どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

翼人05


 いろはが自身の立場を知ったのは、コロニーに入った次の年だった。まるで本当の姉を慕うようにやちよを追いかけるいろはを見て、大人達は少し焦ったのかもしれない。やちよが試験を受けている間に呼び出され、やや遠慮がちに説明を受けた。許嫁って知ってる? という言葉から始まった説明会は、血統書付とその妹について、そして番について、最終的には交尾についてまで及んだものだ。

  実はその時には、いろははもうやちよと切っても切り離せない関係になっていたのだが、大人達はそれを知らない。二人の親しさが姉妹としてのそれではなく、恋人としてのそれだとは思わなかったのだろう。
 今になって考えれば、まあそれも仕方ないかなとは思う。だってあの時の二人は、丸きり大人と子供だった。出会ってから成人までのわずかな間に、やちよはだいぶ成長したのだ。今のやちよよりほんの少し小さいくらいまで大きくなって、体つきだって完全に大人のそれだった。獣人は早熟だ。十四~十六歳の間には体が出来上がってしまう。だからこそ、と述べるべきか、それ故に、と述べるべきか、とにかく大人達は危惧したのだろう。このまますっかり親子のような関係になってしまっては困る、と。
 少し詰め込み気味の説明を受けたいろははといえば、あっけらかんとしたものだった。むしろ何故今更そんな説明を受けるのか、疑問に思ったくらいだ。当時のいろはは、もうやちよの恋人として、あるいは番としての自負が芽生え始めていた。自分からキスをするのは恥ずかしくて出来なかったが、既に執着心も独占欲もあった。やちよが誰か他の獣人と仲良くしていれば、敵意を剥き出しにする事だってあったのだ。
 だから、大人達から説明を受けた時『今更』と思ったし、許嫁の話はむしろ、いろはを喜ばせただけだった。
「早く大きくなりたいなぁ」
「どうして?」
 数週間に渡る成人試験。今日も今日とてそれを受け、出口で待っていてくれたいろはと手を繋ぐ。やちよの小指だけを握る仕草はとても幼いものだったが、手を繋ぎたがってくれる事がなによりも嬉しかった。
「だって、かっこわるいもん」
「そう? 小さいのも可愛いと思うけど」
「子供はいやです」
 やちよの質問に唇を尖らせて、いろはは少し不満げだ。最近はやたらとカルシウムを摂るようになり、背が伸びる体操も頻繁に繰り返している。寝る子は育つを信じて早寝早起きを心掛けているようだし、一日に五回は柱に向かった。そして変わらない身長に不貞腐れて、やちよの膝に顔を埋める。そんな毎日。
 嵐の一件以来すっかりと心を許したいろはは、そこから一気に甘えたがりになった。コロニーに入る時に両親が提出した書類。その性格欄の部分には『大人びていて物静か。真面目で引っ込み思案』と書いてあったが、中々どうしてお転婆な部分もあるし、年相応に子供っぽく、甘えたがりな部分だっていくつも見えた。
「身長よりも、甘えん坊の方がかっこわるいんじゃない?」
「それはいいんです」
「どうして?」
 それは何故かと考えるにつけ、断片的な本人の談が役に立つ。曰く、家では多少無理をしていたらしい。一番甘えたい盛りに妹が生まれ、甘えたくても甘えられなかった。その妹が病気になってからは、落ち込む両親に面倒をかけないようにと必死に大人ぶっていたのだ。そのまま十を迎えコロニーに入って、そこで突然、いろはは姉から妹になった。自分だけを見て、自分だけを甘やかしてくれる人が現れたのは、彼女にとって大きな転機だったのだろう。確認のように触れては受け入れられる事を喜び、嵐の日にやちよを呼んで、抱きしめられた事で全てが弾けた。今までしてきた我慢が一気に押し寄せた事で、めでたく甘えん坊のくっつき虫が誕生したわけだ。
「急にあまえたさんをやめたら、やちよさんが寂しがるもん」
 得意顔でそう言ういろはに、やちよは思わず笑ってしまった。確かにその通りかもしれない。今まで散々くっついてきた子が急に離れたりしたら、きっと寂しくて仕方ない。それどころか、嫌われたのかと不安になって、夜も眠れなくなるかもしれないなと思った。結局はどっちもどっちだ。
 いろはは甘える事をやめようとしないし、やちよもそれをやめさせるつもりがない。お互いの利益が完全に一致しているので、恐らくどれだけ経ってもこのままだろう。
「いつかやちよさんより大きくなるの。たくさんやりたいことがあるんです」
「へえ? どんな事?」
「ないしょ!」
 優しい顔をするやちよに、いろははべーっと舌を出した。いつまでも優位に立っていられると思うなよ、という宣戦布告のつもりだ。
(早く大きくなりたいなぁ)
 いろはは何度でもそう思う。守られて、可愛がられて、面倒を見てもらって。それはもちろん嬉しい。やちよに甘やかしてもらうと、いろははいつもぐずぐずになってしまう。とろとろに溶けたチョコレートみたいに、甘くて濃い幸せに包まれる。けれどいろはは、やちよをそうしてみたかった。いつも優しい顔をして、怒る事だって滅多にない。大人で綺麗で遠い人を、いつか自分に夢中にさせてみたい。いろはがやちよに甘やかされ守られている分を、いつかまとめて返してあげたい。
 何度だって、そう思う。
「待っててください」
「なにを?」
「……いつかを」
「? わかった」
 けれどまだ、それを言うだけの勇気はなかった。今は身長差がありすぎて、どんなに格好をつけようとしても甘えているようにしか見えない。せめて目線の高さが同じくらいになるまで……可能なら身長を追い越せるまでは、可愛い妹の立場に甘んじよう。
 誰にともなくそう宣言し、あるいは自分自身に誓いを立てて、いろははふんと拳を握る。下剋上の決意など露とも知らないやちよは相変わらず優しい顔をしたままだが、今はまだそれでいい。もう少し甘やかして欲しいのも本音だし。
 思いながら、せめて握る指を一本から二本に変えてみる。小指だけでなく薬指も握ったら、やちよは嬉しそうな顔をした。親指でそっといろはの手の甲を撫でて、微笑む彼女は綺麗だった。
(きれい……すき。かわいい)
 いつか、素直にそう言えたらいい。いつか、笑わずに受け入れてくれたらいい。可愛いなんて言ったところで笑われる。綺麗なんて言ったところで優しい顔をされる。それが少しだけ不満ないろはは、またしても考える。もう何度目かもわからない、早く大きくなりたいな、を。


  * * *


 そして、今。
「可愛い、やちよさん」
 自分の下で真っ赤になっている姉に、いろはは何度でもそう囁くのだ。溜めこんで、我慢して、ある日突然爆発する。それを自分でも悪癖だと思うのに、どうしても直せなかった。妹の立場に甘んじている間、ずっと我慢していたその言葉。思うままに言えるようになれば嬉しくて、ついついやちよを泣かせてしまう事も多かった。
「かわいい……」
「いろは……っも、ゆるしてぇ……っ」
 やちよが部屋に戻ってきてから一週間。未だに翼を仕舞えないながら、彼女の体調はだいぶ良くなったようだった。する? と問いかけられてすぐさま頷いたいろはがやちよを組み敷いてから、もう二時間。本来は簡潔なはずの交尾が、やちよ恋しさにだいぶ長くなっている。獣人同士のそれは大分即物的で、始まりもあっさりとしていれば、終わりもかなりあっさりしたものだ。なのにかれこれ二時間も、いろははやちよを抱き続けている。
「もう無理……っ、おねが、ゆるして……っやすませてぇ」
「……まだ駄目」
 病み上がりなのはわかっていた。本調子でない事も理解している。それでもどうしても我慢が利かず、いろはは再び腰を動かしだす。
「あん、っん、あ……っはぁ」
「……っかわいい、やちよさん」
 秘部同士を擦り合わせ自身も荒い息を吐きながら、いろはの顔に浮かぶのは幸せそうな笑顔だ。キュル、と喉を鳴らして羽を膨らませ、数週間ぶりの体を必死に貪る。求愛期のような疑似捕食欲求は起きなかったが、まだまだやちよが足りなかった。飢えて飢えて仕方ない。だってこんなに恋しかった。
「いろは……っも、あぁ……っ」
「いいよ。可愛い顔、もっと見せて……」
 もう何度目だろう。数えるのを諦めるくらい絶頂を迎えた体が、また小刻みに痙攣を始める。それに合わせて管を出しながら、いろはもぶるりと体を震わせた。
「あっ、いろは、いろは……っい、く、っあ、あぁ!」
「っ……やちよさん」
 びくん、と震える腰を押さえつけ、こちらも何度目かわからない射精をする。一回一回の量はとても少ない物なのに、何回も立て続けに出したせいで、精液がすっかり膣を満たしていた。そして今回の絶頂で、それがくぷりと溢れ出す。
「あっ、ん……あ、いろはぁ……っそれ、いやぁ……っ」
「零すからでしょ?」
「んんっ、あ、だめ、また……っきもちよく、なっちゃうから……っ」
「……じゃあもう一回いかせてあげる」
 やちよが震える度に胎内が痙攣すれば、注がれた精液がとろりと零れた。それを指ですくって胎内に戻してやれば、やちよが切なげに眉を寄せる。簡単に新しい熱をくすぶらせる番に微笑んで、いろははゆっくり体を離した。そしてやちよを愛撫するものを自身の秘部から指に変え、強く腰を抱き上げる。
「や、だ……っ! 見ないで、みな……っ」
「この体勢じゃないと零れちゃう」
「みないで……っ」
 そのままやちよの両足を肩にかけると、彼女は顔を覆って泣き出してしまった。それでも抵抗したり逃げたりしないのが、いろはをどうしようもなく悦ばせてならない。すっかり従順になった番は、愛らしくも艶やかだ。追いかけ続けた相手を組み敷いた事実は、捕食者としてのいろはを満足させる。
「かわいいよ、やちよさん」
「っっ……ひ、あ」
 割開いた秘部。膣に二本の指を沈め、左右にゆっくり開いてやった。異物が侵入した分溢れた精液を掬いあげてせっせと中に戻しては、その上の固い突起を弾いてやる。
「いろは……っいろはぁ……っ」
「うん。ここにいる」
 秘裂同士を擦り合わせるよりも遥かに明確な刺激に、やちよが堪らず悲鳴を上げた。必死になっていろはの翼を掴む姿は扇情的で、背筋を淡い快感が駆け抜けていく。
「いろは、やだ、っや……つよ……っ」
「たまにはいいでしょう? ほら、いっていいよ」
「っっ、んん、あっ、やっ……っだめ、つよいの、こわい……っ!」
「怖くないよ。私がしてるんだから。大丈夫」
「やだ、やだぁ……っ!」
 普段は滅多にしない行為に、やちよが少し逃げ腰になる。快感から逃げようと反射的に足を閉じるので、顔を挟まれる事になったいろはは少し笑ってしまった。それでも手を休める事なく、そしてやちよを逃がす事もせずに、確実にその体を頂きへと押し上げていく。
「怖くない。気持ちいいでしょ。ほら、我慢しないでいっていいよ」
「や、だ、やめ……っいわないで……っ」
「いって」
「っっひ、あ、……っや、あぁ、っあぁぁっ!!」
 言葉で攻め立てられて、やちよはあっさりと体を震わせた。腰が大きく二度跳ねて、その後もしばらく強い痙攣を繰り返す。
「……も、やめ……っ」
 その頬に幾筋もの涙の痕を見つけたので、ようやくいろはは手を緩めてやった。抱え上げていた足を解放してやちよの体を下ろしてやると、どん、と一回蹴り飛ばされる。
「ばかぁ……っ」
「いたた」
 割と容赦のない力だった。蹴られた足を擦りながら、いろはは少し眉を下げる。どうしてって、そそられて仕方ないからだ。
「やちよさん」
「やっ!」
 ぎゅっと体を丸め、自分を守るように翼に隠れる姿。極力いろはから距離を取ろうと大して広くないベッドの上を壁際まで移動して、背中を向けるのが堪らなく愛しくて。
「やちよさん」
「やだ、ばか、あっち行って」
「……ふふ」
 本当に怒ったならこの程度では済まない。力一杯の拳骨の痛みを、いろははまだしっかりと覚えている。びゃあびゃあ泣く自分を放ってやちよが部屋を飛び出していった時は、本当に本当に怖かった。しばらくして戻ってきてくれた時は心の底から安心して、もっと泣けてしまった事も……まだしっかりと覚えている。きっと一生忘れない。
「謝らないよ」
「……っ」
「だって、好きだから交尾したいんだもん。好きで好きで我慢できないから、何度も触れたくなるの。やちよさんが寂しくさせたから、こんなに我慢できなかったんだもん。だから私、謝らないよ」
「……ばかぁ」
 言外に責任を求めたら、やちよはそう言ってもっと小さくなった。その拍子にちらりと見えたお尻に少し興奮したが、さすがにこれ以上やると怒られそうだ。記憶の焼き直しは遠慮したい所なので、いろはは黙ってやちよに体を寄せる。
「くっついてていいですか?」
「だめって言ってもくっつくんでしょ……」
「うん。くっつき虫だから」
「……もう」
 恋人がいつも言う言葉をわざと使えば、肩越しに彼女が笑った。翼の置き場に困って結局こちらを振り返るやちよに、いろはは腕を広げて微笑みかける。
「……もうちょっと優しくしてよ」
「本気で言ってる?」
「……うそ」
 その腕に捕まりに行きながら、やちよはぽつりと呟いた。素直な番に吐息だけの笑みを零し、細い身体を抱き寄せる。ぎゅっと強く腕の中に閉じ込めれば、やちよが満足そうな溜息を吐くから。
 いろはもただ嬉しくなって、彼女の髪に顔を埋めた。


  * * *


 翌日の早朝。二人揃ってぱかりと目が覚めて、折角だからと外に出た。そしていろはは運動場へトレーニングに。病み上がりの上に昨日無茶をさせられたやちよは、校舎棟の屋上に。
「……気持ちいい」
 生活棟の屋上庭園が開くのは六時からだ。校舎棟の屋上には倉庫に入りきらなかった備品があれこれと置いてあるので、朝の四時には見回りの教師が鍵を開けておいてくれる。大して綺麗でもないし、剥き出しのパイプが好き勝手に走り回る雑然とした場所だ。けれど給水塔の上まで登れば、コロニーのどこよりも視線が高くなる。深い森の奥に作られたコロニーの周りには、他に高い建物もない。十二階建ての校舎に登れば、遮るものが無い分景色だけは綺麗だった。
「ふふ、頑張ってる頑張ってる」
 それにここからは、運動場がよく見えるのだ。翼人がよく使う巨木から一番近いのは、生活棟のカフェテラス。だがいろははもう、短い距離をひたすら往復する段階を過ぎている。広い運動場全てを使って飛ぶ姿を見るには、ここからが一番良かった。
「小回りは苦手か。無理もないわね」
 とても高さのあるアスレチック、とでも表現してみよう。人間のやる玉蹴り……サッカーとか言ったか。その芝生くらいの広さの敷地に、様々な物が置かれている。巨人の階段と呼ばれる巨石は、猫人の跳躍練習用。二本並んだ立派な巨木は、翼人の飛行練習用。その間に渡されたワイヤーとタイヤ類は、猿人の樹上移動の練習用。そしてその芝生を整えているのは蹄人だ。その他にも多種多様な設備を備えたその場所で、いろはが低空飛行の練習を続けている。
 試験ももう終盤だ。あとは急降下による疑似餌の捕獲。そして地面すれすれからの切り返しを残すばかり。それに向けて黙々とトレーニングを重ねる姿に頬を緩め、吹き抜ける風に目を細めた。
「きれい……」
 穏やかに差し始めた、朝の太陽。それが作り出す薄い影の中、黒いシルエットが飛んでいく。力強い羽ばたきが見えれば、その音すらも聞こえてくるようだった。たった一度の羽ばたきだけで強い風切り音を立てて、大きな影は空を舞う。ばさばさというよりごうごうと音を立てて、彼女は何度でも空を裂くのだ。
(きれい)
 二度目は言葉に出さずそう思って、抱えた膝に頬を落とす。そのまま、まるで恋焦がれるようにいろはを眺めれば、時間などあっという間に過ぎていった。
「……?」
 何分くらいそうしていただろうか。太陽の位置はそれ程動いたわけではないので、まだ何時間も経過したわけではない。
(こんな時間に珍しい)
 ふらりと屋上に現れた影に、やちよは何の気なしに顔を向けた。まだ早朝に分類される時間。大抵の者は眠りについているはずだし、起きている者だっていろはのようにトレーニングに勤しんでいる者ばっかりだ。庭園がある生活棟の方ならまだ少しは人がいるかもしれないが、好き好んで校舎棟の屋上に足を踏み入れる者は少ない。
(物好きがいたものね)
 すっかりと自分の事など棚に上げ、物珍しく少女を見やる。少しふらふらとした足取りの彼女は、コロニーに入りたてだろうか。まだ小さな体は無駄にくにゃくにゃとしていて、その歩みもどこか心許ない。思わずまじまじと観察してしまったが、彼女がやちよに気付く気配はなかった。当然だ。だって。
(浸食……っ!)
 まだ幼い体の至る所から、突き破るようにして羽が飛び出している。その姿を視認した瞬間、やちよはひゅっと息を呑んだ。
「待って!!」
 『浸食』
 先祖返りの雑種に、時々起こる身体異常だ。突出期を迎える前の幼体にのみ発症し、彼女達を本来あるべき野生へと突き動かす。生来体の弱い個体や成長の遅い個体。他には小鳥ばかりだった翼人の家系に急に大型猛禽類が雑ざったり、イエネコ種ばかりで交配していた猫人に、獅子やジャガーなどの血が雑ざった場合に起こりやすい。器の深さに対して力と血が強過ぎた時に制御が利かなくなり、野生が器を食い破ろうとするのだ。
 猫人や犬人など、陸で生活する獣人ならばまだいい。浸食が起こった所で、精々気性が荒くなる程度だ。けれど翼人や鰭人、人間の生態から離れた野性を持っている獣人が浸食されれば、ただでは済まない。鰭人ならば大海原を目指して泳ぎ続け、翼人ならば……。
「まって! 待って!!」
 声が届かない事なんてわかっている。獣の血に支配された少女に、人としての言葉なんて届かない。それでもやちよは、呼びかけずにはいられなかった。静かな早朝の空気にその声はよく響き、運動場にいた獣人達が動きを止める。ぱらぱらと顔を上げる生徒達の中、すでに走り出しているいろはを視界の端におさめて、やちよはぎゅっと眉根を寄せた。
(お願い、待って……っ!)
 大した距離ではないはずなのに、自分の歩みが異様に遅く感じる。風で後押しをしているはずなのに、ちっとも距離が縮みやしない。少女の歩みは、ふらふらとしたものから駆け足に変わっている。大空へ舞い上がる為に、その両足が助走を始める。
「いや、だめ……っ!」
 翼もないのに。絶対に、飛ぶ事なんてできやしないのに。少女はただ、嬉しそうに両腕を広げる。
「だめぇぇぇえええええっっ!!」
 タン、と。軽い踏み切りの音がした。それと同時に小さな体が宙に落ち、そして。
「っ……!!」
 それを追いかけるように、やちよの体も空へと飛び出していく。いつものように翼を畳み、ビュウ、と耳に風を聞いた。もの凄い速度で地面が迫る。それでもやちよは、まだそこまで焦ってはいなかった。確実に間に合う。何事もなく助けられる。そう確信していたからだ。そして冷静に手を伸ばして、翼の真似事のように広げられた少女の腕をしっかりと掴んだ。その瞬間。
「がっ……ぐ、なん、で!」
 見ている者も、やちよ自身も。何が起こったのか全くわからなかった。少女を抱き込んだやちよの体が不自然にバランスを失い、その背から翼が消える。魔法の錠が勝手に締まり直したのだと理解するよりも早く、反射神経だけでその手が伸びた。
「う……っうぅ!! っぐぅ……!」
 咄嗟に伸ばしたその指先に、固い壁が触れる。全身でバランスを取りながら少しでもそれに近付き、やっとの思いで凹凸に手が引っかかった。なりふり構わず強くそれを掴んだ途端、ズガンと激しい負荷がかかり、肩と肘、手首から指まで、ありとあらゆる関節に、鋭く凄まじい痛みが駆け抜ける。
「つう……っ」
 それでも、それでもだ。なんとか最悪の事態は免れた。
「……っく」
 地上までの距離はおよそ二十メートル。建物の高さとしては六階と七階の間くらいだろうか。少しだけ突き出した飾り部分にしがみついて、やちよは痛みに歯を食いしばった。このままではいくらも持たない。今はとにかく、魔法だけでも使えるようにならなくては。そう思っては閉じてしまった錠を開き直そうとして、上手くいかない事に全てを察する。
(この子、キメラだわ……っ)
 合成獣だけに備わる固有魔法。他の獣人には決して持ち得ないその力は『他者への作用』だ。かなえがいろはの錠を締め直したのと同じように、合成獣は他の獣人の変化を操る力を持つ。本来なら無暗やたらに発動する力ではないし、そもそも制御がとても難しくて、本人が望んでも上手く使えない事が多い能力だ。かなえだって血の滲むような努力を続けて、やっと魔法の制御を覚えたはず。
(キメラの浸食……こんなに厄介なのね……っ)
 けれど今の少女は、獣の血に呑み込まれている状態だ。本人の意思どころか、意識すら関係ない。脆くなった器を突き破ろうと、全身から毛や角が飛び出し続けている。
「大丈夫か! 今行くぞ!」
「っ来ないで!!」
 必死に打開策を探すやちよに、すぐ近くの窓から声がかかった。猿人の教師が窓の柵に尻尾を絡ませ、それを命綱にしてこちらに近づこうとしている。痛む腕に助けは有り難かったが、少女が合成獣だとわかった以上、うかつにその好意を受け入れるわけにはいかなくなった。その手に体を預けてしまえば、絶対に合成獣の魔法が作用してしまうだろうから。
「この子、キメラよ! 変化は駄目! ロープか……はしごを!」
「っ! わかった! もう少し頑張れ!」
 叫び、彼女を追い返して、けれどやちよの腕はそろそろ限界だった。蹄人の能力で草木を茂らせてもらおうかとも思ったが、真下はコンクリートの地面だ。草花が遠ければかなりの時間がかかるし、大した量も重ねられないだろう。果たして救助が間に合うだろうか。考える間にも小指が外れる。
(はやく、はやく……おねがい)
 獣人ばかりのコロニーには、普通の道具なんて殆ど置いていない。天井の電球を替えるのは翼人の仕事だし、窓を拭くのは尾の長い猿人の仕事。高い所の物を取るなら猫人を呼べばいいし、草を刈りたければ蹄人を遊ばせてやればいいだけだ。道具など、ましてロープやはしごなど、訓練以外で必要とする機会がない。
「やちよさん!!」
「いろは……来ないで! キメラなの、錠が閉まる!」
「でも……っ!」
「おねがい……! あなたを巻き込みたくないの……っ」
 右腕で少女を抱いて、左腕一本で壁に縋る。そんなやちよの頭上。屋上から身を乗り出したいろはは、すでに翼を広げた状態だった。今にも飛び出してこようとする彼女に必死になって懇願し、やちよの瞳に涙が浮かぶ。
「おねがい……っ」
 長くは持たないと言っても、すぐではない。もしかしたら救助が間に合うかもしれないのだ。今事を急いで錠が閉まり、いろはまで地に堕ちるのは耐えられなかった。
 台風の時もこの間も、ただ運がよかっただけだ。今度は死ぬかもしれない。未来なんてわからない。
「っ……絶対助ける!」
「いろは……いろは!」
 泣き出すやちよを数瞬見つめて、いろはが頭を引っ込める。去っていく彼女に慌てて呼びかけるも、もう返事は聞こえなかった。
「いろは……っ」
 近くの窓からは、大勢の怒声が聞こえている。訓練場から引っぺがして来い! という叫びにやっぱりなと顔をしかめ、最悪の事態に身構えた。震える腕で少女を抱き直せば、その衝撃でまた一本。今度は薬指が外れた。
 本当にもう、いくらも持たない。
 そう考えたのは、いろはも同じだった。むしろ今ここにいる誰よりも、彼女が一番やちよの限界を理解している。ロープだのはしごだの、そんな物悠長に待っていられるものか。考えながらさっと周囲を見回して、思わず乱暴に舌打ちをした。
(距離が足りない……っ)
 生活棟の屋上とは違い、校舎の屋上は整備されていない。パイプが剥き出しになり、給水塔に室外機、果ては倉庫に入りきらなかった運動器具まで放置されている。元々の広さ自体も大したことはない上に、障害物が多すぎた。
(どうする、どうする、どうする……っ!)
 いろはの翼は大きい。一度風を掴めば、ちょっとやそっとの事では堕ちたりなんてしないだろう。けれどそれは、十分な助走を得られていればの話だ。
(今から生活棟に行く? ううんそれじゃ間に合わない……っ)
 いろはの翼は大きい。けれど大きいが故に、重さも相当な物になる。その翼で空を掴み速度を得るためには、かなりの助走が必要だった。最悪距離がなかったとしても速度を得られればいいのだが、こう障害物が多くては自転車などで助走をつけるのすら不可能だ。
(どうする……っ)
 現状、最も安全に二人を助けるためには、降下ではなく上昇をするしかないだろう。降下は確かに素早いが切り返しが必要なので、途中で翼が消えてしまえばただの弾丸自殺にしかならない。ならば最大速度で下から接近し、二人を掬い上げて上昇する。後は翼が消えたとしても、勢いだけでこの屋上に戻ってこられるはずだ。一度高度を得て旋回、急降下しながら二人に近付き、素早く上昇して体を掴む。恐らくその瞬間に翼が消えるので、体でバランスをとって……。
 考えるだけならいくらでもできた。けれどそれをするためには、あまりにも助走の距離が短すぎるのだ。しかも運が悪い事に、今日は風が殆どない。いろははやちよ程気流を掴むのが上手くないし、何よりも小回りが利かないのだ。大きな翼では上昇に相当な時間を食うし、落下で速度を得ようにも運動場の設置物が邪魔だ。やちよならほぼ垂直の切り返しが出来るだろうが、いろはは一定時間の低空飛行を必要とする。正直言って八方ふさがりだ。
 それでもいろはは、やるしかない。
「ここならまだ……っ」
 一度錠を閉めて、可能な限り空気抵抗を減らす。大慌てで少しでも広い場所を探し、足の置き場を計算しながら屋上の端まで下がった。そして一度深呼吸をして、一歩踏み出そうとしたところで。
「いろはさん!!」
 バンと大きな音を立てて扉が開き、必死のみふゆに名前を呼ばれる。その声に振り返って彼女の姿を見た瞬間、いろはは全てを察した。弾かれたように走り出しながら、一度閉じた錠を再び開く。その途端に大きく広がる翼の下。体を屈めてそれを避け、みふゆがさっと腕を伸ばした。二人の視線が交差したのは、わずか一秒。
 短い平地を全速力で走りながら、そのまま伸ばされた腕に捕まる。それと同時に強く体を引かれ、いろはは迷わず地面を蹴った。風を纏った体がふわりと浮かび上がり、やがて着地したのはみふゆの背中だ。
「後押しを!」
「はい!!」
 蹄人。使える魔法がぱっとしない彼女達は、その代わりのように、変化の時はほぼ確実に蹄を得る。そして山羊や鹿ならば、斜面を駆ける事が出来るようになるのだ。その深獣人であるみふゆには、さらにもう一つ。蹄人の深獣人にしか発現しない特殊能力が備わっている。
 それが、形態変化。通称ギアチェンジと呼ばれるこの能力は、彼女の体をケンタウロスのように変化させる。変化の錠を開いてからもう一つ錠を開いた先で、より強く、より早く大地を駆けるのだ。
「わっ」
 四本の足が、強く地面を蹴っていた。軽やかに障害物を避けてぐいぐいと速度を上げる体に追い風の援護をしながら、いろはは小さく悲鳴を上げる。風の抵抗を受けないように体をすぼめながら、その背でバランスを取るのは中々難しかった。
「鉤爪でつかまりなさい!」
 そんないろはにきつく命じて、みふゆはもっと速度を上げた。張り巡らされたパイプを飛び越える姿に澱みはなく、蹄の音すら涼やかだ。
「っでも!」
 変化した足。鋭い鉤爪をみふゆの体に喰い込ませれば、確かに安定は得られるだろう。けれどこのサイズの爪が喰い込めば、軽い傷で済みはしない。
「やっちゃんの命に比べたら! これくらい屁でもありません!」
「……っ!」
 躊躇ういろはに、再び鋭い声が飛んだ。大声で叫ぶ彼女に目を見開いて、同時に少し悔しくなる。番の絆よりも強いかもしれない親友の絆に、なんだか負けたような気がしたのだ。
「……遠慮なくいきますよ!」
「どうぞ!」
 ああ、悔しくて仕方ない。それなのに、少しだけ嬉しい。自分自身にも説明できない不思議な気持ちで、いろはは少し微笑んだ。みふゆの言う通りにその体に鉤爪を喰い込ませて、より一層体を小さくする。どんどんと迫る屋上の端。目視で角度を確かめながら、いろはは大きくこう叫んだ。
「少しだけ角度がいります!」
「どれくらい!?」
「ほんの十度……ううん、五度あればいい!」
「わかりました!!」
 その言葉に頷いて、みふゆが軽快にコンクリートを蹴る。三度目で行ってくださいという声に応を返し、タイミングを見計らって足を曲げた。
「行きます!」
「はい!」
 トーン、トーン、ダンッ!!
 障害物を越え、軽やかに跳躍し、最後の一歩で強引にブレーキをかける。強く後ろ脚を蹴り上げると同時にいろはが曲げていた膝を伸ばせば、その体が弾丸のように空に飛び出していった。慣性の法則……というよりは、舞台のポップアップ装置だろうか。もしくはピッチングマシーン。押し出す力と飛び出す力がタイミング良く合致して、通常からは考えられないような跳躍力を生み出した。
「っ二十度! みふゆさん最高!!」
 鋭く空に飛び出しながら、いろはは思わず叫んでしまう。旅客機の離陸角度と殆ど一緒だ。翼人にとっても一番好い上昇角度。翼が風を捕えやすく、かつ空気をあまり乱さない。揚力を一番得られるこの角度ならば、速度を落とさないまま必要な高度まで昇りきれる。最速で、やちよの元まで行ける。
「いろは……?」
 ゴッ、と。鋭く重い風切り音がした。もはや感覚のない腕で必死に壁に捕まりながら、首だけを巡らせた所でやちよははっと息を呑む。まだ低い位置にある太陽を真っ二つに裂き割って、黒い影が急降下するのが見えたからだ。
「っ……」
 二人の間に、声はなかった。やちよは何を指示されたわけでもない。それでも一瞬交差した視線に全てを察して、最後の力を振り絞る。
(信じてる)
 投げ出したままの足を曲げ、それを壁に当てた。そして彼女の翼が奏でる音だけを頼りに、強く足を伸ばす。それと同時に手が離れて、けれどやちよの体は落下する事などなかった。
「っっ……!」
 耳のすぐ傍。いや、全身で風を裂く音を聞き、それと同時に体が浮く。背中と膝裏に力強い衝撃を感じた次の瞬間には、やちよは少女共々空へ掬い上げられていた。
 いろはが助けてくれたのだ。それを実感しても、安堵する間は用意されていない。屋上の縁を越え、余裕を持って三メートル。いや、もう少し浮き上がっただろうか。無事にそちら側に体が放り込まれても、いろはの背中にはもう翼が生えていないのだ。合成獣の抑制能力によって、すでに錠は締め直された後だった。
「くっ」
 視界の端でみふゆが魔法を使うのが見えたが、恐らく間に合わないだろう。彼女の魔法は時間がかかる。落下地点がわかってからの時間があまりにも短すぎれば、咄嗟の対応は難しかった。
「いろ……っ」
「黙って!」
 呼ぼうとする声を遮って、いろはは鋭くそう叫ぶ。そしてやちよを強く抱きしめると強引に体を捻り、自身の体を盾にした。
「っっ……!」
 ドン、と。衝撃は一回。呻き声は聞こえなかった。その代わりに何かが砕ける音と、水が弾ける音。この間の落下よりもずっと強い衝撃がやちよの体を走り抜けて、脳がぐわんと揺さぶられる。痛めた腕では少女の体を支え切れずに、小さな体を放り出してしまったのが申し訳なかった。
「やっちゃん! いろはさん!」
 慌てた様子のみふゆが、足音を響かせながら駆けてくる。その間にも屋上にたくさんの獣人が上がってきて、その中から一人、とりわけ背の高いシルエットが少女に駆け寄り、荒れ狂う獣の血に強引に錠をかけた。
「っっ」
「うわぁ!」
「きゃあ!!」
 その瞬間に強い風が起こり、みふゆも含め、二人に近寄ろうとしていた全ての者が数歩後ずさる。
 突風と表現してもまだ足りない。それ程に強い風に押されて、変化した熊人(くまびと)すらもたたらを踏んでいる。それは結界、あるいは防壁。そう評した方が正しい、まさしく壁のような暴風だった。
「いろは……っ! いろは!」
 その風を起こしている張本人。真っ赤な水たまりの中に膝をついたやちよが、必死の顔で叫んでいる。番を呼ぶ横顔に余裕はなく、その翼が混乱と焦りで持ち上がっていた。その腕の中、白い肌を自らの血で染めたいろはに意識はない。
「いろは、いろは、いろは……っ」
「やっ、ちゃん……っ!」
 屋上を走るパイプに、強かに体を打ち付けたのだ。強制的にかけられた錠のせいで、風の魔法が使えなかった。そして三人分の体重を一身に受け、砕けたパイプでどこかを深く切ってもいる。それはわかった。
「やっちゃん……っ! 翼を仕舞って! 落ち着いてください!」
 割れたパイプから溢れる水に触れて、傷痕が中々乾かない。そうこうしている間にもどんどん血が噴き出していくのに。早く処置をしたくても、やちよの風が邪魔で近寄れない。
「やっちゃん!!」
「まかせて」
 必死に近付こうとするみふゆに、そっと穏やかな声がかかる。彼女の肩を優しく叩いたかなえは、荒れ狂う風を物ともしないようだった。すたすたとやちよに近付いてその肩を掴むと、先程少女にしたのと同じように、強引に錠をかけ直す。
「がっ……う、ぐ……っ」
「抵抗しないで。痛いだけだ」
「いろ、は……っ」
「大丈夫。任せて」
 そのまま一時的な封をかけようとするが、やちよは必死になってそれに抵抗した。かなえの手から逃げるように体を屈め、いろはの上に覆い被さる。そのまま高く翼を上げる姿は威嚇その物で、かなえは少しだけ眉を下げた。
「落ち着いて。これじゃ治るものも治らない。環を助けるためにも今は一旦力を抑えなきゃ」
「っ……いろは」
「うん。いろはを助ける。傷付けたりしない」
「いろは……っ」
「わかってるよ……落ち着いて。大丈夫」
 お互いに必死だった。いろはを治療するために、荒れ狂う野生を抑え込もうとするかなえ。そして極度の混乱の中、本能だけでいろはを守ろうとするやちよ。
「……っ、っく、しなないで、いろは、おねがい、……いろは」
 力と力がぶつかりあって、ばちばちと電気が弾けるような音を立てた。かなえの力が上手く利かない。錠をかけるという行為自体を、やちよの体が受け付けていないように感じた。
「死なせない。あたしを信じて」
「……っ、あぐ、……いろは、おねがい」
「七海、聞いて。七海……っ」
「いろは……っ」
「七海!!」
「っっっ……!」
 叫んで、出力を最大まで押し上げる。結局最後は強引に力で競り勝って、かなえは大きく肩で息をした。
「っかなえさん……!」
「だい、じょうぶ。ちょっと疲れただけ。環と七海を医務室へ。みふゆも急いで」
「はい……っ」
 かなり強引に封をかけたので、加減出来ずにやちよを昏倒させてしまった。ここまでするつもりがなかった分、こちらも力の消費がかなり激しい。
「……ごめんね」
 意識を失っても、やちよがいろはを手放す事はなかった。その腕が必死に番を抱きしめているのを見て、かなえはしょんぼりと眉を下げる。もう少し緊急性が低ければ、言葉での説得でどうにかできただろうに。焦りが先走ってこんな強引な方法になってしまったのが、どうしても申し訳なかったのだ。
「できれば二人一緒に運んで。手を離すのに時間がかかりそう」
「はい」
 担架を持って近付いて来る象人(ぞうびと)にそれだけを指示し、かなえも医務室に引き返す。いろはの怪我がどの程度かはまだわからないのだ。最悪の事態も想定して、様々な準備を整えておかなくては。そう、思いながら。


  * * *


 ぼんやりと目を開けたら、世界はまだ暗かった。辺り一面真っ暗だ。月も星も見えない。不思議に思いながら何度か瞬きを繰り返し、やがてふと気がついた。この闇は、人工的に作られているものだ。何か大きなものが、ふんわりとこの身体を覆っている。
「……起きた?」
 呼吸が変わったのに気付いたのだろう。闇の中で小さな声が降り、優しく頭を撫でられた。その声と、体温。それが慣れ親しんだ番のものだと理解した瞬間に、一気に意識が覚醒する。
「っいろは!」
「いだだだだっ! いたい!」
 がばりと身を起こすと、闇が割れた。自身に覆い被さる翼を乱暴に押し退けると、横になったままのいろはが堪らず大きな悲鳴を上げる。
「っご、ごめんなさい、あの、え、いろは……えっ? ぅあ……」
「ああもう急に動くから……」
「……っ?」
 慌ててその体から距離を取り、ベッドから降りたところで目が眩む。急な明かりと極度の疲労感。その二つで体がバランスを失うが、いろはの風に支えられて倒れる事は回避できた。
「落ち着いて。大丈夫だからこっちに来て」
「でも、怪我が……」
「背中だけだから。前は平気。おいで」
 胸に包帯を巻いているのを見てそう言えば、いろはが眉を下げて苦笑する。ちょいちょいと手招きする彼女の笑顔には嘘がなく、言っている事が事実なのだとはすぐに察せた。
「……っいろは」
「うん」
 そっとベッドに戻り、広げられた腕に捕まりに行く。そのまま翼も使って抱きしめられながら、やちよはぼろぼろと泣き出した。
「いろは、いろは……っ」
「うん。大丈夫。心配かけてごめんね」
 全身を強く打って意識を失ったいろはが、次に目を覚ましたのは翌日の事だった。起きてみたら背中が痛いわ、場所は医務室だわ、隣のベッドでやちよが眠っているわで混乱したものだ。守り切れずに怪我をさせてしまったのかと慌てて体を起こしたところで、丁度様子を見に来たかなえが説明してくれた。
 曰く、混乱と疲労、少し前までの寝不足、獣の血の暴走、封に抗った事。そして錠をかけてはいけない状態での、外部からの強制的な介入。その全てを一日で受けた事による、一時的な衰弱だそうだ。数日もすれば目を覚ますよ、という彼女の言葉にほっとして、うずくまるやちよを見やった。翼で自身の体を守るようにして、ベッドの上で小さくなっている。その体を守るように微かな風が渦巻いているのを感じれば、珍しいものだと首を傾げた。
 やちよは力の制御がとても上手い。変化している状態でも殆どの野生を抑え込む事ができ、いろはと違って魔法も漏らさない。錠を開いているのに錠を閉じているような、不思議な状態を作るのが上手いのだ。だから寝ている間でも魔法が漏れた事はないし、そんな姿を見るのは初めてだった。
 そして他の何よりいろはを驚かせたのは、彼女の風が守っているのが彼女自身だという事実だ。いろはを守るために風を使う事はままあっても、自分自身を守っているのは見た事がない。そんな彼女が、無意識の中で彼女自身を守っている。
 今日は初めてだらけだな、と感心して、いろははベッドに横たわり直した。彼女を取り巻く風に自分の風を混ぜては髪を撫で、一緒にくるくる躍らせてみる。
 そんないろはを数秒見下ろして、かなえは少し考え込んでいたようだ。視線を感じて問いかけたら、彼女は少し言いにくそうに頬を掻いた。
「いろは、いろは……っ」
「うん、うん。大丈夫。大丈夫だよ。びっくりさせちゃったよね。ごめんね」
 あたしはこれ以上近寄れないんだ、という前置きと共に指示棒を取り出したかなえは、それでやちよの翼を軽く押し上げて見せる。そしてペンライトで影の中を照らし、見える? といろはを振り返った。
「……どうして微妙に離れていくの?」
「あ、と、うーん。あのねやちよさん。落ち着いて聞いて」
「……?」
 最初にそれを見た時の感情を、いろはは今でも上手く説明できない。そして今後も、明確な言葉にする事は出来ないままだろう。
「あんまりくっつくとね、その。えーっと」
「なによ」
「……割れちゃうから」
 うずくまるやちよが抱えていた物。今はいろはが抱えているそれをそっと指し示すと、やちよはぽかんとした顔をする。きっとかなえから説明を受けた時のいろはも、全く同じ顔をしていた事だろう。
「……え」
 一秒、二秒、三秒……たっぷり五秒は沈黙して、やちよが言えたのはそれだけだった。何度も何度も瞬きをして、やっとの思いでいろはを見上げる。すると彼女は眉を下げて、照れくさそうに笑ったのだった。
「改めて挨拶に行かなきゃね」
 拳よりも一回り小さいサイズ。真っ白なそれは、どこからどう見ても卵だった。