どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

翼人03

 

 午後の日差しが、室内に濃い影を刻んでいた。薄く開けた窓から入ってくるのは、青い匂いをした穏やかな風。それに揺らされるカーテンはそよそよと、二人の部屋に柔らかな空気を運んでくれる。
「……どうしようかしら」

 静かな部屋の中。思わず漏れた声にはっとして、やちよは慌てて口を押さえた。恐る恐る自分の膝を見下ろして、恋人が目を覚ましていない事にほっとする。穏やかな寝顔は安らかで、寝息も浅く一定のままだ。
(寝顔だけは変わらない……)
 壁を背もたれに、ベッドに足を投げ出して。そんなやちよの膝に頭を乗せたいろはは、すっかりと安心しきった顔だった。成熟期も後半にさしかかって、翼もがっちりとした成体のそれになって。身長だってやちよより頭一つ分も大きくなったのに、いろははいつまでも甘えんぼうのままだ。くっつき虫が治る気配はなく、やちよもそれを直させるつもりがない。膝を占領してもまだ足りないのか、その腕がやちよの足を抱いているのを見れば苦笑が漏れた。
(仕舞うの、いつまで経っても上手くならないわね?)
 くったりと力を失った大きな翼を空いている手で撫でてやりながら、内心で問いかけてみる。魔法の応用も錠のかけ方も習得したはずなのに、気が抜けたらすぐこれだ。やちよの傍で眠る時のいろはは、翼が出てしまっている事が多かった。
(……ふわふわ)
 それどころか、その肌の一部には柔らかな羽が生え、白い足の脛から先が、鷲のそれへと形を変えている。もみあげの辺りから顎のラインをなぞり、鎖骨の下、心臓の上辺りまで広がった黒い羽は、小さくきめ細かくて、肌触りがとてもいい。何層にも重なり合った天然羽毛布団は信じられない程に柔らかく、顔を埋めるととても心地が良いのだ。それを味わえるのはやちよ一人だと思うと、いつも少し得意な気持ちになった。
(深度は四、か)
 成熟期も終わりにさしかかる時期になって、獣人の幼体はようやく体の変化を終える。五段階に分けられた深度評価の内、いろはが受けたのは四だった。最近になって少しずつ増えてきた、深度の深い者達。五の評価を受けた者はまだ片手で数えられる程度しかいないが、四の者はいろはで丁度三十人目だ。深獣人の名を戴く彼女達には、月に一回の定期検診が義務付けられている。昨日の午後と今日の午前中にその検診を受けてきたいろはは、慣れない事で疲れてしまったらしい。やちよと待ち合わせて食堂に寄り、昼食を食べている時からだいぶ眠そうだった。そして部屋に帰ってくるなり、この状態だ。
(おつかれさま)
 余程気苦労の多い検診だったのだろう。深度が三のやちよは詳しい内容を知らないが、いろはの話を聞く限り、問診以外に面接があり、検査用の採血とは別に血液サンプルを採られるらしい。羽もいくらか毟られた上に足の表皮まで削り採られたそうで、待ち合わせ場所に現れた瞬間は酷く気が昂っていた。それでもやちよと話す間にいつもの調子に戻っていって、部屋に帰る頃にはすっかりいつも通り。そして今ではこの状態だ。
 獣化を抑えるための魔法。その錠が緩み切り、変化がだだ漏れになっている。変化中は微かに働いてしまう風の魔法がやちよの体を包みこめば、そのくすぐったさに笑みが零れた。眠りに落ちてしまえば無意識のはずなのに、その無意識の中から、いろはがやちよに手を伸ばしている。愛されていると実感すればくしゅくしゅして、少し泣きたくなるくらいだった。
「……はぁ」
 だからこそ、実家から届いた手紙に溜息が漏れてしまうわけなのだが。
(どうしようかしら)
 今度こそ口には出さずにそう思って、改めて手紙に目を通してみる。お決まりの「お元気ですか?」という台詞から始まった手紙の内容は、こんな具合だった。
『お元気ですか? 便りがないのは元気な証と言いますが、たまには連絡してくれると嬉しいです。コロニーに入って、もうすぐ十年ですね。やちよもいよいよ二十歳。人間社会でも成人と言われている歳になります。これからは大人の仲間入り。しっかり者のやちよの事だから心配はしていませんが、様々な事が解禁になったからと言って、決してはしゃぎすぎないように。何事もなく、普通の幸せを歩んで行ってくれる事を祈ります。
 ところで話は変わるのですが、今度我が家でとあるパーティーを開きたいと思っています。お父さんのお仕事先や、有名な先生、その他にも、著名な方々をお呼びする予定です。その時に是非自慢の一人娘を紹介したいのですが、都合をつけてもらえませんか? まだ妹の面倒を見ている最中で、面倒事も多い時期かとは思います。血統書付のやちよにとって、慣れない事も沢山あるでしょう。忙しいとはわかっていますが、お父さんの顔を立ててやると思って、帰省してくれると嬉しいです。
 あと、これは余計なお世話かもしれませんが、今の妹と必ず番う必要はないんですよ。やちよは真面目だから国の決め事を守ろうと思っているかもしれませんが、お父さんがどうにかしてくれますからね。今度のパーティーにも由緒正しいお家の御子息や御令嬢が参加してくださいますから、視野を広げると思って、ぜひお話をしてみなさい。私はいつでも、やちよの幸せを願っています。
 それじゃあまた、手紙を送りますね。パーティーの日に会えるのを楽しみにしています。 母より』
 ……なんというか、だ。
 娘の事を考えている風に見えて、隠しきれない欲望が透けて見える。それどころか〆の文なんて、もうやちよが帰ってくる事を前提として書いているではないか。あまりにも気持ちが先走り過ぎているし、正直かなり面倒臭い。
(……悪い人達ではないんだけど)
 ないのだけれど、歪んでいるのだ。代々血統書付として特別扱いを受けてきたせいか、自分達の事を少し勘違いしている節がある。やちよは自身の事を『タネ』程度にしか思っていないが、両親は自分達を『高貴な者』と信じて疑っていないようなのだ。実際問題父親は上級外交官だし、母も茶道の家元の血筋ではある。けれどそれが高貴に繋がるかと言えばまた違うだろうし、努力と運が良い形でマッチングして、チャンスを掴めたからそれ相応の仕事につけただけ。やちよはそう思う。タイミングを見誤らなかっただけで、それ以外は至って普通だと思っている。
 けれど人間金を持てば偉くなった気がするもので、両親はその典型でもあった。各界の著名人と頻繁にコンタクトを取り、高い服を着て高級なパーティーに出入りして。そしてそんな自分達に酔っている。今回のパーティーだって、やちよを餌に魚釣りをしたいだけだ。やんごとなき血筋の何某だかと引き合わせ、あわよくば結婚させて、より良い地位を築きたいだけ。
(めんどくさい……)
 それはわかっているのだが、無碍に断れない理由もある。最後の一文から察するに、両親はすでにやちよを紹介すると触れまわってしまっているのだろう。その上でやちよがパーティーに参加しなかったら、恥をかかせたと怒り狂う可能性もある。
 それ自体はまあ別に構わないのだが、問題は、怒り狂った両親がやちよを家に引き戻す事なのだ。獣人的な成人を終えたやちよは、獣人としての訓練を積むためのコロニーに残っている必要がない。いや、必要がないと言うと語弊があるだろうか。どちらかと言えば、拘束力がないのだ。そして普通の人間……つまり世界のルールとしての成人までは、まだ半年近くある。二十歳になれば親の束縛から抜け出す事は可能だが、それまでのたった数ヶ月ですら、いろはと引き離されるのは我慢ならなかった。
「……どうしよう」
「……なにが?」
 悩みが、再びぽろりと口を吐いた。その音に今度こそ恋人が目を覚まし、やちよははっと目を瞬かせる。それからぼんやりとしたいろはを見下ろして、少しだけ眉を下げた。
「起こしてごめんね」
「……ううん。あんまりねると、夜にねむれなくなるから……」
 とろりと幸せそうな瞬きをしたいろはの首から、すーっと羽が消えていく。意識の覚醒と共に魔法の錠が締まり直し、獣の血を抑え始めたのだ。それに伴って翼が体内に吸い込まれていけば、足の形も人間としてのそれに戻っていった。
「……またでちゃってた」
 やちよの膝の上。ころりと寝返りをうったいろははまだ眠そうで、えへへ、と照れ笑いをする姿も幼いものだ。突出期を経て成熟期に入り、その期間すらそろそろ終えようとしている。その間に一気に成長し、体はすっかり大人になった。けれどいつまで経っても彼女は可愛いままで、やちよは心をくすぐられてばっかりだ。
「いい夢は見られた?」
「……うーん……なんか、やちよさんが好き」
「……答えになってないわ」
 まだ寝ぼけているようだ。投げ出されたやちよの足をやたらと撫で擦って、その背にまた翼が生えてくる。あら、と思う間もなくいろはの錠が外れて、やちよは小さく首を傾げた。
「いろは……?」
 まだ抑圧に慣れていない幼体の獣人が、錠を緩ませてしまう事は珍しくない。けれどそれは接触の悪くなった電気回路と似たような物で、スイッチのオンオフとはまた別の問題だ。
 少し解りにくい話だが、獣人達は皆、変化している時がオフ。獣の血を抑制している状態がオンだ。変化を丸出しにしている時は、いわばジャージでくつろいでいるのと同じ状態。対して、錠をかけ変化を抑えている時は、猫を被って上品に笑っているような状態というわけだ。そして錠を外すという事は、そのオンオフを切り替えたのと同義。寝ぐせが直らなかったのーという緩みとは違い、意図してジャージ姿になるようなものだ。
「どうしたの?」
 問いかけに、いろは本人が一番不思議そうな顔をした。やちよの膝からゆっくりと起き上がって、自分の体を確かめる。そして数秒黙り込み、振り返った表情は困惑に満ちていた。
「……鍵がかけられない」
「あらまあ」
 突然の出来事は、寝ぼけた頭にいい冷や水となったようだ。先程までのとろんとした表情から一転。すっかりと覚醒したいろはは、しきりに自身の体を触っては、あれー? と首を傾げている。
「そんなに深刻になる事ないわよ」
 動揺からか少し強くなった風に髪を弄ばれながら、やちよはのんびりそう言った。その声に再度振り返ったいろはは、落ち着きはらった姉を見て、少しだけ眉を下げる。そしてやちよを取り巻いている風の力を弱めると、もう一度その膝に頭を乗せた。
「また寝るの?」
「寝ないけど……くっついてちゃだめですか?」
「……あまえんぼう」
 獣の血の抑制を学んだとはいえ、いろははまだ、成人前の幼体だ。最近になってやっと制御に慣れてきたか、というところなのだから、こういう事もあるだろう。それに、たとえ成体になったとしても制御できない時はある。やちよにだって年に一回くらい、自分ではどうしようもない時期が訪れるものだ。
 元より、血の抑制は義務ではない。ただ単に人間に交じって生活する時に邪魔にならないよう、という配慮のような物だ。あと、翼人は服装に困るから制御できた方がいいとは思う。冬も肩を出しているのはとても辛い。冬服は大事だ。
 だから、というわけではないが、日常生活に支障のない者は変化を隠さない事もある。猫人(ねこびと)や犬人(いぬびと)といった骨格の変わらない獣人、他には人間に交じって仕事をしているわけではない獣人達はジャージのままだ。気楽そうで、あれはあれでとてもいい。あとは家が広い獣人も変化したままだったりするだろうか。省スペースの必要がなければ、翼人の大きな翼も邪魔にはならない。やちよの両親も、家では翼を出しっぱなしだし。
「……ああ」
「?」
 そこまで考えて、忘れかけていた問題を思い出した。膝の上のいろはを撫でながら、放ってあった手紙を拾い上げる。そして三度文面に目を通して、やちよはまた大きな溜息を吐いた。この手紙の何が一番腹が立つって、やちよの気持ちを勝手に決め付けているところなのだ。いろはをお荷物のように述べているのが気に入らない。
 血統書付から比べれば、確かに雑種はいくらか物覚えが悪く見える。やちよだって考えた事がないと言ったら嘘になるが、それで相手を馬鹿だと思った事もないし、自分が秀でているなどとは考えられなかった。それぞれ得意な事が違うだけで、ただの個性だと思う。たとえばやちよは力の使い方が上手かったが、魔法の応用には手こずったし、いろはは力に慣れるまでが大変だったが、翼を仕舞えるようになるのはかなり早かった。得手不得手、全てはその言葉で解決する話だ。
「……実家からお手紙が届くと、いつもそんな顔ですね」
 根本的に、両親と性格が合わない。そう思いながら手紙を畳むと、いろはが苦笑と共に手を伸ばしてくる。綺麗な形をした指がやちよの眉間に触れ、そのまま揉みほぐされると笑えてしまった。
「どんな顔?」
「へちゃむくれ」
「きらい?」
「好き」
 おどけた調子で囁き合って、項を引き寄せられたから体を折る。少し首を伸ばしたいろはの唇に自分のそれで触れて、やちよは眩しそうに目を細めた。
「好きよ」
「うん」
「いろは」
「うん」
「好き」
 囀るような告白に逐一頷いて、いろはがゆっくりと体を起こす。ベッドに手をついて翼を広げ、彼女の風がやちよを押した。
「……窓開いてる」
「うん」
「カーテンも」
「うん」
 項に回されたままの手は熱く、なのに驚く程優しく繊細だ。押される力に抗わずベッドに倒れ込んだやちよに覆い被さって、いろはは蕩けそうに甘い笑顔を浮かべている。煌めく瞳に吸い込まれそうになりながら、やちよもうっとりと微笑み返した。
「これで、見えない」
「……ん」
 ああ、大きな影が降ってくる。引きずる程の翼を優しく丸めて、いろはがやちよを隠してしまった。優しい闇の中は彼女の匂いで満たされていて、それを感じるだけで心が痺れた。
「やちよさん……」
 するり。いろはの膝がやちよの足を割って、そのまま上へと滑っていく。項を支えるのと反対の手が腹部を撫でれば鳥肌が立って、勝手に腰が反った。無遠慮にやちよの足を押し広げていた膝が行き止まりに差し掛かれば、紅い唇の隙間から熱い溜息が零れ落ちる。
「あ……っ」
 そのまま、ぐっと。足の間を膝で擦り上げてやれば、やちよが甘い悲鳴を上げた。思わず、と言ったようにその手がいろはの翼に触れて、幾枚かの羽をくしゃりと掴む。
「やちよさん……っやちよさん」
 その仕草だけで頭が痺れて、いろはも熱い溜息を吐いた。腹部に触れていた手を滑らせて服の中に忍び込ませれば、それだけで彼女が体を震わせる。敏感な反応はいつ見ても気分が良く、自分だからやちよが乱れるのだと思えば目眩がした。
「かわいい……」
「んっ、やだ、いろは……っ」
 小さな耳に唇を押し当てて囁けば、彼女はいつも赤くなる。小さな頃から見てきた妹に子供扱いされるのが、たまらなく恥ずかしいそうだ。
(でも、抵抗はしないもんね?)
 口では嫌だと言ったって、手は相変わらずいろはを捕えたまま。自分で腰を押しつけて、言外に強請る姿はいやらしかった。
(かわいい。かわいい。どうしてこんなに可愛いんだろう)
 望むとおりに敏感な部分に触れてやりながら、いろははぼんやりと考える。出会ってからしばらくのやちよに対する印象は、綺麗で、強くて、頼れる人だった。けれど今では、恋人の事がただ可愛いとしか思えない。見上げていた視線が見下ろすものに変わってから、ただただやちよが愛しくて仕方ないのだ。守ってやりたい気持ちの隅っこで、ぐちゃぐちゃにして食べてしまいたいような気持ちもあった。
(かわいい……すき。すき。おいしそう)
 そして今日は、その気持ちがやけに強い。鍵がかけられず血が騒いだままだからか、肉欲に交じって不思議な感情が湧きあがっているようだった。
(欲しい……捕まえていたい)
「いろは……? あぁっ、いや、やだぁ……っ!」
 元々鷲は肉食の鳥だ。自分と同サイズの鳥を食べる事もある。その時の本能かはわからないけれど、やけにやちよを組み敷きたくて仕方なかった。趾(あしゆび)で細い手足を押さえつけ、その体に鉤爪を喰い込ませて。そうして乱暴に、彼女を喰らい尽してやりたい。
「やちよさん……っ」
「い、ろは……っ」
 思いながら、強引にやちよの服をはぎ取っていく。そして自身は下だけを脱ぎ捨てると、乱暴にやちよの腰を持ち上げた。
「う、あ……、いろは……っ」
 半ば跨ぐようにして足を交差させると、趾でやちよの二の腕を押さえつける。鉤爪が皮膚を傷付けないように配慮はしたが、ぐっと体重をかけるのは我慢できなかった。まるで獲物を押さえつけるかのようにやちよを縫い止めて、そっと腰をおろしていく。
「いろは……っ」
「やちよさん……っ」
 やがて、くちゅりと。翼の中に濡れた音が響いて、秘部同士が触れ合った。お互いの体液と粘膜が擦れれば熱い溜息が零れ、その心地良さに眉根が寄る。どちらからともなくゆっくりと腰を動かしだせば、すぐに息が上がって思考が蕩けた。
「あぁ……っいろはぁ……」
「ん、あ……やちよ、さ……っ」
 いろはが作る影の中、お互いの名前だけを呼び合って、無我夢中で腰を振る。いろはが小刻みに動けばやちよがゆらりと腰を回し、やちよが大きく動けばそれを押さえるようにいろはが腰を押しつけて。お互いにお互いを刺激し合いながら、同じ歩調で頂きに近付いていった。
「やちよさん、もう……っ」
「わたしも、っきそ……っ」
 やがてその揺れが細かな痙攣に変わり始めれば、いろはの拘束はより強くなった。もはや鉤爪がどうのと気にする余裕もなく、力の限りにやちよの腕を鷲掴んでは、ぐいぐいと腰を押しつけ始める。
「いろは、いろはぁ……っいく、いっちゃ……っ!」
 まるで支配しようとするかのような動き。いっそ暴力的にも感じる行為なのに、それでもやちよは興奮した。強引に組み敷かれ彼女しか見えなくされて、体の自由も奪われている。それなのに。いや、だからこそ。
「い、く……っい、ろは……いってい……っ?」
「っ……ふふ、もう、っちょっと、我慢して」
 本当に全てを支配されたくて、気付けばおうかがいの言葉が口から零れ落ちていた。今まで数え切れない程体を重ねて来て、絶頂の許可を求めたのなんて初めてだ。そんなやちよにいろはは少し驚いた顔をして、それからにやりと威圧的な笑みを浮かべる。
「っっ……あぁっ、も、いろは、いろはぁ……っ!」
「……っがまん、もうちょっと」
「む、り……っいっちゃ……おねがい……っおねがいいろはぁ……!」
「がまんして……っ」
 濡れそぼった音はいよいよ強く、段々と粘着質になっていた。一番心地良い突起を乱暴に擦り合わせながら、いろははもうくらくらしている。必死になっていろはの翼を掴み、涙目で途切れ途切れの呼吸をしては、やちよがこちらを見つめているのだ。深い色をした瞳にはいろはだけが映り、紅い唇からもこの名前しか出てこない。熱に浮かされ蕩け切った顔は扇情的で、それをいろはしか知らないのだと思ったら体が震えた。
「っ……も、いいよ。私も……っいく」
「っっ、あ、うれし……っいろは、あぁっ!」
 高みに手がかかったのでやっと許可を出してやったら、やちよがうっすら微笑んだ。そしてすぐに喉を反らして、その体が小刻みに痙攣を始める。やがてその痙攣はすぐに断続的なものへと変わり、数瞬の間を置いて、一気に弾けた。
「は、あぁっ、あ、いろは、いろは……っあ、ん、んんん、っあぁぁああ!!」
「っく……うっ」
 びくんっ、と一度強く体が跳ねて、細い喉から掠れた悲鳴が零れ落ちる。白い肢体が弓なりに反れば秘部同士が強く擦れ合い、いろはも強く体を震わせた。
「……っ」
「あぁ、あ……っいろ、は……っ」
 心地よい痺れが、全身を一気に染め上げていく。足の間から電気が流れるように、頭の天辺、足の先まで。二人揃って絶頂の波にさらわれながらも、いろはは一人動き続けていた。
「いろはっ……!」
「じっとして……」
 快感に跳ねる恋人の体を押さえつけ、ゆるゆると腰を回して位置を調整する。そしてより深く足を絡ませ合うと、お互いの膣を近付けた。
「ん……」
 一拍の後に、いろはのそこから管が伸びる。親指程度の太さを持ったその管はまっすぐにやちよの膣を目指し、やがてはその先端が、ぬるりと胎内に侵入していった。
「ぁ……っ」
 異物の侵入に微かな声を上げ、小さく体を震わせるやちよは扇情的だ。けれどこれは刺激を与えるための器官ではないので、いろはは小さく微笑むだけにとどめた。
「……出すよ」
「ん……」
 そして短くそれだけを告げ、より強くやちよの体を押さえこむ。先端がずれないように強く腰を押しつけて、噴射されたのはごく少量の精液だ。何代にも渡る遺伝子操作の賜物。女子ばかりが産まれる獣人が絶滅してしまわないように……ひいては絶滅してしまった動物達の血を、獣人として後世に残すための、人類の選択。
「やちよさん……」
「ん、いろは……」
 人間の射精とは違って、その行為自体に快感はない。けれど番と認められていなければ、こうして交尾する事もできないのだ。だからいろはは、やちよと体を重ねるのが好きだった。
「好きだよ。好き……好きです」
「うん、私も好き。好きよ、いろは」
 拘束していた腕を解放し、絡めていた足を解く。やちよの体を優しくベッドに下ろしてやって、いろはは改めて彼女の上に覆いかぶさった。そのまま頬を包み込んで顔中にキスをすれば、幸せそうな顔をしたやちよが笑う。
「今日も受け入れてくれてありがとう」
 そんな彼女に囁いて、いろはもとろりと微笑みを浮かべた。こうしてやちよを抱く度に、もっともっと好きになってどうしようもなくなる。
 だって獣人の雌は、気に入らない相手を決して受け入れはしないのだ。たとえ相手にどれ程の財力があろうとも、権力があろうとも、好きだと思わなければ触れさせもしない。受精率が低いので交尾自体は盛んだが、それは選んだ相手とだけの話。本来はたった少しの接触ですら、そうそう許してくれる事は無い。最低限、仲の良い友人である事が条件だ。
「いろは、キスして」
「うん」
 けれど、やちよはいろはを求めてくれる。こうして何度もキスを強請って、腕の中で甘い微笑みを浮かべてくれる。その全てでいろはが好きだと囁いて、際限なく求めてくれる。いろははそれに応えて、やちよに触れ、引き寄せて、愛しさだけで彼女を抱く。選び選ばれた二人だけがそうできる。
 それがとてもとても、嬉しい。
「風がくすぐったい」
「うん」
「翼も」
「うん」
「もう、いろは?」
「だってやちよさんが好きなんだもん」
 全身で触れてくるいろはは、鳥と呼ぶには少しばかり感情表現が豊か過ぎる。やちよを取り巻き続ける風の魔法はふわふわと、いろはの気分によっていくらでも表情を変えた。それが犬人の感情表現に似ている気がすれば、その愛苦しさに眉が下がる。こんなに愛らしいのに意外とヤキモチ妬きな部分があって、それがまたやちよの心をくすぐるわけだが。
「ねえ、いろは?」
「はい?」
 そこまで考えて、やちよはふと思いついた。実家からの強制的な招待状。それにどう返事をするか考えあぐねていたが、ここに来て一つ、面白い案が浮かんだのだ。 
「私がお見合いするって言ったらどうする?」
 言って、にやり。唇の端を吊り上げたら、いろはが途端に険しい顔をした。やちよを取り巻く風が重くなり、次第に拘束の力を持ち始める。乱暴に締めつけてくる魔法にいろはの独占欲が見えれば嬉しくて、やちよは思わず笑ってしまった。
「実家ですか?」
「そう。パーティーですって」
「断れないの?」
「今回はちょっと難しそうね。だから諦めて行ってくる」
「……許しません」
 その笑顔が面白くなかったのだろう。眉根を寄せて低い声を出したいろはに、けれどやちよは慌てたりしない。それどころかより一層楽しそうな顔をして、あっけらかんとこう言った。
「じゃあ守って」
「え?」
「私と一緒にパーティーに出てよ。ついでに両親に紹介するわ」
「…………へ?」
 さあ、楽しくなってきた。血を何よりも重んじる両親だ。雑種だ出来そこないだと散々馬鹿にしたいろはを前にして、どんな顔をするだろうか。血統書付よりも深度が深いいろはを前に、きっとくるりと手のひらを返す。今までの態度が一変、へこへことこびへつらう姿がありありと目に浮かべば、今から楽しみでしかたなかった。
「え、あの、やちよさん。私パーティーに着ていくような服がないんですけど……」
「そうね。だから今から買いに行きましょう」
「い、今からですか? でも今から外出許可を取ってたら時間が……」
「大丈夫、任せて。それに今日じゃないと間に合わないわ。パーティーは明日だもの」
「明日!?」
「そう。だから今すぐ行きましょう。私寮母さんにかけあってくるわ」
「いやあのやちよさん! 私今普通の服着られないし……!」
「大丈夫大丈夫」
 先程までの憂鬱な気分が嘘のようだ。わくわくした気持ちで手早く身なりを整えると、やちよはいろはを押し退ける。完全に押され気味のいろはは目を白黒させたまま、それでも素直にやちよを送り出すしかなかった。
「やちよさぁん……」
 あとに響いたのは、情けない呼び声一つ。中途半端な格好でベッドに座り込んだまま、いろははがっくりと項垂れた。


***


 お帰りなさいませ、と頭を下げる使用人に、やちよが目だけの挨拶を返す。その隣ですでにガチガチに緊張しているいろはは、先程からやけに呼吸が早い。絡めた腕にもおかしな力が入っているのに気付けば笑えてしまって、やちよはくすくすと肩を揺らした。
「そんなに緊張しなくていいのに」
「む、む、無理ですよ……! こんな事初めてなんだから……っ!」
 とんとんと優しく腕を叩いてやれば、震えた声が返ってくる。そんないろはにやれやれと眉を下げたやちよは、大きく背中が開いたイブニングドレスを身に纏っていた。濃紺のそれはあくまでシンプルな見た目なのに、彼女を何倍も綺麗に、そして魅力的に見せてくれる。右腕につけた空色のリボンと、今日は出したままの白い翼。それらも相俟って、濃淡のバランスが目に眩しい。
「腕、痛くないですか?」
「大丈夫」
 昨日、行為の最中に拘束した部分が、青黒い痣になってしまっていた。それどころか鉤爪によって傷もつき、白い肌からはいくらかの血が滲んだ。真っ青になるいろはとは対照的にやちよは何故か嬉しそうだったが、さすがにそれを晒したままパーティーには出られない。なので急遽ボンを巻いているのだが、これがなんとも愛らしく、良いアクセントになっていたりもする。
「ごめんなさい……」
「何度目?」
「だって……」
 正門前で迎えの車から降りて、使用人に開けてもらった門をくぐった。広い前庭を玄関ホールまで歩く最中、もう数えるのも面倒になった謝罪がまた零れて、やちよは一つ溜息を吐く。
「あなたはちょっと過敏なのよ」
「でもかなり酷い痕ですよ?」
「所有印なんてそんなものでしょ」
「ぶっ」
 程度の差はあれ、所有印なんて物はエゴでつけるれっきとした傷なのだ。それを暴力と思うか嬉しいと思うか、それだけの違い。やちよは嬉しいと思ったし、消えなければいいと思う。だから謝られるのは筋違いだし、正直その度いらっとした。
「……なんか、やちよさんって時々凄い発言しますよね」
「そう? 思った事を口にしてるだけよ。いろはの方がよっぽどだわ」
「私そんなに間違ったこと言ってるかなぁ……」
 やちよの言葉に頬を掻き、やや遠くを眺めるいろは。そんな彼女の装いは、翼人用のスーツだった。前から見れば普通のスーツと変わらないその服は、背中が少し面白い形になっている。たすき掛けのように交差させた布の隙間から、上手い具合に翼を出す仕様になっているのだ。コロニーで着ている服に比べたらだいぶ動きにくいが、翼を出した上である程度のフォーマル性を求めるならば、恐らくこれが限界だろう。
「背が伸びたから似合うわね」
「ありがとうございます」
 昨日いろはの服を選びに行った時、やちよが最初に手に取ったのはドレスだった。背中が開いたイブニングドレスなら、翼を出したままで着られるからと。けれどどれを宛がっても、いろはは神妙な顔のままだった。それを不思議に思って尋ねてみたら、スーツがいいと言い出したのだ。
「それにしても……ふふ、いろはが形から入るタイプだったなんてね」
「……そんなに笑わなくても」
 やちよさんを守るんなら、スーツの方がいいです。そう言われた時、申し訳ないがやちよは大笑いしてしまった。確かに守ってと言ったのはやちよだし、今日は存分に盾になってもらおうと思っている。けれどそれはあくまで精神的な負担を軽くして欲しいという意味であって、男役をしてくれという意味ではなかったのだが。
「真面目なところが好きよ」
「馬鹿にしてる?」
「まさか」
 正直、いい目の保養だ。スーツを着たいろはなんて中々見られるものではない。今は変化中なので靴までコーディネートしてやる事はできなかったが、鍵をかけられるようになったらちゃんと選びに行ってみようか。そう思う程度にはよく似合っている。細身のスーツは彼女の華奢なラインを際立たせ、どこか不思議に艶っぽかった。ウエストが大分しぼられて、中性的なシルエットになっているせいだろうか。
「うん、いいわね」
「ほんとに?」
「ちょっとワイルドな感じがまた素敵」
「馬鹿にしてますよね?」
「まさか。本心よ。今すぐ好きにして欲しいくらい」
「……」
 喉から胸の辺りまでを覆う柔らかい羽、そして立派な趾と鉤爪を見せつけてやろうと、スーツはわざと着崩させてある。深獣人用にとつい最近開発されたばかりのスーツは、足の部分にファスナーがついているのだ。それはただ単に変化した足を入れやすいように、という配慮だが、それをわざと少し開けて、胸元のボタンもいくつか外してやった。おかげでいろははそう、若干……うん、カタギに見えない。
「あとは、すぐ真っ赤になっちゃうそのお顔をどうにかすれば完璧ね」
「っもう!!」
 けれどやちよの言葉に真っ赤になってしまっているので、怖さは八割減だ。二人きりならばかなり強引な時もあるし、実際昨日だって少し乱暴だった。なのに一歩外に出ればすぐこうなってしまうから、やちよはいろはをからかう事をやめられないのだ。
「かわいい」
「……やめてください」
 笑いながら真っ赤な頬を突いてやれば、いろははわざとらしく怒った顔をする。むーっと唇を捻じ曲げて頬を膨らませる姿は可愛らしいばっかりで、威圧感など微塵もなかった。
「さ、行くわよ。準備はいい?」
「……まだでも行くしかないですから。行きましょう」
 二人、腕を組んで。いろはの緊張を解すためにも殊更ゆっくり歩いてきたが、広いと言っても個人の家だ。前庭を歩き切れば、あとは扉を開けるしかない。
 また固くなってきたいろはも、着いた瞬間ほどではなかった。深呼吸をする真剣な横顔を少しだけ眺めて、やちよはドアマンに合図を送る。そして開いた扉の先。
「……ああ、やちよ。顔を出してくれたんだね」
「あら……こんばんは、お父様」
 丁度通りがかったのか、それとも今か今かと待ちかまえていたのか。二人を最初に出迎えてくれたのは、この家の主人。やちよの父親だ。思わぬ遭遇にやちよは目を瞠り、いろははその隣でびしりと固まる。
 話に聞いていた通り、やちよの父は翼を出したままだった。根元から先端まで真っ白な翼は、大きく立派で艶やかだ。深度はやちよと同じ三らしいが、鷹としてはかなり大きい方だと思う。それに、稀少な獣人の雄だ。
(他の男の人初めて見た……)
 獣人は、男子が殆ど産まれない。獣人全体の一パーセントに満たないその存在故に、人によっては一生雄を見る事なく過ごす者もあるくらいだ。それが二人目となればかなり幸運な方だろう。ちなみに一人目は、いろは自身の父親だ。
(やっぱり整った顔してるなぁ……)
 そんな自身の稀少性、そして血統書付である事を無駄に誇りに思っているからこそ、父とはそりが合わない。やちよはそう言っていたが、いろははやちよという存在のルーツを垣間見た気がして、なんだかとても嬉しくなった。よくよく見れば彼の目元はやちよに似た形をしているし、神経質そうな指先と、その反り具合なんかそっくりだ。
「おや、そちらの方は……?」
 思わずまじまじと観察してしまってから、父親に顔を向けられてびくりとする。慌てて居住まいを正そうとして、組んだ腕を引き寄せられた。
「いろはよ。私の妹。昔ながらの許嫁って表現でもいいわ」
 そしていろはが何か言う前に、やちよがそう告げてにっこり笑う。その言葉に父親は驚いた顔をして、まじまじと……それこそ穴が開く程にいろはを凝視し始めた。
「あ、あの、環いろは、です。以後お見知り、おき、を……あの」
「…………」
 近い。なんというか物凄く、近い。
 恋人の父親に対して大変失礼な感想なのだが、少しだけ気持ち悪い。
「………………」
 先にも述べたが、獣人の雌は気に入らない相手との接触を好まない。それは恋人の家族だろうが自分の家族だろうが関係なく、嫌だと思ったら嫌なのだ。けれど、獣人、という名前を戴いている以上、彼女達は獣でもあり人でもある。獣の本能がいくら嫌だと思っても、人間的な理性やら建前やらで、強く拒絶できない事もあるわけだ。そして今まさに、いろははその状態に陥っていた。
(距離を取りたい……でもやちよさんのお父さんだし……できれば気に入って欲しいけどでもやっぱり近付かないで欲しい……!)
 生理的な嫌悪感に、耳に生えた飾り羽が逆立っていくのが自分でもわかった。そして一度それに気付いてしまうと、全身の羽が徐々に逆立ち始めてしまう。顔の輪郭、首、胸。その全ての羽がぶわりと立ち上がれば、父親は感動に目を瞠った。
「いやはや、いやはや! ここまで立派な変化は初めて見た! この羽はどうだろう! なんと柔らかそうな……」
 きっと彼は、興奮で我を忘れていたのだろう。深度が四の者は、増えてきたとは言え三十人。世界全体でやっと三十人だ。それは雄以上に稀少で、出会おうと画策しても中々出会えるものではない。本物の深獣人を見て、しかもその存在が目の前にこうして立っている。それに完全に興奮して、人としての節度も、獣としてのルールも、全て忘れた。そして無遠慮にいろはに向かって手を伸ばし、首の羽に触ろうとして。
「ぐっ……!」
 彼の体は、宙に浮いた。まるで何かに首を掴まれ振り回されたかのように、その体が一気に二メートル程後退し宙にぶら下がる。
「っか、は……っ」
 ぎりぎりとその首を絞める風は、冷たく重く、鎖のような質量を持っていた。父親がいくらもがいて魔法を行使しても、一切緩まず首を締め上げ続ける。そしてそれをした張本人は、いろはの隣。背中の翼を高く上げて、鋭く険しい表情を浮かべていた。
「……私の番に気安く触らないで」
 聞いた事のない声だ。そして見た事もない表情だ。あのやちよが、怒りに我を忘れている。いろはの前ではいつも穏やかで優しくて、怒られたのだって一度だけ。やちよが寝ている間に白い翼に油性ペンで落書きしたその時だって、拳骨を喰らっただけでおしまいだったのに。今は重く冷たいその怒りが、彼女を絡め取って目を塞いでいる。相手が自分の父親である事なんて、きっと彼女はもうわかっていない。ただ番を守ろうとする獣の血と本能だけで、敵を絞め上げくびり殺そうとしている。
「やちよさん」
 それを想うと苦しくて、なんだか泣き出したくなった。いろはの事でここまで感情を乱す彼女が、あまりにも愛しくて。
「やちよさん」
「……っ、いろ、」
 父親を睨み続ける彼女の顎を、そっと掴んだ。そのまま少し強引にこちらを向かせて、躊躇う事なく唇を寄せる。もういいんだよ、と思いながら少し早い呼吸を奪ってやれば、彼女はびくりと体を震わせた。その瞬間に何かがぶつりと切れる音がして、同時にどさりと、父親が戒めから解放される音。
「……落ち着いた?」
「……うん」
 その音を聞いてから唇を離し、間近で深い色をした瞳を覗き込む。そのまま優しく微笑みかけてやれば、やちよもようやく薄い笑みを浮かべた。
「っげっほ、げほ、がはっ!」
 そして咽る父親に視線を向け、やれやれと眉を下げる。
「……謝らないわよ」
「げほ、ああ、うぇっほ……かまわない、おぇ、私が悪かった……ぐぇっほ!」
 腕を組んだ娘と、その隣で困った顔をするお相手。未だ怒り心頭な様子のやちよを宥めるように、いろはがその腰を優しく撫でている。蹲ったままそんな二人を見上げて、父親は数度頷いた。
「しつ、げほ、失礼をしたね、環君。深獣人を見るのは、んん、初めてで。すっかり子供のような気分になってしまった。悪かったよ。本当にすまなかった」
 やがてゆっくりと立ち上がった彼は、そう言って苦笑を浮かべる。手で必死に首を擦りながら、初めて本音らしい本音が零れ落ちれば、やちよもようやく少し表情を緩める。
「いや、こんなに立派な子がやちよの番候補だとは知らなかった」
「候補じゃなくて番」
「……ああうん。でもまだ結婚はしていないし」
「……」
「うむ。君のような立派な人物が家族になってくれて嬉しいよ。とても嬉しい。君がうちに入ってくれれば七海家は安泰だ」
「まだ嫁入りするって決まったわけじゃないんだけど?」
「けれどうちにいた方が何かと便宜はきくぞ? 一般家庭で深獣人だなんて、いいように弄りまわされるのがオチだ」
「私が守って見せるもの」
「それだって結局はうちの威光あってのものだろう。いいから父さんの言う通りにしなさい」
「そうやって威光だのなんだのを振りかざすから私は家に帰りたくないのよ!」
「それで守れる物がどれだけあると思ってる! 私だって無暗に地位を求めたわけじゃない!」
「嘘ばっかり! だったら……」
 あ、たぶんこの二人は結構似てるんじゃないかな。いろはは思った。血統書付である事をみせびらかす部分は似ても似つかないが、相手の話を聞かないところは結構似ている。自分の中で決まっている事に他人がとやかく言ったところで、聞く耳を持たないところはそっくりだ。あと興奮すると周りが見えなくなるし、割合と言葉が足りない。
「あの……もうそろそろ」
「いろはは黙ってて!」
「今は親子の真剣な話なんだ!」
「いろはに怒鳴らないで!」
「ええいうるさい娘だ!」
 ……長くなりそうだなぁ。荒れ狂いだした二人の風からそっと自分とやちよを守りながら、いろははぼんやり虚空を見上げる。
 結局この後、素直になれない親子の喧嘩は、実に三十分程続く事となった。

***

 なんだかとても疲れた。やちよは思いながら、小さなグラスを傾ける。その周りには同期の友人達が座り、この一角だけ同窓会のような雰囲気だ。
「やちよの妹は?」
「父に引き摺り回されてる」
「すっかりお気に入りですね。よかったじゃないですか」
「背も高いし顔もいいし、しかも深獣人! 優しそうだし、いい相手じゃん」
「許嫁って聞いた時はどうやって逃がしてやろうか話し合ったもんだけどね」
「あれなら安心」
 同期はものの見事に女子ばかりだ。一人が話しだせば皆がわいわいと入ってくるので、先程から随分と姦しい。けれどその喧騒が懐かしくて、やちよもなんだかんだ笑顔のままだ。
 やちよの両親は、あれでいて娘に楽しんで欲しい気持ちがあったらしい。同期の子を呼んでおいたよと言われた時は驚いて素直に礼も言えなかったが、正直かなり感謝している。気心の知れた友人がいるとわかっただけで、憂鬱だったパーティーはだいぶ楽しいものになった。現金な自分に少し呆れもするが、やちよだってまだ二十歳前。大人ぶるのが得意なだけで実際はまだまだ子供なのだから、友達とはしゃぐのは心躍る。
「婚約者って紹介は驚いたけどね」
「だって……許嫁だと強制で本意じゃないと取られるかもしれないし、恋人は少し弱いかなって。婚約者の方が、手が出せない感じがするじゃない?」
「どっちに?」
「いろはに」
 まあ実際はどっちも、だ。父親が挨拶の時にやちよだけでなくいろはも紹介してくれたので、二人の関係は一気に公の物となった。これでいろははやちよのお見合いごっこを阻止する事ができるし、やちよもやちよでいろはに言い寄ろうとする者を牽制できる。そして父親は父親で、深獣人と繋がりが出来る事を皆に主張できたわけだ。一石三鳥。皆が美味しい。その代わりに今、父親に引き摺り回されあっちこっちで挨拶をさせられているのは不憫だが、本人は何故か少し得意気なのでよしとしよう。やちよと目が合う度に手を振ってくるのは可愛いし。
「やちよの件が片付いたし、今度は私の話聞いてよ」
「もちろん。なに?」
 今もまた目が合って、いろはが小さく手を振ってくる。それに微笑んで手を振り返し、やちよは友人に向き直った。同期の皆はそれぞれが成長して大人になったが、癖や仕草は変わっていなくてほっとする。
 今日は皆やちよの父に合わせて変化を出した状態なのもあって、なんだかとても穏やかな気分だった。
「私今人間と付き合ってるんだ」
 そんな中に、猫人の友人が一発の爆弾を投下する。やちよ含めた他の友人達はその言葉に一斉に無言になり、そして数秒の後。
「え、人間て、普通の人間?」
「うん」
「耳も尻尾も翼も生えてないの?」
「角、角は?」
「鱗とか鰭は!?」
「ないない。つるっとしてる。ふっつーの人間」
 周りが一斉に色めき立って、パーティーの他の参加者達が、何事かとこちらを見る。けれど今ここでそんな視線を気にする者は一人もおらず、あちこちからきゃーきゃーと黄色い悲鳴が上がっていた。
 そしてひとしきり騒いだ後に、今度はその友人に体を寄せて、次々にどんな感じなのと質問を始める。
「人間ってどんな? やっぱり私達と違う?」
「案外ふつーだよ。体の構造だって殆ど一緒だし」
「魔法使えないってほんと!?」
「うん。見せたらびっくりしてた」
「すんごい弱いんでしょ? 触ったら壊しちゃわない?」
「いやー意外と頑丈だよ。ただへにゃにゃしてるから、壊しちゃいそうだってのはわかる」
 獣人は獣人と、人間は人間と。これが世界の暗黙のルールだ。とは言っても強制力があるわけでもそういう法律があるわけでもないので、恋愛自体は自由にできる。結婚した者がないわけでもない。ただ、根本的な価値観や身体構造が違うので、大抵の場合は上手くいかないものだ。
「男!? 男!?」
「いやいや女。男は慣れないから怖いわやっぱ」
「でも人間って雌の方が少ないんでしょ? よく見つけたね」
「いや少ないって言っても、人間自体の数が獣人に比べたらかなり多いからさ、そこそこいるよ」
 絶滅してしまった動物の遺伝子を、人間に組み込む事で生まれたのが獣人という種族だ。いつの日かその動物達を蘇らせようと、自身の体を箱舟にして、脈々とその血を引き継いでいる。今は科学の進歩を待っている状態だ。
「なんかびっくりする事とかあった?」
「えー、んー。あ、髪伸びるのめちゃくちゃ早いね人間。だから結構簡単に髪切っちゃうの」
「えー、こわ! 私なんか一度切ったら一年は元に戻らないのに!」
「でも爪が伸びるのは遅いかな」
「あーまあ使う必要ないもんね」
 獣人の数は決して多くない。研究室で生まれた数百人が子供を作って、その子供同士が子供を作って……それを続けて、まだ二百年にもなっていないのだ。早熟で結婚が早い分代替わりも早めではあるが、それでも今が十数代目。しかも普通の人間との間に子供が出来ても獣人は産まれないので、思うように数は増えていない。故に人間との違いや、獣人の特性、その他細かい部分まで研究が進んでおらず、お互いがお互いを物珍しく思う状態が続いている。
「ねえ他には? やっぱり人間て猿人(さるびと)に似てるの?」
「いやそれ言ったらあたし達も似てはいるからね?」
「ていうか猿人と人間て何が違うの?」
「ターザンが猿人、ジェーンが人間」
「わかりやすいんだかわかりにくいんだか」
「握力やばいじゃんあいつら」
「でも人間でもそれくらいいるんじゃない?」
「人間にはあんな立体的な動きはできんよ」
「そういうものかなぁ?」
 きゃいきゃいとはしゃぐ友人達にとって、人間は愛玩物と同等なのだろう。なにせコロニーで習う人間の扱いは『ひ弱で繊細、骨が脆い。触れる必要性がある時はかなり優しく。決して魔法を向けてはいけません』だ。
 友人の話を聞く限り意外と丈夫そうではあるが、やちよの中の人間のイメージも、大分か弱くもやしのようではある。
「あ、でも一番驚いた事はこれかな!」
 そんな中、ただ一人正しい人間を知っている友人が、ぽんと手を叩いた。よほど驚いた事実なのだろう。ぐいと身を乗り出してくる姿に、やちよも思わず体を寄せる。
「人間の雌って、毎月生理がある!」
 そして吐き出された言葉によって、再びその場に沈黙が降りた。何も馬鹿にしたわけでも、呆れたわけでもない。都市伝説か何かかと思っていた事が本当だったから、声も出ない程驚いているのだ。そんな友人達を見回して、彼女は少し得意気だ。そして指を一本立てると、それを知った経緯を教えてくれる。
「いやね、ある日交尾しようと思ったらさ、今日は生理だからだめって言われたのよ。で、ああそうか人間も生理来る動物だったなって思って、その場はそっかって引き下がったの。それで一ヶ月くらい忙しくてあんまり時間取れなくてね、翌月ですよ。やっと時間できたらか泊まりに行ったら、その日も生理だって言われて。うっそだーって思ってたら……マジだった」
 そしてその言葉がしまると同時に、また歓声。今度は感心から来る、少し低いものだった。へー! という声があちこちから響き、それから皆が一斉に話を始める。
「私も生理に近いものは来るけど、発情期の時くらいだよ。一年に一回か二回だけ」
 犬人。
「私そもそも経験した事ない」
 猫人。
「ワタシも経験はありませんね」
 蹄人。
「やちよも生理ないよね?」
「そうね。知識としてしか知らないわ」
 そして翼人。
 この場に猿人がいれば、逆に驚いただろう。もしくは羨ましがったか。体の構造は大体人間と同じだが、やはり獣人は人間とは違う。人間に見せかけた獣なのだ。それぞれに雑ざった血によって、種族ごとにもだいぶ生態が違う。操る魔法もそれぞれ違ってくるし、食性だって種族差が出た。今までこういった話はあまりした事がなかっただけに、人間のみならず、種族の違いを感じて少し面白くなった。
 こうなったら徹底的に違いを見つけてみようという話になって、野菜や肉を食べるかどうか、風呂に入る頻度、苦手な物、好きな物、獣としての附属品である翼や尻尾はどんな感じか、と、皆で色々な議題を展開していく。そして何か新発見がある度に驚き合い、さらにはより深く掘り下げ、時には恋愛について話題が逸れたりしている、そんな最中。
「……あの、聞いてもいいですか?」
 不意に、みふゆが声を上げた。
「私?」
「はい」
 その瞳にまっすぐ見つめられて、やちよはぱちくりと目を瞬かせる。珍しい事だ。みふゆはこの手の話を嫌っているわけではないが、実際問題そこまで興味があるわけでもないらしく、いつもただ微笑んで聞いているだけの事が多いのに。
「なにかしら?」
 そんな彼女が、改まってやちよに聞きたい事とはなんだろう。純粋な疑問と少しの好奇心。その上に親友の気安さも乗せて問いかれば、彼女は意を決したように眉を吊り上げる。
「前から気になっていたんですけど……翼人ってやっぱり卵生なんですか?」
 そうして飛び出した意外とえぐみの強い質問に、やちよはうーんとこめかみを押さえた。聞かなきゃよかったと思いながら答えない訳にもいかず、けれど何からどう説明したらいいのかわからない。知識としてその答えを知っていても、それを説明しようとするとまたこれが難しいのだ。しかもこの手の質問をされたのが初めてで、どこまで伝えていいものかと考えあぐねている。
 まず……結論だけを先に述べるなら、半分イエスで半分ノー。もっと詳しく述べるなら、その時々による。だろうか。
 翼人には、猫人や犬人とは違い、完全な発情期があるわけではない。けれどそれに近しい時期があり、その時は獣の血がかなり濃く、強くなった。見た目にさほど変化はないながら、何故か翼が仕舞えなくなり、種によってはさえずり、種によっては飾り羽を無暗やたらに広げて回る。かくいうやちよは、ひたすらいろはの名前を呼んで、唇で触れ続けていないと落ち着かなくなるのだが……それは今言う必要がないので黙っておこう。
 翼人の間で『求愛期』と呼ばれるこの期間は、番を持った者にしか訪れない。なので若い翼人は知らない事が多く、社会に出た後で、泣きながらコロニーにやって来る者もいるくらいだ。そして翼人は、それを他種族に話したがらない。べた惚れの相手がいて、今はその相手しか見えない時期なんです、と公言するようなものだからだ。発情期とは違い、まだ人間の理性が残るからこそ、翼人はそれを内緒にしておく。恋人だけ、番だけがそれを知って、甘やかしてくれればそれでいいのだから。
 失礼。話が逸れた。
 先の質問に対する回答は、こうである。体に雑ざった獣の血が騒ぎ出す求愛期。番の両方がその時期の時に交尾をして、運良く子供を授かると卵生になる。……可能性が高い。それ以外の時は、基本的には胎生のはずだ。
 たとえ求愛期が被ったとしても卵生が百パーセントではないのだが、いろはが卵から生まれた張本人なので、少なくとも事実無根という事はない。
 そして翼人に限って言えば、卵生の者は軒並み深度が深くなる傾向にあった。血統書付と同じ深度三か、いろはのような深度四。世界で四人しかいない深度五に入っている翼人も、たしか卵から生まれているはずだ。まだまだ実例が少ないので研究が進んでおらず、国からの公式発表はない。けれどそれが事実であると確認さえ取れれば、確実に動物再生への道は開けていくだろう。
 ……さて。
「やちよ? ねえやちよ、どうなの?」
 本題はこちらだ。求愛期の事を隠したままで、この質問にどう答えたものか。
「ただいま」
「っ! いろは、おかえりなさい」
 やちよが頭を悩ませていると、挨拶回りを済ませたらしいいろはが戻ってくる。それと同時にふわりと風が吹き、今日は結い上げているやちよの髪が少しだけ揺れた。
「ずいぶん盛り上がってたみたいですけど、何の話をしていたんですか?」
 そしていろはは当たり前のようにやちよの隣に腰かけると、躊躇いもせずに腰に腕を回してくる。周りがそれににやりとするが、赤くなるのはやちよ一人だ。
「え、っと」
「翼人がね、卵生か胎生かって話をしてたの」
 答えに迷ったやちよを遮って、猫人の友人がにっこり笑う。やちよが答えてくれないならいろはに答えてもらおうという魂胆なのだろう。もしかしたら、困惑する姿を見て楽しみたかったのかもしれない。
「人によるみたいですよ。私は卵から産まれましたけど、普通に産まれてきた人もいますし」
 けれど、いろはは特に慌てたりしなかった。やちよの代わりに質問を受けて、あっけらかんとそう答える。そして躊躇いもせずにシャツのボタンを一つ二つ外すと、傷痕にも見える縦長の凹みを指し示してこう言った。
「卵生の人は、おへそがこんな形なんです」
 その痕をよく見ようと顔を寄せる友人達に苦笑して、彼女はわざわざ立ち上がる。そしてもうすこしだけ服をくつろげると、改めて卵生の証を見せてやった。
「あ、ほんとだ」
「へー!」
 いろはの腹、胎生の者で言うへそにあたる部分には、少し独特な痕がある。それはへそというには深さがなく、縦に細長く、少し明るい肉色をしていた。先にも述べたが、一見しただけでは傷痕のようにも見える。いろはの肌よりいくらか濃い色のその痕は、卵生の者独特だ。
「翼人の生まれ方はこれだけで見分けられます。面白いでしょ?」
 そう言って笑い、皆が納得したのを見て取ると、いろははボタンをかけ直した。そして再びやちよの隣に腰を下ろすと、テーブルの下、その趾が触れてくる。
 とん、とん。二度触れて、それから足首をにぎにぎと握りこむ力。声には出さずに目だけで、なに? と問いかければ、いろはは小さく首を振った。そしてするりと離れ、大した間も置かない内に、もう一回。
「なに?」
 今度こそ声に出したやちよに、いろははやんわり微笑んだ。なんでもないです、という笑顔は嘘っぽくて、やちよは少し違和感を抱いた。けれどこの場で問いただすのはあまりにも大人気ない気がしたので、それ以上の追及はやめる。
「ねえねえいろはちゃんはさ、やちよのどこが好きなの?」
「うーん、全部って答えはありですか?」
「あー、そういうタイプね。どうも失礼いたしました」
「あ、じゃあ逆にやちよは、いろはちゃんのどこが」
「全部」
「ちっ馬鹿ップルが」
 友人達は、いろはに興味津々だ。みふゆも深獣人ではあるのだが、多少ぽやっとしているので、違いや不便を聞かれても、特には、と笑う程度だ。いろはだって抜けているところはとことん抜けているが、必死に説明しようとするので反応が面白いのだろう。色々聞くには良い相手だと判断されたらしく、あれこれと矢継ぎ早な質問をしかけられていた。
 そんな彼女の横顔を見上げながら、やちよは内心で首を傾げる。腰を抱く手もそうなのだが、今日のいろははやけにやちよに触れたがった。いや、それは昨日からだろうか。勿論くっつき虫で甘えたがりなのは昔からなのだが、それにしても頻度が高い。またにぎにぎと足首を掴まれながら、そのくすぐったさに身を捩った。そのまま少しだけいろはと距離を取ろうとして、ぐっと腰を抱き寄せられればどきりとする。
「……やちよさん」
「ちょ、ちょっと」
 二人きりならば、抱き合うのもキスも大歓迎だ。けれどやちよは、皆の前で堂々といちゃつけるタイプではない。逃げようとすればする程くっついてくるいろはに、じわじわと体中が熱くなった。
「おー! 積極的!」
「やちよ真っ赤じゃん」
「年下攻めかー。ありだな」
「好き勝手に言うのはやめて!!」
 腰に回していた手を項に這わせ、風までもがやちよの体を引き寄せようとする。そんないろはから離れようと必死になって腕をつっぱり、それでももう、力では敵わない。
(もう……!)
 内心で一つ文句の声を上げると、やちよは大きく翼を広げた。そしてそれで自分といろはを隠し、同時に素早く顔を寄せる。
「っ……!」
「ん……、は。いい子にしてて……お願い」
 そのまま深く唇を合わせ、なんなら舌も少しだけ吸ってやった。突然の事に目を瞬かせるいろはにそう言うと、呆然とした顔のままこくこく頷く。それによし、と頭を撫でてから翼を畳むと、友人達が半笑いでこちらを見ていた。
「翼人の翼って便利だよねー」
「やちよのは無理かもだけど、いろはちゃんのなら密室作れそうだよね」
「ここで盛るなよー?」
 全く。好き放題言ってくれる。思いながら、やちよは努めて冷静にグラスを傾けた。少しだけ頬が熱いが、ここまでしたのだからもうそれくらいどうでもいい。ちらりと隣のいろはを見ると、彼女もこちらを見たところだったようだ。視線が合うと嬉しそうに目を細めて、赤い顔のまま笑ってくれる。その唇にやちよの口紅が移っているのを見ると少し恥ずかしくなったが、気分はいいので何も言わないでおく事にした。
「ワタシ、二人の馴れ初めが知りたいです」
「馴れ初めて」
「じゃあメモリーを」
「いやメモリーもどうだろうか」
 そんな二人を交互に見て、みふゆが嬉しそうにそう言ってくる。ぽんと両手を合わせる姿に他の友人がつっこんで、皆で笑った。
 昨日はあれだけ憂鬱だったのに、今は楽しくて仕方ない。友人がいるという事もその理由ではあるだろう。けれど。
「……なんですか?」
「なんでもない」
 いろはが一緒だから、楽しいのだ。これからも一緒だという約束を得られたから、こんなに心穏やかなのだ。そう思えば幸せで、父にキスの一つでもしてやりたくなった。思うばかりで本当にする事はないだろうが、それでも素直に礼くらいは言ってやろうと思う。
 考えながら、やちよは少しだけいろはの体に体重を預けた。すると彼女の風がふわふわと軽い物になって、やちよの周りで陽気に踊り出す。足指は相変わらずにぎにぎと、やちよを掴んで離さなかった。
(可愛い子)
 甘えんぼうな恋人に苦笑を零し、けれど何も言わないまま。友人達にからかわれながらも、楽しい夜は更けていった。


***


 帰りの車の中、またいろはに足を小突かれて、やちよはきょとんと首を傾げる。
 翼人用の車は、背もたれが少し面白い形になっていた。翼を置けるようにと、クッションの一部が窪んでいるのだ。車内も全体的に広く、天井が高い。父がこだわっただけはあって、翼を出したままのいろはでも乗りやすそうだった。
「なに?」
「……わかんない」
 その車の後部座席。運転席からは窓とカーテンで仕切られたその場所で。やちよがした何度目かの質問に、いろははようやく新しい答えを返してくる。少し困ったような笑顔で彼女自身も首を傾げ、その最中にももう一回。
「……なによ」
「わかんないけど、こうしたいんです」
 とんとん、つんつん、にぎにぎ。尖った鉤爪の先で傷付けないようにやちよをつつき、たまに趾全体が触れる。そのまま足首を掴んで引き寄せようとするいろはに、やちよは相変わらず不思議そうな顔だ。
 パーティーが終わったので、やちよは錠を締め直している。いろはも一応は試したようだが、相変わらず上手くいかないようだった。今も翼を出したままで、足指が相変わらずやちよを掴んでいる。
「なによぉ」
「んー」
 ぐいーっと引っ張ってくる力に抵抗しないでいたら、いろははなんだかとても嬉しそうな顔をした。首の周りの細かい羽をふわりと持ち上げ、そこに自らの顔を埋めるようにして。その喉からキュルキュルと甘えた声を響かせる。
「いろは?」
 キュルキュル、キュルキュル。高い音で鳴きながら、自由な腕がやちよを引き寄せた。足首を掴んだ鷲のそれは変わらずやちよを引っ張り続け、気付けばすっかりと座席の上に引き倒されている。
(ああ……なんだ)
 キュルキュル、キュルキュル。いろはは何も言わない。ただ嬉しそうな顔で鳴き続け、羽を膨らませてはとろりと微笑みかけてくる。仕舞えなくなった翼でやちよの体を包み込み、それでも足りずにその両腕が強く腰を抱いた。少し乱暴なその力に息を吐いて、やがてやちよも嬉しそうに、まるで蕩けるように目を細める。
「……求愛期だったのね」
 成熟途中に求愛期を迎える幼体は少ない。だからやちよもすぐには気付いてやれなかった。求愛期は、番を得てから初めて経験するものだ。成人し、相手を見つけてからそれを知る者も多い。けれどいろはは今だった。もう求愛する相手がいる。やちよがいる。やちよを番として認識し心の成熟を終えたいろはは、他より早くその瞬間を迎えたのだ。
 やちよの足に自らのそれを絡ませ、たまに趾で掴んでくる。首どころか耳の飾り羽までふわりと広げて、彼女の全身がやちよへの愛を囁いていた。
「いろは……」
 それ以上、いろはが何をしてくるわけでもない。やちよを引き倒してその上に覆いかぶさり、けれどその瞳に浮かぶのは、肉欲ではなく愛情だけだ。にぎにぎと、趾を何度も開閉してやちよの足を揉みながら、高い声が甘く響く。何度もキュルキュル鳴きながら、いろははやちよにキスをした。たくさん、たくさん、我慢できないと言うように。
 その体温を受けながら、やちよは目眩がするようだ。いろはが触れてくれる度にくすくすと心が疼いて、なんだか涙が出そうになる。愛されている実感はやちよをいくらでも幸せにして、その満足感から深い深い溜息が漏れた。
「いろは」
 キュルキュル、キュルキュル。いろはは相変わらず何も言わない。やちよを抱きしめて鳴きながら、額をこすりつけてくるばっかりだ。
 その仕草を受けとめて、その温もりを受けとめて、その求愛を受けとめて。やちよはただただ目を細める。
「いろは」
「……やちよさん」
 覆い被さるいろはの背中に腕を回し翼の付け根を掻いてやれば、くすぐったそうな彼女が笑った。やっと出てきた言葉は恋人の名前で、それにまた嬉しくなる。いろははやちよを喜ばせる天才だ。
「……私も好きよ。いろはが好き」
 キュルキュルという声に返事をすれば、いろははとろりと目を細めた。そしてもっと盛んに鳴きながら、またやちよにキスをする。たくさん、たくさん、我慢なんかせずに。
 それがとても嬉しかったから、やちよもまた、いろはを強く抱きしめるのだ。きめ細やかな羽に顔を埋め、その翼に守られて。
「いろは……」
 きっとこの瞬間、やちよは何度目かの恋に落ちた。全身で求められ、心の底から求愛されて。その愛に溺れて、何度目かの恋に落ちる。何度も何度も、いろはだけに落とされる。
「……私も、好き」
 キュルキュル、キュルキュル。その音色に答えながら、一筋だけ涙が零れた。恋に落ちた先でいろはに沈み、ふわふわと心が浮かべば愛になる。それが心地良く幸せだから、涙が出た。
 幸せだと涙が出るものなのだと、改めて実感した……夜だった。