どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話05・5

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 じり、と。焼けるような痛みだった。背後から自身の神に抱かれながら、いろはは悲鳴を押し殺す。
「……声を我慢する必要はないわ」
「っだいじょうぶ、です」

 左手でいろはの左手を取り右手をその上にかざして、やちよは少しだけ眉根を寄せた。神を呼ぶ鈴を壊されて、新しい物をと思った時、この身に刻む事はできないのですかと巫女が言ったのだ。形があれば壊れてしまう事もある。事実それは呆気なく砕かれて、その事は自身が傷付けられた事以上に、いろはの心へ深い爪痕を残していた。
 あの夜以来、いろははたまに様子のおかしい事がある。やちよと共にあってもどこか上の空で、心が遠く閉ざされている事もままあった。それにしては夜にはやちよに抱かれる事を望み、自ら肌を晒す事もある。行動にいまいち一貫性がなく、それはまるで風に吹かれた木の葉をも思わせた。
「いろは……」
「っ、だいじょうぶ、大丈夫です」
 神の印をその身に刻むという事は、完全に神の物になる事と同義でもある。口先だけで好いた惚れたと言うのとは違い、想い想われ心を通わすのともまた違い、その体、魂全てを神に捧げる事と同義であった。繋がりはより深くなり、もう他者によって傷付ける事は殆ど不可能。より高位の神の力を持ってして、断つ事が叶うかどうかといった具合だ。ここまですれば、いろははもう人ではない。神その者を常にその身に降ろし続けているような状態でもある。夫婦の契りよりもなお深く、混ざり合った二人は連理でもあった。
「なぜ、急に?」
 その手に自らを焼きつけながら、やちよは小さく問いかける。確かにこれをすればいろはに異変があった時点ですぐにやちよに伝わるが、それは同時に普段からやちよと繋がり続けている事に他ならない。いろはからやちよを覗けるようになるまでは少し時間が必要だろうが、やちよからはいろはがいくらでも透けて見えた。ただでさえ目を合わせただけで考えている事の殆どがわかると言うのに、これをしてしまっては監視に近い。だから神は渋ったのだが、巫女は頑なで解しようがなかったのだ。
「証が、欲しかったんです」
「証?」
「……あなたは、私に”やや”を授けてはくださらない」
「っ」
「いた……っ」
 神の問いかけに対してのいろはの答えは、あまりにも唐突に過ぎている。流石のやちよもその答えは予想が出来なかったらしく、思わず手元を狂わせた。ごく弱い力でじわじわと刻み続けていた印が急に強く焼き付いて、いろははびくりと体を震わせる。それに小さく謝罪の言葉を漏らし、やちよはしばし黙りこんだ。
「……人は本来”めおと”になってから子を授かる。その規則に従っているだけよ」
「けれどやちよさんは、私達の関係を”つがい”と言いました。つがいは夫婦と同義ではないのですか?」
「未婚の女が孕めば世間から誹りも受けるでしょう」
「家から一歩も出なければ誰にもばれる事はありません」
「人の口に戸は立てられない。例え”やや”が出来たとして、どうやって存在を隠し通すの。そもそも子とは祝福されるべき存在よ。それを隠そうとする事自体が悪しき呪いにもなる」
「……でも」
「いろは、何を焦っているの」
 穏やかに問いかけて頬を寄せれば、いろはは少し言葉に詰まった。一人で堂々巡りをしたらしく、その心はぐちゃぐちゃだ。そもそもあの夜以来心が完全に開かれた事がなかったので、久しぶりに覗いたそこはやちよを招き入れる準備が出来ておらず、剥き出しのいろはで溢れていた。
「先に言っておくけれど、若くて美しいから好いているわけではないわ。美しい物が好きだと公言しているあなたとは違って」
「……う」
「そして、子を産ませるために抱いているわけでもない。あなたの全てを私の物にしてしまうのが堪らなく幸福だから、昼も夜もなくまぐわうのよ。剥き出しのあなたに触れるのは、どんな貢物をされるよりも高揚するわ。あなたは常に私を揺さぶり続ける。愛しい子、可愛い巫女、私のいろは。人の世に生きているのであれば仕方ないけれど、あなたは少し自分を低く見過ぎているわね」
 今やしっかりと焼きついた印を覗きこみ、やちよはうっとりとした微笑みを浮かべる。そしてその手をいろはの目の高さまで掲げてやると、指でゆっくりと撫でて見せた。
「この際だからはっきり言っておくわ、いろは。子を産むばかりが女ではない。子をもうけるばかりが夫婦ではない。人の言葉で己を括るのはやめなさい。あなたは神の婚約者。私があなたを選んだばかりではない。あなたが私を選んでくれたの。努力しなければならないのは私も同じ。あなたばかりが捧げる必要はない。わかった?」
「……」
「返事」
「……はい」
 渋々、といった声に、それでもとりあえずよしと頷く。それからやちよは考えて、いろはの腹部に手を回した。
「焦りではなく、心の底から子供が欲しい?」
「……え、っと」
「本音としては、まだいいでしょう? 今まで一度だって言い出さなかったもの」
 背中を丸めて覆い被さるように抱きすくめると、腕の中でいろはが小さく唸り声を上げる。それを少し笑ってから、やちよは小さな耳に唇を寄せた。
「欲しいなら一発で当ててやるわ。私は無駄撃ちはしない」
「!?」
「ただまぐわいたいだけだったしあなたを困らせたくなかったから種を抜いたけれど、余計な世話だと言うならやめるわ。その代わり絶対に孕ませてあげるから、覚悟しておきなさい」
「っ……あ、あの」
「まあ、めおとになったらあなたが嫌だと言っても孕ませるつもりではいるけれど。それでは遅いと言うなら、今夜でも今からでもいいわ」
「……っうー……!」
「その気になったら言って。楽しみにしてる」
 幸せそうな微笑みまで向けられれば、まともな言葉など返せるはずもない。この神があらゆる事を人の世に合わせてくれていた事は知っているつもりだったけれど、それすら徹底しているとは思わなかった。父が主導している白無垢作りはゆっくりではありながら着実に進んでいるし、それが完成した時には逃げ場などなさそうだ。
「……何を焦っていたの」
 真っ赤ないろはを抱いてゆらりゆらりと揺れながら、あやすように神が尋ねる。それにもごもごと口を動かし、やがていろはは意を決したように口を開いた。
「残せるものが、何もないと」
「残せるもの?」
「……私が終わった時、あなたが終わった時、互いに残せるものが何も無い。そう……思ったんです」
 貴子の事は、一月経った今でもいろはの心に重く圧し掛かっている。あの時どうすればよかったのかと、不毛な事を考えるのは流石にやめた。けれどそれでも、彼女の事を思い出すたびに心は軋んだ。
「あの方には、子供がいました。本人は望まぬ子と言っていたけれど、大変な慈しみをかけていたのだとすぐにわかりました」
 まだ二つになったばかりの長男すら、母に縋って泣き喚いていた。起きて起きてとその体を揺さぶる姿が、目に焼きついて剥がれない。
「小さき神に会えなくなった時、何か一つ。たった一つでもいいんです。どんなに小さな物でも、手元に何か残ればよかった。神と自分を繋ぐ物……互いを感じられる、何かが」
 貴子は、神の巫女ではなかった。神は彼女を巫女には選ばなかった。そこにはきっと、様々な理由がある。他者が想像する事すら許されない、二人だけの何かがあったはずなのだ。いろはは神に愛される事を望み、またいろはだけの神も、いろはを巫女とし愛する事を望んだ。この二人にはそれでよかった。それが最善だった。けれどあの二人には、そうではなかったのだろう。
「……それでも、繋ぐ物があれば、貴子様はあそこまで心を病む事はなかったのだと思います。私の鈴に、あなたがくれたあの鈴に気付いた時、あの方は泣きそうな顔をなさいました。それだけでよかったのだと、たったそれだけで、それがあればあの方は……っ」
「いろは」
 段々呼吸が早くなっていくいろはを、神が強く抱きすくめる。やちよが触れている全ての場所から、穏やかな気が流れ込むとはっとした。
「っやめてください!!」
「いやよ」
 神はいろはの澱みを吸い上げようとしている。ぐるぐると巻く悲しみの渦に、躊躇いもなく手を伸ばそうとする。それに気付いて慌てて繋がりを断とうとしても、何故か上手くいかなかった。それでも必死になって無心になろうとするいろはを、神は笑う。
「……刻んだ印は私そのもの。今のあなたは私そのもの。心が直に繋がれば、追い出すなんてできるわけがない」
「っ聞いていません!」
「聞かれなかったもの」
「やちよさんっ」
「うるさい」
 いろはを半端者にしてしまった事を散々後悔したやちよが、渋りはしてもいろはの望みに従って印を刻んだのには理由があった。むしろ利益が無ければ絶対に印など与えなかっただろう。
「あなたは私の家。そして今はもう私の器。あなたと私は一心同体。もう逃がさないわよいろは。一人で抱え込ませるものですか。一月も私を除者にして」
「お、怒っているのは私です!」
「好きなだけ怒りなさい。それを止めるつもりなんてないわ。ただ私も怒っているし、やめるつもりなんてない」
 細い喉からぐるる、という唸り声が響いた。その振動を肩で感じれば、いろはは内心でひやりとする。この神がいろはに対して怒った事など一度もないが、ないからこそ恐ろしい。そもいろは以外の他者に対しても、やちよは然程怒らなかった。不敬という言葉をよく使いはしても、心底からそれに罰を与えた事など一度もない。少し拗ねやすく幼稚な部分もあるが、基本的には大人であり、大変穏やかな神でもあるのだ。
「いろは。私は怒っているわ」
「わ、私だって……」
「けれどそれ以上に、寂しくもある」
 頑なになりつつあるいろはをゆっくりと解しながら、やちよはその頬に自らのそれを押し付けた。下から上に、掬い上げるように一度頬ずりをして、それから穏やかな声で囁きかける。
「いろは。つがいは、独りぼっちではないわ。孤独に生きていくわけではない。あなたには私がいる。私にはあなたがいてくれる。ねえいろは。一人で悩むのはやめて。一人になろうとするのはやめて。お願いよ。あなたには私が必要だと、私に信じさせて」
「……やちよ、さん?」
 泣いて、いるのだろうか。いろはの肩に顔を埋めた神は、少しだけ震えている。
「今まで、多くの者が私を見たわ。私を必要とした。してくれた。けれど皆、最後には心を離してどこかへ行ったわ。誰も私の元には留まろうとしなかった。……っ人だけが、私を見て微笑んでくれるのに。その人すら、私から離れていく。お願い。心を閉ざさないで。私に背を向けようとしないで。私を……一人にしないで」
 いろはが心を閉ざすのが、優しさからだとわかっている。やちよを必要としているからこそ、やちよを狂わせる事がないようにと心を閉じる。彼女はそうする。わかっている。
 けれどそれは、あまりにも…………寂しいと、思った。
「いろは、いろは。私の恋人。魂の縁(よすが)。愛しているわ。愛している。心からあなたが必要で、あなたにもそうであって欲しい。いろは、ねえいろは。あなたは私を守るために心を閉ざして背を向けるけれど、背中を抱くのは寂しいわ。それではまるで片恋のようで物悲しい。お願いよ。こちらを向いて。私を見て。そして私があなたを抱くように、あなたも私を抱きしめて」
 その言葉は、あまりにも真摯に過ぎている。求愛と呼ぶには縋るようで、怒りと呼ぶには懇願の色が強かった。抱きしめてと言うくせに腕の力を緩めようとしないやちよに、いろははどうしたらいいのかわからない。ただ、神の孤独な数千年を想うと胸が痛んだ。
「……やちよさん」
「神が願うのは、滑稽だと思う?」
「いいえ」
「……ありがとう」
 ああ。いろはは胸中で、ぼんやりと息を吐く。この神を優しく、人と近しく思うのは、彼女が言葉を尽くしてくれるからだと思ったのだ。初めて会った時も、いろはに厭味が通じぬと思えば、わかる話を選んでくれた。そしてなにより、膝をついて目線を合わせてくれた。神は人とは違う。ずっと高位の存在で、本来人と関わる事を良しとしない。彼ら、あるいは彼女達は、人の祈りで生まれた存在だ。だからこそ高慢でもあり、人を見下す事すらある。なのに、なのに彼女は。やちよは。
「……どれ程の、別れがあったんですか」
「……数える事を、諦める程」
「愛した人はいましたか」
「幾人も」
「あなたと共に歩もうとした者は」
「……いいえ。あなた以外は、一人たりとも」
 やちよは、人に近しかった。人を愛し、守り、手を差し伸べる神だった。目線を合わせ、喜びを分かち合い、時にその唇で触れた者もいただろう。それでも誰一人やちよの元には残らずに、最後には愛し護った、人間の手で。
「井の底は、冷たかった。私は何度も考えたわ。どうしたらよかったのか。何が違えば裏切られなかったのか。いいえ、見捨てられなかったのか。いろは。いろは。私は見捨てた側ではなかった。信じたくなかった。それでもそれが事実だわ」
「……」
「……見捨てられたのは、私だったのよ」
 祈りは儚く潰え、やがて呪いへと変わる。願いの力で生じた神は、絶望に見捨てられて冷たい水底へ転がり落ちた。願いは絶望との相転位。願いが強ければ強い程、それを打ち砕かれた時の絶望は計り知れない。やちよへ捧げられた祈りは、やがて全てが呪いとなった。
「……あなたも、私に絶望するの?」
「いいえ」
「神も万能ではない。悲しみ、嘆き、狂いもする。救えない命もある。殺めてしまった者も在る。あなたは私を、無能だと思う?」
「いいえ」
「あなたを愛しいと思う私を、許してくれる?」
「……はい」
 たった二文字に、全てを籠めた。やちよはそれに小さく頷いて、やっと腕の力を緩くする。そっと体を捩って顔を覗きこめば、深い色をした瞳が、まるで滲むようにいろはを見返した。二人の視線が絡まるだけでとても嬉しそうな顔をして、人に恋した神は笑う。
「……泣いているのかと思いました」
「そう簡単に泣きはしないわ」
「この間は泣いていたのに」
「あなたを想った時だけは、どうしようもない」
 率直に愛を囁いて、いろはだけの神は目を細めた。その視線は本当に愛おしそうで、その目に見つめられる度、いろははどうにもむず痒くなってしまう。
「私はあなたに、何を残せますか?」
 そしていつも思うのだ。いつか自分が終わる時、今すぐではないけれど、いつか訪れる別れの時。この寂しがり屋の神の元に、一体何を残してやれるだろうと。人と足並みを揃えようと必死になり、その度置いて行かれた悲しい神に。次第に手を伸ばす事を諦めるようになった神に。泣く事も笑う事も、全てを忘れてしまっていた……独りぼっち”だった”神の元に。いろはが去った後、何を遺してやれるだろうと。
 その頬を包み込んで尋ねれば、やちよは少しだけ悲しそうな顔をした。ただの人よりは幾らも長くなるであろういろはの命の導火線にも、終わりの在る事を想ったから。神と違って信仰が続けば生き続けられるわけもない。いろはは既に人ではない。けれど神には、なり得ない。
 ああ、彼女が終わる時、一体何が残るだろう。やちよは今度こそ、本当に空っぽになってしまうかもしれない。ここまで愛し、全てを預けた存在はいろは一人だ。今まで多くの別れを経験してきたやちよでも、番を失った事は無い。魂の片割れを亡くした事は無い。自身の半分を喪った時、やちよに何が残るだろう。
 考えただけで、胸が押し潰されるようだった。けれどその痛みこそが、やちよに教えてくれるのだ。自身がどれ程いろはを想っているか。どれだけ強く恋しているのか。どんなに愛しく、求めているのか。
「……愛を」
「っ……」
「あなたは私に、愛を遺してくれる」
 痛むのも、涙が出るのも、いろはを大切に想っているからだ。そしてそれと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、愛してくれているからだ。辛いのも悲しいのも、嬉しくて微笑むのも。全ていろはが思い出させてくれた。いろはがやちよに与えてくれた。彼女が死んだら悲しいと思うのだって、一人でなんかできやしない。いろはがいなければ思い出しもしない。いろはが与えてくれたから、胸が痛くて軋むのだ。彼女を喪いたくないと、心が悲鳴を上げるのだ。
「……泣いて、泣いて、蕩ける程、泣いて。それであなたを恋しく想う。愛おしく、会いたいと願う。それは全て、あなたが愛してくれたから。私に、愛させてくれたから。だからあなたが終わったとしても、命を燃やしつくして眠ったとしても、私には愛が残るわ。あなたがくれた、愛が残る」
 あなたもそうで在って欲しいと、その言葉は呑み込んだ。いや、言う必要もなかった。目の前で感極まったいろはが必死に頷いて、そのままべそべそと泣き出すものだから、それだけでやちよには十分だった。それだけで、伝わったのだと安心できた。
「何も残せないだなんて、そんな寂しい事を言わないで。これだけ強く想い合っているのに、何も残らないわけがないじゃない」
「っはい、……はいっ」
「祈りが、気持ちが、私を作ったのよ。いろはの父御母御の愛が、想いが、あなたをここまで育んだの。願いは残るわ。心は残せる。あなたはこんなにも、私を愛してくれるじゃない」
「っ……はいっ」
 嘘などではない。虚構などではない。視えぬ者はいろはを滑稽だと笑おうとも、いつか現実が二人を引き裂く事があろうとも。やちよは確かにいろはを愛して、いろはもまた返してくれた。それだけで、心は鮮やかな輪郭を持つ。
「いずれ、私達の間に形が形として残るかもしれない。それをあなたは望んだのでしょう。でも、見えるばかりが全てではないわ。人によっては視えない存在を、あなたはよく知っているでしょうに」
「そうでした。当たり前すぎて、すっかり忘れてしまっていましたね」
「そうよ。あなたにとっては当たり前でも、人によっては見えないわ。心も同じ。私達には見えなくても、視える者はいるかもしれない」
「……ふふ」
「ああ…………やっと、笑った」
 おどけた物言いに思わず笑みを零せば、思わず、といったようにやちよがそう呟いた。心底から安堵し、眩しそうにいろはを見て、その手のひらが伸ばされる。
「……花のようだわ。あなたが笑うと、私は心から安らげる」
「っ……」
「笑っていて、いろは。私のいろは。花の顔(かんばせ)に憂いは似合わない。日の本でその名を冠する大神が隠れた時のように、私の始まりであるあなたが塞いでしまっては、私は夜道を照らせない」
「……月、ですか?」
「ええ、永遠にあなたを追いかける。あなたを見つめる。あなたが見る私は、いつだって丸く白く、柔らかい」
「今度は兎?」
「知っていて? いろは。兎は一羽でも生きてゆけるけれど、番を喪うと弱ってしまうのよ。一人が寂しくて死ぬのではない。元から一人ならば、寂しさにも気付きやしない。魂の片割れを喪ったから、悲しみ嘆き、弱っていくの」
「……やちよさんも、そうなりますか?」
「さあ。まだ魂の片割れを喪った事がないからわからない。けれど想像しただけで胸が痛むから、もしかしたらそうなるかもしれない」
「……死なないで」
「……」
 今回も、やちよは応えようとしなかった。ただ薄く微笑んで、いろはをそっと抱き寄せる。体全部でいろはを包み、寂しがり屋の神は満足そうに息を吐いた。
「甘いものが食べたいわ」
「……急ですね」
「随分苦い気持ちになったもの」
「私のせいですね?」
「そう。だから責任をとってもらうわ」
 比喩ではなく、本当に甘い物を求めているらしい。ちらりと垣間見えた神の心に内心で驚きつつ、いろははちらりと時計を見やる。
「一刻程かかりますよ」
「何を作るの?」
「かすていらです。お好きでしょう?」
 苦笑と共に問いかければ、やちよは嬉しそうな顔をした。二時間かかるという言葉にも嫌な顔一つせず、ぴんと耳を立てて尾を回す。
「台所に入ったら駄目ですよ」
「大丈夫よ」
「駄目です。毛が飛び散ったら私が”ねえや”に怒られます」
「毛を毟っても?」
「……それは私が見たくありません」
「なら蛇になるわ」
「蛇になれるんですか?」
「狐信仰が始まるまでは、豊穣は蛇の管轄ですもの」
「……知りませんでした」
「豊穣には生命そのものの意味合いも含まれている。実り、潤し、育む。長い時を経て細分化されてはいるけれど、元々は蛇の脱皮するのを生まれ変わると考えて、また新しい生命を授かれるようにと祈ったの。豊穣とは、生きる力そのものへの信仰だったのよ」
「へぇ……」
「蛇は交尾も激しいしね」
「……」
 脱皮をする度生まれ変わるとされた蛇は、生命の象徴となると同時に畏怖の対象でもあった。一噛みで牛をも殺せるその存在は、生命の輝きと死への恐れ、その両方の意味合いで畏敬されていたのだ。けれど後に稲作が広まれば、草葉の陰から突如襲いかかる蛇は神でありながら悪にもなった。むしろ稲作をする者達にとっては、邪魔以外の何物でもなかったのかもしれない。
 そこで新たに据えられた神が、狐の形だ。狐は蛇を食い、米を荒らす鼠も捕ってくれる。狐の尿を染み込ませた土を畑の周りに盛っておけば、稲に被害をもたらす小動物は近寄らない。それが狐信仰の始まりとも言われていた。
「実際のところはよくわからないけれどね。私だって気付いたらこの地にいたもの。鰯(いわし)の頭も信心から、という言葉もあるくらいだし、人は窮地に立たされた瞬間何にでも縋る。そういうことわざもあるでしょう」
「溺れる者は藁にも縋る?」
「そう。普段は神など信じていない者も、何かあれば神頼みをするわ。見ず知らずの人間に急に声をかけられたら、神だって”誰だったかしら”となるのも仕方ない」
「つまり?」
「必要な時に必要な助けが欲しいなら、懇意にしてよく挨拶をしなさい」
「……何が言いたいんですか?」
「料理人の殆どと顔見知りって事」
 そう言って、やちよはにっこり微笑んだ。狐の姿を取っている彼女は実体がある。その時は人側の視える視えないに関係なく存在を認識され、誰でも触れられるしやちよも好きな物が食べられるわけだ。そして屋敷のお嬢さんが飼っている巨躯の狐に興味のない者はいない。
 どこでおみつと知り合ったのかと思っていたが、どうやらいろはが習い事などをしている時間、かなり好き勝手に歩き回っているらしい。
「土間までなら皆入れてくれる。窯があるのは土間でしょう?」
「……つまみ食いする気ですか?」
「焼き立てのかすていらを食べた事がないと言っているのよ」
「……もう」
 やちよの元に出されるそれはいつも、少し冷めてしっとりした物だった。角も丁寧に落とされて、まるで売り物のようだ。けれどいろはの部屋まで漂ってくる熱を持った甘い香りを、どうしても一口頬張ってみたい。
「聞けばかすていらは角を落とすらしいじゃない? そこに一番蜜があるとか」
「本当に甘いものがお好きですね」
「あなたが最初に食べさせてくれたのも、甘い物だったからね」
「おやつのお饅頭でしたっけ?」
「そう。二つしかない物を両方持ってきた。紅白だから両方食べなければ意味がないって」
「正直、あまりよく覚えていないんです」
「いいのよ。私に残っているから」
 困ったように微笑むいろはに、やちよは穏やかな笑みを返す。そう言えば、これだって彼女が残してくれたものだ。一度全てが分かたれて、それでも思い出を残してくれた。そしてそれは今でも、暖かくやちよを満たしてくれる。
「初めて作ったかすていらも、自分では食べずに私の元へ持ってきてくれたわね」
「……そう、ですね」
「少しだけ、ほろ苦くなってしまったけれど」
「……すみません」
 そのすぐ後、二人は一時分かたれた。けれど今こうしてより強い繋がりを得て、新たな思い出を重ねている。
「だからこそ、とびきり甘いかすていらが食べたいの」
「……わかりました。もう、せっかく綺麗に切っていたのに」
「それはそれで嬉しいのよ? 器も毎回違って、楊枝すら季節の枝だった」
 しれっと。何でもない事のようにそう言ってにやりと笑うと、いろはは素直に驚いた顔をした。やちよは気付いていないと思っていたのだ。甘い美味しいといろはの指まで舐めたとしても、皿や楊枝には言及された事など一度もなかったから。
「気付いているわよ。あなたが私のためにする事ですもの。けれど私が知らないのを楽しんでいるようだったから黙っていたの」
「っ……もう!」
 そこまで知られていたなんて。いろはが照れて怒った顔をすると、神はもっと楽しそうに歯を見せて笑った。
「甘い物は大好きよ。あなたが与えてくれた物だから」
「……もう」
 その言葉が、言葉以上の意味を持っている事はすぐに知れる。まるで一瞬通り過ぎるように……ちらりと見えるやちよの心は、いろはの事で一杯だった。それが新たな繋がりの影響だと思うと、口元がにやけてしまってどうしようもない。
「今回だけですからね」
「なぜ?」
「端っこは台所の皆の取り分なんです」
「……食べてみてから考えるわ」
「もう!」
 三度そう言って、いろははやれやれと立ち上がる。その後についてするりと姿を変えた神は、いつものように巫女の足に擦り寄って高く鳴いた。
 最後にその毛並みを撫でてやり、気合いを入れたいろはは部屋を出ていく。
 柔らかな日差しが差し込む彼女の私室。窓の外では、少し気の早い桜が蕾をつけようとしていた。長かった冬は終わり、春の足音が確実に近付いている。凍え蹲る季節は過ぎ、再び空を見上げて歩ける日々がやってくるのだ。神と見る久々の春は、どんな色で咲き誇るだろうか。
 それはまだ誰も知らないけれど、きっと暖かな日々になるだろうと……そう思えるようになった、午後だった。