どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話08

 

 七つ前は神のうち。
 日ノ本にて古くより言い伝えられてきた言葉で御座います。この世に生まれ出でて七つを数えるまでは、まだ神様からお預かりしているだけ。幼子は人より余程神に近い場所に在り、いつこの世を去ってしまうともわからない。そのような意味合いの言葉で御座います。
 まだ医療の発達していない時代、子が長じるには格別の難しさが御座いました。「七つまではしっかりと気を付けてやらねばならぬ」という戒めと同時に、「喪ったのではなく神様にお返ししたのだ」と思いたい人々の心が、切々と宿った言葉で御座いましょう。
 疱瘡、結核、コロリ……現代においては撲滅、または予防法などが発見されている病でさえ、当時の人々にとっては死の病で御座いました。免疫力のある大人ですらそれらの病にばたばたと倒れていく時代で御座います。子など五人の内二人が無事に育てばまだ良い方で、家によっては何人産んでも一人も育ち上がらぬ事も御座いました。
 その上子を産む側である母親も、今よりずっと死に近かった時代で御座います。度重なる死産や流産により子を授からなくなる事もあれば、産褥熱に命を落とす事も珍しく御座いません。産み落とすだけでも命がけ、そして長ずる事も難しい。まさしく子は宝。神様よりの授かり物で御座いました。
 現代でも残る七五三の風習は、古来より受け継がれてきた切実な祈りの形でも御座いましょうか。子の健やかな成長を祈り、また神に祈る事でその守護を乞う。七歳、五歳、三歳に詣をする由来は平安時代まで遡りまするが、ここでは割愛させて頂きましょう。
 此度の物語では、子を想う親の、そして誰かを想う周囲の者の、強い祈りをお話させて頂きたく存じます。神とその巫女になった少女の許へ、ふっと訪れた小さな命について。しばし皆様のお時間を拝借し、ゆるりとお話させて頂く事といたしましょう。

 

 


「預かり子ですか」
「と言うより、拾い子だね」
 まだ日も高い時間だった。仕事もそこそこに帰ってきた父の言葉に、いろははぱちくりと目を瞬かせる。どうやら講義の合間に学校を抜け出してきたらしく、用件だけを伝えたらすぐにも戻らなければならないそうだ。妻が出て来るのも待てずに話を始めたところを見るに、殆ど時間に余裕のないらしい。
「旦那様、お時間が」
「ああくそ」
 思う間にも運転手から声がかかり、父が懐中時計を覗き込む。彼にしては珍しくその表情に苛立ちが浮かび、発する言葉もいささか乱暴だ。本当に時間がないのか、いろはに向けられた視線は半ば祈る様な色を帯びていた。
「いろはは拾い子については知っているかい?」
『厄除けに一度子供を捨てるというあれでしょう』
 知っていてくれ。そんな祈りとも押し付けともつかぬ言葉に、返事をしたのはやちよだった。まさしく神に祈りが届いた瞬間でもあるだろうか。時を金で買いたいくらいの父にとって、やちよの一言は曇天から射す光のようでもあったかもしれない。
「おお神よ……」
 勢いで膝をつきそうだ。すでに祈りの形に合わせられた手を迷惑そうな顔で一瞥して、狐が強く尾を振った。ぴしゃんと床に叩き付けられた尻尾は一見すれば苛立ち紛れだが、その実急かす色合いの方が強かっただろうか。父が仕事に遅れてしまわないよう、やちよなりに気を使っているのだ。
『いいからさっさと全容を述べなさい』
「は、はい。私の教え子に村井という男がいるのですが……」
 村井。その名前にはいろはも聞き覚えがある。父の教え子であり学者仲間でもある男。いろはも一度だけ会った事があるが、たったそれだけで強く印象に残る男だった。まず、髪がぼさぼさ。そして顔が歪む程に分厚い眼鏡をかけている。
 休日の父も割合と酷い恰好をしている事はあるが、その男はそれ以上だった。眼鏡を取ればそう悪い顔でもないのに、どうにも身なりに気を遣わなさ過ぎる。恩師の家族に会うため小綺麗にしてきたと本人は胸を張ったが、シャツもスーツもよれよれで驚いてしまった。
「その村井教授に何か?」
「うん。彼が結婚してからもう六年になるんだが、どうにもその……子供が育たないらしくてね」
「……ご結婚なさってたんですね」
「世の中には素晴らしい人がいるものなんだよ」
「はぁ……」
 いろはをして「変わった方」と表現するのが精一杯だった彼。容姿もさる事ながら、古い物や民間伝承に目がないという、中身もこれまた風変わりな人物だ。あっちへこっちへ飛び回り、その土地の偉い人などに話を聞く。そしてそれが終われば、今度は市井の人々にも話を聞く。耳から先に生まれてきたのかと思う程の聞きたがりで、先だっての宝剣の時にも、何故自分を呼んでくれなかったのかと酷く悔しがったそうだ。
 たしか専攻は博物学だったはずだが、現代であれば迷わず民俗学を専攻したような男だろう。当時はまだ民間伝承の会などがあるばかりで、民俗学は正式な学問とはなっていなかったのだ。まったく、学ぶにしても働くにしても、何かと間口が狭い時代である。
「見合いだったんだが、なかなかどうして仲睦まじい夫婦になってね。結婚して翌年には子供が生まれたんだが……あー、その、どうにもね。死産だったらしい」
 早口で事情を説明しながら、父は何処か落ち着きのない様子だった。まだ嫁いでもいない娘相手に、そういう話をしたくなかったのだろう。見てわかる程に狼狽える姿は子供のようで、いろははなんだか可笑しくなってしまった。
「お父様、私だっていつまでも子供じゃありません。お産の話は色々なところで耳にしています」
 いくら良家のお嬢様と言っても、嫁ぐまで何も知らないわけではない。学校で育児の授業だってあるし、そうでなくとも母から様々な教えを受けるのだ。女学校時代の友人で母になった者もいるし、使用人の子供を抱かせてもらった事だってある。
「……んん、うん。そうか。それなら……いやしかし、うーん」
『手短に!』
「はい!」
 娘がそう言っても、父は納得できないようだった。それでも神にせっつかれては、再び口を開くしかないだろう。運転手がそわそわとこちらを見ている事だし、本当に急いだ方がいい。
「もう三人、子供を亡くしているそうなんだ。その上今年生まれた子も最近ぐっと体調を悪くしたらしくてね。藁にも縋る思いで捨て子拾い子を言い出したようなんだ」
 ――こんな事、先生にしか頼めないんです。家内も随分とやつれてしまった。どうか、どうか。後生ですから。
 そう頼み込まれて、断る事など出来やしなかった。父もまた、幼い我が子を神に返した事があるのだから。
「わかりました。お母様には私からしっかりとお伝えしておきます」
「ああ、頼んだよ」
 結局捨て子拾い子に関しては全く分からなかったが、それに関してはやちよに聞けばいいだろう。そう思いながら駆け足の父を見送り、入れ替わりにやってきた母に簡単な事情を伝える。ここではいつ人目に触れるかわからないので、詳しい話は奥の間で、という事になった。
「捨て子拾い子は、一つの厄除けよ」
 父が母のために作った洋間は、大きな温室が一目で見渡せる作りになっている。初秋の今でもガラスの向こうでは大輪の薔薇が花を広げ、少し窓を開ければ麗しい香りが室内にも届いた。
 その一角でするりと人形を取り、神がゆっくりと説明してくれる。
「厄除けというと、イワシの頭のような?」
「それよりはもう少し力が強い」
 西洋かぶれの温室を、庭師の梅じいは「好かん」と言う。だからこの温室はあくまで母の趣味にはなるが、ここまで育てるには長い時間を要しただろう。けれどそれ故に、今では神も見惚れる素晴らしい光景となっている。
「親の厄年に生まれた子や、四番目や九番目の子を死苦から避けるために、一度他の家の子供になる儀式ね。親の厄年が終わるまで他家で預かったり、四郎を一郎にする事で五にして返したりもする」
「機運を整えるということでしょうか?」
「……というより、運気その物を変える行為ね。元は捨てた家の子だけれど、拾った家とも縁が結ばれる。それによって厄が薄まったり、あるいは拾った家の運を分けて貰ったりするのよ」
 例えば、真っ白だからいけない、と言われたならば、そこに他の色を足せばいい。もしくはあまりにも赤くていけない、と言われたなら、たっぷりとした水で薄めればいい。こう言ってしまうといささか強引な気はするが、まさしく鰯の頭も信心からである。人は多くの物を想像し、また創造する。多くの者が信じれば、それは確かな力となるのだ。いろははここしばらくで、その化身とも呼べる存在と出会っている。祈りは時に誰かを助け、時に誰かを貶めもするものだ。
「厄年は純粋に陰の気が増すものだから。ただでさえ神に近い幼子を、その陰気に当てるのはあまり良くない」
 薔薇を眺めながら紡がれる言葉は、どこか遠く平坦だった。そこに微かな憐憫を見て、いろははつと視線を下げる。
 ああ、やちよは気を使っているのだ。かつていろはに妹がいて、その子が三つを数える前に亡くなってしまった事。それをこの神は知っているのだから。故にわざと抑揚を殺した語り口をして、母をあまり刺激しないようにしている。それがわかった。
「拾い子をしたら、子供の運気は確実に変わるものですか?」
「……そうとも言い切れない」
 言葉を選んでいる。かすかに熱のこもり始めた母の声と、対するやちよのわずかな沈黙。空気はいたって穏やかだが、いろはには綱渡りの危うさが感ぜられた。ただでさえ、父の持ち込んだ話は母の心を搔き乱しそうな物だったのだ。ここでやちよが言葉を間違えれば、母は再び己を責め苛む事もあるかもしれない。
「……家の場所が悪い事もある。神との相性が悪い者もいる。血筋や家系、結ばれた縁がいけない事だってある」
 ひとつ、またひとつ。可能性を上げながら、やちよはひたりと母を見やった。まるで風のない日の湖面のように静かな瞳は、青々とした水を湛えて透き通っている。いろはの穢れを吸い取る時と同じ顔をして、神がじっと母を見ていた。
「そして何より、時が悪い事もあるのよ」
「……時」
「そう。神の御許へ還る子は、その時代にそぐわない者である事が多い。また来世、もしくは別の時間軸、万にも億にもなる可能性の中で、ただこの時だけが合わなかった子供も在るわ」
 どうしようもない、別れもある。
「神にも救えない命はある。私にもどうしようもなかった存在が在る。精一杯、やれる限りの事をして、それでも零れ落ちた手があったとしても、その手はまた別の存在が掴んでくれるものよ。神では救えずとも、仏には救える者だってあるでしょう。捨て子拾い子はそれと同じ事よ。捨てる家ではどうにもならなくとも、拾う家ではその子を生かしてやれるかもしれない」
 口減らしの奉公なども根底は似たような考えかもしれない。うちでは食わせてやれないけれど、せめて食う寝るところがあるように。捨てる者あれば拾う者もある。世界は常に過不足なく、一定の均衡を保つように出来ているのだろう。
「そうですか……」
「ええ」
「……お気遣いありがとうございます」
 やちよの言葉に、母が薄く、けれど少し面白そうに微笑んだ。どうやら慣れない気遣いなど全てお見通しだったらしい。上手く言いくるめたとほっとしたところに虚を突かれ、神はわかりやすくびくりとした。
「……いろは、笑いたいならはっきり笑いなさい」
「いえ、いいえ、笑ってません」
「笑ってる」
「笑ってません」
 少し頬を染め、ぷいとそっぽを向く姿が可愛らしかったのだ。悪ガキがたまの善行を褒められた時のよう……と言うと神にはあまりにも不敬かもしれないが、今のやちよはまさしくそんな様子だった。先程までの落ち着き払った様子は何処へやら。そわそわと腕を組みかえる姿は、あまりにも人間臭かった。
「さて、これから忙しくなりますわね! おしめはまだあったかしら。おみつ、おみつ!」
 そんな二人を尻目に、母は一気に活気づく。なにせ十数年ぶりの子育てだ。あれこれと準備しなければならない物もあるし、知識だって新しく入れておかねばなるまい。最近出産をした者に話を聞いて、少しでも記憶を揺り起こしておかなければ。
「いろはにも手伝ってもらいますからね」
「もちろん。そのつもりですわ、お母様」
 たった一人長じてくれた娘を振り返れば、穏やかな笑顔が返ってきた。いろはも一度は神の御許に行きかけて、ようよう戻ってきてくれた存在だ。よくぞここまで育ってくれた。今はただただ、そう思う。
 ――もう一人の娘は、ういと言った。
 自分によく似たいろはとは対照的に、夫によく似た娘だったのだ。元々心の臓が弱く、産声もごく小さなものだった。それでも自分の足で歩くようになり、一丁前に好き嫌いも語り、姉の後をついてよちよちと歩き回るくらいにはなっていたのに。流行り病が脳まで達し、呆気なくこの世を去った。もう少しで三つの詣に参れるかと、まさにそんな頃合いだったのだ。
 日に日に子の弱っていくのがわかっていた。ぜえぜえという呼吸が時を経る毎に弱くなり、最後は本当に虫の息。それでも死の直前に咳が止まり、最期は穏やかな表情だった。ずっと床に臥していたのが可哀想だと夫が言うので、最後に家族で庭を散歩した。火傷しそうな程に熱かった体が徐々に熱を失っていくのを、今でもありありと思い出せる。夫が眠るいろはを背負い、夫婦は何も言わずに庭を歩いた。夜が白み、朝焼けが世界を照らそうかという頃合い。まるで今までの病苦が嘘であったかのように穏やかな顔で、娘は息を引き取ったのだ。
 きっと生涯忘れはしない。忘れられるはずもない。腕の中の命が、すっと消えていく感触。その瞬間に、どっと重くなった体を。ああ、魂が抜けるというのは、心が抜ける事でもあるのだと、そう思い知った。今までずっと、娘なりに気を遣っていてくれたのだと理解した。子を抱くというのは、決して自分だけの力ではなかったのだ。子もまた抱かれる努力をしてくれていて、だからこそ収まり良くこの腕で支えられていた。
 力が抜け、命が抜け、心が抜けた瞬間を、きっと生涯忘れられやしない。そして今でも考えるのだ。もっと何か出来たのではないか。もっと何か、やりようがあったのではないか。今更考えても取り返しのつかない事を思っては、その度力なくかぶりを振る。
 ああ、けれど。時ではなかった。この手からは離れてしまっても、他に掴む手があるかもしれない。今生では無理だったとしても、いつか再び。もう覚えてはいなくとも、遠いいつかに、成長した子供を見られる事があればいい。
 今では、そう思えるようになったのだ。
「お狐様」
「ん?」
「ありがとうございました」
「……ん」
 いろははいずれ神に嫁ぐ。人間が大好きで、けれどどこか不器用で。けれどきっと他のどの神よりも優しく近しい、此の神に嫁いでいく。
 ああ、よかった。そう思った。此の神でよかった。やちよでよかったと。いろはのみならずその家族まで、ひいてはこの土地の命全てを守ろうとする、優しい神が相手でよかった。
 そう思っては、母は目許を涙で濡らすのだ。着物の裾で目頭を押さえれば、空いている手を娘がそっと包んでくれる。巨躯の狐がぎこちなく体を寄せてくればくすぐったくて、泣きながらも笑えてしまった。
 ああ、間違いなく幸せだ。そう感じた瞬間、温かい物が心に満ちる。それはかつて抱いた小さな体温にも思え、その事が何よりも心を強くしてくれたのだった。

***

 ぎゃあぎゃあと、大きな泣き声が響いている。
 父が話を持ち込んだ日の夜中。結局誰も寝付けないまま代わる代わるに通りを覗き、ようやくその瞬間が訪れたのは、空が白み始めるかといった頃合いだった。箕という農具に入れられて通りに捨てられた子供は、首が据わったばかりの赤ん坊。それからもう一週間、皆してああでもないこうでもないと奮闘しているわけだが、赤子はと言えばなかなかどうして元気そうである。
「拾った時はどうなるかと思ったがね」
「翌日にはすっかり本調子ですもの」
 一見しただけで、これはまずいと思った。すぐに医者を呼んで診てはもらったが、どこがどう悪いのかはわからないと言う。不安なままで一晩明かし……けれど翌日、環家の面々は大きな泣き声で目が覚める事となった。
「おしめかな、お乳かな」
「これは大便ね」
「……わかるんですか?」
「まあ大体。顔を見れば」
 久方ぶりの育児にあたふたする夫妻とは違い、随分と手慣れた様子なのは神であるやちよだ。聞けば遠い昔に捨て子や口減らしが頻発した時分があったらしく、その時に大概の事は覚えたのだと言う。今は随分楽になったとは彼女の談で、てんやわんやな夫妻といろはのみならず、最近孫が生まれたばかりの梅じいも感心する程の手さばきだ。
「終わるまで放っておきなさい。出すために泣いているだけよ」
「力んでいるわけですね」
「そう。排せつにも全力を使わなくてはならないのだから、本当に赤ん坊は大変だわ」
 まだまだ筋肉が弱い赤ん坊にとって、排せつ一つも重労働なのだ。全身の筋肉を総動員してやっと一仕事。そのくせ胃も小さければ腸もまだまだ短い。一回に取れる食事はたかが知れているのに、日に何度も全力全開で仕事をこなさなければならないのである。泣くのが仕事とはよく言ったものだ。
「昔は草を叩いて柔らかくした物を使っていたのよ。布も紙もそうそう手には入らなかったから」
「……やちよさんが叩いたんですか?」
「他に誰がいるの。動物たちに頼んだ物なんて使えないでしょう」
「そうですけど……」
 汗水たらして必死に草を叩くやちよなんて、まるで想像できない。一時は数十人を一気に世話したと言うのだから、この神の人間好きには頭が下がる。
「世話をした子供たちはどうしたのですか?」
「時を見て親に返したり、寺に預けたり、子のない家に授けたり……色々よ」
 祠の中は時の進みが遅い。そこでの数日は数年になるだろうか。飢饉によって子を捨てた親も、実りが多ければまた子供を育てられるようになる。心底から悔いている者には子を返してやり、性根に不安のある者の子は子を渇望している家に授け、厄が強い子供は寺に置いた。やちよの力を浴び過ぎた子供はもう人の世に帰してはやれなかったが、その者達は眷属として新たな生きようを与えたりもしている。
「お狐様は子供がお好きなんですねぇ」
「……まあ、そうね」
「しかも数十人は一気に世話ができると」
「……そうね」
「お嬢様は大変ですわね」
 ニヤニヤするおみつをちらりと見て、それからやちよは何故かいろはを見た。含みのある視線にきょとんと首を傾げれば、今度は少し残念そうな顔になる。
「苦労なさいますね」
「本当にね」
「?」
 する事はしているのに、いろはの思考回路はまだまだ清らかなままだ。どうにもあれとこれとが直結しないらしく、ぼかした言い方では今一つ伝わらない。そこが可愛い所でもあるのだが、他者にからかわれて照れる姿も見てみたいやちよだ。志は高く、けれど現実は遠い。
「私は子沢山がいいけれど、そうするといろはが大変ねって話よ」
「ぶーっ!」
 とりあえず今は諦めて真っ直ぐに言葉を投げかけてみれば、それには父からの過剰反応があった。大便の終わった幼子のおしめを取り換え終わり、やれやれと腰を下ろしかけたところで盛大にずっこける。
「か、か、か、神よっ!!」
「なによ」
「い、いいい、いくら神とて許しませぬぞ! いろははまだ私の娘です! 結婚前の…………ッ男女が! そ、そ、そのように! ふしだらな!!」
「お、お父様……っ」
 なるほど。純粋な部分は父からの遺伝らしい。母の方はおみつと同じにやにや顔なのだが、彼は怒り以外の感情で顔を真っ赤にしている。男女と述べていいのかしばし迷った気配はあったが、それでも勢いで怒鳴り切った。彼にとっては余程腹に据えかねる言動だったらしい。
「……それは、大変……失礼を?」
 ここで言い負かしてしまうのは簡単だ。いろはにしたのと同じように、動物の事やら自然の摂理やらを持ち出して、上手い事言いくるめてしまえばいい。けれど人には人の道理というものがあるようだし、やちよも最近ようやっとそれが理解できるようになってきた。
「あー、人の世の道理を、わきまえず? えー、少し、こう……急ぎ足で、申し訳ない?」
 ここは大人しく引き下がり、あとはいろはと二人きりの時に聞くとしよう。思いながら言葉を選び、とりあえずの反省を述べてみる。
「わかれば、よろしいのです……ふう、ふう」
 謝罪と言うには納得した様子はないし、言葉も疑問符だらけだった。それでも父は満足したらしく、改めて椅子に座りなおす。そんな二人のやり取りにおみつと母は吹き出す寸前だが、いろははとても気が気ではなかった。
 娘が既に体を許しているなんて、父が知ったら卒倒してしまう。いろはを言いくるめたように父も言いくるめようとしたならば、売り言葉に買い言葉でそちらまで話が及ぶ可能性もあったのだ。最近のやちよの様子からそうとはならないと信じたい気持ちはあったが、万が一を考えて心の臓が縮み上がった。
「ほらお嬢様、子守唄をご所望ですよ」
「……ええ」
 ほっと胸を撫でおろすいろはと、いまだ少し首を傾げている神。二人を交互に見て喉の奥で笑いながら、それでも出来る女中頭が助け舟を出してくれた。それに目顔で礼を告げて赤子を抱き上げれば、母も父もゆるりと優しい顔になった。
「寝かしつけてきます」
「ええ」
「頼んだよ」
 あやすのとおしめとは、誰がやっても平気なのだ。もらい乳をさせた時も嫌がりはしなかった。けれど寝かしつけだけはどうしてもいろはでないと駄目で、赤子は今いろはの部屋で夜を明かしている。
『赤子心に感じる物があるんでしょう』
 奥の洋間からいろはの私室に移動する僅かな間、人目を気にして狐の姿を取った神が、歌うようにそう言った。それに小さな頷きを返して、くしゅくしゅと瞬く幼子を見つめやる。ちらとも血の繋がっていない相手だが、こうして触れ合ってみれば可愛いものだ。出会ったばかりのいろはを心の底から信用して、全体重を預けてくれるのが愛おしい。
「厄は去ったのでしょうか」
『……今はね』
「……今は?」
 ベッドの傍に置いたゆりかごの中、小さな体を降ろしてやると、幼子の意識が少しばかり覚醒した。温かな腕から冷たい布団に移されたのが嫌なのか、むずむずと顔を歪めるものだから笑ってしまう。
ねんねんころりよ……」
 泣き出すのは、いつもふりだけだ。優しく歌いかけとんとんと体を叩いてやれば、幾間もおかずに瞼が下りる。とろり、とろりと夢の中へ入ってしまえば、赤ん坊は朝までぐっすり眠ってくれた。
「おやすみなさい」
 拾い子をした翌日。突然ぱかりと目を開いた幼子は、前日までの体調の悪さが嘘のように泣き出した。腹が減ったかおしめが濡れたか、それはもう凄まじい泣きようだったのだ。慌てて皆で起き出して、あれやこれやと世話を焼いた。けれど父母がどんなに宥めても、おみつがべろべろ驚かしてみても、もらい乳をさせてくれた者にあやしてもらっても、てんで泣き止む事はしない。
 ほとほと困り果てたところで、そこまで傍観を決め込んでいた神が言ったのだ。いろはが抱きなさい、と。
 するとどうだろう。まだ首が据わったばかりの赤ん坊は、泣き止むどころか笑いまでしたのだ。ほっとしたように表情を緩めて、なにがしかの言葉を喋ろうとさえした。
「七つ前は神のうち、ですか?」
「そうね。たぶんこの子は、視えている」
 いろは程強い力ではない。人形のやちよが顔を覗き込んでも反応しないところを見るに、恐らく感じられるのは神気程度だろう。それでもこの子は確かにいろはの纏う神気に反応して、くしゃりと表情を緩めたのだ。
 恐らく片親の血筋に視える者があったのだろう。いろはのように両親とも視える血筋であれば、もっともっと力は強いはずだ。
「……この子の家は下町と言ったわね」
「はい」
「ふぅん」
「……なにか?」
 やちよは何か考えているようだった。昨日今日の話ではない。この子が環の家に拾われてすぐから、ずーっと何かを考えている。あまり神気に当てないようにと遠くから赤ん坊を観察し、たまに何かしらのまじないを使っている素振りもあった。
「もしかしたら、だけれど。拾い子程度の厄払いではどうにもならないかもしれない」
 けれどいつも、決定的な事は言わないままであったのに。
「えっ」
 突然の不穏な言葉に、いろはは目を見開いた。驚きと共に神を振り返れば、丁度彼女の手が伸びてくるところ。訳も分からぬまま後ろから抱き寄せられて、そのまま目を覆われる。
「ひゃっ、な、なにを……っ」
「見なさい」
「……え?」
 やちよの手が透けていた。いや、そうではない。自身の瞼も、屋敷さえも、全てが透けて見えている。今いろはの視界に映るのは眠る幼子だけだ。ゆりかごも着物も全て透けて、裸の赤ん坊を見つめている。
「っ……これ」
 小さな足に、そして手に、頭にまでも。じわりと広がる赤黒い模様は、蛇の鱗のようにも見えた。おしめを換える時には見えなかった事を考えるに、これはただの痣ではない。
「……これは」
「呪いよ」
「のろい……っ!?」
 その言葉に驚き振り返ると、透き通った世界がぱちりと弾けた。水に沈むように透明な景色が消え、次に視界に飛び込んできたのは険しい顔の神。
「鱗が見えた?」
「はい……」
「蛇は水の神、あるいはその使役獣である事が多い。下町は埋立地だから、水の呪いが降りかかる可能性は十二分にあるわ」
 江戸の始まり。海沿いの湿地帯は平地が少なく、とても人の集まれる場所ではなかったのだ。故に時の徳川家初代将軍家康は、江戸城を建城するにあたり、まず陸地を広げる事を考えた。三代家光公の時代まで続いた天下普請。諸大名の財力を用いて行った城下町建設は、現代の東京を作るための大きな一歩となったのだ。
「山を切り崩し、入江を埋め、川の流れすら変えた。その時に住処を追い出された神も物の怪も山程いたはずだわ。その上低地にあった湿地帯を埋め立てて、人が住む場所にまでしたのよ。今まで何もなかった方が余程おかしい」
 高台の地域を山の手、低地にある町を下町。そう呼称されるようになった土地は、人賑わいは多くとも神は少ない。いや、それでは的確ではないか。人が祈るための神は多く在れども、元より在った神は駆逐された。
「下町だから、埋立地だから水の神に呪われたと言うんですか?」
「可能性は高いわ」
「けれど地域的なものであったら、他にも呪いを受けている人がいるはずです」
「そこよ」
 神はずっと考えていた。この子を呪った理由はなんだろう。どうしてこの子だったのだろう。何故この家でなければいけなかったのだろう。
 土地柄か? それとも親が無益な殺生を働いたか? 人に呪われているのか? いろはの言うように他にもこのような事が起っているのではと、眷属まで走らせたのだ。けれどどれも外れだった。理由は一切わからぬまま、ただこの家、この幼子だけが呪われている。
「何か理由があるはずなのよ。この子の家だけに、そして子供だけに災いが起る、決定的な理由が」
 床下、天井裏、壁の隙間。全てを透かして見ても、札や呪いの類は何も見つけられなかった。霊や物の怪の類が憑いているわけでもなく、赤ん坊の母親が呪われていた様子もない。幾度幼子を調べてみても、特別な力を持っているでもないのだ。はっきり言ってお手上げだった。
「……行ってみますか?」
「どこに?」
「この子の家に」
「……は?」
 険しい顔の神をしばらく見つめ、その巫女はあっさりとそう言った。丁度夜になりますし、という彼女は冗談を言っているようにも見えず、やちよは少し慌ててしまう。
「何があるかわからないわ」
「何もないかもしれません」
「力のある者だけに障りがあるのかもしれない」
「この子は無理でも私なら大丈夫かも」
「道中危ない目にあったらどうするの」
「やちよさんが守ってくださるでしょう?」
 閉口。にこりと笑った自身の巫女に、神はそれ以上何も返せなくなってしまった。怖い思いをさせたくなくて止めに入ったが、こう言われてしまっては頷く事しかできない。
「ずっと手を繋いでいなさい。何があっても離しては駄目よ」
「はい」
 溜息と共に左手を差し出すと、すぐに一回り小さな手が重ねられる。やちよと手が繋げて嬉しいらしい少女は、緊迫した旅立ちに似合わぬ笑顔でほわほわ笑った。

***

 夜の逃避行……とはいえ、家の者の目を盗んでなどと面倒な事はない。やちよが屋敷の者全員に軽い幻惑をかければ、それで用意はおしまいだ。念のためにと結界を張り直す彼女を少し待って、後はその腕に抱えられ、ここまでひゅんと飛んできた。
「道中危ない目にあうかもってなんだったんですか?」
「ただの言い訳」
 別段隠す気はないらしい。しれっとした顔でそう言って、神は周囲を見回した。
 秋の入り口、にわかに立ち込めた夜霧に、皆出歩く事を避けて固く戸を閉めている。お陰で誰に見つかる事もなかったが、これだけ人通りがないのはいっそ恐ろしくもあった。思わず少しだけ神に身を寄せると、にやりと意地悪な表情が見下ろしてくる。
「怖いならこのまま抱いていてあげましょうか?」
「……大丈夫です」
 自分から行くと言ったくせに、こんなんでは笑われてしまう。いや既に笑われた後だが、これ以上笑いを提供するのは恥ずかしかった。思いながら地に降ろしてもらい、いろはも一緒になって周囲を見回してみる。
「怪しい物はありませんね……」
 赤子の家は、もう明かりが消えた後だった。狭いながらも庭がある小さな邸だ。
「……あなたの家が大きすぎるだけだとは思うけど」
「……そうですか?」
 あまり気取った風がないとしても、やはり貴族のお嬢様だ。いろはの思考に苦笑を浮かべつつ、やちよは改めて”小邸”を眺めてみる。眷属の力だけではわからない事があるかもしれないし、神格が自ら訪れる事で何かしら変化がないかと考えたのだ。
「――……んー」
 壁を透かし、中で眠る夫妻も透かし、建物の下、柱の中まで覗いてみるが、何も変わったところはない。一応多少の邪気は感じもするが、元より人の多い場所だ。邪気などいくらでも湧き上がろう。ここだけが特に強いわけでもないので、恐らくあまり関係がない。
「あ、蛇」
 目を閉じてじっと周囲の気配を探るやちよの傍、いろはが呑気にそう呟く。それでも蛇という単語に一応目を開けてみれば、小さな青蛇がにゅるにゅると近づいてくるところだった。
「毒があるかもしれないわ。そっとしておきなさい」
「はい」
 いろはは蛇が怖くないらしい。怪談や幽霊にはめっぽう弱いが、およそ女子が嫌いそうなものは平気だったりする。まあ父親も祖父も自然を相手にする仕事をしているわけだし、本人も幼い時分から森に分け入るくらいだったのだ。虫や蛇など今更怖くもないのだろう。可愛く縋りついてきたりしないのはいささか残念ではあるが、今は不法侵入の最中である。悲鳴を上げられるのも困るわけだが……。
「ん? 蛇?」
「え? はい」
「蛇ね」
「はい」
「……どうして?」
「えっ」
 ぼんやりと考えている場合ではない。どうして蛇が近づいてくる? しんと冷えた秋の夜、しかもやちよは……狐の神だ。
「いろは、後ろに」
「きゃっ」
 稲荷の神は豊穣の神。倉稲魂命と記された事もある、ウカノミタマノカミの使役神だ。蛇や鼠を除ける者。稲を刈る人に害なす存在や、稲そのものを荒らす小動物、それらとは敵対関係と言ってもいい。
『止まれ』
 素早く巫女を後ろに退け、やちよ自身は素早く狐の姿を取る。そのままカッと威嚇をすれば、蛇は一瞬慄いた様子ではあった。けれどすぐさま進行を再開し、なおもいろはに近づこうとする。
『止まれ! 止まらぬか! これ以上我が巫女に近づけば噛み殺すぞ!』
 野の獣は常ならざる者の気配に敏感だ。本来ならやちよが姿を見せただけで、皆竦み上がって身じろぎ一つしなくなる。だというのに、その蛇は動き続けていた。しゅるしゅると、文字通り身をくねらせるその動きは、のた打ち回っているようにも見えただろうか。
『歯向かうか! この無礼者……』
「まって!」
 今日は尾を掴まれなかった。慌てて止めに入りつつそれでも気は遣ったのか、いろはが掴んだのはやちよの首だ。掴むと言うより抱き着くように神に縋って、巫女はその細腕に必死に力を籠めている。
『っ今日はなによ』
 一瞬びくりとしたのは内緒にしておこう。思い出した痛みで軽く身震いが起きたが、今はそれどころではない。もうあと一尺……およそ三十センチ程の距離にまで、小さな青蛇が寄ってきている。
「私、彼を知っています」
『……は?』
 何を言い出すのか。そう思って素っ頓狂な声を出したところで、蛇がちろちろと口を開いた。
『ご無礼をお許し下され……ここまで近づかねば……声が……届きませぬ』
 耳で聞くと言うより、頭に直接響く声だ。やはりのた打ち回るような動きでもう少し二人に近付き、蛇はようやく動きを止めた。
『わたくし……は、この地の水神でございます……。江戸の頃……この地に上下水道が引かれ……その……際に……生まれた神で……ございます……』
 力が弱い。やちよの力をもってしても、ただの蛇と見分けるのは難しい程だ。言われてよくよく注意をし、なんとか見て取れる程度。やちよより力が弱いはずのいろはが見て、何故他の蛇との違いに気付いたのか。
 そう思って視線を送れば、彼女は優しい顔をした。
「この間、お見合いに行ったでしょう? その帰りにお土産を買う時、猫に食べられそうになっているところを助けたんです」
 ほら、額に傷が。
 そう言って手を伸ばした巫女が、小さな蛇の小さな額のこれまた小さな傷を撫でる。その瞬間に淡い光が放たれて、狐も蛇も目を瞠った。
「よかった。うまくいきました」
 次に指を離した時には、その傷は跡形もなく消えている。どうやらいろはが治したらしい。らしい、としか言えないのは、やちよ自身も他者を癒す力は持っていないからだ。
「前に傷を癒して頂いた時を思い出してやってみたんです。上手くいってよかった」
『……』
 いろはは一人喜んでいるが、やちよは黙り込んだまま何も言えない。蛇も相当驚いているらしく、舌を出したまま固まっていた。
「どうしたんですか?」
「……いいえ」
 するり。人形に戻り、そっといろはを覗き込む。様子を調べるためにじっと見つめてみれば、彼女は少しだけ頬を染めたようだ。とくに不調はないらしい。
「いろは、その力をあまり使ってはいけない」
「なぜですか?」
 やちよはいろはのみを癒せる。他の誰でもない、彼女だけだ。それは魂を繋いだ証。二人で一つの存在となったからこそ出来る芸当だ。誰かを癒したりその穢れを引き受けたりするのは、本来他者同士に出来る事ではない。
 だというのに、それをいろははやってのけた。誰に教えられたわけではなく、記憶頼りの見様見真似で。しかも癒す場所を限定する事すらせずに。
「あの……?」
「……あとで、話すわ」
 神ですら癒す場所は限定されるはずなのだ。頭の病にはこの神、足の病はこの神、心の臓なら、疱瘡なら……。元々癒すのはどちらかと言えば仏の分野で、神は調和を見守る存在だ。その土地に根付き、土地の滅びと共に自らも消えてゆく。神の世において、癒しはむしろ死の神の管轄かもしれない。滅びを司る者だけ、魂のなんたるかを知っている者だけが、他者を癒す力を発揮する。
『お嬢さん、お嬢さん』
「え、あ、はい?」
『おかげさまで話しやすくなりました。この間も今日もありがとう、お優しいお嬢さん』
「いいえ神様。もったいないお言葉です」
 蛇はかしこい。やちよの様子から、多くを語る事は避けた方がいいと判断したのだろう。今はただ礼のみを述べて、いろはの気を逸らすようにちろりちろりと舌を出した。低い声はややしわがれてはいるが、よく練れて心地の良い響きがある。水の響きよりも大地その物の響きを感じさせる音で、どこか不思議とほっとした。
「何があったの」
 そんな声音に知らず肩の力を抜いて、やちよはようやく本題に入る。ここまで弱った水の神が、噛み殺される危険も顧みずに姿を現したのだ。何かしら抱えきれぬ問題があり、助けを乞うてきたのは明白だろう。
『わたくしは新しい神です。その上大きな湖であるとか、池であるとか、そういった力の溜まる物を依り代としているわけではございませぬ。元より力は弱く、この土地の恨みを抑えるのが精々でございました』
 人が作った物にも神は宿る。けれどそれは長い年月をも残る堂々とした物にばかりで、ごく小さなもの、とりわけ開発などでころころと形を変える物には、神がついても長くは居付けない。
『開発によってこの地の神は殆どが力を失いました。ごく僅かに残った神も、明治に行われた神社合祀で、多くがここを去ってしまった。残ったのは、無念と恨みの邪気ばかりです』
 開発、近代化、不信心。そして何よりも悲しいのは時の流れだ。人の一生はあまりにも短い。かつては神を視た者、その威光を伝えた者も、今や殆どが死んでしまった。人は己の目に映らぬ物は信用しないものだ。伝えられ、いくらそれを信じたくとも、会えぬ触れぬでは信心も薄れゆく。それは天命と同じだ。若者がいずれは老いて力を失っていくように、神もいずれはその威光を失っていくのかもしれない。人よりはずっとゆっくりと、けれど確実に。
『わたくしは他の神々よりも人に近しい存在でした。祀られる社も持たず、故に形を変えてもこの場に残る事ができたのですが……いやはや、時と共にありがたみが薄れるのはどうにもしようがないものでございましてな……今はこのような姿にまで成り下がってしまいました』
 水道が出来た時など、それは美しい龍の姿をしておったのですよ。
 そう言って寂しそうに笑う蛇は、今は小さな翁の姿をしている。いろはに神気と霊力を分けてもらい、束の間この姿になれているのだろう。
『それでも今までは、この地に溜まる邪気をなんとか呑み込めておりました。あまり旨い物ではないのですが、それでもこれがわたくしの仕事でしてな……』
 誰かの恨み、どこかの悲しみ、去りゆく神々の無念、人の苦しみ、殺意、絶望。ぐびりぐびりとそれらを呑んで、その度この神は弱っていったのだろう。かつて龍だった水神は、三百年程で消える寸前まで小さくなってしまったのだ。
「おいたわしい……」
『……ありがとうお優しいお嬢さん。あなたのその気持ちだけで、わたくしはこうして姿を結ぶ事も出来ました。まことありがたいかぎりです』
 いろはの小さな手のひらでも、十二分に包んでしまえそうな程小さな姿だ。思わずそっと掬い上げれば、翁は嬉しそうにほほほと笑った。
『ああ、仏に救われるのはきっとこんな気分なのでしょうな。こればかりは人が羨ましい』
「滅多な事をおっしゃらないでください」
『いや、いや、もう間もなくでしょう。わたくしは近く消える事になる』
 叶うならもう一度だけ桜の盛りに目を細めたいと笑って、翁はふうと溜息を吐いた。
『お二人のところに、この家のぼんが拾われて参りましたな』
「はい」
『どうかわたくしが消えるまで、ぼんをここには返さないでくだされませ』
「何故か」
『わたくしが……ぼんを丸呑みにせずとも済むように』
 ああ。
 ……ああ。
 それだけでやちよは、そしていろはも、悟ってしまった。この家に生まれる子供を喰らっていたのは、この蛇だったのだ。小さく弱く力も衰え、それでもこの地と人々を守ろうとした、水神なのだ。
「何故呑んだ」
『この家の嫁は、邪気を寄せる質でしてな……。元はどこかの厄払いの家系か、それとも”ひな”の家系か』
 ひなの家系というのは、つまりは人柱の家系という事だ。古く、まだ人々が神も呪いも物の怪も深く信じていた頃、まじないをする祈祷師や、鬼門、地獄の釜蓋を抑える場所に家を構える者は、人の魂その物に厄を寄せて悪しき力を封じ込めていたという。今となっては、また、見た事もない者には真偽もわからぬ話だが、時代の端々にそういった儀式の言い伝えは確かにある。飾り雛が一人に一つでなくてはならないように、魔を封じる器も一つにつき一人。多くの者が己の身を犠牲にし、世が混沌に包まれる事のないように守ってきた。
『母が身籠れば、その子に力も魔も移ります。けれど人柱とはしかと訓練を受けて……もしくは元より才があって、初めて全うできる物。守護も持たず訓練も積んでいない幼子には、土台無理な話でございました』
 聞けば村井の妻は、どこか遠くの田舎よりこちらに出てきたらしい。研究のために訪れた場所で心底惚れ込んだ村娘を、遠く東京まで連れてきた。
『おそらく土地神が守っておったのでしょう。それが地元を離れて守護を失くした。もしくは母親は長じるまでにその土地で自然と力をつけたが、ここに家守をしてくれるような神がいなかった事が災いしたのやもしれませぬ』
 腹に命が宿った瞬間から、じわりじわりと厄を吸い寄せていた。この土地の呪いを一身に引き寄せて、誰に祓われる事もせず死んでゆく。誰が悪いわけでもない。ただ、時が合わなかったのだ。
『厄に殺されてしまえば、ぼんの魂はどこへも行けずさ迷う事になりますでしょう。その上最も悪ければ、悪しき力に負けて餓鬼になってしまう。そうなる前にわたくしが呑んでしまわなければ、神の御許に帰る事も、仏に救われ輪廻を漂うもできませぬ』
 せめてこの身と一つにして、神の御許に帰れるように。そう思って、蛇は子供の魂を食ったのだ。ただ救ってやりたい一心で、無垢な幼子を丸呑みにしていた。
『わたくしの鱗が全身に広がった時、ぼんの魂は魔に堕ちまする。この間見に行った時は、だいーぶ薄うなっておりましたが』
「……はい」
『お嬢さんのお力ですな。重ね重ね、ありがたいばかりだ』
「水神様……っ」
 きっとこの神は、人が好きなのだ。そうでなくてはここまでしまい。子を喪った夫婦の恨みつらみも呑み込んで、それに胸を痛めながら。自身は猫に遊ばれる程弱ってもなお、子を救うために、人を救うために、こうしてこの場に残っている。
「……稲荷の神様」
「……はー」
 どうにか力になってやれないものか。縋る思いで自身の神を振り仰げば、彼女は大きな大きな、それは深い溜息を吐いた。きっといろはがそう言い出す事などわかっていたのだろう。貴子の事、彼女の小さな神の事、カナメの事、ほむらの事、拾い子の事。そして何より、手のひらに収まる程小さくなってしまったこの神の事を想えば、助けたいと言うに決まっている。
「できませんか……」
「……」
 かつて、助けたいと思った者は手遅れだった。その身に寄り添う小さき神と共に魔へと沈みゆく存在を、いろはは救ってやる事が出来なかったのだ。けれど今は違う。まだ違うものにはなっていない。神は腰ほどどころか掌程まで小さく弱くなってしまったが、それでも自我を保っているのだ。
「……三日三晩寝込む事になるわよ」
「はい」
「凄まじい痛みに魘されるかもしれない」
「かまいません」
「起きてもしばらくは歩けないかも」
「たとえ四肢が砕けても、この魂が残るのであれば」
「……わかった」
「っ……!」
 必死の懇願に、神は先程よりも大きな溜息を吐く。それでも、それでもだ。いろはの願いは、ついに神に聞き届けられた。
「水神。この地を私に譲りなさい」
『ほ……?』
「これよりこの地は我が領土とする。国盗りよ」
 やちよがそう言った瞬間、大気全てがびりりと震えた。周囲の木々から鳥が飛び立ち、あらゆる建物の影から小さな獣がまろび出た。
 けれど、そこまで。
 次の瞬間には全てがぴたりと時を止め、まるで水底に沈むかのようにじんわり歪んだ。
「あ、ぐ……っ」
 力が抜ける。心の臓……いや、もっと深い所が刺すように痛んで、いろはは思わず膝をついた。やちよと繋いだ右手はそのままに、抱えた翁も放り出してしまう。空いた手を地面につかなければ、このまま倒れ込んでしまいそうだったのだ。
『お、お嬢さん……っ』
「答えよ。応か、否か」
「っ……か、ぁぐ……っ」
 国盗り。やちよはそう言った。それはそのまま合戦だ。一対一だが、一騎討ではない。やちよの背後に普段は感じない眷属の気配を覚えれば、いろははぶるりと総毛立った。神の陣取りは口頭で終わる物ではないのだ。互いに力と力をぶつけ合い、確かな雌雄を決しなければならない。
『お、応! 応でございます! わたくしに敵う力はございませぬ!』
「では我が配下に加わるか」
『応!』
「よいだろう」
 ばちり。一瞬だけ、強い音がした。恐らくそれで終わりなのだ。いや、本当にそれだけの力しか残っていなかったのだ。小さな翁はもはや人形を保つ事も叶わず、また小さな青蛇の姿に戻ってしまっている。
「いろは」
「は、い……」
「……しばらく苦しい思いをさせるわ」
「わたしが……望んだことです」
「……そうね」
 ぞわり、あるいは……ずるり。自身が穢れを吸い寄せているのを理解した。代が替わって隅々まで神の力が及ぶようになり、本来祓われるはずだった魔が全ていろはに寄ってきているのだろう。この身は神の依り代だ。やちよの器。神は社の内側にいて、決して只人が直視していい存在ではない。
 人々が社に祈るように、神和が神の力を借りて人々の穢れを祓うように。この地の厄もまた、いろはが吸い込み、やちよの力を借りて浄めてやらねばならない。
「これでこの家の厄も終わるでしょう。翁は環の庭に連れて行くわ」
「……はい」
「あそこには綺麗な小川がある。池もある。そこでゆっくり休めば、少しは力を取り戻すでしょう」
「……よかった」
 本当によかった。そう呟いて、いろはは一筋涙を零す。そのままくたりと力を失う彼女を抱き上げて、やちよは少し眉根を寄せた。
「翁、こちらに」
『……お嬢さんは』
「大丈夫よ。さあ」
 出来ると思ったからやったのだ。大丈夫だと思ったから我儘を聞いてやった。事実いろはは気を失っただけで、その体が熱を帯びる事もない。元よりやちよの巫女は憎しみや悲しみを昇華するのが上手く、とりわけ他者の痛みを受け入れるための器は広かった。
 やちよの社として魂を繋いでからこちら、巫女としての力もある種異常な程に強くなっている。事実やちよが眷属全てを召喚しても、気を失ったりしなかったのだ。いろははやちよが考える以上の何かを秘めている。
「大丈夫よ……」
 それが少し恐ろしくて、最後は自分に言い聞かせるような呟きになった。そっと触れ合わせた唇はやけに冷たくかさついている気がして、それがどうにも落ち着かない。
 行きは一瞬にも感じた道程が、帰りはやけに遠く思えた。

***

 あれから一週間。いろははやちよが思うよりも長く寝込む事となったが、目が覚めてからは至って健康な様子だった。すぐに起き上がってもふらつくような事はせず、二つの足でしっかと立って、一人で着替えも済ませたのだ。
「どこか痛いところは」
「ありません」
「胸が塞ぐようなことは」
「大丈夫です」
「目のかすみや痺れは」
「一切」
 とりあえず父母への挨拶、使用人への顔見せ、食事入浴その他日常に戻るための色々をこなし、部屋に戻ってからも変わった様子はない。本人も少し驚いているところを見るに、今言った事に嘘はないのだろう。
「何かあったらすぐに言いなさい」
「はい」
 むしろ普段と違うのはやちよの方だ。守護する範囲が広がった直後だと言うのに、いろはを癒すため相当力を使ったらしい。姿が縮んでしまっている。今までずっと見上げていた視線が下がるとなんとも落ち着かない心持ちがしたが、見た目までやや幼くなったやちよは可愛かった。
「ふふ」
「笑いごとじゃないわ」
「そうですね。そうなんですけど……でも」
 一回に力を使いすぎた弊害なだけで、数日もすれば元に戻ると言う。それを聞いて安心してからは、不安よりも微笑ましさの方が上回ってしまった。赤ん坊を両親に帰してやって寂しい気持ちもあるのだろう。どうにもやちよを可愛がりたくて仕方ない。
「拗ねないでください」
「ちがう。怒ってるのよ」
 やちよの脇に手を差し込んでよっこいしょと膝に抱き上げれば、彼女はぶすーっと不機嫌顔になる。普段の姿であれば萎縮したかもしれないが、十にも満たないくらいの姿では恐ろしさも八割減だ。よしよしと頭を撫でてやれば、神は小さな唸り声を上げた。
「かわいい」
「……」
 けれどその声すら、普段よりずっと高いもの。ぐるる、というより、きゅるる、という音が出たものだから、いろはは一層相好を崩しただけだった。
「元に戻ったらおぼえてなさいよ」
「はい」
「……はぁぁ」
 下手をしたらこの間よりも深い溜息が出た。心底から疲れ果てるような気持ちでいるが、いろははにこにこと楽しそうだ。触れ合った部分からは陽の気がほわほわと流れ込み、それがやちよの力になっているのもまた腹立たしい。
「ああ、でもまあ……いいのかしらね」
「なにがですか?」
「今回の諸々よ。大変な思いはしたけれど、あなたが子供好きなこともわかったし」
 確かに問題は残った。守護する範囲が広がった事も、いろはの持つ不思議な力も、新たに仲間入りした水神の事も、これから色々と考え、時に調べ、端から対処していかなければならないだろう。けれどそれらは、今は一旦横に置いておこう。拾い子の話からこっち、ずっとどたばたしていて二人きりになる事も出来なかったのだから。
「いろは」
「はい」
「子供は何人欲しい?」
「この間の続きですか?」
「そう。ちなみに私はたくさん欲しいわ。あなたさえ頑張ってくれるなら、何十人でも」
「ふふ、やちよさんは子供が好きです、もん……っね、っ!」
 にこり。満面の笑顔を浮かべて問いかければ、巫女はぱちりと瞬きをした。それからようやっと……それこそ半月越しにあの日の言葉の意味を理解して、一瞬で真っ赤になる。
「わ、私が大変って……お、おみつってば……!」
 そして今更ながら女中の言葉に文句を言って、林檎のような顔が慌ててそっぽを向いた。
「もう遅い」
「え、え、あの……っその姿でですか?」
「どんな私でも愛してくれるでしょう?」
「それはそうですけど、は、は、背徳感が……っ!」
「それもまた一興」
 素早く、そして巧みに巫女を組み敷きながら……ぺろり。普段より小さな舌で唇を舐め、幼くも蠱惑的な笑顔の神が笑った。やはり見た目が変わってもやちよはやちよだ。これから何年かかっても、いろはが敵う相手ではない。
「や、やちよさん、私病み上がりなので、お手柔らかに、あの」
「出来たらね」
「っ……」
 口ではそう言いながら、やちよはいつも優しいばかりだ。きっと今日だって、姿の違いが気にならない程巧みに抱いてくれるだろう。思いながら、いろははそっと目を閉じる。
「いろは……」
 迷いなく開かれる体に舌を這わせていきながら、やちよもとろりと目を閉じた。様々な疑問や不安は残るが、今はいろはだけに集中したい。溺れ、溺れさせて、難しい事を考えるのはその後だ。
「いろは……好きよ」
「……っわたしも」
 叶うなら、誰も失いたくない。もう失うのは沢山だ。見送るだけの虚しさは十分だ。これからはいろはと同じように、全てに手を差し伸べていけたらいい。今度は、自分の手で誰かを幸せにしてやりたい。
 そしてどうか、その一番はいろはがいいと。思い、考えながら、彼女の心に沈んでいく。とっぷり、ゆっくり、やがては頭の天辺まで。
 いつでもやちよを受け入れてくれるいろはの中は、今日も変わらず柔らかく、そして何より優しく温かかった。