳥肌が立った。
「やちよさん……っいやぁ……!」
「今更止まれない」
 そのまま最後の締めも抜き取って、完全に着物が崩れ肌蹴る。さらけ出された肌に手のひらを這わせ、楽しそうな神が笑った。やがてその唇がリボンを食めば、いろはの髪が音も立てずに解けていく。最後にしゅるりと衣擦れの音を残し、髪留め用の布は完全に役目を終えた。
「寒い?」
「っ……」
「……この感触も悪くはないけれど、吸いつくような普段のそれの方がいい」
 噛んでいたリボンをすげなく床に落とし、粗方の仕事を終えた左手で今度は膝に触れ、そこでやちよは微笑んだ。寒さに総毛立ついろはの肌を何度も何度も手のひらで撫で擦り、割り開こうとしていた膝から手を離す。そしてそのまま彼女の脇に手を差し込むと、ひょいと容易く抱き上げた。
「きゃ……っ」
「どうせ脱がせる物を直そうとしない」
 仔猫のように宙づりにされた拍子に袴と帯が滑り落ち、いろはは慌てて手を伸ばす。けれど床に垂れたそれらをやちよが踏む物だから、どうあっても引き上げるまでには至らない。それでもしばらく離さず抵抗してみたが、痺れを切らした神が踏みつけながら歩き出したので諦めざるを得なかった。
「何故毎度抵抗するの」
「だ、だって……っ」
「番がまぐわうのは自然の摂理よ。野の獣たちだって皆そうする」
「獣と人は違いますっ」
「羞恥心? 道徳? 理性? そんな物全て後付けだわ。自然の力を借りようとするならば、人もまた自然の摂理に従うべきよ」
「うぅ……」
 言葉では到底敵うわけもない。一つ言えば二つも三つも言い返されて、いろはは一つ唸り声を上げた。そんな彼女に吐息だけの笑みを返して、やちよがとんと床を蹴る。あくまで軽い踏み切りだったのに二人の体は天井近くまで浮き、その隙に横抱きにされたいろはが悲鳴を上げた。そして跳んだ時と同じくらい軽い衝撃でベッドの上に着地すると、そのまますとんと腰を下ろす。
「本当に嫌なら、しないわ」
「……いじわる」
 言葉とは裏腹にいろはを組み敷きながら、楽しそうなやちよが尾を回した。彼女の背後でゆらりと揺れる狐のそれを一瞥して、真っ赤ないろはは一つ文句を垂れてみる。すると神はもっと楽しそうな笑顔になって、ついにはくつくつと喉を鳴らした。
「だからあなたは愛おしい」
 すーっと。音もなく姿を変えていく自身の神を仰ぎ見て、最後に零れたのは幸せな苦笑だ。神の愛し方は些か即物的で、その求め方も旺盛に過ぎるとは思う。けれど欲しい物は何が何でも手に入れなければ気が済まないと言ったのだ。一度欲しいと思えばどうしようもなくなるとも。
「……求めてください。体だけでなく、言葉でも」
「愛しいいろは。可愛い巫女。神の身でも、恋に焦がれてはどうにも乾く。だから麗しいそなたをおくれ」
 いろはに対して毎日どうしようもなくなってくれるなら、それはとても幸福だと思う。吸っても舐めても乾くのならば、いくらでも差し出そう。思いながら、いろはは体を開いていく。そしてその心をも。一切全てを隠す事もせず曝け出せば、彼女だけの神は至極幸せそうな溜息を吐いた。

 

***


「ああいろはお嬢様、丁度良う御座いました」
 夕方。少し疲れた表情で部屋から出てきたいろはに、女中頭が声をかけてくる。
 神が満足するまで散々抱かれて少し気をやり、やっと目を覚ましたところに再び伸びてくる手をかわして、ほうほうの体で布を纏ったところだった。思わず身なりを確認するいろはを面白そうに見て、”おみつ”はするりと近付いてくる。
「程々になさいませ」
「っ……!?」
 そのままそっと耳打ちされれば、いろはは耳まで赤くなった。驚いて彼女を見れば、切れ長の目元が楽しそうにすーっと細くなる。
「お、おみつ……?」
「わたくし、少しばかり”目が良い”んです。お話した事があるでしょう?」
 いろはが小さい頃からずーっとこの屋敷にいる彼女は、あるいは両親よりも近い存在かもしれない。何かあればすぐに飛んで来てくれて、眠れない夜には昔語りを聞かせてくれた。少し白い物が混じり始めた髪に供に過ごした年月を感じれば、いろははいつも心が緩む。
「そういう意味だったの」
「ええ。でも安心してくださいな。旦那様や奥様には口が裂けても申し上げませんから」
「……ごめんなさい」
「どうしてお嬢様が謝る事がございましょう。好いた方に求められてその気になるのは当然で御座います。心地良ければなおさら、ね?」
「っ……」
 あけすけな物言いに、真っ赤ないろはは何も返せない。ただぐっと唇を噛んで、自分の頬を押さえるだけだ。部屋を出てすぐの場所で親には言えない内緒話をして、それに頬を染める姿は年相応だった。幼い時分よりどこか俗世離れした娘で在ったから、その様子を見たおみつはなんだかやけにほっとする。
 神と結ばれたと察した時は、いよいよ俗世離れの進んでしまう物と不安であったけれど、むしろ繋がりを持ってからの方が余程人間らしくなった。心が安定したか存在が安定したか、最近は習い事も格段に上達したし、毎日を活き活きと過ごしている。今日だって自ら庭師のじいやにおねだりをして、高い位置の枝を切って貰った。それが想い人のためだろうと思うと、恋する女はいじらしい。今回の冬は寒く、極早咲きの梅以外はまだまだ眠りについている。その中でようやく蕾をつけた枝を毎日毎日見上げやり、今日になって白い物が見えたからと、渋るじいやの腕を引いたのだ。屋敷の一人娘のおねだりは、頑固なじいやもふやかしてしまう。寒いの腰が痛いの雪が冷たいだの文句を言いながらも、生けるのに良さそうな枝を選んでやったのを皆知っていた。お礼に肩を揉んであげると言うのを照れ隠しに突っぱねて、さっさと台所の方に消えてしまったじいや。そのいかり肩を見送って、ころころと笑う姿は愛らしかった。
 と、そこに。
 かりかりと木目を引っ掻く音が響いて、二人はいろはの背面に視線を向ける。取っ手を回して扉を開いてやれば、すぐさま巨躯の狐が滑り出てきた。
『……なんだ、みつか』
「これはこれはお狐様。またお嬢様に無理をさせて」
『嫌なら抵抗すればいい』
「そんな事を仰って。お嬢様がお優しいからって、あまり調子に乗るとみつの拳骨が唸りましてよ?」
『神に手を上げると?』
「大切なお嬢様のためなれば。みつは閻魔様にも喧嘩を売りますわ」
『……』
 どうやら顔見知りのようだ。ふんと腕まくりをして拳を握る女中頭に、やちよは渋い顔をした。もしかしたら既に一度経験があるのかもしれない。居心地悪そうにぶるりと身ぶるいをして、狐は行儀よく足を揃えた。甘えるようにいろはに擦り寄って、獣は高い声で鳴く。きゅー、という音を聞けばどうしても眉が下がり、ついついその毛並みを撫でてしまった。
『気を付ける、と言いたい所だが……所有の印を刻まないだけまだ我慢している方だ』
 その手を心地良く受け入れながら、狐はうっとりと目を細める。耳の裏を彼女の爪が掻くと口角が上がって、微笑んでいるようにも見えた。
「当たり前です。見える所に所有印など刻んだら、さすがの旦那様もお怒りですよ」
 だからおみつも、少し気が緩んだのかもしれない。ついうっかり言わなくてもいい事を言ってしまい、いろはの顔を見てしまったと思う。
「え……? ねえおみつ。見えるところに所有の証をつけると、問題があるの?」
『……』
「……」
 いろはからの証としては、やちよの左後ろ脚に結んだお気に入りのリボンだ。無地のそれは一見すると質素だが、絹で出来ていて肌触りも良い。色も鮮やかな桜染で、まさしく桜の花だけを使ったそれは、そのものの色にするのはとても難しい。茶や橙の混じらぬ柔らかな花の色も美しく、やちよに渡すまでは祝い事の度に身に着けていた。
 庭で飼っている番犬達もそれぞれ飼い主を表す首輪を着けているが、それが駄目だというのは聞いた事がない。もしかしたら恋の相手には駄目という決まりでもあったのだろうか。
「お嬢様。えーっと」
 不安そうに手を組み合わせるいろはを見て、おみつは困った顔をした。まさか肌を重ねてそれだけ知らぬとは思わなかったので、気軽に口に出してしまったのだ。
 対する神はゆらゆらと尾を回して、にやりと口元を吊り上げる。片目を細めたその表情はやけに人間染みていて、おみつは思わず青筋を立ててしまった。
『所有印について詳しく知りたいか?』
「はい。だって間違った事をしてしまっていたなら嫌ですもの」
『そうか。そなたは真面目だな。なら私の手ずから教えてやるから、一度部屋に……』
「お待ちください!! そんな時間はございません!!」
 何も知らない少女を騙す気満々で誘導を始める神に、おみつが慌てて声をかける。そうだった。そもそもいろはに用事があってここまで足を運んだのだ。
「お嬢様。先程榊様が訪ねていらして……居間でお待ちでございます」
「貴子様が?」
 榊貴子。女学校時代の級友だ。華族の令嬢で、確か学校を中退して許嫁の元に嫁いだはずだったが。
「……なにかしら」
 そも学校でも然程親しかったわけでもない。自分がやんごとなき血筋の者だとて鼻にかけるような人でもなかったが、取り巻きが多くて近付けもしなかった。いろはの父の家系はどちらかと言えば成金なので、彼女達からすれば気に入らなかったのだろう。何代も前まで遡れば一応源氏だか平氏だかとの繋がりもあるようなのだが、一度零落してからは籠商人として底辺からの再起だ。幕府が健在の頃に布を当てて商人として財を成し、歴史ある武家に息子を養子へやった。その子が無事武家を継いで脈々とその血を繋ぎ、開国と時を同じくして上流階級入り。その後も事業拡大など様々な成功を重ね、父が母と結ばれた事でさらに格が上がって今に至る。
 母が鎌倉以来よりの旧家の血筋なのでいろはに流れる血も決して卑しい物ではないが、高貴な者は土地収入だけを得て敢えて仕事をしない事もあった時代だ。貴族院議員などの終身名誉職か、官僚や軍人。職を得ると言ってもそういった”お国のため”の物が多く、それ以外の仕事を持つ者は軽蔑されるような風潮もあった。故にいろはは、貴族の子女たちが集まる学校においては少し異端でもあったのだ。
「とにかく行かなくちゃ。やちよさん、しばらくお留守番していてくださいね」
『ついて行っては駄目なのか?』
「動物がお好きだったか覚えていないんです。もし苦手だったら失礼ですから」
『ふん』
 そう言って再度扉を開ける巫女に、神は不機嫌顔だ。彼女よりも他者を取るといつもこういう態度になる。それでも渋々部屋に戻り、そこで男神の姿になって腕を組む。
「鈴は?」
「はい。しっかりと」
「何かあったら呼びなさい」
「ありがとうございます」
 最後に短いやり取りをして、いろははおみつの後についていく。彼女は神の人形を見たのが初めてだったらしく、いろはを振り返るとにんまりと笑みを浮かべた。
「大層な美丈夫でございましたね」
「……ん」
「錦絵の男よりも美しい。あれは誰でも見惚れます」
「……えと、うん」
 普段は女神の姿なのだとは言えず、いろはは曖昧な笑顔を浮かべる。一応人の作法に則っているつもりらしく、父母以外の人間が傍にいる時は男神の姿を取る事が多かった。とはいえやちよが人形で顕現した事はそう多くもなく、以前に一度暴漢に絡まれそうになった時、姿を変えて威嚇したくらいだ。それでも闇に光放つ神の威光は凄まじく、刃物を持った大男たちが裾を捲って逃げ出したのには驚いた。いろはの前では常に優しく時には人間のような表情を見せる神だけれど、やはり人知を超えた存在なのだ。力のある者以外が見れば、建物よりも大きな獣の吠えるようであるらしい。化け物だ、と叫びながら逃げていった男達を思い浮かべて、いろはは小さく笑ってしまった。
「さあお嬢様」
「ええ」
 促されて居住まいを正し、おみつが開けてくれた扉をくぐる。一礼してから顔を上げると、記憶の中よりいくらか線の細くなった級友がそこにいた。
「ああ、いろは様。お久しゅう」
「お久しゅうございます貴子様。お懐かしく」
「ええお懐かしい」
 髪を上げ、すっかり夫人といった様子の彼女が笑う。それにやんわりと微笑み返して、一言断ってから対面のソファに腰をおろした。
「お元気そうで、心よりお慶び申し上げます」
「いやだ、そんなに畏まらないでくださいな。たまたま近くを通りかかって、懐かしい思いで顔を出しただけですのに」
 いろはの挨拶に口元を押さえ、困ったように眉を下げる姿は変わらない。女学校時代からやんわりとした人柄で、故に取り巻きも多かったのだ。
「突然の訪問で驚かせてしまったと反省していたところです。もし許していただけるなら、学生に戻った気持ちでお話しなさって」
「……では。貴子様、本当にお久しぶり。宝条院家に嫁がれまして、もう何年になるでしょう」
「ええ、ええ。お久しぶり。嫁してもう三年になります。子宝にも恵まれまして、一男一女を授かりました」
「素敵。貴子様はお裁縫もお料理も一番でしたもの。きっと素敵なお母様におなりね」
「そうだといいのですけれど」
 学校では片手で足りる程度しか会話した事がないが、話してみればなんの事はない。ただ懐かしく温かな気持ちで、色々な思い出話に花が咲いた。
「そう。松野先生ったら厳しくて、わたくし達皆嫌いでした。いろは様は目の敵にされておりましたね」
「ええ。でも卒業の日に一番泣いてくださったのも松野先生でした。私に刺繍の才があるとおっしゃってくださって、故に厳しく当たったのを許しておくれと」
「まあ……そうだったんですの。そういう話を聞くと、乞われたからとはいえ、退学は思い留まるべきだったと思います」
「あ……」
「いいえ、いいえ。勘違いなさらないで。自分で選び、今は幸せでおりますもの。いろは様を責めるつもりなどございません」
「ありがとうございます。貴子様は本当にお優しい方」
「……私が、優しい?」
「ええ。お話したのは数える程でしたけれど、朗らかで笑顔が美しい方だと思っておりました。お着物が汚れるのも気になさらず、倒れた花を直しているのもお見かけした事があります」
「あら……」
 いろはの言葉に、貴子はぽっと頬を染める。その姿はやはり自分と同い年の少女で、いろはも思わず頬が緩んだ。
「あの、いろは様?」
「はい。なんでしょう」
 そんないろはを眩しそうに見つめて、やがて貴子は照れくさそうな笑顔を浮かべる。それから少しだけ言い淀み、やがて決心したように口を開いた。
「あの、よければ、なんですけれど。これからわたくしと、オペラを鑑賞しにまいりません?」
「……オペラ?」
 この時代のオペラと言えば”浅草オペラ”など大衆向けの物が特に賑わいを見せていたが、もちろんそれ以外に、海外の劇団を招いた貴族向けの舞台もある。そちらはすべて外国の言葉で上演され、理解できない者は眠るしかないという、まさしく貴族の娯楽でもあったのだ。
「いろは様、確か英吉利の言葉も堪能でしたでしょう? わたくし今回初めて参るのですけれども、主人は席を取ってくれても、興味がないからとついてきてくれませんでしたの。一人は寂しくて……お願いします」
 英吉利。イギリスの言葉とは、つまり英語の事だ。確かにいろはは父の影響もあっていくつかの言葉を学んではいる。横浜などに行けば外国人も多く、そこでは色々な物が売っていた。その時買ってもらった絵本の文字を読みたいがために、父にねだって師をつけてもらい、読み書き聞き取りができる程度には勉強をしたのだ。したのだが。
「も、もう何年も前の事ですもの。今は聞き取れもしませんわ」
「でもオペラのレコオドを持っていらっしゃるじゃない? あの辺りはいろは様が買い求めた物だと聞きましてよ」
「……うぅ」
 部屋の入口に立っている女中頭を見やると、さっと視線を逸らされた。どうやらお喋りは彼女らしい。
「ね、ね。気に入らなければ次から無理を言ったりしませんから。今回だけ、試すと思って」
「……お父様に許可を頂いてきます」
「やった! ああ嬉しい。本当に心細かったの」
 押しに負けて結局折れたいろはに、貴子が嬉しそうに手を叩いた。本当に嬉しそうな、まるで少女のような様子を見れば悪い気はしなくて、少し気持ちもはずんでくる。久しぶりに子供のような気持ちになって、父の元まで歩いていくいろはの足取りも軽かった。
 そして、半刻……一時間の後。
「まあいろは様。素敵なドレスね」
「……あまり着慣れなくて。おかしくはありませんか?」
「よく似合ってらしてよ。そのまま鹿鳴館に赴いてもなんの問題もないくらい」
「ありがとうございます」
 貴子に合わせてドレスを纏ったいろはは、落ち着きなく手を組み合わせる。少し急いで着たせいで、細部まで確認している暇がなかったのだ。父には二つ返事で許可を貰えたのだが、神の説得に少し時間がかかってしまった。自分を置いて巫女が外出すると聞いた瞬間、やちよは素早く否を唱えたのだ。ただでさえ放っておかれていたのに、その上の夜の外出。しかも帰りは相当遅くなる。絶対に駄目だと言う神をあの手この手で宥めすかして、明日から二日間は食事以外部屋にいるという約束を条件に、やっと着替えに移る事が出来た。
 ――気をつけて行ってきなさい。
 ドレスを纏ったいろはを見て、少しは留飲も下がったのだろう。部屋を出る時には優しく抱きしめてくれたし、手首に口付けまで落としてくれた。彼女の唇が触れた部分をそっと指で撫でて、いろはは隠れて微笑むのだ。
「さあ、参りましょう」
「ええ」
 見送りに出てきてくれた父と母に丁寧に頭を下げて、貴子がいろはを促した。二人が玄関から出てきたのを見ると、貴子付きの運転手が休んでいたベンチから立ち上がり、タバコの火を消して車へ戻る。体格の良い運転手はやけに猫背の体勢で車のドアを開け、二人が乗り込むのを見届けると窮屈そうに運転席に収まった。
 それに乗って四半刻ばかり走ったところだっただろうか。小さな違和感を感じて、いろはは体を緊張させる。
「あの、貴子様?」
「……何かしら?」
「…………どこに、向かっているのですか?」
 街の明かりがどんどん遠ざかっていた。オペラを見るならより都心へ。ビルの立ち居並ぶ繁華街へ向かわなければならない。なのに進めば進む程明かりは減り、道も悪路になりつつある。
「わたくし、幼い頃は神が見えましたの」
「……」
 闇に溶ける彼女の表情は、まるで影その物を纏ったかのようだった。たまに街灯の傍を通りすぎれば、一瞬照らされる顔は狂気に満ちている。瞳孔が開き切ったその横顔にどきりとして、知らず後ろ手にドアの取っ手を探した。
「逃がさないわよ!!!!」
「っっ……!」
 指先が金属に触れた瞬間、まるでそれをわかっているかのように、つんざくような大声が響く。目にも止まらぬ早さでいろはの胸倉を掴んだ彼女は、そのまま座面へと華奢な身体をなぎ倒した。
「……この間ね、街でいろは様を見かけましたの。三年経っても少しもお変わりないまま。すぐにわかりましたわ」
 傍らに獣を従えた彼女は、女中とおぼしき少女一人、そして男二名に囲われて楽しそうに微笑んでいる。通りに停めた車の中からその横顔を眺め、変わらぬ人もいるのだなと少し眩しくなった時。貴子の眼前を、すごい勢いで車が走り抜けていった。
「あなたは何も変わらない……私はこんなにも変わってしまったのに」
 その車の向かう先を見て、貴子は悲鳴を上げそうになる。供の者に遅れてショーウィンドウを覗きこむ、かつての級友が餌食になろうとしていたからだ。
「あなたはなにも変わらない。変わらずとも許されている。私は変わらなくてはいけなかったのに!!」
 思わず顔を覆いかけて、そこで貴子は目にしたのだ。淡く光放つ狐が、いろはを咥えて高く跳ぶのを。そしてその姿に狩衣を纏った人の姿が重なれば、胸の高鳴りと共に強い絶望を抱かずにはいられなかった。
 彼女は、いろはは、本当に変わっていない。今でも子供のように神を視て、あまつさえその神に愛されている。変わらない、変わらない、変わらない、変わらない。変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない。


 なぜ?


 彼女も貴子と同じ貴族の令嬢で、それならば家のために全てを諦めるべきではないのか。家のために全てを諦めて好きでもない男の元に嫁ぎ愛せるかどうかもわからない子供を産む。それが女の役割だ。そうではないのか。そうではないなら、なぜ。
「わたくし、幼い頃は神が見えましたの」
 貴子は勉強が好きだった。父や兄に馬鹿にされながらも、外国語を学び数学だって学び世界を知ろうと努力してきた。そしてそれと同じだけ、いや、もしかしたらそれ以上に。
 小さな神が、好きだった。
「すっかり信仰を失って、小さくなってしまった神でした。私の腰ほどしか背丈がなく、けれど様々な事を知っていた」
 やれ藤原の時代はこうだった。源の坂東武者は勇ましかった。家光は、綱吉は、吉宗は。朝から晩まで尽きる事なく話される、遠い昔の話。それを聞き、たまに一緒に菓子を食べる。貴子の手ずから菓子を頬張り、笑う姿を愛していた。
「……今の主人に乞われ、学校をやめると決めました。そしてその瞬間から、私は神が視えなくなった。私が子供でなくなったから、私が……私のままでいる事を諦めたから」
 いつものように神の祠へ行き、ただ花が浮いているのを見て愕然とした。それがゆらゆら揺れながら近付いて来るのを見て、涙があふれた。神は確かにそこにいるのに、視えなくなったのだと知れたから。
「あらゆる方法を試しました。腹に宿った一人目の子も捧げました。草を煎じ、祈祷師に縋り、灰を飲んで犬の首を埋め陣を描いて幼い少女を祀りもした!! それでも!! 私には!! もう神が視えない!!!!」
 とうとう全てを諦めて、ただ女として何も考えず、これが幸せなのだと言い聞かせる。求められるままに体を開き、子を身籠っては産み、身籠っては産み……。
「今、三人目が腹におりますのよ? ねえ、笑ってちょうだいな。私は子を産む道具です。一年に一人、たいしたものでしょう? これからも何人だって産んでやりますとも。だってそれが”幸せ”なのですから」
 そうだ。そう言い聞かせて、きたのに。あともう少しで自分を騙し切れたのに。
「……あなたが嫌いよ、環いろは。変わらないあなたが憎い。神に愛されるあなたが憎い。望んだ相手に愛され守られている!! お前が憎い!!」
 貴子はいろはを見つけてしまった。事故からいろはを守り、心配そうに身を寄せる獣。それが仮初の姿であるとはすぐにわかった。先程見た人形こそ、きっと彼女の神の本来の姿。それをいろはも知っている。だからあんなに愛おしそうに、獣に頬を寄せたのだ。
「今の……私でも。神の姿が見えたのならば。あなたの神はさぞかし力が強いのでしょうねぇ?」
「っ……」
「そしてその神が守る者も、寵愛を受けるあなたも!! さぞかし強い力を持った事でしょうねえ!!」
「貴子、さま……っ!」
 ぐいぐいと胸倉を掴む手が、いまやいろはの息を埋めんとしている。必死になって身を捩っても少しも動かず、その力は女性だけの物とはにわかに信じられなかった。
「ここにある鈴も大層力を持っているわ。これも神から賜ったのでしょう。ねえ、ねえ!! どうして!! どうして私は!! あなたじゃなかったの!!」
「……ったかこさま」
 悲しい絶叫だった。服の下に隠れた鈴ごといろはの首を絞めながら、目を見開いた彼女が叫ぶ。今やその瞳は爛々と赤く輝き、彼女が既に人ならざる者になってしまったのだと教えてくれた。
「あなたを喰らえば、その身に纏った神気を得れば、私にももう一度神が視えるはず。たとえ弱って小さくなった彼の神だとしても、きっと、きっと……っ!!」
 視えないのに視える目でいろはの全身をぬるりと眺め、彼女は歪に口元を歪める。
「体で神を手に入れたの? 清純そうな顔をしてとんだ売女ね」
「……っちが」
「何も違わないでしょう。違うわけがない。神の神気を胎内に直接受けて、あなたは力を増やしたのよ」
「ちがう……っちがう!」
「私は違うわ。私はただ神を敬愛していた。あなたのように醜いやり方などしなかった!!」
「っっちがう!!」
「おだまり!!!!」
 がん、と。拳で頬を殴られて、いろははぐるりと横を向く。骨ばった手は容赦なく骨を砕いたらしく、口の中どころか顔全体が鋭く痛んだ。呼吸をしようと思えば息が詰まり、その苦しさに口を開ければ脳味噌まで痛みが貫く。あまりの辛さに生理的な涙が滲めば、馬乗りの彼女は至極嬉しそうに破願した。
「やっと、泣いた」
 その笑顔は少女のようで、まるでこの状況とは不釣り合いだ。場違いな笑顔が花開けば、いろはの視界はもっと歪んだ。
 なぜ、どうして、なにが彼女を、そこまで歪ませてしまったのだろう。自分が悪いなどとは思いたくないけれど、きっかけになった事には変わりない。それを想うと、どうしても辛くて苦しかった。
「私はあなたを喰らう。自分の子すら差し出せたのだもの。年端の行かぬ少女も祀れた。何も躊躇いなど無いわ」
「たかこさま……っ!」
「でも、その前に」
 彼女が、ニィッ、と笑ったところで、車が静かに停車する。もはや灯りなど一切ない山の中で、運転席の男が振り返った。
「あなたには、私と同じ苦痛を受けてもらうわ」
「っっ……!!」
 しゅっと、マッチをする音が車内に響く。手持ちのランタンに火が灯れば、帽子と襟巻に隠れて見えなかった醜い風貌が姿を現した。
「いや……っ!!」
 梅毒に侵された肌はどろどろに溶け、さらにはいくらかの傷も見える。背中の曲がっているのも骨が歪んでいるからだと察すれば、恐怖に全身が緊張した。
「……これは、いらないわね」
「やだ、やだ……! やめてぇ……っ!!」
 沸き立つように赤く揺らめく瞳をして、貴子が歪に微笑んだ。そしていろはの服の中、いつも提げている神の鈴が、パキン、と軽い音を立てる。
「好きにおし」
 あっさりとそれを砕いてほくそ笑み、彼女はいろはを解放した。その途端に後部座席のドアが開き、ランタンを持った男の乱暴な手が伸びる。
「いたいっ! いやぁ!!」
 がしりと髪を鷲掴まれ、いろははそのまま車外に引き摺り出された。地面に落ちた拍子に強く体を打ち、その痛みが折れた頬骨に響けば目眩がする。それでもここで意識を失うわけにはいかないと必死の抵抗をし、砂利道に爪を立てた。
「ちっ。立て!」
 思う通りにいかない事に、男はすぐに腹を立てたらしい。叩きつけるようにいろはの髪を離すと、今度はその手が手首を乱暴に捻じり上げた。
「っっがぁぁぁあああああああ!!!!」
 けれどその瞬間、悲鳴を上げたのはいろはではなく男の方。辺りに凄まじい閃光と悲鳴が響き渡れば、いろはも貴子も思わず目を瞑る。
「あっあぁぁああああぁぁぁぁっっっああああああああ!!!!! あ、が……っ」
 バチバチと凄まじい音が木々を震わせ、休んでいた鳥達が一斉に飛び立ち空へと消えた。辺りの草の陰からは様々な動物達が逃げ出して、皆必死に森の奥へと消えていく。
 やがて。
 悲鳴が消えるのと比例してその音が小さくなれば、白目を剥いた男が直立姿勢のままで倒れ込んだ。ドウッと低い音を立てて仰向けに倒れた彼は、目から鼻から耳から口から。思い付く限りの穴から血を流し、びくりびくりと痙攣している。何が起きたのかわからないいろはは、そんな男をただじっと見つめ続ける事しかできなかった。
 そして。
「……見つけた」
「……っ」
 昼のように、ごく優しい腕が背後からいろはを包み込む。そっと自身の巫女を包み込んで、神は穏やかに頬を寄せた。
「やちよ、さん……っ」
「大丈夫。もう大丈夫よ」
 滑らかなそれが触れた瞬間、じんじんと痛んでいた頬からすっと熱が引いていく。抱きしめられ、彼女が触れている全ての場所から暖かな気が流れ込めば、痛みも緊張も、そして恐怖すらも。全てが蕩けて消えていった。
「遅くなってごめんなさい」
「……っいいえ、いいえ……っ助けて、くださいました」
「うん」
 父母以外の人間の前では、男神の姿を取る事が多い。けれど今はいろはの安心を想って、一番慣れた女神の姿のままだ。ごく小さな気遣いを感じれば胸が苦しくて、先程とは違う涙がじわりと滲む。
「……さて」
 そんな巫女の涙を優しく拭ってやって、神は貴子へと視線を向けた。その瞬間にふわりと髪が浮かび上がり、唇を牙が割る。いつもは優しい眦を吊り上げて、隈取りまでもがざわりと動いた。白目の部分が赤く血走り、その瞳が黄金に輝いてゆく。浮き上がった髪の先端から徐々に色が抜けていけば、やがては耳まで、尾の先端まで、全ての被毛が真っ白く輝く、美しくも恐ろしい、岩程もあろうかという巨躯の白狐が姿を現した。
『我が巫女への不敬。ただでは済まさんぞ……っ! 二度と家族の元へは戻れぬと思え!! その喉噛み千切って全身を無残に引き裂き、獣の糧としてやるわっっ!!』
「待って!!!!」
 低く空気を震わせる唸り声と共にそう怒鳴り、鋭く飛び出していこうとする神の尾にいろはは慌てて手を伸ばす。いつかのような大きさではないので全身で縋りつく形にはなったが、それでも必死になって彼女にしがみついた。
『いたーっ!! いたい! 痛いわよ!』
「あ、ご、ごめんなさい!!」
 今回もまた飛び出す瞬間と引かれた瞬間が一緒だったので、尾の骨がパキリと嫌な音を立てる。骨と骨の間の空気が弾けただけではあるが、変な音がすると悲鳴が漏れた。
『なによ!』
「だ、だって! 貴子様を殺してしまうつもりでしょう?」
『当たり前じゃない。ただ連れ去っただけでは飽き足らず、あなたに手傷まで負わせた。その上更に辱めるつもりだったのよ? 私が間に合わなかったら何をされたか……わからないわけではないでしょう』
「でも、でも……っ!」
 必死になってやちよに縋りつくいろはは、涙目だった。あれだけの事をされて、それ以上に酷い事をされかけて、最終的には殺される事までわかっていたのに。それでもまだ、殺さないでくれと神に祈る。
『いろは。よく聞きなさい』
「……はい」
『たとえあなたに何もしなかったとしても、今の彼女に出会えば私はその喉を裂いたでしょう』
「っ……なぜ」
『あなたも薄々感じているはずよ。彼女はもう、人ではない。憑いていた祟り神と同化して、やがてそのものになってしまう』
「……憑いて、いた?」
 その言葉に、いろはの腕から力が抜けた。そして呆然とその言葉を反芻し、やがて消えそうな笑顔を浮かべる。
「祓う……祓う事はできないんですか?」
『いろは……』
「私は巫女です。あなたは神です。清める事が、祓う事ができるのではないんですか……っ」
『……いろは。神にも、手の及ばぬ事は存在するのよ』
 先程の閃光に中てられたのか、車の中の貴子はぼんやりとしたままだ。その目は相変わらず赤く輝いてはいるが、いまいち焦点が合っていない。地面に落ちても灯を保ったままのランタンの光に照らされて、その全身からうっすらと靄が漂い始めていた。
「なにか! なにか方法はないんですか……っこんな、こんなの、あまりにも……っ」
『……祟り神は、縁の深い者から呪ってゆく。このまま彼女を祟り神にしてしまったら、一番最初に呪われるのは血の繋がった者達なのよ』
「っ……!」
『人として死なせてやるのが、私達にできる最後の事』
「そんな……っ!」
 ただ、夢を捨てられなかっただけなのに。幼い憧れを抱き続けただけなのに。あるいはただただ一途であっただけなのに。これでは、あまりにも。
『いろは。勘違いをしてはいけないわ』
「え……」
『人はそれぞれ苦しみを背負っている。彼女だけではない。大切な者を喪ったのはあなたのご両親やあなた自身も一緒。もう二度と会えなくなった存在を持っているのは皆一緒。それは生物だけではない。大切な玩具だったかもしれない。あるいは絵だったかもしれない。夢かもしれない。金である者もいるでしょう。生きる者は皆等しく、失いながら歩いている。けれどいろは。あなたの父御母御が誰かを呪った?』
「……っ」
『誰も呪わなかった。悲しみは自身の物として、決して他者には当たらなかった。そして悲しみ以上の愛情で、あなたを育み慈しんでくれたでしょう』
「……はい」
『例え悲しい過去があったからと言って、誰かを呪った者はそれだけの報いを受ける。誰かを殺めた者はそれだけの罰を受ける。それを庇うのはやめなさい。もっとも可哀想なのは、なんの罪もないまま失われた、幼い子供の命だわ』
「……」
『いろは。私の巫女。人の感情は美しい。あなたの心は清らかだわ。けれど間違った優しさは、時に何よりも他者を傷付ける事を知りなさい。報いを受けられなかった魂は仏でも救いきれない。あるいは報いを終えるまで、延々と何処かをさ迷う。現世の罪は現世で贖わなければいけない。彼女を本当に救いたいと思うなら、ここで人として死なせてやりなさい』
 声は穏やかで、まるで幼子に諭すようでもあっただろうか。彼女の言う事の意味は半分も理解できたか怪しいが、人として死ぬという言葉だけは、やけに重くいろはの心に圧し掛かった。
『怨むなら、私を怨みなさい』
 俯く巫女にそれだけを言って、今度こそ神の巨躯が飛び出していく。車の金属が軋む高い音の後、やけに簡単なゴキリという音が響けば、いろははその場に膝をついた。
「っっ……っく、うぅぅ……っっ」
 両の手で土を握り、ただ零れ落ちる嗚咽を噛み殺す。涙は後から後から地面を濡らし、その度にぽたぽたと音が立つのが腹立たしくて仕方なかった。
 なぜ。なぜ?
 その言葉ばかりが頭の中を駆け巡り、どう足掻いても出て行ってくれそうにない。
 一体何が悪かった。一体誰が悪かった。時代か、家庭か、神か、人か。彼女はどこにも逃げ場がなく、また唯一の逃げ場すら自らの妄執で燃やしつくしてしまった。
「っやちよさん……っ!」
 乱暴に名前を呼ぶと、人の形に戻った神がそっと膝をつく。振り仰いだその頭上、雲の切れ間から真っ白い月が覗けば、いろははもう堪らなくなった。
「っ私が狂った時は、どうか捨て置いてください……っ」
「……それは無理な願いだわ」
 手を伸ばしてその体に縋りつけば、すぐにそれ以上の力で抱き返してくれる。その肩越しに見えた貴子は穏やかな顔をしていて、血の一滴も零れていない。まるで眠りつくように呼吸を止めた彼女を見れば涙は止まりようもなく、ただただ必死になって自分の神を掻き抱いた。
「お願いです……っ! せめてあなただけは生きて……っそうすれば、私も終わりでは、っないから」
「……いろは」
 祟り神は……神の変容した姿だ。呪いか悲しみか憎しみか、あるいはその全てか。それらに苛まれ、変容した神の姿だ。
 彼女の神は、貴子と心通わせた小さな神は。貴子の目に映らなくなっても、ずっとその傍に寄り添っていた。そして彼女が壊れそうになる度にその身から毒を吸い上げ、やがて耐えきれず狂ってしまった。呪ってしまった。もっとも縁の深い、貴子自身を。
「おねがいです、おねがい、やちよさん……っ! 私がたとえ終わろうとも、あなただけは、どうか……」
 泣きじゃくるいろはをきつく抱いたまま、やちよはぎゅっと眉根を寄せた。悲しみにひしゃげて潰れそうないろはの心が、それでもやちよを守ろうとするから。
「いろは……」
 今は心を閉じた彼女の悲しみを、神はどうしてやる事もできない。その歪みを引き受けたくとも、彼女が繋がりを閉じている。ぐちゃぐちゃで壊れそうないろはの、悲しみで凹んでしまった彼女の。その心はそれでもやちよを守ろうと、必死になって蹲っていた。決してその悲しみが漏れぬよう、それで神を狂わせる事がないようにと、体全部で心を覆い、泣きじゃくりながらも笑っていた。
「いろは……っ」
 その優しさを想うと、目頭がつんと痛む。もう長い事忘れていた感情が胸を絞めつけて、何かがぽろりと零れ落ちた。それが涙だと気付くまでに数秒かかり、自分が泣いているのだと気付くまでにまた数秒。
「……ああ」
 そしてそれを理解すると、無意識が唇を割って声が漏れる。悲しいのに愛しくて、溺れそうなのに裂かれたようだった。だからただただいろはと同じように恋しい存在を抱きすくめ、彼女の心に寄り添い続ける。
 通わせるのではない、預けるのではない。繋ぐわけでもない。ただ隣にいるだけでも、特別は感じられるのだと知った夜だった。

 

***


「やちよさん……」
 ベッドの中、とろりとした表情のいろはが囁く。カーテンを透かす月影は雲に千切れ、少し歪んだ輪郭は花の蕾にも見えた。ただ慈しむ気持ちでその肩を撫で、そっと寝具を引き寄せてやる。
「なに……?」
 囁かれたのと同じだけの声量で囁き返せば、いろはは小さく微笑んだ。それからやちよの頬にそっと手を這わせ、静かに顔を寄せてくる。
「……どうして」
 いつかと同じ言葉を、いつかとは逆の意味で囁かれれば眉根が寄った。唇を寄せるいろはから距離を取り、泣き出しそうな神は二度瞬きをする。
「この口で、あなたの友を殺したわ」
「その口で、私に愛を告げてくれました」
「この牙で、彼女の首を折り砕いたわ」
「その牙で、私を守ってくれました」
「この舌が、命の終わりを看取ったわ」
「その舌が、私を開いて溶かしてくれます」
 澄んだ高い音だけを響かせて、いろははもう一度顔を寄せた。今度は逃げなかったやちよの唇を舌で割って、彼女のそれを探し出す。舌先だけでとんと触れれば、神は渋々それに応えてくれた。ゆっくりと、撫ぜるように舌を絡めて、たまに彼女の上あごを舐める。
「……その気にはなりませんか?」
 やがてとろりと唇を離すと、いろははそう囁きかけた。夜用の薄い浴衣一枚で、緩く髪を編んだだけの姿。それはどこも誘うようではなかったのに、肘をついて体を起こした拍子に鎖骨が見えると眉根が寄った。
「……あなたが嫌がるだろうと思ったの」
「でももう染みついてしまいました。それがないと、眠れない」
 やちよの頬に手を置いたまま、甘えた声が空気を震わせる。数秒遅れて吐息が触れれば、やちよはなんだか堪らなくなった。
「あなたをそうしたのは私。そうね」
「はい。だから責任を取ってください」
 小さな声で挑発し合って、すぐに熱い手のひらが肩を押す。ぐっと寝具に縫い止められながら、いろはは淡く微笑んだ。
「いろは……いろは」
 神は溺れるようにいろはの名を囁いて、手首にそっと唇を寄せる。ついでのように犬歯が触れれば、華奢な体がぴくりと震えた。
「……まじない、だったんですか?」
「そう。男があなたに触れれば発動する。あなたの嫌悪感と感情で威力が決まるから、あれは相当痛かったでしょうね」
「……死んでしまったかと思いました」
「あなたにはできない。それがわかっているからそうしたの」
 いろはは、たとえ自分がどんな目に合わされたとしても、相手を殺したいとまでは思わないだろう。そう思ってまじないを施したし、事実それは今日証明された。体を重ねる度に施し直すそのまじないは、きっとこれからもいろはを守ってくれるだろう。
「次からは女相手でも発動するわ」
「……喧嘩もできません」
「そういう感情は大丈夫よ。あなたが怒りもなく、ただ恐怖だけに塗り固められた時にしか効果はない。でも、それだと足りないのかもしれないわね……」
 あそこまでされて、それでもまだまじないは発動しなかった。手首を強く掴まれた瞬間、男の暴力に対して強制的に発動しなければ、もしかしたら最後までやちよが知る事は無かったかもしれない。そう考えると、ぞっとした。
「……所有印について知りたいと言っていたわね」
「? ……はい」
「まじないついでに、教えてあげるわ」
 いろはが恐れより前に憐れみや慈しみを抱いてしまうなら、どこに触れられても発動するようにすればいい。たとえ髪の一筋だとて、他の者に触れられたくない。いろははやちよの物だ。神が探しに探して諦めかけた時、やっとこの手に転がり込んできた至上の宝石。今後一切、誰にだって傷付けさせない。誰にも何も渡しはしない。そう考えながら、やちよは薄く微笑んだ。
「愛しているわ。私の宝石。あなただけが、私の安らぐ場所」
「……はい」
 いつもと同じ愛の言葉に、今日ばかりは複雑な笑顔が返ってくる。何かあればかつての級友について考えてしまういろはを、けれど神も今日ばかりは責めようとしなかった。
「……家族の元に、帰れたでしょうか」
「ええ。そうなるようにしておいたから」
 彼女は運転手に扮した男に金品を奪われ、不運にも命を落とした。そして彼女を襲った男は、雷に打たれて気を失う。それをたまたま通りかかった人間が見つけ警察に駆け込んで、男は捕まり彼女は家族の元に帰されるのだ。そう。彼女はいろはを襲っていない。いろはは今夜、出かけていない。彼女といろはは、今夜出会ったりしていない。神によって少しばかり記憶を弄られた面々は、何も知らずにまた朝を迎えるだろう。それでいい。そうすれば彼女の尊厳は守られて、善い母、善い妻、善い娘として一生を終えられる。
「褒められた物ではないけれどね」
「けれど彼女は死んでしまいました。もう口は利けません。人が裁こうと思っても、権力には歯が立たないでしょう」
「……祀られた少女は、私の眷属が見つけたわ」
「よかった……」
 彼女の罪は、可能な限りいろはが贖おう。身寄りのない少女の遺体を弔ってやるのが最初の一歩だ。
「あなたは少し、優しすぎる」
「だって、それであなたを救えたんです」
 眉を寄せて呟けば、澄んだ瞳がやちよを見返してくる。その瞬きに見間違いようもない喜びを見つければ、また目頭が熱くなった。
「あなたは尊い。神よりも美しい。あなたを巫女にと選んだ私は、きっと誰よりも幸福だわ」
「……褒めても何も出せませんよ」
「あなたをくれる。それでいい」
 見ず知らずの神に名前をくれた。倒れた狐を介抱してくれた。そして神に、家をくれた。たった一人、彼女を全て与えてくれた。それは全て優しさから始まって、だからこそ神はここまで満ち足りている。ここまで強い力を得られた。
「あなたがいる。それだけで、いい」
 月明かりの窓辺、テーブルの上には梅の枝。そしてその名と同じ月影が二人を照らせば、部屋は冴え冴えとただ白い。その薄闇に溶けるように、二人はただ肌と肌とで触れ合った。
 淡い光と同じように、あるいはその名を冠する花のように。ただ相手の道を照らし、ふわりと香る存在になりたくて。