どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

女主人とメイドの話01

 

 春が鼻先をくすぐった。
 重苦しいチャイムの音に、彼女は気だるく目を開く。くすぐったいと思ったのは窓から滑り込んだ桜の花びらで、もうそんな季節になったのかと目を細めた。
 花の終わり際はいつでも心を寂しくさせる。出会い別れたいくつかの命を思い出すから。

「切ってしまおうかしら……」
 毎年そう言って、毎年それをできないでいた。その桜には苦い想いもあるけれど、それ以上の楽しい思い出が詰まっている。あの花の下でまどろんだ事、あの花の下で皆と笑いあった事。苦しい記憶以上の大切な思い出があるから、切ろうかと思ってもそれができないまま。
 もう一度、重苦しいチャイムの音。
「……だれよ」
 無視を決め込むつもりだったけれど気が変わった。穏やかな午後を妨げられた文句くらい言ってやろう。
「はいはい……今出るわよ」
 三度鳴り響いたチャイムに文句を言って、来訪者の確認もせず扉を開く。どうせ、失う物など何もないのだ。
「不法侵入よ。警団に突き出されたくなかったら……」
「ひゃっ」
 ごん。
 鈍い音と、感触だった。
 ドアノッカーに手を伸ばした所だったのだろう。思いの外近くにいた来訪者は、勢いよく開いた扉にしたたかに頭をぶつけたらしい。
「……っうぅ、い、いたい、きゃあっ!」
 痛みに頭を押さえて数歩後ずさり、来訪者はそのまま段差を転がり落ちていく。
「……大丈夫?」
 流石に少しの罪悪感を抱いた。段差はたった三段程だが、受け身も取れずに転がり落ちたら相当痛いだろう。
「……だいじょうぶ、れす」
 全くもってそうは見えない。呻く来訪者に手を差し出してやりながら、一つ大きな溜息を吐いた。
「ほら」
 尻もちをついたままの女性、いや少女は、だいぶ質素な格好をしていた。安い生地に手縫いの仕上げ、その中でも綺麗な物を選んできたのだろうが、いましがたの転倒によって生憎の有様だ。
「あ、あ、大丈夫です。高貴な方のお手を煩わせるなんて……」
「もう十分煩わされてる。今更一つや二つ増えても何も変わらないわ」
「で、でも……」
「手を差し出した私の面子はどうなるの? 恥をかかせる気がないならさっさと取ってくれる?」
「……申し訳ありません」
 恐る恐る、といった調子で重ねられた手は、一回り程も小さいだろうか。細く骨が浮いた指に、引き寄せた体の軽さ。
「……あなた、いくつ?」
「あ、はい。今年で十五になります」
「……そう」
 栄養状態が悪いなんて物じゃない。これは少し異常だろう。
「それで? なんの用かしら」
 けれどそれは自分には関係の無い事だ。そうは思っても、服の埃をはらっている少女に眉根が寄った。
 その視線と険を孕んだ問いかけに、少女はびくりと肩を震わせる。それから少し視線を彷徨わせて、けれど毅然と顔を上げた。
「あの、メイド募集の貼り紙を見て」
「…………メイド募集?」
 なんの話だろう。もう何年も使用人など雇っていない。
「あ、あの、こ、これです……」
 眉をひそめる姿に更に委縮して、それでも彼女は逃げ出そうとはしない。震える手で差し出された紙きれを受け取って、彼女の眉根はさらに寄る事になった。
(……うちじゃないじゃない)
 どうやらこの少女は方向音痴らしい。辛うじて町は同じだが、方向がてんで逆だ。
(しかもここって……変態富豪の家じゃない)
 事業の成功でぶくぶくに肥えた成り金老人。夫人はおらず子供もいないが、大層な女好きで有名だ。慈善事業も山程やっているが、それでは覆せない程悪名高い。
 田舎町に求人を出し、メイドとは名ばかりの愛玩物として少女を囲っている。
(この子なら確実に採用……でしょうね)
 顔で採用不採用を選び、美少女ばかりを手元に置く。逃げだした少女もいるとは聞くが、大抵の者は汚れによって家にも帰れず、泣く泣く留まるしかないと聞いていた。
 慈善事業と軍への寄付で裁かれもしない、国の汚物だ。
「……あの、私、もしかしてお宅を間違えましたか……?」
 ぐっと黙りこんでいると、少女が不安そうな声を上げる。驚いたことに表情を読むだけの洞察力はあるらしい。この少女ならば採用前に逃げ出す事もできそうだが、ここに来たのも何かの縁だろう。
 隠す気もない溜息を一つ零すと、紙きれを懐にしまった。そして腕を組み、もう一度少女を眺める。
 色素の薄い髪と瞳。どこかで異人の血でも交じっているのかもしれない。
 つり目がちの大きな瞳の上には、人の良さそうな下がり眉。少し痩せすぎだし埃っぽくはあるが、手元に置いておくには申し分ないだろう。
「あの……」
「……いいえ。私が出した求人だわ。すっかり忘れていただけ」
 それだけ言って背中を向ける。さっさと屋敷に入ってしまってから、足音が着いて来ない事に首を傾げた。
「なにしてるの。早くきなさい。仕事はごまんとあるわよ」
「え、え? あの、採用していただけるんですか!?」
「そうよ。面倒なのは嫌いだわ。さっさとして」
「はい!!」
 先程までの怯えた顔が一転。嬉しそうに破願した少女に少し驚いた。
 整った顔立ちをしているとは思ったが、思った以上の美少女だ。つくづくあの変態老人の所にやってしまわなくてよかったと思う。
「名前は?」
「いろはです。環いろは」
「そう。じゃあいろは。とりあえずお風呂に入りなさい」
「で、でもお仕事が……」
「……あなた、屋敷中に足跡をつけて歩く気なの?」
「え、わあ! ご、ごめんなさい!! 今すぐ外で水浴びを……!」
「だからお風呂に入りなさいと言っているのよ! いいからついてきなさい!!」
「はいぃ!」
 どれだけの距離を歩いてきたのか知らないが、彼女が一歩動く度に土ぼこりが舞う。それ自体を責める気はないのだが、このまま料理なんてされた日には砂を食べるのと変わりないだろう。
「水道は知ってる?」
「……あ、えっと、話だけは」
「……じゃあ全部説明するわ。ついでに洗ってあげるから全部脱ぎなさい」
「えぇ!?」
 この様子では水だけ浴びて出てきそうだ。この家に置くからには徹底的に綺麗になって貰わないと困る。金を払う以上、一番いい状態に保ちたい。
「いえでもあの、わ、私……」
「高貴な者の意思は?」
「……絶対、です」
「はい全部脱ぐ」
「ひぇーん……!!」
 悲鳴を上げる少女を手早く剥いていきながら、さっとその肌に視線を走らせる。
(傷も隠し武器もなし、か)
 もしかしたら暗殺者かと勘繰ったが、どうやらその心配はなさそうだ。
「あなた本当に痩せてるわね……」
「……食うにも困る有様でしたから」
 ガスを焚くための摘まみを捻り、点火が終わるまでの時間、新しく主従となった二人は対峙している。薄い襦袢一枚の少女は落ち着きないが、それでもなんとか微笑みを作った。
「奉公の理由は?」
「……妹が」
 斜め下に視線を落とし、いろはと名乗った少女は眉を下げる。
「妹が、重い病気なんです。治すためには見た事もない程の大金が必要で。それで少しでも高く雇ってくれる所を探して、ここまで」
「……国はどこなの」
「北です。私の足では二日以上。列車に乗れても丸一日はかかります」
「そう」
 やっと点火が終わった。蛇口を捻るとゴウン、と機械の作動する音が響き、じわじわと熱い湯が流れ出して来る。
「ガスが煮炊きに使えるんですね」
「ええ。珍しい物好きの父が外国から取り寄せたらしいわ。蓄湯もあるけれど、湯を張るならこちらの方が早いから」
 珍しいガス式の給湯に、少女は興味深げに手元を覗きこんでくる。それに薄く微笑んで、もう一つの蛇口を捻った。
「少し離れて」
「きゃっ!」
 シャーと音を立てて降り注ぐ湯に、浴室は瞬く間に曇っていく。湯気の中で温度を調整してから、驚きに目を丸くする少女を振り返った。
「襦袢も脱いで」
「え」
「全部脱げと言ったはずよ」
 もはや半泣きだ。それを見ると悪い事をしているような気持ちになるが、この屋敷に着物は置いていない。あるのは西洋式の洋服ばかりだ。
「どの道着物で仕事はさせないわ。これは自分で洗ってしまっておきなさい」
「うぅ……はい」
「いい子ね」
 渋々裸になった少女を容赦なくシャワーの下に突き出して、手早く全身を洗っていく。そして丁寧に泡を流すと、丁度溜まった湯に突っ込んだ。
「あとは自分でできる?」
「……はい」
「タオルと着替えは外に置いておくから」
「タオル!?」
「なによ。不服?」
「いえそんな……でも、あの」
「私の言う事は?」
「……絶対です」
「じゃあ大人しく使って。どの道西洋かぶれのこの家にあなたが望むような物はないわ」
 二百円もあれば一家四人が一年暮らせる時代だ。四円にもなるタオルなど庶民には手が出ない。
「お米が二升買えちゃうのに……」
 呆然と呟くいろはに少しだけ笑って、のんびりと浴室から出た。
 米十キロが、二袋。それがこの時代のタオルよりも安い。一銭が現代で言う二百円相当。百銭で一円なので、一円は約二万円。公務員の初任給が五十円前後。
 何もかもが高く、あるいは何もかもが安い時代。
 何の因果か一人と一人が巡り会い、今こうして共同生活を始めようとしている。
「あの、ご主人様?」
「なに?」
「黙って見られていると、その、落ち着かないです……」
「じゃあ話でもしましょうか」
「いえあの、そういううことではなくて……」
「あなたの国の話が聞きたいわ。北ではまだ雪が降るの?」
 構わず問いかけてくる主人に、少女は一瞬困ったような顔をした。けれどすぐに頷いて、少し遠くを見るような目をする。
「たまに風花が舞います。雪も時折。桜が咲いても野が白くなる時があります」
「そう。綺麗ね」
「雪がお好きですか?」
「散らないから。溶けて染みるなら虚しくもないわ」
「……花がお嫌いですか?」
「散りざまに嫌な思い出があるだけよ」
 不思議だ。この少女相手にはすらすらと感情が零れてしまう。色素の薄い瞳はひたりとしていて、まるで優しい獣のようでもあった。
「のぼせるわよ」
「はい」
 これ以上その瞳で見つめられるのは怖い。寂しがりが顔を出しそうで、静かに目を逸らす。
「洋服を着た事は?」
「一度も」
「じゃあ手伝ってあげるから覚えなさい。明日からは自分で着がえるのよ」
「はい」
 今度は素直に従った少女の手を引いて、体を拭く間に着替えを用意してやる。
「あなたに合う丈の物かわからないから、長ければ自分で調整して」
「はい」
 下着も含めて身につけ方を指導し、一通りの服を纏った少女を改めて眺めてみた。
「うん。似合うじゃない」
「……そうですか? なんだか慣れなくて」
「仕事以外では髪も下ろしていなさい。その方がいい」
「……わかりました」
 少女は何も尋ねなかった。他の使用人の有無、家族の有無、その他の細かい事も、何も。
 もしかしたら扉を開けたのが屋敷の主人本人で合った時点で、おおよその事は察していたのかもしれない。
「国には他に何があったの」
「……何も。ただ緑と、土と、花が」
「そう」
「ただ、それらが全て一杯になる景色はとても綺麗です。緑と青と、花の色。土のふくよかな姿。春は綺麗です。皆が生き生きとして、人も獣も活気づきます」
「そう。それは……見てみたいわね」
「いつかお連れします。ご主人様がお望みなら」
「……そうね」
 語る口調の穏やかさに、花野が眼前に広がるようだった。春が鼻先をくすぐった。
 何年ぶりかの懐かしさで、世界が淡く桜色に染まる。
「他に何もありませんでした。人がいて、獣がいて、いっそ暴力的な緑が辺りを包んでいます。それ以外は何もありませんでした」
 眩しそうに目を細めて、少女は新しい主人を見上げる。色素の薄い瞳が柔らかく滲んで、その様に桜の綻ぶのを見た気がした。幼い頃、貰ったばかりの包みを丁寧に開いていくような、懐かしい心持ちがした。
 少女が微笑む。ただ、微笑む。慣れない洋服を身に纏った彼女は照れくさそうで、それでも新しい生活への期待に満ちている。
 その様を見ていると、どうにもむず痒くなってしまった。この少女はまだ出会って数時間の主人に対して、すでに信頼を寄せ始めている。
 それがあまりに照れくさくて、顔が熱くなるのを止められなかった。
「……何も無いのを寂しいと思った?」
 失う物がないことを、寂しいと思った?
 問いかけに、少女は少しだけ考え込む。そして数秒の後に顔を上げると、困ったように首を傾げる。
「寂しいとは思いませんでした。確かに何もありませんでしたけど、それでも全部がありました。家族も、空も、野も。それだけでよかったんだと思います」
「……そう」
 穏やかな笑顔は、周りすらも自然と笑顔にするようだ。世辞でも媚でもなくそう思う。
「確かに何も無かったですけど、私にとってはそれが全てでした。そしてこれからは、ここが私の全てになります。きっと」
 寂しさを見抜かれている。すぐにそれがわかった。けれど今までのどれとも違い、その温もりを素直に受け入れられた。この少女は、環いろはは、とても不思議だ。
「多くを望みはしないの?」
 思わず問いかけると、いろはは困ったような微笑みを浮かべる。それから少しだけ首を傾げ、覗き込むように主人を見上げた。
「望めばその分失います。だから私は今ある全てでいいと思います」
 ああ。感嘆に近い声を漏らして、ひたりとした瞳を見つめ返す。きっとこの少女は、新しい主人以上に世界を悟っているだろう。
 その瞳に、その声に、吸い込まれていくような気持ちすらあった。だからただ黙りこんで、その瞳を見つめ返す。
 少女はそんな主人を見つめ返して、ただ穏やかに微笑むのだ。
「何もない国でした。けれど私にとって、何よりも大切な物です。あの時の私にとって、それが全てでした」