どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

姉妹01


「七海さん」
 呼ばれて、やちよは振り返った。教室の入り口に立っていたのは今年入ってきた新任教師で、名前を環いろはと言う。
「……ちょっといいかな?」
 放課後、窓際の席で読書を楽しみ、それから帰路につくのがやちよの日課だ。昨日から読み始めた文庫を読み終え、さて帰り支度を整えようかという時だった。
「なにか?」
 あまりにもタイミングが良すぎる。もしかしたら本を読み終えるまで待っていたのかもしれない。それか、何度もかけられたであろう声を自分が聞き逃したのか。どちらにせよ教室にいる生徒は一人だけで、彼女がやちよに用事があるのは明白だろう。
「進路希望のプリント、あなただけ出してないから」
「……ああ」

 穏やかな歩みで近付いてくる彼女の、遠慮がちな言葉に一つ頷く。一週間前に配られた用紙。その提出期限は今日だったか。
「忘れていました。すみません」
「ううん。こっちこそ邪魔してごめんね」
 さわさわと、まるで産毛を撫ぜるかのようなソプラノが響いた。さあさあと降る雨の音を掻き消さないように、吐息混じりの囁きは耳に心地よい。やちよが差し出した用紙を受け取った彼女は、ごく薄い笑みを浮かべて二度瞬きをした。しゅわり、しゅわり。濃い睫毛に飾られた眼差しの輪郭は優しく、目尻が上がっている割には柔和に見える。窓を曇らせる結露のように音もなく、そしてゆっくりと薄い瞼が降りれば、つきり、と胸が痛んだ。
 彼女の表情は作り笑顔にしては少し親しみが強く、けれど本心が透けはしない絶えなる妙。はたして、社交的には満点の笑顔だろう。
「今日はその席だったんだね」
 その表情を少しだけ崩して、彼女はちらりと机へ視線を向ける。それを追って今まで自分が腰掛けていた席に目をやり、それからやちよも薄い笑みを浮かべた。
「今日は霧雨が降っていたので」
 さあさあ、ぱたぱた。錦糸のように細い雨は、撫で梳くような音がする。髪に櫛を通し、そっと撫で続けるような、ごく優しい歌を歌う。それがとても好きだから、霧雨の日は窓を薄く開けるのだ。風の無い今日のような雨は、どれだけ冷たくとも不思議と温かく感じられた。
「この間、忘れ物を取りに来た男の子が固まってたよ」
「何故?」
「七海さんが自分の席に座ってたから」
「……何故?」
 怒っていた、ならまだわかる。勝手に自席に陣取られれば気を悪くする人間だっているだろう。けれどそれで固まるのは、やちよには少しばかり訝しく思われた。
「綺麗だから」
「……理由になっていないと思います」
「そうかな? でも、人によってはそうかも」
 そんな生徒を前にくすくすと笑って、教師はすっと視線を移す。どこか嬉しそうな横顔は、それでもまだ社交用のままだ。どこか遠くの教室か、それとも廊下か。ぱたぱたという複数の足音が数秒響き、やがて滲むように消えていく。二人揃ってその余韻が消えるまで黙りこみ、先に口を開いたのは教師の方。
「お天気の日は?」
 唐突とも取れる問いかけに、それでもやちよは慌てたりしない。天気の話は往々にして会話のきっかけであるし、それでなくとも彼女相手に緊張するのは馬鹿げている。それにその言葉が、先の会話の延長だとはすぐに知れた。
「季節によるけど……柱の影になる位置です。直射日光は暑いから」
「じゃあ曇りは?」
「一番後ろ。たまにお日様が差した時、教室中がさぁっと明るくなるのが好きなんです」
「雨の日が一番前の理由は何かな?」
「……産毛を撫でるような音だけ、聞いていたいから」
 歌うように弾む彼女の声。丁寧にそれに答えながら、本をしまって鞄を閉じる。さすがにそろそろ出なければ、商店街の品物が軒並み売り切れてしまうだろう。最後に、少しだけずらしてしまった机をそっと直し、やちよはすっと背筋を伸ばした。
「先生は残業ですか?」
「うん。新米教師はやることがたくさんだから」
 少し低い位置に見える彼女の瞳を見つめて、柔らかく口元を緩める。それに似たような微笑みを返してくる彼女にそっと手を伸ばすと、その肩が少しだけ緊張した。
「少し……無理しすぎじゃないですか?」
 指先で触れた頬は、少しだけかさついている。コンシーラーで隠した目元にも疲れが見え、その下にあるクマがうっすらと透けていた。それでもなんとか微笑もうとする彼女に眉を下げれば、やはり囁くような声がする。
「大丈夫だよ」
 小さな小さなその声は、音になったかすら少し怪しかった。もう飽きるくらいに見慣れた唇の動きだけで何を言ったか読み取って、やちよはもっと眉を下げる。
「喉、痛いんじゃないですか?」
「……ちょっとだけだよ?」
 大きな声を出したくないのだ。やちよの心配を受け取った彼女は今度こそ作り笑顔を脱ぎ捨てて、困ったように目を細める。頬に触れるやちよの手に指先で触れて、人の良さそうな苦笑が漏れた。
「のど飴は?」
「あるけど、学校だから」
「でももう放課後よ」
「七海さん」
 咄嗟に敬語が取れる。態度が崩れたやちよを軽く諌めて、彼女は相変わらずの困り笑顔だ。そっとやちよの手首を掴んで離させると、それとは反対の手がポケットに消えた。
「これで大丈夫。ね?」
 あやすように囁いて、小さな飴玉の封を切る。かろん、とそれを口に転がし入れ、彼女は笑った。風邪をひき始めた時点でだいぶ無理をしている事の証明でもあるのだが、それを言っても聞かないのはわかっている。
「今日は姉さんの好きな物を作るわ」
「……こら」
 言えば、彼女は少し怒った顔をした。学校ではその呼び方はしないと約束したのに、不安な気持ちが表に出るとすぐそうやって呼んでしまう。
「姉さんは姉さんだもの」
「誰かに聞かれたら困るでしょ?」
「じゃあ……いろは?」
「それはもっとダメ」
 眉を下げたやちよの鼻先に人差し指を突きつけて、いろはは怒った顔を作ったままだ。雨の日の放課後。教室は静かなもので、廊下からも人の声は聞こえなかった。
「誰もいないわ」
「今はね」
「じゃあいいじゃない」
「だーめ」
 大学生の時から、彼女のスーツ姿は何度か見ている。けれどリクルートと普段使いのスーツはまた趣が違って、見るたび少しどきりとした。もう半年以上経っているはずなのに、少しも慣れやしない。
「今日は何時に帰る?」
「やちよ」
「……誰もいないのに」
 少し強く遮られて、しょんぼりと眉を下げる。真面目なところは間違いなく彼女の美点だと思うけれど、遊びが全くないので少し寂しくなったのだ。
「ばれたら、不利になるのはやちよなんだよ?」
「それくらいで信用を失うような頭はしてないわ」
「もう」
 二人の関係に気付いている人間は、今のところいない。けれどもしばれたとして、やっかみに黒い噂を流される隙もないくらい、努力をすればいいだけだ。いろはの性格的にも絶対にやちよ一人をひいきする事は有り得ないし、それは既に皆わかっているだろう。
「私が怖いのは、姉妹だってことより……」
「……恋人だってばれる事?」
 二人は姉妹だ。けれど血は繋がっていない。それぞれの親が一人ずつ子供を連れて再婚し、そのまま別性をとっているので二人の名字も違うままだ。今はいろはが家を出ているので、住所すらも違う。
「最近、姉さんに触ってない」
「今は?」
「そうじゃないって事くらいわかってるくせに」
 表面上は自立と言ったが、いろはが家を出た理由はただ一つだ。二人がいくら仲が良くとも、例えば両親が二人の仲を否定しなかったとしても、同じ家の中でそういった事に及ぶのは気が引けた。
「最後にしたの、もう二月以上前よ?」
 するりと頬を滑っていく手のひらは熱く、少し怪しい雰囲気を纏っている。見つめてくる深い色をした瞳に燻る炎を見ると、むず痒さから眉が下がった。
「社会人だもん。今までのようにはいかないよ」
「でも、翌日休みの日まで必死に仕事する必要はないじゃない」
「土日にしっかり休むためにも平日の内に……」
「姉さん」
 しどろもどろの言い訳を強く遮られると同時に、整った顔がぐっと近づく。慌てて抵抗しようとしたいろはをそれ以上の素早さで押さえつけて、柔らかな唇が触れた。
「っ……ん」
「……姉さん」
 さあさあと、雨の音がする。世界に他に音は無く、たまに混じるのは二人が触れ合う濡れたそれ。そしてただ、雨にとけていく衣擦れの音。その中に、たまに。ぽつりと響くやちよの声は火傷しそうな程熱く、熟れた果実を思わせるように甘い。
「欲しい……」
 ゼロ距離でその声を聞くと、鳥肌が立った。思わず手が妹の体に縋りかけて、すんでのところで思い留まる。その代わりに強く肩を押すと、彼女はもっと頑なになった。
「んん……っ」
「姉さん……いろは」
 押される力に抵抗して、やちよがぐーっと背中を丸める。まるで覆いかぶさるようにいろはの体を抱き寄せて、熱い舌がぬるりと唇を割った。腰を引き寄せる手が怪しく滑れば、焦りと羞恥心が押し寄せてくる。ああ、いけない。これ以上はダメだ。これ以上進んではダメ。これ以上進んでしまっては、絶対にやちよに絆されてしまう。あまりにも簡単に、彼女の熱に溺れてしまう。
「やち、よ……っ」
「いろは」
 ご無沙汰なのはいろはだって同じだ。赴任したばかりの時は緊張しすぎて疲れも感じなかったが、少し慣れてきた今になってその分が押し寄せてきている。そういう気分にならなかったわけではなく、単純に体と感情が噛み合わなかっただけで、こうして無理矢理帳尻を合わせられれば簡単に熱は燻ぶる。
「ねえ……おねがい」
 二ヶ月だ。長かった。平日は学校でしか会えず、週末だって毎週泊まりにいくわけにもいかない。限られた数回の中でいい雰囲気になる事はあったけれど、最近ずっと眠そうな姉に無理強いもできず今日まで来てしまった。本当に我慢の限界なのだ。
「いいでしょ? 姉さん」
 もうこの棟には誰もいないだろう。部活動をしている生徒が忘れ物を取りに来るとして、それはまだ一時間近くも先のはずだ。頭の中でさっと計算し、もう一歩といったところのいろはを覗きこむ。甘えた声で懇願すれば、真っ赤な顔の彼女が逡巡するような素振りを見せた。本当にもう一歩だ。このまま蕩かせてしまえば、久しぶりに彼女を抱ける。
「いろ……んんっ!?」
 そう思ってもう一度顔を寄せた瞬間、いろはは自ら口を広げぐっと前に踏み込んできた。押してくるやちよを全体重で押し返して、ぐっと強く舌を押し出してくる。それと同時にかろんと口内へ転がり込んできた飴玉に、さすがのやちよも驚いて顔を離した。
「なに、飴……?」
「……今はそれで我慢して。あとは夜にあげるから」
 その隙に素早く拘束から逃げ出して、プリント一枚を抱えたいろはは逃げるように教室を出て行ってしまう。髪の隙間から見える真っ赤になった耳と、走り去る小柄な背中を呆然と見送って、やちよは知らず口を押さえた。かろん、と音を立てる飴玉は甘く、少しだけすっとしている。それを何度も何度も舌の上で転がして、やがてゆっくりと口元を吊り上げた。
「……今夜は絶対に逃がさないんだから」
 そうして一言呟くと、さっさとコートを羽織って鞄を肩にかける。
 今日は姉の好きな物以外に、少し精のつくものでも作ろうか。最近ベッドに入ればすぐ眠ってしまうので、欲求不満は溜まりに溜まっている。今日こそはしっかり起きて相手をしてもらわないと、やちよは爆発してしまうだろう。
 最後に財布の中身を確認すると、足取りも軽やかに歩き出す。姉は約束を違えたりしないから、なんなら今日は少し早めに帰ってくるかもしれない。買い物をして、夕飯の支度をして……風呂を沸かして。やる事は沢山あるが、指折り数えながらもやちよの顔は朗らかだ。久しぶりに訪れるであろう甘い時間が楽しみでしかたない。かろん、かろん、と飴玉を転がしながら、浮かれた指先でポケットの中の合鍵をチリリと鳴らした。
 やがて教室の扉が静かに閉まれば、あとに響くのは、ただ撫ぜるような雨の音だけ。