どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

翼人02

 

 本格的な訓練が始まった。運動場の端から端までの往復飛行を続けている妹を眺めて、やちよは少し眉を下げる。

  無事突出期を終え、成熟期に入ったいろは。その翼に残る産毛はごくわずかになり、骨格もだいぶしっかりしてきただろうか。遠目でも解る程身長も伸びて、いくらか筋肉もついたようだった。ただ黙々とシャトルランならぬシャトルフライを繰り返す彼女の横顔は、真剣そのものだ。
 訓練が始まった当初は酷かった。いろはは、まずもって、浮き上がる、という行為が出来なかったのだ。雑種の先祖がえりにはよくある事だが、体に流れる獣の血、その力と、本人の意識がまるで吊り合っていなかった。少し浮くだけのはずが高く舞い上がり、それにパニックを起こして落下する。その繰り返し。ほんの十センチ程度の段差を越えるつもりでジャンプをしたら、十メートルも跳んでしまうような状態、と言えば解りやすいだろうか。
 とにもかくにも、いろはは第一段階でつまずいた。一番最初、屋内で浮き上がる練習をした時など、突風に放り投げられたかのようだった。一瞬で高く舞い上がり、そのまま天井に強かに打ち付けられたのだ。やちよが咄嗟に天井といろはの間に入らなければ、今でもまだ医務室のベッドの上だっただろう。
 それが余程怖かったのか、いろははそれから一週間以上、翼を開こうともしなかった。それどころか一人で順応室に籠り、部屋に鍵までかけてしまったのだ。固定されたベッドがあるだけのその部屋で、彼女が何を考えていたのかやちよにはわからない。けれど閉め出されてしまえばどうする事もできず、渋々寮に戻って一人で眠るしかなかった。
 そして一週間と少しの後。やっと引き籠りをやめたいろはは、徹底的にやちよを避けるようになっていた。教師と一対一で訓練をすると言って聞かず、支え役もつけようとしない。それがどれ程危険な事か、彼女だってわからないわけではないだろうに。支え役をつけないなんて、そんなの紐無しバンジーをするような物だ。そもそも、これではやちよがいろはの姉である意味がない。
 遥か昔の許嫁制度が形を変えた物。それが姉妹。けれど当然、それだけが全てではない。数年かけて信頼関係を築き、訓練の時の命綱になるのが姉の役目だ。獣人の訓練は命がけのものが多い。一週間の内たった数時間顔を合わせるだけの教師では、咄嗟の判断が遅れる事だってある。体調、顔色、目の動き、緊張の具合、ひいては性格面まで。それをしっかりと把握し、訓練続行の可否を判断するのは姉の仕事だ。姉が中止を告げたら、教師でも決して逆らってはいけない。成人は……巣立ちは大切な事ではあるが、それも命があってこそだ。
 なのに、やちよがいくら説得しても彼女が首を縦に振る事はなかった。結局教師数名が話し合って、やちよの代わりに寮母を監視要員としてつける応急処置に落ち着いたのだ。
「……嫌われちゃったのかな」
 地上七階、翼人用の立体的な運動場がよく見えるカフェテラス。その一角で冷めた紅茶を飲みながら、やちよはぽつりと呟いた。
 室内での訓練は逆に危険だという判断になり、運動場を使うようになったのは不幸中の幸いだ。完全に密室の訓練室とは違い、ここならまだいろはの姿を見ていられる。
「……綺麗」
 大きな翼で風を掴み、滑るように空を飛ぶ姿は美しい。たまにバランスを崩せばはらはらしたが、その回数も減ってきたのでだいぶ安心して見ていられるようになった。思った通りに浮かび上がれるようになるまでは、見ているのも辛かったくらいだから。
 力の制御が上手くいかず、空に放り投げられては落ちてくる。しばらくはその繰り返しだった。魔法の応用はまだ出来ている方だったので地面に叩きつけられる事はなかったけれど、その応用すら失敗して、再度放り投げられる姿を見れば顔を覆いたくもなる。あそこに自分がいればと思う度、口の中に苦いものが広がった。実際何度か教師にかけ合ってはみたのだが、いろはが拒否しているので結果は変わらないまま。やちよは今日も、こうして彼女を見ているしかない。
「……いろは」
 医務室から出てくる傷だらけの背中を見つけた日。どれだけ必死になって呼びかけても、いろはは振り向いてすらくれなかった。足早に距離を取る姿を見ればそれ以上は何も言えず、やちよはとぼとぼと自室に戻る。そして二つ並んだベッドを見て、少しだけ泣いた。
「……やっちゃん?」
 あの日の背中を思い出して項垂れるやちよに、遠慮がちな声がかかる。それにゆっくりと振り返れば、そこには懐かしい人物が立っていた。
「……みふゆ? みふゆじゃない! びっくりした」
 梓みふゆ。やちよの同期で、羊の血が混ざった蹄人(ていびと)だ。やちよより少し遅れて成人した彼女は、無事妹の成人まで見届けて、とっくのとうにコロニーを出ていったはずなのに。
「どうしたの? 何かあった?」
 成人して卒業した獣人が、コロニーに戻ってくる事は滅多にない。出戻ってくるのは酷い不調の出た者か、普通の人間に交じっての生活に馴染めなかった者、あとは大怪我や大病をした者ばっかりだ。
「ワタシ、教師になったんです」
 不安になって問いかければ、みふゆは少し驚いた顔をする。それから安心させるように微笑んで、殊更優しくそう囁いた。
「……教師?」
「はい。ここの」
 その言葉を反芻して、ぱちくりと目を瞬かせる。それににこりと頷いたみふゆを数秒見つめ、それからやちよの表情はどんどん明るくなっていった。
「そうなの! おめでとう。ずっとそう言っていたものね」
「ありがとうございます。まだ見習いみたいなものですけど」
 思いがけず嬉しいニュースを聞けた。最近は鬱々としていただけに、友人の吉報はやちよの心を明るくしてくれる。
「何を教えるの? 歴史? 国語?」
「いいえ、養護教諭なんです」
「ああ、入り浸りだったものね、あなた」
「入り浸りとは失礼な。お世話になる事が多かっただけです!」
 みふゆは、同期の中でもとりわけおっとりした子供だった。やちよも何度かその手を引いて、何かと世話を焼いた記憶がある。
 満十歳の誕生日を迎えコロニーに入っても、すぐさま種族別の訓練や授業が始まるわけではない。最初は種族の垣根なく一緒くたの授業……言うなれば基礎教育を受けるのだ。そしてその中には、もちろん体育も含まれている。獣人は生きるだけでかなりの体力が必要なので、体育の授業は普通の人間より遥かに多い。そしてみふゆはその授業の度に怪我をして、しょっちゅう医務室に運びこまれていたのだ。
「初恋だっけ?」
「……昔の話はやめてください」
 当時の養護教諭は、強面の人物だった。それ故に皆医務室に行くのを嫌がったのだが、みふゆはそうではなかったらしい。保健医に淡い恋心を抱き、怪我がなくても度々顔を出していたし、結局同じ仕事を選んでいる。
「まだ独身みたいよ」
「っほんとで……やっちゃん!」
 今は少し立場を上げたので、前のように医務室に籠ってはいない。けれど変わらずコロニーにいる事を教えてやれば、みふゆはぱっと顔を輝かせた。それから笑うやちよに気がついて、顔を真っ赤にしながら拳を振り上げる。
「ごめんてば。恋が実るのを祈ってるわ」
「もう!」
 大して痛くもないそれを手のひらで受けとめて、怒る彼女をそっと引き寄せた。そのまま隣の席に導いて、やちよは改めて微笑みかける。
「本当に久しぶりね。また会えて嬉しいわ」
「……はい。ワタシも」
 数年会わなかったとは言え、かつては同じ釜の飯を食った仲間だ。緊張など無く、顔を合わせればただ嬉しくなる。獣人は、同種族よりも同期との絆の方が深いのだ。ただ同じ特徴を持っているだけの他人より、親元から離れての数年間を供に過ごした相手の方が余程大切だと思う。特にやちよの代はやけに気の合う者が集まったので、やちよが卒業したらすぐに同期会をしようと、今から相談しているくらいなのだ。
「あの子がやっちゃんのお相手ですか?」
 皆どうしているだろうか。懐かしさに目を細めるやちよを少し眺めて、やがてみふゆがそう言った。その視線の先には、黙々と訓練を続けるいろはの姿。汗だくになって、それでも飛び続ける彼女を数秒見つめ、やちよは力無く頷いた。
「……そのはず」
「はず?」
「よくわからなくなっちゃった……」
 いろははやちよの運命だ。やちよはそう信じている。いろはもそうであったらいい。そうも思う。けれど今時、姉妹で結ばれるものは然程多くない。あくまで他より仲の良い先輩と後輩で終わり、コロニーから卒業したら別の人を選ぶ者が大半だ。いろはは今成熟期。それは巣立ちと同義でもある。やちよの庇護を抜け出しはじめた彼女の事を、引き留めておけるだけの自信がない。
「私はいろはが好きよ。いろはでなくちゃいや。でも、あの子はどうなのかわからない……」
 あんなに優しかったのに、あんなに好きだと言ってくれたのに、いろははやちよに背中を向けた。目が合うだけで嬉しそうに笑ってくれたのに、今はその目すらやちよを見ない。
「……いろはは、もう私の事、嫌いかもしれない」
 寂しい。
 ……寂しい。
 二つ並んだベッド。元は部屋の両端にあったそれを、二人で一緒に押してくっつけた。単純な面積は広くなったのに、心はぎゅっと近くなったあの日。使うのなんて結局一人分のスペースだけで、これじゃあくっつけた意味がないねと、笑う彼女が愛しかった。暑い日も寒い日もくっついて、背中に触れる温度に安心しきって眠る。どんどん大きくなる体にすっぽりと包まれて、ただ優しい夢に抱かれる。
 一人は寂しい。やちよだけでは、あのベッドは広すぎる。シーツはいつまで経っても温かくならず、寝がえりをうつ度にその温度差に目が覚めて。その度誰もいない場所に手が伸びれば、自分の無意識が恨めしくて仕方なかった。
「捨てられたらどうしよう……っ」
 久しぶりに親友に会って、気が緩んだのかもしれない。想像しても絶対に口に出さなかった事がぽろりと口をついて、それと同時に水面が上昇した。あっと思う間もなく涙が一粒零れ落ちれば、すかさずみふゆがその手を伸ばす。
「やっちゃん」
「……っみふゆ」
 優しく眉を下げて、彼女がやちよの髪を撫で梳いた。そのままそっと肩を抱き寄せられれば、温かな体温にどんどん心が滲んでいく。
「うー……みふゆぅ……っ」
「よしよし。いい子いい子」
 もう二ヶ月以上も、いろはに触れられていないのだ。いろはがやちよに触れてくれなければ、他にそうしてくれる人なんていない。だから本当に久しぶりに他人の体温を感じたせいで、どうしても涙が止まらなかった。誰かに触れられるのはこんなにも温かかったのだと思えば、その感触を忘れそうな自分に愕然とする。このままでは、心まで凍えてしまいそうだ。
「きゃっ!」
 そんな事を考えながら、大人しくみふゆに抱かれている事、数秒。突然パンッ! と何かが弾ける音がして、みふゆが小さな悲鳴を上げる。驚いて顔を上げると、もう一度。今度はピシリと鈍い音がして、目の前の窓に亀裂が走った。
「……いろは?」
 蜘蛛の巣状にヒビが入って濁るガラスの向こう。とまり木にしがみついたいろはが、必死の呼吸を繰り返している。どうやら距離感を見誤ったらしく、着地しようとした枝からずり落ちたようだ。教師達は運動場の反対端だ。慌てて翼を広げるが、何故か近付こうとはしない。いや、できないのだ。……いろはの操る風の魔法が、荒れ狂っている。
「っ……!」
「やっちゃん!?」
 それに気付いた瞬間、やちよは駆け出していた。みふゆの制止も聞こえずにカフェテリアを飛び出して、一心不乱に廊下を走っていく。その途中で自身にかけている魔法の錠を開いて、隠している翼を大きく広げた。魔法の補助も受けて走る速度を上げながら、整った横顔に浮かぶのは必死の色だ。
(おちついて……落ち着け)
 横からは駄目だ。風を相殺している時間は無い。行くなら上から。助走は十分。この速度なら大丈夫。無暗に羽ばたいて勢いを殺さないように。無駄な力はいらない。一度の羽ばたきで確実に最大速度まで上げて見せる。自分ならそれができる。思いながら、あるいは自身に言い聞かせながら風を操り、廊下の先、屋上庭園に続く押し戸を、突風で強引に押し開いた。
「いろは……っ」
 とん、とん、とん……っ。
 最後の助走は跳ねるようだ。一番近い柵に向かって歩幅を合わせ、最後の一歩に風を乗せる。二メートル以上ある柵を軽やかに跳び越えて、やちよはぐっと翼を畳んだ。極力体を小さくして、落下の勢いで速度を得る。そして。
(っいま!!)
 地面すれすれ。あとコンマ一秒遅ければ間に合わなかった。そのギリギリのタイミングを確かに捕えて、次の瞬間。瞬き一つの間に、上昇気流を捕えたやちよの体は、もう大空へと舞い上がっていた。器用に翼の角度を変え、荒れ狂ういろはの風をも上手く利用して、最大速度で距離を詰めていく。そして運動場の遥か上空にさしかかったところで、やちよは再び、躊躇う事なく翼を畳んだ。
 その瞬間、ひゅっ……と。白い残像が空を滑り、凄まじい勢いで落下していく。いや、降下していく。僅かな翼の開け閉めだけで暴風を掻い潜り、一直線に。ただ妹を、いろはを、恋する人を守るためだけに。そのためだけにその手が伸び、やっと……捕える。
「いろは……っ」
「っっ……やちよさん」
 殆どギリギリのタイミング。疲れ果てたいろはの手が、縋りついていた枝を離したその瞬間。素早く翼を広げたやちよが彼女の腕を掴み、同時に落下の勢いを殺す。
「……っぐ」
 急な減速に、自分だけではなくいろはの体重。魔法を使ってもかかる負荷は凄まじく、翼どころか体中が絶叫した。全身がミシミシぎちぎちと嫌な音を立て、気圧の変化で耳もおかしい。食い縛った歯がごりりと音を立てれば、口の中に血の味が広がった。
(風が……っ!)
 いろはの魔法を読み切れない。初めて翼を広げた時の比ではない。複雑に、そして乱雑に荒れ狂う暴風に、やちよの魔法が掻き消されてしまっている。
(墜ちる)
 このままでは勢いを殺しきれない。もう相殺も間に合わない。
「いろ……はっ!?」
「っっ……!」
 咄嗟にいろはを引き寄せようとして、逆に強く腕を引かれた。驚く間にも腰を抱き寄せられ、頭を彼女の胸に押し付けられる。そして痛いくらいに強く強く、その腕が、そして翼が、やちよを抱きしめて。どん、と、強い衝撃が、走った。
「いろは……っ、い、ろ……え??」
 思っていたよりずっと軽い衝撃に、それでも慌てて体を起こす。必死になっていろはの腕から抜け出して怪我の具合を確認しようとし……そこでやちよはぽかんとした。
「い、たた……なに? 草が……」
 その下でのそりと上半身を起こしたいろはも、周りを見回して目を瞬かせている。無理もないだろう。二人の落下地点には、大量の草がクッションのように折り重なっていたのだから。
「はぁ……間に合ってよかった」
 全くと言っていい程現状が理解できていない二人に、のんびりとした声がかかる。それに慌てて顔を向ければ、角を生やしたみふゆが、蹄の音を響かせながら近付いて来るところだった。
「みふゆ……あなたの能力だったのね。たすか……っきゃ!」
 ほっとした顔をしているみふゆの姿を見てようやく現状を理解し、礼を言おうとしたその瞬間。またぶわりと風が巻き起こり、それと同時に乱暴に抱き寄せられて、やちよは思わず悲鳴を上げた。
「い、いろは……?」
 やちよを驚かせた張本人は、みふゆをじっと睨みつけたまま何も言わない。どんどん力が強くなる腕の中、まるで隠そうとするかのように翼で視界を覆われれば、感動で目眩がする。
「……そんなに睨まなくても盗ったりしませんよ」
 いろはの翼の向こう。くすくすと笑うみふゆは楽しそうだ。もう近付く事はやめたのか、その足音が響く事はない。けれど今すぐ立ち去る気もないようで、笑い声はまだ続いていた。
「さっき、やっちゃんから相談を受けたばっかりなんです。あなたに嫌われたんじゃないかって随分心配していましたけど、杞憂だったみたいですね」
 仲良しな姿を見て安心しました。そう言って笑うみふゆに、いろははようやく腕の力を緩めてくれる。そしてやちよの視界を覆っていた翼も退けると、申し訳なさそうな顔で見下ろしてきた。けれどその場は何も言わないままで、のそのそとやちよの下から抜け出すと、ぎこちない動きで立ち上がる。
「……ありがとうございました。少し頭を冷やします」
「それがいいかもしれません。治療が必要なら、医務室へいらしてくださいね。今日からそちらにいますので」
「はい……先生方もありがとうございました」
 そして教師と寮母、みふゆに向かってそれぞれ頭を下げると、いろははとぼとぼと歩き出した。
「やっちゃん」
 その背を追いかけるべきなのか悩むやちよに、優しい声がかかる。思わず縋るような目で見てしまったら、みふゆは少し驚いた顔をした。それから一つ頷いて、身振りでやちよを促してくれる。
「……っありがとう。今度ゆっくり!」
 そんな彼女に礼を言って、やちよは慌てて走り出した。いろはの背中はすでにだいぶ離れたところにあり、歩幅が広くなったんだと感心すらする。さほど早い歩みでもないのに、長い髪が靡いていた。
「いろは」
 駆け足でその背中に追いついて、やちよはそっと呼びかけてみる。その声に彼女は一瞬足を止めたが、またすぐに歩き出してしまった。
「いろは」
 この間までのやちよなら、それだけで心が折れていただろう。けれど今は大丈夫だ。先程まで荒れ狂っていた風と、彼女の行動。そこからいろはの感情がありありとわかって、すっかり安心してしまっている。
「いろはってば」
 彼女は間違いなく、やちよの事が好きだ。好きで好きで、きっと自分でもどうしようもなかった。やちよとみふゆが肩を寄せ合っているのを見ただけで、力が暴走してしまう程。荒れ狂って、自分では制御できなくなってしまう程に。
「いろは。私の事が好きなら、止まって」
 引きずる程に大きな翼。寝ぐせのように一本だけ飛び出した羽を軽く引いて、やちよが言えば。いろははやはり何も言わないまま、それでもぴたりと歩みを止める。
「……もう、順応室に行く必要はないでしょ?」
 そしてそれが、トドメだ。いろはは大きな溜息を吐くと、こくりと小さく頷いた。ようやくやちよを見た瞳には涙の膜が張っていて、それに気付けば眉が下がる。
「シャワー、一緒に入る? 一人で入る?」
「……お先にどうぞ」
 だからおどけてそう言えば、いろはは力無い笑顔を浮かべた。

 

***

 

「……怖かったんです」
 ぽつりと呟く声は、掠れて濡れて、今にも泣き出しそうなものだった。二人で順番にシャワーを浴びて、今はベッドの上で体を寄せ合っている。自分からやちよと距離を取った癖に、いろはも寂しくて仕方なかったらしい。遠慮がちに、それでもやや強引にやちよの体を抱きしめて、必死に匂いを移している。
 その様子を苦笑と共に受け入れながら、やちよは無言で続きを促してやった。とんとんと背中を叩けば、いろはが一つ、大きく体を震わせる。
「やちよさんを傷付けたらって、怖かった。最初の訓練の時も、今も、やちよさんは必死に私を守ってくれる。それはとっても嬉しいんです。でも、……っでも、そのせいで怪我をしたらって思うと、怖くて怖くて仕方なかった……っ」
 いろはを庇って諸共天井に叩きつけられたやちよに、怪我はなかった。風を緩衝材にして、直に照明にぶつかるのは避けたからだ。けれどそれが間に合わなければ、彼女はどうなっていただろう。割れたガラスに突き刺さったか、それとも照明の熱に焼かれたか。起こらなかったもしもを思うと、いろははただただ怖くなった。力の制御もできない自分に絶望した。そして、恐怖からやちよに近寄れなくなってしまったのだ。
「やちよさんが好きです……っ大切だから、傷つけたくなかった……っ」
「いろは……」
「っ怖かった、怖かったの……っだって、だってやちよさんに何かあったら、私、生きていけないよぉ……っ」
 ついにはぐずぐずと泣き出してしまった大きな妹に、やちよはへにょりと眉を下げた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられれば息が詰まって、やちよの視界もじわりと滲む。
「ばかね……」
 やちよが傷つくのは見たくない。そうなったら狂ってしまう。そう言って、いろはが泣いた。けれどそれは、やちよだって同じだ。いろはが傷つくのは見たくない。いろはが怪我をするとやちよまで痛くなる。だから傍にいたい。守りたい。そう思うのに。
「だからあなたは子供なのよ」
 自分だけだと思わないで欲しかった。いろはが傷つけば同じようにやちよだって傷つくのだと、ちゃんと知っていて欲しかった。一人で恋なんてできないのだ。二人がいて、想い合っているから恋になる。決して独り善がりで終わらせていいものではない。そこに気付かないから、いろははまだまだ子供なのだ。やちよがどれ程いろはを愛しているか、いろはにはきっとわからないだろう。
「私はそう簡単に怪我したりしないわ。あなたがそうやって気に病むのくらい、ちゃんとわかってる。馬鹿にしないでよ」
「やちよさん……」
「馬鹿にしないで……っ、そんな理由で、私を寂しくさせないでっ。……怪我をしたら、傷痕が残ったら、責任をとるくらいの気持ちでいてよ……! 一生面倒見てくれればいいじゃない……っそれくらい言ってよ、っばかぁ!」
 寂しかった。寂しかったのだ。独りぼっちの夜は、いろはを待ち続けたあの日々を否応なく思い出させて。苦しくて、寒くて、怖かった。もう二度と経験したくないと思っていたのに、いろはがやちよをそうさせたのだ。突き放して、寂しくさせた。
「一緒にいてよ……離れる事で守るなんて、っそんなのいや。そんな愛され方、全然嬉しくない。っ……ねえお願い。傍にいてよ。遠い所で守られるなんて、私には耐えられない。だったらあなたに傷付けられる方がずっといい。あなたと一緒に傷つく方がずっと幸せ……」
「っやちよさん……」
「お願い……お願いよいろは。離さないで。ずっと抱いていて」
「……っうん」
 守りたい。守って欲しい。けれどそれは、表面的な話なんかではないのだ。見た目だけの話ではない。体がいくら傷ついても、いろはがやちよを愛してくれるなら。ただそれだけで、全てが守られるから。
「好きって言って、いろは」
「好き」
「もっと」
「好きだよ」
「もう二度と、離れようなんてしないで」
「うん」
「……好きって言って」
「……好きだよ」
 やちよが強請れば、いろはが大きく翼を広げた。そしてすっぽりとその体を包み込み、全部をいろはで隠してしまう。腕どころか足まで使ってやちよの体を引きずり寄せ、ぎゅうぎゅうと力を籠めるいろはは傷だらけだ。やちよを守ろうと、こんなに傷だらけになってしまった。
 それを想うと切なくて、同時に少しだけ嬉しくて、その腕の中、やちよはうっとりと目を閉じる。
「……眠くなってきちゃった」
 慣れ親しんだ体温に包まれれば、心の底から安心した。いろはの心臓の音は一定で、とても優しい声がする。とくりとくりと脈打っては、やちよに好きだと囁いてくれるのだ。
「寝ていいですよ」
「……どこにも行かない?」
「うん。ずっとこうしてる」
「……ん」
 その音を、柔らかく澄んだ声を聞きながら、ゆっくりと体の力を抜いていく。
(ああ……安心する)
 ここ最近はずっと寝不足だった。けれどお気に入りの枕と毛布が帰ってきてくれたので、今日はゆっくり眠れそうだ。
「おやすみなさい」
 すでに眠りの世界へ落ちつつあるやちよに、たくさんのキスが降る。そっとベッドに横たわるいろはに抱きしめられたまま、その表情は穏やかだ。
 きっと今日は夢も見ない。心の底から安心しきって、全ての力を抜いて、朝までこの揺りかごの中。幸せな体温に守られて、やちよは深い眠りに落ちるのだろう。
 そう思ったら幸せで、ただただ嬉しく、愛しかった。