どっぐらんの裏側

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いろは観察日記08


 五月八日(金)

 まあわかりきっていた事だけれど、昨日昼間から寝てしまったせいで、今日は四時過ぎに目が覚めたわ。さすがにもう眠れないから起き出したら、いろはもすぐに起きてきた。

 昨日は二人ともお風呂に入らず眠ってしまったから、とりあえず体を清める事にした。まだ誰も起きてこないだろうからって押し切って、一緒にお風呂に入ったわ。いろはは少し抵抗したけど、手首の事を持ちだしたら渋々ついてきた。追い炊きをしている間に体を洗って、いろはの髪も洗ってあげる。腰より長い髪を洗いながら、ずーっと疑問だった事を聞いてみた。
 どうしてここまで伸ばしたの?
 私の言葉に、鏡の中のいろはは少し困ったような顔をしたわ。それから目を伏せて、小さな声で教えてくれた。願掛けだって。何に対する願掛けなのかは、聞かない方がいい気がした。だから私は頷くだけにして、後は黙々と髪を洗う。
 一番最初に過ぎったのは、ういちゃんの事だった。だけどういちゃんの病気が治っても、命を落とす危険がなくなっても、いろははずっと髪を切らない。今もまだ伸ばしている。だからきっと、他の何かだろうと思ったの。そしてそれを、いろはが教えてくれる事はないんだろうなと思った。今は、まだ。

 時々、考えるわ。いろはは難しいなって。だいぶ素直になってきたけれど、いまだに何かを隠している感じがする。本人はそんなつもりないかもしれないけれど、少なくとも話してくれない部分はある。いつか知りたい。でも、それを言ったらいけない。そんな気がするの。
 私がねだったら、いろははきっと話してくれるわ。私の事をとてもとても大切にしてくれているから。だからこそ、聞いたらいけないと思う。この人の中で、この人自身の順位はまだ低いまま。たぶん私が一番、仲間も似たような位置。だけどその中に、いつまで経ってもいろはが入ってきてくれない。
 私が尋ねたら、きっといろはは応えてくれる。答えをくれる。けれどそれは脅迫に近くて、あの人の意思はないんだわ。それは嫌。今はまだ、聞く事自体が脅しになってしまう気がするの。いろはが自分の意思で話してくれるわけではない。だから私はこれ以上聞くのをやめる。
 その代わり、少し沈んで見えるいろはを抱きしめた。濡れた素肌がぴったりくっつくと心地良くて、いつもより少し駆け足な心臓の音が気持ちいい。中学生の時より落ち着いたけど、今でも私が触れると少し慌てるわよね。なんでなのかしら。
 とくとく、どくどく、心臓が音を立ててた。私のそれよりだいぶ駆け足で、いつまでも綺麗な音。純粋な音。
 抱き心地は少し変わったのかしらね。背が伸びたんだからきっと変化はあったんでしょうけど、毎日抱きしめていたからよくわからない。覚えているのは、いつまでも変わらない安心感だけだもの。

 背中を軽く叩かれてやっと体を離したら、いろははなんだか神妙な顔をしてたわ。トリートメントは自分でするって言うから、なんだか少し笑っちゃった。私が教えた事だけれど、ちょっと敏感過ぎるわね。あるいは中途半端すぎる。みんなも使うところでするのは嫌なんですって。体がすっかりその気になっても、そこだけは頑なだわ。
 私が湯船につかったのを見てから、シャワーを冷水に変える姿に苦笑い。あんまり我慢すると体に毒よって言ったら、少しだけ間があったわ。押せばいけるかなーとは思ったんだけど、口を開いたら冷水を向けられそうだから黙っておいた。

 湯船の中から、のんびり恋人を眺めてみる。昇ってきた朝日に照らされて、濡れた肌は美味しそうに見えたわ。髪を後ろに流す仕草は見慣れたものだけれど、重くなったそれをかき上げる時の、乱暴な仕草はあまりみない。瞼を下ろしている時はどこまでも優しげな横顔が、目を開いた瞬間に凛と引き締まるから少し見惚れた。正面からだと小動物系なのに、横顔は結構イケメンよね。姿勢がいいからかしら。
 普段見る時は殆ど筋肉なんてなさそうな見た目だけど、窓から差し込む光だけならその輪郭も見えてくる。曲げた腕に少しの力こぶ、肩へ続く場所に段差。髪を前に流した時に見える肩甲骨の形、背骨に沿って刻まれる浅い溝。腕を動かすたびに背中の筋肉がまろやかな凹凸を繰り返して、うっすらと肋骨の輪郭が見えるのが綺麗だった。
 濡れた髪をきつく絞って、手早く結い上げていく姿は手慣れたものね。ぴんと体が沿った拍子に胸が揺れて、先端から雫が落ちるのに喉が鳴ったわ。鎖骨、胸骨、胸の輪郭、肋骨の膨らみ、少しだけ浮いた腹筋の影に、水滴がいくつも流れていく。お尻の下の方。いろはの大事な部分に近い位置にあるほくろは、この角度からだとよく見えない。でっぱったところから、へこんだところへ。つーと滑っていく雫はなんだか卑猥な気がして、気づけば少し、指先を動かしてた。
 ほんの少しよ。ほんの少しだけ。もう殆ど使えなくなった魔法で、いろはの体を這う水を操ってみる。重力を無視して水滴を集め、それでお尻の割れ目から背中までを逆撫でしたら、いろはがびくりと体を緊張させた。それからすぐに私を見て、きっと眉を吊り上げる。
 はい、思いっきり叱られました。
 でもこの通り、あんまり反省はしてないわ。だって本当に嫌だったわけじゃないって知ってるもの。本当に怒ったならもっと冷たい声で私を呼ぶし、そもそも怒った顔なんてわざわざ作らない。
 能面のような真顔で、冷ややかな声が私を呼ぶの。かっちかちの敬語で、異様に丁寧な態度で、とても冷静な声を出す。じっと私を見つめたまま、数分じっと黙り込むのよ。
 キャンキャン吠えるうちは大丈夫。怒ってないし、実はちょっと喜んでるでしょう? 私にかまわれるの、好きだものね。

 初めて、お湯の中でいろはの大事な部分に触れた。自然光だけのお風呂場はなんだか少し幻想的で、その非現実さにあてられたのかもしれない。必死に抑えた声も浴室が広げてしまうから、いろははすごく恥ずかしそうだった。
 あれだけ嫌がった「みんなも使う場所」で「皆には言えない事」をして、抵抗したのに押さえ込まれて、それでも私が触れたら感じてしまう。押し退けようとした手はいつの間にか縋りつく形になっていて、最後には自分で口も足も開いて見せた。いい姿だったわ。最高ね。
 いろははどんどん綺麗になる。そして出会った時よりもっともっと可愛くなってる。私が開いて、私がこうしたの。眩暈がするわ。真っ白なあなたを、私で染めていく快感だけで達してしまいそうなほど。
 お湯につかっていなくてものぼせてしまいそうだった。洗い立てのいろははいつもよりずっと無垢な匂いがして、なのに水に囚われていて……えっちだった。流されて、押し込められて、それで何度も何度も感じて、自分からキスをねだって、私を欲しがったのよ。
 案の定今はご機嫌斜めだけれど、今日は一日二人きりだもの。ゆっくりほぐしていくとしましょう。

 いろはの手首は、少し無理をさせたせいでまた腫れてきてしまった。治癒も少しなら使えない事はないんだけど、もう僅かな魔力だもの。いろはは万が一の時のために、それだけは残しておいているようだった。

 今日は三人がお出かけ。というか、万々歳から救援要請が入ったの。お父さんが注文をひかえるページを間違えたみたいで、同じ時間の配達がいくつも重なってしまったんですって。
 最初は私も行こうとしたのよ。だけどういちゃんが目をキラキラさせて「二人きりでゆっくりして!」なんて言ってくれたものだから、大人しく家に残る事にしたわ。お風呂の一件で少し怒っているいろはは、ちょっと微妙な顔をしていたけれど。
 でもまあ、目に入れてもいたくない妹の気遣いだもの。最終的には笑顔を浮かべて、ありがとうなんて言っていたわね。ほんと、ういちゃん相手にはゲロ甘だわ。

 朝食はコンビニで買うというので、お金だけ持たせて三人を送り出した。
 その後私がホットケーキを焼いたけど、いろはは相変わらず仏頂面のまま。それでもとりあえず一緒に食べてはくれたから、ただ恥ずかしいだけなんだってすぐにわかったわ。念入りにお風呂を掃除してからそれを報告したら、だいぶ気配が緩んだもの。
 もう一回押し倒してうやむやにしてもよかったんだけど……今回はちょっと引いてみる事にした。

 部屋で本を読んでるからって言ったら、あの人、あからさまに動揺したわ。向けた背中にびしばしと視線を感じて、でも振り返った時にはそっぽを向いてる。私が見つめてる間は何も言わずに、背中を向けると熱視線。笑いを堪えるのにそれはそれは苦労したわよ。
 だいぶわかりやすくなったわよね。ちょっと前まではいつも笑顔だったけど、最近はこうして拗ねたり寂しがったりしてくれるようになったもの。自分を押し殺す事がちょっとずつ出来なくなってる。いい傾向だわ。
 だからこそ、引いてみたくなったんだけど。
 今までは私が押して押して押し倒すのが普通だった。だけどそろそろ、追いかけてくれてもいいと思わない? もちろんいろはは一途だし、必死に肩を並べようと走ってくれてる。でもそういう精神的な話じゃなくて、もっと見た目で好きをアピールしてほしいじゃない。私がいろはなしじゃいられないみたいに、いろはにも私なしじゃいられないって態度を見せて欲しい。

 お昼はいらないって言って部屋に戻ったら、しばらくしていろはの気配が動いたわ。そっと、足音を殺して階段を上がって、私の部屋の前で立ち止まる。そのまま何秒、何十秒、一分過ぎて、五分過ぎて、十分過ぎたところで異変に気付いた。
 ずずって小さく鼻をすする音がしてぎょっとしたわ。慌ててドアを開けたら半べそのいろはが真っ赤な顔で目を擦ってて、物凄く焦った。だって、まさか泣くなんて思う? 状況的に怒られるべきは私であって、実際怒られたし謝罪だってしたし、罪滅ぼしにお風呂だって徹底的に磨き上げた。それでもいろはが怒っていたとして、別に誰にも責められない状況じゃない。皆に話したら全員が私を責めると思うわ。
 なのになんでか、いろはが泣いてる。どうして? 一瞬でパニックよ。
 そんな私を半泣きで見上げて、いろはの手がきゅっと服を握った。怒ってごめんなさいなんて謝るから、罪悪感で胸が痛くなったわ。ちょっと悪戯するだけのつもりだったのにそんな顔をさせてしまうなんて。

 そしてその時、私は痛感したの。いろはは何も変わらないままなんだって。ううん。変わりたくても変われないんだって。この人は、自分を一番に選べないの。自分を大切に出来ない。してはいけないとすら思っているのかもしれない。きっともう、ずっと。
 髪を伸ばし続ける理由に気付いた気がしたわ。この人のドッペルがそれに繋がっていた理由を見た。

 いろはは、痛くない場所を、広げている。

 目を閉じ耳を塞ぎ口を噤んで、じっと自分を押し殺す。痛みを自分の物と考えない。切られても燃やされても痛くない場所を、もう何年もかけて広げてきたの。やがてはすっぽりと、自分自身を覆えてしまうように。
 想像がつく? 信じられない。自分を殺すって、生半可な事じゃないわ。たった数ヶ月。一年にも満たない時間。それだけで、私はあんなにも澱んでしまったのに。それをこの人は、もう何年も続けている。ぞっとしたわ。

 どうして謝るの? どうしてすぐ自分を悪者にするの。誰かの後悔や憎しみに手を差し伸べられるのに、どうして自分の事は蔑ろなの。救うためならいくらでも手を伸ばす癖に、あなたを救おうと伸ばした手は簡単に振り払う。
 口寄せ神社での事が脳裏を過ぎったわ。そうしたら涙が出た。そんな私を驚いた顔で見上げて、今度はいろはがおろおろしたわ。泣かないで、どうしたの、って優しい声がして、それを聞いたらもっともっと涙が出た。

 ああ、ああ、いろは。私ずっと知らなかった。あなたはもうあの時、もしかしたら出会ったその瞬間から、既に壊れてしまっていたなんて。
 だってこの人、笑ったのよ。ういに会えなかったのがショックだったのかな、なんて、少しおどけて笑ってみせた。魂が濁り切る程の痛みと苦しみを感じているはずなのに、それでもにっこり笑って見せた。絶望して笑いしか出てこなかったわけじゃない。そんな事よりもっと重い。
 痛みに気付けないまま、笑ったのよ。

 それはとても……そう、とても、恐ろしい事だわ。

 環いろはという人間は、まだ小さな子供なんだって知った。この人の自我は、ほんの小さい頃から成長を止めているのだと理解した。私があなたの声を聞いて、あなたの手を掴んで、三年一緒に過ごして、やっと。やっとあなたは歳を重ねたのね。やっと少しだけ大きくなった。髪を伸ばし続けた年数だけ、あなたは虚無を過ごしてきた。それを知った。

 いろは、いろは。
 私の愛するものの中に、あなたが含まれている事を忘れないで。私の世界のほとんどが、あなたで出来ているって忘れないで。あなたを喪ったら、私はきっと壊れてしまう。もう二度と笑えなくなる。いろは、お願いよ、いろは。私を守る以上に、あなた自身を大切にして。私を守りたいと思ってくれるなら、あなたこそを一番大切にして。
 ああいろは、私がどれ程あなたを必要としているか。
 あなたは今も、わかっていないのね。

 これからは、私が与える。あなたにあなたをあげる。そして足りない隙間は私が埋める。そう決めた。
 置いていったりしないわ。ずっといろはの傍にいる。私はあなたみたいに人間が出来ちゃいないから、嫌がられたって傍にいるわ。都合のいい関係で満足なんて出来ない。あなたの一生を貰うって今決めた。
 光源氏上等よ。私が育てて私が娶る。私しか知らない環いろはを、私がこの手で育てて見せるわ。そして自慢してやる。世界に、ううん、宇宙に。神様に向かって叫んでやるわ。どうだ見たか、ってね。

 わがままを言ってよ、いろは。あの時みたいに、私を捕まえてみせて。そこまでいったら、私は今度こそ安心できる。あなたを手に入れたんだって自信を持てる。
 そのためには、まずは私が頑張らないとね。
 この観察日記はいい整理になりそうだわ。やっと方針が固まった。今まではなんとなく一日いろはを目で追っていたけれど、これからは変化に目を凝らす事にしましょう。変わった事、変わらない事。あとはまだ知らないあなた。
 それを記録しつつ、今後の育成計画に使っていきましょう。

 明日から覚悟しなさいよ、いろは。