どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

人狼01

 

 人狼の仔供を育てる事にした。生後一ヶ月程の、ほんの赤ん坊。とはいえ人間と比べて成長は早いので、もう自分の足で立って走る事も出来る。人間の見た目に換算したら、五歳前後、といったところだろうか。
「七海、本気か?」
「ええ。施設に預けても、いつかは野生に戻されるだけだわ。そうすればどうせ殺される」
「まあ、亜人研究の第一人者である七海なら上も文句は言わないだろうが……。人狼は懐かんぞ」
「精々うまくやるわ。噛み殺されないようにね」
 見つけたのは、酷い雷雨の夜だった。密猟の報告を受けて保護区に入り、そこで小さな亜人を見つけたのだ。

 通報を受けた場所に駆けつけた時、転がっていたのは複数の死体。一つ残らず首を刈り取られたそれらの内、メスと思われる一体に、この仔供が縋りついていた。きゃう、きゃう、と高い声で鳴きながら、出もしない乳を吸う。鼻先で必死に死体を揺さぶって、萎れた耳が震えていた。
「街の亜人に預けた方がいいんじゃないか?」
「無理よ。あなただって知ってるでしょう? 彼らは絶対に、他人の子供を育てたりしないわ」
「……そうだな」
 ざくり、踏み出した足音で、仔供はかっと牙を剥いた。紫電に光る赤い瞳を見た瞬間に、やちよは全てを理解したのだ。
「変異体ならなおさら、か。ふむ。まあいいだろう。上には私から報告しておく」
「ありがとう、十七夜」
 色素の薄い被毛。血のように赤い瞳。突然変異だ。
 通常の人狼は、皆森に隠れられるよう黒い被毛をしている。瞳も大抵は黒か茶色で、あったとしても黄金が精々。極稀に生まれる突然変異のみが、こうして赤い瞳を持っていた。
 色の違う個体は群れから弾かれやすい。そして弾かれた者同士が番を作り、結局は変異体を生む。保護法が制定されてから随分と数を増やしてはいたが、それでも最も密猟に逢いやすい個体だ。このまま野生に置いておいても、遠からず死に招かれる。
「名前、どうしようかしら。研究対象でもあるし、ペットのような名前をつけるのもねぇ」
「数字でいいんじゃないか」
「それも味気ないでしょう。もうちょっとこう、八番目だからやえ、みたいな」
「そんなに研究してたか?」
「いえ、飼育は初めて」
「じゃあ一番目だな。ふむ、おいちはどうだ」
「古風ね」
「いのい」
「火消し?」
「だぶるおーわん」
「聞き覚えがあるわね」
「いろは」
「いっそ潔い」
 今は麻酔で眠っている仔供を覗き込み、やちよは少し眉を下げた。こんなに小さい内から天涯孤独になってしまった彼女を見て、自分の姿が重なったのだ。一人で生きていくのは辛く苦しい。やちよだって、大勢の大人に助けられてやっとここまで歩いてきたのだ。家族のように、というのは少し難しいかもしれないが、せめて共生関係でいてやりたい。毎日食べる物があるだけで、生きるのはとても楽になるのだから。
「まあ、のんびり考えるわ」
「そうだな。住人登録が出来るようになるまでは長くかかるだろうし」
 お互い独りぼっち同士だ。せめて二人ぼっちになれたらいい。たとえ家族にはなれなかったとしても、なんとなく傍にいられれば、それで。
「何かあれば遠慮なく頼ってくれ」
「ありがとう」
 こうして、一人と一人のぎこちない共同生活が始まったのだ。

***

「ヴヴヴヴヴヴ……っ!」
「そんな声出さなくても取ったりしないわよ」
 人狼の仔供を飼い始めてから、二週間が経過した。いろはと名付けた狼は一向に懐く気配を見せず、部屋は荒れに荒れ放題だ。そこかしこでトイレをする上に、やちよが動けばどたばたと逃げ回る。その上餌すら好き勝手なところで食べるので、一日に何回も拭き掃除をする羽目になっていた。
「やっぱり檻が必要だったかしらねぇ」
 柔らかく茹でてやった肉を咥えられるだけ口に咥え、ソファの裏に隠れたいろはは臨戦態勢だ。一気に食べてしまえばいいものをあっちにこっちに持ち運ぶものだから、部屋全体がなんとなく肉臭い。この間など洗濯機の裏からカビだらけの物体Xが出てきて、思わず悲鳴を上げそうになったくらいだ。自分が特別綺麗好きとは思わないが、少なくともカビを放置できる性格ではない。
「隠したりしなくても、毎日新しいものを出してあげるったら」
「ヴー、ヴヴヴヴヴヴっ!」
 野生で生きる動物達は、毎日食事にありつけるわけではない。だから食べきれない分は隠しておいて、いざという時の非常食にしたりもするのだ。
 いろはは今、然程空腹ではないのだろう。けれどせっかくの肉をとられてしまうのも嫌だから、あっちこっちに隠して回っている。そして夜中、やちよが寝ているタイミングを見計らって食べたりもするし、逆に昼間寝こけている間に回収されてしまったりもするわけだ。
 人間の見た目で語れば五歳前後だが、人狼としては一ヶ月ちょっと。まだまだ赤ん坊の彼女は眠る時間も長く、一度眠ればちょっとやそっとじゃ目を覚まさない。ソファの下、狭い隙間で体を丸め、自分の尻尾を抱きしめて眠る姿は可愛かった。
「いろは、ワッフル」
「……」
「いらない? 好きでしょう、これ」
 烈火の如く暴れるので、まだ服は着せていない。こめかみから足の先まで被毛が覆っているので必要ないと言えば必要ないのだが、柔らかそうなおなかが丸見えなのは、見ていて少し寒そうだ。そこも成長と共に毛が生えてくるだろうが、一歳くらいまではつんつるてんのはず。身を寄せ合う群れも兄弟もないのだから、どこかで服を着る事を覚えさせなくては。
「いらないなら食べちゃうわよ」
「……きゅーん」
「欲しいならおいで」
 辛うじて親から二足歩行は教わっていたようなので、そこだけはまだ安心だ。この状態では捕まり歩きなどさせられなかっただろうし、よしんばそれが可能だったとしても、町中の薬局から絆創膏が消えていただろう。ただでさえ二週間の間に何度も絆創膏を買い足しているのだ。お互い生傷が増えるばっかりで、距離は中々縮まらない。
「ほら」
「……ヴ、ヴヴ、ぐるる」
「なんにもしないったら。いい子だからおいで」
 けれど人間でも亜人でも、仔供の対応は似たようなものだ。大抵のおチビさんは甘い物が好きだし、今まで食べた事もない物ならなおの事。警戒心を剥き出しにした人狼も甘い物の誘惑には勝てないらしく、この時だけは近づいてくるようになっている。
「……がうっ!」
「いった! 指ごと食べない!」
 やっと見つけた糸口だ。必死の思いでそこに細い糸を通し、切れないよう、力を入れ過ぎないよう、慎重に慎重に手繰り寄せる。甘い物を与える時だけ近づいてくるのを知ってからは、日に何度かおやつの時間を設けていた。
「太らない体質でよかった」
 一日の摂取カロリーは、とうに成人男性の必要量を超えている。夕方時点でこれなのだから、正直夕飯は抜いた方が健全なくらいだ。それでもいろはと一緒に食事をするため、ちゃんと料理をして席に着く。まずは群れの一員として認めてもらわなくては。懐くまではいかなくとも、触れて許される程度にならなければ何も教えられない。
 ワッフルもろとも噛まれてしまった指に絆創膏を巻き、やちよは一つ大きな溜息を吐いた。
「あなたを野生に帰すのは無理でも、繁殖はさせなくちゃ。毛色が普通の子供が生まれたら、その子を野に帰してやらなきゃいけない」
 そのためにも、せめて街で生きていけるようになってもらわなくては困る。夫を持つにしても妻をとるにしても、住民登録は必須なのだ。最低限の教養を与え、見合いが出来る程度にしなければ。
「先は長そうねぇ……」
 床に這いつくばってワッフルを食べ散らかすいろはを見下ろし、先程よりも大きな溜息が漏れた。まだまだ道程は長く険しい。

***

 そもそも、人狼というのは知能指数が高い生物だ。人とつくからにはそれと同等、もしくはそれ以上になる者もいる。亜人は人と動物が交わった結果生まれた存在で、遥か昔は共生関係にあった者達だ。
 けれど文明が発展すれば、生肉を好む者は野蛮だと恐れられた。その恐れはいつしか差別へすり替わり、最後には戦争へと発展する。文明の利器で力ある者達を追い払った人間は、その後長く亜人達を迫害して生きてきた。
 世界がやっと重い腰を上げた時には、絶滅した種も数多くあった。けれど遅まきながらも保護の効果は出始めていて、人狼などは大分個体数が回復した方だ。いろはがいた群れのように密猟者の魔の手が伸びる事もあるにはあるが、ここにきてようやく、世界は安定と平和に向けて歩み始めている。
 となれば、だ。当然その生態を研究する者も現れ始め、また、特定の個体に関しては愛玩動物としての価値を見出されつつもある。人猫や人犬。基本的に人間に懐きやすい種は街で見かける事も多くなり、住民登録が済めば職についたり家を持ったりする事も許されるようになってきた。まだまだ平等という言葉からは遠いが、代々亜人種が継いできた家系もないではないし、少しずつ少しずつ、元あったような共生関係が築かれつつあるのだ。
 そして、先ごろついに、亜人種と人間の結婚も許されるようになった。有名な俳優同士の結婚は大いに世間を賑わせて、いよいよ亜人の権利復帰の声も大きくなってきている。このままいけば、懐きにくいと言われている種も権利を得られるようになるだろう。少なくとも人権が与えられれば、野生で生活していても密猟は少なくなる。圧倒的に足がつきやすくなるからだ。
 今、街にいる人狼はいろは一人。もしかしたら彼女が人狼として住民権を得る第一号になるかもしれないのだ。なるかもしれないのだから……。
「服を! 着なさい!!」
「ぎゃうっ! がうぅ、うー、ぐるるるる……っ」
 まずはそこから。局部が見えないにしても、人は服を着ない存在を人とは認めない。言葉は最悪話せないままでも、服を着てじっと座っていられればいいのだ。最低限のラインさえ突破すれば、あとはやちよの肩書きだけでどうにでもなる。
「いた! こら! 破かない!」
「ヴヴヴヴヴ」
 毎日毎日決まった時間に食事が出るとわかってから、いろはの徘徊癖はだいぶ大人しくなった。餌を咥えてうろうろする事をやめ、腹がいっぱいになれば素直に残す。やちよの手から与えられる甘い物を手で受け取るようになり、トイレもちゃんとあるべき場所でするようになった。やちよが動き回っても逃げる事は少なくなり、この間はついに、ソファの端と端の距離までは近づけたのだ。寝ぼけている時ならば肉球を観察する事も出来るようになったし、日に日に警戒心は薄れつつある。
 しかしだ。
「いろは。私は何も、あなたを傷つけるつもりじゃないのよ」
「ヴー、ヴー……っ」
 彼女の中にある人間への不信感は、ちょっとやそっとでどうにかなるレベルではなかった。与えた餌を食べるのも、毒という存在を知らないからだ。あの時密猟者に毒を盛られていたならば、きっと餌も食わずにあっさり衰弱死していただろう。
 やちよは吹き矢でいろはを眠らせた張本人でもあるので、中々警戒心は拭いきれない。
「……いろは」
「ぐるる、ヴー」
 死体から流れ落ちたであろう血は、もうすっかりと色を変えていた。冬が近づく季節、冷たい雷雨が続く中、それでも肉は腐り始めていた。彼女は何日そこにいたのだろう。乳離れはしていたであろうに、必死になって母親の乳を吸っていた。空腹に耐えかねて屍の乳首をしゃぶり、その鼻先で何度も何度も母の体を揺さぶる姿。餌をねだって高く鳴き、撫でて欲しくて投げ出された手に自身の頭を擦り付けていた。彼女は何日、遺体の傍で過ごしたのだろう。
「……私とあなたは、似てるわ」
「……」
「私の両親もね、殺されたの。ううん、両親だけじゃない。祖父母も」
 代々、亜人の研究者をしている一族だった。いろはのように親を喪った亜人を引き取って、野生で生き抜く術を与えてから野に離す。何十、何百、何千とそれ繰り返し、今自然保護区にいる亜人の半分は、七海の家から巣立った仔供達だ。亜人の人権復帰にも多大な尽力をしてきた家系で、街で暮らす亜人種からは絶対の信頼を寄せられている。
 だからこそ、命を狙われた。
亜人の権利を認めたくない過激派がね、トラックで突っ込んできたの。皆ぐちゃぐちゃ。私だけが、祖父母に守られて助かった」
 家族で外食をした帰り道だった。横から突っ込んできたトラックと建物の壁に挟まれて、車はぺちゃんこ。後部座席の中央に座っていたやちよだけが、祖父母に抱きしめられていて無事だったのだ。
 一瞬で全てを喪った。いろはと同じ。それは、やちよが五歳の時だった。
「それからは必死で勉強したわ。絶対に負けるもんかって意地になった。いつか私が悪者を倒すんだって息巻いて、必死に戦い続けてきたの」
 勉強、体術、ナイフ術、銃の扱いも覚えたし、魔法だって血反吐を吐くほど鍛え上げた。そして祖父母と両親から亜人研究を引き継ぎ、十八で成人してからは密猟者専門のハンターも兼任している。国に没収された生家を取り戻し、度々襲ってくる過激派を一人残らず叩きのめし、そうしてやっと……世界がやちよに追い付いてきた。
 あと少しだ。もう少し。これで、家族の心残りを綺麗にしてやれる。
「あなたが人権を得られれば、証言台に立つ事もできるの。あなたの家族を殺して首を持ち去った密猟者を、告発する事ができる」
「……」
「あなたは権利を得なければいけない。たとえ意に添わぬ生き方だとしても、人として認められて自分の足で立たなければ」
「ヴー……っうー、くぅん?」
「悔しいでしょう。人間が憎いでしょう。でも誰も、あなたを助けてはくれないわ。手伝ってくれる人はいても、あなた自身の恨みを晴らしてくれる人はいない」
 自分でやらなくてはいけない。目を背け全てを忘れて生きるか、たとえ泥水を啜っても戦い続けるか。その二択しか用意されていないのだ。世界はちっとも優しくない。
「私があなたを手伝ってあげる。スタートラインまでは連れて行ってあげる。その後に選ぶのは自由だわ。でも、あなたにはスタートラインに立つ義務がある」
「……うー、うー?」
「今はまだわからなくてもいいわ。けれど人間が憎いなら、あえて人間の立場に立ちなさい。人間ほど傲慢な生き物はいないの。自分達は平気で他の種を殺すくせに、他の種が人間を殺す事は許さないのだから。人間を裁けるのは人間だけ。だからあなたは、権利を得なければいけない」
 たった一人の生き残りだ。犯人の顔を覚えているのは、権利も発言力もない幼い子供だけ。やちよも辛酸を舐めた。犯人の顔を覚えていても、幼くては何も出来なかった。権力がなければ、そいつを法廷に引きずり出す事すら。
「私はやったわ。あなたもそれが出来る。やりたいなら方法は教えてあげられるわ。けれどそれを知るためには、学ばなくてはいけない」
「……ぐるる」
「唸るのをやめなさい。みじめったらしく地面を這いつくばるのをやめなさい。二本の足で立って、憎くて仕方ない人間の真似をして、着たくもない服を着て、そこでやっとスタートラインよ。立ちなさい、いろは。私が憎いなら、人を恨むなら、自分の足で立って前に進み続けなさい」
 顔が熱い。息が乱れる。心臓がどきどきと駆け足の鼓動を刻んでいる。あの時の燃えるような怒りが体を蝕んで、じんわりと視界が滲んだ。助け出されるまでの数時間を思い出して、涙が出た。
 やちよ、やちよ。やちよ、無事か。やちよ、返事をして。やちよ、歌って。
 父の声が、祖父の声が、母の声が、祖母の声が。一つ、また一つと聞こえなくなっていく。むせ返る程の血の匂いの中、やちよはずっと歌っていた。自分は大丈夫だよと知らせるために。家族を安心させるために。そして自分自身が、壊れてしまわないために。
「きゅーん……?」
「っ、いろは……っ」
 母の死体に縋るいろはを見た時、一瞬でその光景が脳裏を埋め尽くした。頭の天辺から尻尾の先までずぶ濡れの彼女を抱いた時、幼く血まみれの自分がフラッシュバックした。
 この子を守らなくては。生かさなくては。世界には絶望だけではない事を……教えてやらなくては。
 強く、そう……思ったのだ。
「……優しいのね」
「う?」
 ぺたり。初めて手が触れる。人間のそれとは違って少しかさついた手のひらが、鋭い爪のついた指先が、やちよの顔をぺたぺた触った。大きな瞳からほろほろと涙を零し、全てを喪った仔供がやちよに触れた。
「……本当は、ね?」
「ひゅーん?」
「戦えなんて、言いたくないの。あなたはもう十分苦しんだから、これからはずっと、温かい場所にいてほしい」
「……」
「でも、目標が、っないと、折れてしまうかもしれないから……っ」
 たとえ憎しみだとしても、怒りだとしても、それは確かにやちよを生かしてくれた。全てを喪っても、世界から光が消えても、それでも前に進み続けるには、力が必要だった。他の者にはどうしようもない、自分だけの原動力が必要だったから。
「憎んでもいい。恨んでもいい。それでも生きて……いつか、幸せになって」
 自分を重ねるなんて、勝手もいいところだ。いろははそんな事望んでいなかったかもしれない。あそこで群れと一緒に死んだ方が、彼女にとって幸せであった可能性は拭いきれないだろう。
 それでも、彼女が乳を吸っていたから。ガリガリになって、肋骨が浮いても、それでも生きるために、物言わぬ母の乳首をしゃぶっていたから。
「生きていたら、いつかいい事があるんだって……っそう、思って欲しい。そう思えるように……してあげたいの」
 前に進ませてあげたかった。必死になって生きようとする彼女を見て、冷え切った心が震えた。仇を討って、それゆえに生きる意味を見失って、すっかり空っぽになってしまったやちよの心。何も感じなくなっていた心が、心臓が、その瞬間確かに熱くなったから。
「私はあなたの力になりたいのよ、いろは」
 生きる意味を探すため、一歩踏み出したくなってしまった。
「私にあなたを守らせて。あなたが幸せを見つけるまでの、ほんの少しの間でいいから」
「くぅん?」
 ほろほろ、ほろほろ、獣の仔供が涙を流す。やちよの言っている事はさっぱりわかっていないであろうに、ただただいろはが涙を流した。やちよが泣くから、彼女も泣く。独りぼっち同士が寄り添って、ぎこちなく体温を分け合って、ほろほろ、ほろほろ、涙を落した。
 それはあるいは、とても滑稽な姿でもあっただろう。けれどこの瞬間、二人は確かに一歩を踏み出したのだ。それは不揃いで、あまりにも小さな一歩だった。
 けれど、初めて二人で息を合わせ、ようやく踏み出した一歩でもあったのだ。

***

 じわり。広がっていく黄色い液体に、やちよはきょとんと眼を瞬かせる。部屋の隅で蹲ったままのいろはは、そんなやちよを見て少し気まずそうな顔をした。
「どうしたの」
 トイレの場所を覚えてから、すっかり粗相をする事もなくなったのに。フローリングの上、じわじわと範囲を広げていくそれは、間違いなく彼女の小便だ。簡素なワンピースもぐっしょりと濡れて、見るからに着心地が悪そうだった。
「いろは?」
「っ」
 とりあえずそれを片付けようと立ち上がれば、蹲ったままのいろはがびくりと震える。全身の毛を逆立てて牙を剥く姿は、まるで引き取ってすぐのようだ。
「どうしたの」
 ここ最近はだいぶやちよに慣れて、少しの接触なら逃げなくなったというのに。今にも唸り声を上げそうな凄まじい形相で、いろはがやちよに牙を剥く。
「なんにもしないわ。着替えと片付けだけ」
「ヴヴヴヴヴ」
「……どうしたっていうのよ」
 午前中は普通だった。三日に一回の入浴を済ませ、ご機嫌斜めのまま服を着る。そして腹いっぱいになるまで餌を食べ、その後かぼちゃのパイまで平らげたのだ。近くも遠くもない距離で、やちよに背中を向けて昼寝もした。本当に普通だったのだ。
「ヴヴヴヴヴヴ、ヴー……ぐるる」
「……自分で脱いでくれるなら何もしないわよ」
 せっかく風呂に入ったのだ。小便が染みた服を着たままでは、匂いがついてしまう。そう思って一歩近づけば、彼女はもっと牙を剥いた。けれど今のところそれ以上の抵抗をする様子もないので、やちよは物怖じせずに彼女の傍まで歩いていく。
「ほら、足上げて」
「ぐる、ヴーっ!」
「はいはい。ばんざーい」
「がうっ、うー、ふーっ、ヴヴヴ」
「ばんざい。脱いだらそのままでいいから」
 こういう時、下手に優しくしない方がいい。腫物のような扱いをすればすぐに伝わるものだから、あくまで普段通りに接すればいいのだ。事実いろはは、唸りながらも素直に手を上げた。気が変わらない内に素早く服を剥ぎ取って、股から足までをさっと清めてやる。そして床を綺麗にしてさっさと背中を向ければ、唸り声は小さくなった。
「夕方からまた天気が悪くなるって言うのに、もう」
「ヴー……」
「なによ、あなたが粗相したんでしょう」
「……」
 空模様が悪くなる前に乾くだろうか。考えながらも洗濯機を回し、ついでにいろはを睨みつけておく。それに小さく肩を震わせた彼女は、気まずそうに視線を逸らすとそこからむっつり黙り込んでしまった。
「いろは?」
「……」
 どうやら今日は、部屋の隅から動く気がないらしい。耳を倒して尻尾を丸める姿に、やちよはきょとんと首を傾げる。いつもなら、ちょっと怒ったくらいで凹んだりしないのに。
「具合でも悪いの?」
「がうっ!」
「いたっ」
 少し不安になって手を伸ばせば、その瞬間に燃えるような痛み。思わず自分の手を庇い。どくどくと溢れる血に目を瞠った。
「……え」
 今までで一番深い傷だ。それどころか、小さな犬歯が突き刺さっている。しきりにタオルを噛んでは血みどろにする姿から、歯が生え変わる頃なのだろうと思ってはいたのだ。けれどまさか、自分を噛む事でそれが抜けるとは思わなかった。しかも犬歯は転がり落ちたわけではないのだ。ざっくりと、やちよの手に突き刺さっている。
 それは明確な拒絶の色でもあった。
「……ごめんね、ちょっとかまいすぎちゃったわね」
 本来ならば、噛んだ時はすぐ叱るべきだ。けれどあからさまに普段とは違う様子のいろは相手に、しつこく手を伸ばしたのはやちよの方。相手が散々警告してくれたにも関わらず、距離を見誤ったのはやちよ自身だ。
「っ、っ……」
「いいのよ。今のは私が悪かった。怒ったりしない。大丈夫」
「……っ」
 いろは自身もこれが良い行いでない事は理解しているようなので、ここで怒るのは得策ではないだろう。思いながら小さく微笑み、とりあえず牙を抜くために研究室に入る。
「えーっと、ピンセットと針と……ワクチン、ワクチン……あった」
 そこで簡単に傷の治療をして、ついでに狂犬病のワクチンを打っておいた。いろははまだワクチンの接種前だ。大丈夫だとは思うが、気にしてしすぎな事もない。
「……やち」
「っ!?」
 一通りの処置を終えて、ほっと息を吐いた瞬間。背後から小さな声が聞こえて、やちよは椅子から転げ落ちそうになった。いると思っていなかった事もそうなのだが、一番驚いたのはそこではない。
「やち……こめぇ」
「っえ、いろ、えっ!?」
 喋っている。一か月間必死になって言葉を教え込んでもうんともすんとも言わなかった獣の仔供が、やちよの名前を呼ぶどころか、たどたどしくも謝罪の言葉を述べようとしているのだ。
「こめ、お、ご、め……やち」
「い、いいのよ。大丈夫。大丈夫だから」
 耳をぺたりと寝かせ、内側に巻いた尻尾を抱きしめながら、いろははふるふると震えていた。本当に申し訳なく思っているのか、大きな瞳には涙が浮かぶ。ひっく、ひっくとしゃくり上げ、泣きべそをかく姿は人間の子供そのものだった。
「大丈夫。痛くないから」
「うー……っ」
「怒ってないわ。泣かなくていいの。大丈夫よ、大丈夫」
 その前に膝をつき、視線を合わせてやればもじもじとした視線。何度も何度もやちよの表情を窺って、怒っていないのが本当だとわかれば、ようやっと幼い顔立ちが安堵を浮かべた。
「具合悪い?」
「んーん」
「どうしたの?」
 言葉はしっかりと通じているようだ。朝も夜もなく話かけ続けた成果だろう。興味がないふりをしつつ、耳だけはやちよに向けられていたのを知っていた。もしかしたら、言葉自体は来てすぐからある程度理解できていたのかもしれない。けれど話すのはこれが初めてだから、何度も口を開いては引き結んでを繰り返している。
「……」
「ゆっくりでいいわ。どうしたの?」
「お、あい……いと、うる」
「ん?」
「ぱん、ある」
「……?」
 舌を使った発音が上手くいかないらしい。母音ばかりの言葉に首を傾げ、それでもじっと待つ事、数秒。
「っ!」
「ぎゃんっ!!」
 それは、唐突に訪れた。
「キャンキャンキャン! ぎゅぅっ、きゅーっ!」
「ちょ、ちょっといろは! きゃっ!」
 バリバリバリ、ドォン。
 凄まじい光と共に鳴り響いたのは、空間を引き裂くような雷鳴だった。肝が据わっているつもりのやちよですら驚いたその音に、いろはが一瞬でパニックになる。カシャカシャと音を立ててフローリングを滑り、四足で逃げ回る姿はまるきり獣だ。体がぶつかるのも気にせず研究室を走り回る姿は混乱と恐怖に彩られ、本が落ちてきたくらいでは止まりもしない。
「いろは、おちつ……ひゃっ」
 ドォン、ドォン、ドォン。
 音が近い。今までどこに隠れていたのだろう。そう考えるくらいには唐突な空の怒りに、さすがのやちよも目を閉じた。光と、音。そして大粒の雨。ざぁざぁと部屋に響く、水の叫び。
「っ」
 その瞬間、理解した。
 怖い人、来る。パン、鳴る。
 いろははそう言いたかったのだ。野生の本能で雷雨の接近に気付き、不安で怖くて蹲っていた。雷雨が敵を連れてくると思って、その恐怖から粗相をしたのだ。
「っいろは……!」
「ギャイン、ぎゃん! ぎゅっ、きゅー! キャンキャンキャン!」
「いろは、いろは!」
 色々な所にぶつかりその衝撃で物が降ってきて、いろははもっとパニックになっている。雷鳴の僅かな隙間を縫って、一心不乱に床を掘る横顔は必死の形相。そしてまた雷鳴が鳴り響けば穴を掘る事を断念し、安全な場所を求めて走り回るのだ。
「いろは、いろは、いろは……っ!」
 恐怖で張り裂けそうな体に、必死になって手を伸ばす。一度目を逃し、二度目を捕えきれず、三度目になってようやく細い腕を捕まえた。
「ぎゃんぎゃんぎゃん! きゅーっ! きゅーっ! きゅーっ!」
「いろは! 私よ! 私! 大丈夫! 敵じゃない!」
 そのまま小さな体を抱きしめると、いろははとうとう泣き出した。高い声で親を呼び、全身が必死の抵抗を繰り返す。怖い人に囚われないように、銃声から逃れるように。
「私よいろは! やちよ。っ怖い人じゃない! っわたしはあなたを傷つけない!」
 雷鳴に負けないように、必死に声を張り上げた。今にも飛び出していきそうな体に、必死になって抱き縋った。どれだけ引っかかれようとも噛まれようとも、決して離さず抱きしめ続ける。
「いろは、いろは、いろは……っ」
「きゅーっ、きゅーっ、きゅーっ!」
「大丈夫、大丈夫よ……っ大丈夫だから」
 硬い床の上、暴れる体を抱きしめながら、涙が後から後から溢れてくる。あの日の雷雨の中、同じように逃げ惑ったのであろういろはを想うと、心が潰れてしまいそうだ。
 小さなその手で土を掘って、音が止むまで待っていた。怖い人の気配が遠く離れたのを確認してから、恐々穴の中から出てきたのだ。そして首のない家族を見つけ、呆然とその傍に座り込んだ。雷の音、叩きつける雫。秋の長雨。肋骨が浮く程の長い間、彼女はずっとその場所にいたのだ。何度家族の体を揺さぶったのだろう。何度力ない手に頭を擦り付けたのだろう。何度……遺体に抱かれて眠ったのだろう。
「いろは……っ、いろはぁ……っ!」
 暴れる体を押さえつけ、一緒になって床に倒れ込んだ。腹を蹴られても腕を噛まれても、それでもいろはを抱きしめ続ける。ぎゅっと、ただぎゅっと抱きしめて、何度も何度も頬を寄せた。髪を撫で、耳を撫で、必死になってつむじに唇を押し当てる。泣き叫ぶ幼子を抱いたまま、一緒になって声を上げて泣いた。
 今まで泣けなかった分を取り戻すように、まるで子供のように……泣いた。
「きゅー……っ」
「うん」
「きゅー、きゅぅ……っ」
「うん……っ」
「おあー、さ……っ」
「うん……っ!」
 二人そろってべぇべぇ泣いて、それでも足りずに泣いて泣いて、いろはがたどたどしく母を呼ぶからもっと泣けた。噛み付く口から嗚咽が漏れて、腹を蹴る足が折りたたまれて、引っ掻く腕が背中に縋る。
「やち……っ?」
「うん……っ」
「やちぃ……っ!」
「うん、うん……っいろは」
 雷鳴は、まだ鳴り響いていた。雨の音は、いっそ滝のようだ。硬い床はそれでも二人分の体温で温まって、寄せあった体は熱いくらいだ。二人してみーみー泣いたものだから、汗をかいていてすこし蒸れる。それでも互いを離す事など考えられずに、二人はずっと抱き合っていた。
 小さな手が必死になってやちよを引き寄せようとするのが悲しくて、もっと力を入れれば苦しそうな声。なのにいろはがもっとと言うから、涙がどうしても止まらない。抱きしめるのも、抱きしめられるのも、ふたりにとっては久々なのだ。
 ようやく手に入れた体温が愛しくて、けれど今はまだそれ以上の悲しみが苦しくて、二人はこの日、朝が来るまで硬い床の上で身を寄せ合っていた。

***

「やち、やち、やち」
「んー? なぁに?」
「だこー」
「はいはい」
 まさしく、夜を越えた。そう表現するのが相応しいだろう。あの雷雨の夜を共に過ごしてから、二人の距離は急速に近づいた。いろはは何をするにもやちよの後をついて回り、抱っこをせがんで手を伸ばすまでになっている。
 出かける時はべそをかくし、帰ってくれば嬉しそうに尻尾を揺らした。まるで、全身に好きと書いてあるようだ。やちよの一挙手一投足に敏感に反応するようになり、ついにはベッドに潜り込んでくるようにすらなっている。とにかく離れる事を嫌い、最悪トイレのドアまで開ける。さすがに困って鍵をかけたら、扉の外で大泣きまでした。
(不安なんでしょうね……)
 密猟者ハンターは、当分の間休業だ。どうせ冬になれば密猟者も動かなくなるし、当面は研究の仕事だけでも問題ない。いろはが素直に体を調べさせてくれるようになったので、こちらの方は大いに捗っているくらいだ。
「懐かないって何だったのかしらね」
「?」
「こっちの話」
 やはり時期の問題だろうか。乳離れ直後に親を喪ったいろはにとって、餌を与えてくれる相手は絶対の信頼を寄せるべき存在なのかもしれない。もちろんあの夜の事が十二分に寄与してはいるのだろうが、それにしたって懐くのが早い。
「やち?」
「んー?」
「ちうー」
「はいはい、ちゅー」
 だっこの上にキスまでせがんで、いろははにこにこと嬉しそうだ。つむじと頬に唇を押し当てれば高い声で鳴いて、お返しにぺろぺろと舐めてくれる。
「ん、ぷぁ、舌は入れない!」
「ちうー」
「わかったわかった、わかったから」
 毛づくろいは親愛の証だ。施設で保護されている人狼も、よく番や仲間を舐め回している。人間のそれとは違って滑らかな舌は、意外と涎成分が少なくさらりとしていた。広く平らなそれで何度も何度もやちよを舐めて、狼の仔は嬉しそうに笑う。
「ちうー、ちうー」
「しつこい……っん、もう!」
 やちよが怒ってもどこ吹く風だ。しまいには顔をがっちりと固定されて、なすがままに任せるしかなくなってしまった。執拗に唇に触れてくるいろはにやれやれと溜息を吐きつつも、嫌な気はしない。人間だったら恋人同士にしか許されないような行為だが、やっと懐いてくれた人狼だ。今はまだ、このままでもいいだろう。
「うーん、初めてのべろちゅーの相手が子供かぁ」
「?」
「こっちの話」
 これもその内教えてやらなければならない。キスを禁止したらいろははショックを受けそうだが、人として生きる以上必要な知識だ。誰も彼もにこんな事をしたら、人権より前にブタ箱行きになってしまう。
「やち、すき」
「私も好きよ」
「んと?」
「ほんと」
 この時、やちよ十九歳。いろはは生後四か月。二人の間にはこの時点で大きな行き違いがあるのだが、まだどちらもそれには気付いていない。決定的な祖語に気付くのは……いろはがもう少し大きくなってからの話だ。
 そう、それは、季節がぐるりと一周する頃。二人が出会ってから、二度目の冬の話になる。

***

 いろはを引き取ってから一年と少し。ひとしきり幼年期の人狼研究が済み、学会に発表するための論文をまとめている時の事だった。
「ん……?」
 祖父母、そして両親が集めた膨大な資料とにらめっこをしてる最中、ふと気になる記述を見つけたのだ。
「んんん……?」
 人狼同士のスキンシップについて纏められたそれは、やちよを唸らせるにはあまりある破壊力を持っている。だってこの研究結果が事実ならば、自分が纏めてきたデータは全て無駄になってしまうのだから。
「……人狼も人間と同じように、唇同士の触れ合いは特別な物……?」
 スキンシップは、群れの絆を深めるのに必要不可欠な物である。けれどその触れ合いにも勿論ルールはあり、これは仔供でも破る事は許されない。基本的に顔を舐めていいのは番同士か親仔に限られ、とりわけ唇への接触は番以外には許されない。それは人間と同様に親密な行為であり、このルールを破った者は、守るべき仔供であっても容赦ない制裁が下される――。
「んんんんんんん?」
 人狼は生まれてすぐにこのルールを学び、一生涯破る事はない。それ故に番同士の触れ合いは特別神聖な物となり、夫婦の絆はより強く結ばれる事になるようだ。
「ん――――――――――っ?」
 人狼は人に比べて成長が早い分、番選びは幼少期から行われる事も多い。人間の子供にも見られる、幼い誓いだ。人間はそれを子供の戯れと切り捨てる事が多いが、こと人狼の世界においてはそれは許されない。幼子同士の約束であろうが、唇を触れ合わせた時点で絶対の誓いになる。事実施設で生まれた仔供の半数が、この約束通り初めて口付けした相手を番に選び、生涯それ以外のパートナーを持たなかった。
「んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんっ!?」
 ――ここで、一つ言い訳をさせてもらおう。やちよは亜人研究のスペシャリストだが、元々の専門は人狼ではなかった。やちよにとって研究者でいる事は武器の一つでもあったので、一刻も早く地位を上げていく必要があったのだ。だから祖父母が専門としてある程度研究が済んでいる人狼ではなく、殆ど生態がわかっていない人魚を選んだ。自身が扱う魔法が水属性であった事も選択の一つではあったのだが、とにかくあの時は急いでいたのだ。
 結果として人魚並びに水棲亜人の研究で多大なる成果を上げ、博士号を取るまでに至った。けれど急ぎ足の代償として、未発表の研究成果には目を通さないままでここまで来てしまったのだ。
 いろはと出会ってから改めて人狼を研究する気になり、やっと論文をまとめ始めたらこれだ。今からすでに頭が痛い。
「やちよ?」
「っ」
 もしこれが事実なら……と頭を抱えたところで、当の本人から声をかけられる。慌てて顔を向ければ、研究室の入り口にマグカップを持ったいろはが佇んでいた。
「こん、つめすぎるの、よくない、よ」
「……ありがとう」
 ふわり。漂うのは甘い匂いだ。はちみつ入りのホットミルクは優しい色合いで、それを持ったいろはも優しい笑顔。そんな彼女に自然と表情が緩めば、同時に張り詰めていた気もじわりと緩んだ。
「むつかしい?」
「論文? そうね。まだまだ研究が足りないわ」
「……ぬぐ?」
「今はいいわよ」
 机に広げていた物を脇に除けたやちよを見て、いろはがようやく室内に足を踏み入れる。以前書類に飲み物を零してしまったのを気にしているのだ。よかれと思ってやった事で、余計にやちよの仕事を増やしてしまった。それにしょんぼりと萎れて以来、片付けが済むまでは部屋に入ろうともしない。
「やちよ」
「……待って」
 目の前にマグカップを置いて、自然な様子で顔を寄せてくるいろは。それを慌てて遮って、やちよはじっと彼女を見つめた。
「どうしたの?」
 対する彼女は不思議そうな顔だ。今まで殆ど拒まれなかったキスを受け入れてもらえず、少し不満げでもあっただろうか。それでも大分人間を知ったので、以前のように泣き喚いたりはしない。眠いからとキスの雨から逃れた時は、一週間程不機嫌なままで大変だった。
「ねえ、いろは?」
「はい」
 祖父母が纏めた研究結果を見た今ならわかる。あの時のいろはは、番のスキンシップを断られたから怒っていたのだ。
人狼は、番としかキスをしないって本当?」
「……? うん」
「そう……。ちなみにいろはは、私にお母さん役を求めていたりは……?」
「? なんで? やちよ、ち、つながってない」
「そうね、そうよね。そうだった……っ!」
「どうしたの?」
 人狼、人猫、人魚。いわゆるワー種族と呼ばれる亜人達は、人間以上に血縁関係を重んじる。新しく巣立つ仔供は親の縄張りから何十キロも離れた場所まで赴き、近親で仔供を作らないように徹底的な配慮をするのだ。つまりいろはにとっては血の繋がりが家族の証であり、それ以外の他者に母性を求める事は絶対にないわけで。
「知ってた! 知ってたでしょう私! 知っていたはずでしょう!」
 人魚の研究をした時点で、血縁関係の大切さは十二分に知り得た事だ。事実やちよはそれを論文にまとめたし、今ではこの分野の常識になりつつある。
 けれど知っている事と実際の経験はまるで違うものだ。知識としてはあっても、こうして自分がその立場に立つと意外と頭からすっぽ抜けてしまう。人間は他人であっても母性を求めたり実際に親子になったりするので、どうしても血の重さまで考えが回らなかった。
「……もしかして、つがい、ちがった?」
「っ……」
「わたし、は。そのつもりだったけど、やちよはちがった?」
「……う」
 やちよの前、尋ねるいろはは悲しげだ。ぺたりと耳を寝かせた姿は有り余るほどの落胆を伝え、その様子に胸が痛む。
「にんげん、じんろう、ちがうの、わかってる」
「……いろは」
「でも、じゃあ、やちよはわたしじゃないひとと、きす、する?」
「うううう……っ」
 唇への接触は番以外には許されない。番同士の触れ合いは特別神聖な物。夫婦の絆はより強く結ばれる。幼子同士の約束であろうが、唇を触れ合わせた時点で絶対の誓い。生涯それ以外のパートナーを持たない。
 先程読んだ内容が、ぐるぐると頭の中を駆け巡った。いろはが今まで毎日毎日キスをせがんだのは、やちよとの絆を深めるためだったのだ。自分から触れるだけでなくやちよからのキスをねだったのは、愛情を確かめようとしたから。番としての絆を深めるため、より強く相手を想うために、毎日毎日キスをした。将来の約束をより確かな物にするために、飽きる事無く顔を寄せてきたのだ。
「やちよ、さきにきすした」
「……う」
「あのひ、かおに、いっぱい」
「……うう」
「わたし、うれしかった」
「うー……っ」
「つぎのひ、くちびるにきすした。いやがらなかった、よね?」
「うううー……っ」
「まいにちした。やちよ、わらってた。たくさんすきっていってくれた」
「……うぐぅ
「ほんとうは、うれしくなかった……?」
「うううう……っ!」
 人間としての見た目は、十代前半くらいだろうか。愛らしさは残したまま、それでも美しさを纏い始めたいろはが瞳を濡らした。ぐすりと小さく鼻をすすって、服の袖で涙を拭う。やっと様になってきた着こなしは文句なしに可愛くて、今朝もその姿を褒めたばかりだ。可愛い、好きだと言った時、彼女は嬉しそうに笑っていた。
 やちよの気持ちが自分に向いていないなどと思いもしないまま、幸せそうな笑みを浮かべたのだ。
「う――――――――――――――っ!」
 胸が痛い。とんでもなく痛い。純粋無垢な少女を騙した気がしてたまらない。知らなかったとは言え、番じゃなかった? という問いかけに、素直に頷けるはずがなかった。
 途方に暮れて頭を抱えるやちよを、半べそのいろはが見つめている。うんうんと悩む姿を寂しそうな瞳で眺めやり、ややあってから、力なく下手くそな作り笑顔を浮かべた。
「こまらせてごめんなさい」
「いえ、あの……」
「わたしもやっと、にんげんとルールちがう、わかって……きました。おしつけるの、よくないのは……わたしたちもおなじ、だから。ことわられたら、あきらめる」
「……いろは」
「でも、まだ、すきでいて……いい?」
「っ」
 ガツン。後頭部を思い切り殴られたような、衝撃だった。
 もしかしたらやちよは、ワー種族の恋を心のどこかで軽薄な物だと思っていたのかもしれない。人間のように時間をかけて育む物ではないと、どこかで決めつけていたのかもしれない。彼らの恋は人の目には性急に映って、だからこそ錯覚のような物だと勘違いしていた。彼らの権利を主張しながら、やちよもまた、愚かな者達と同じように亜人を軽んじていた部分があったのだろう。
 人間は十数年をかけて大人になる。だから恋を知り、育むためにも時間がいる。けれど彼らは二年足らずで大人になるのだ。それ故理解は早く、育むにも駆け足だ。けれどそれは決して即物的でも軽率でもなく、事実いろはは毎日毎日やちよに触れた。欠かす事なく絆を深め、今こうして理解も深めようと心を砕いてくれる。
 彼女の恋は決して軽い物ではない。単純な話でも、ない。
「いろは。人間にはね、こういう時にぴったりな言葉があるの」
「?」
「責任を取るわ」
「せき、にん?」
 彼女の想いからすれば、随分卑怯で薄汚れているだろう。けれど今は、これがやちよの精いっぱいだ。心なんていろはより幼いくらいで、彼女に対する愛情が、母性か恋かの区別もついていない。それでもここでいろはを突き放したくないと思ったのだから、今はその気持ちに従おう。
「番候補、って事にしておいて」
「こうほ?」
「よていよ、よてい。もしかしたらいろはに他にいい人が出来るかもしれないでしょう?」
「……わたし、やちよいがいえらばない」
「うぐ……まあ、うん。それはそれで、あの、のんびりやっていきましょう?」
「わたしじゃ、だめ?」
「おねがいそういうのやめて」
「?」
 ああ、ああ、胸が痛い。なんだかとてもジクジクする。顔はやたらと熱を持っているし、なんだか調子が狂ったままだ。落ち着くためにとすっかり冷めてしまったホットミルクを飲み干して、一つ大きな息を吐く。横からじっと視線を感じていろはを見れば、彼女はなんだか期待した顔をしていた。
「なぁに?」
「……キスしていい?」
「……」
「つがい、やめたわけじゃない。キス、していい。ちがう?」
「……どうぞ」
 根負けだ。あの時からそうだったが、いろははやたらと押しが強い事がある。そっと頬を包み込まれながら、すっかり慣れ親しんでしまった唇を受け入れた。ちろり。いつものように舌が滑り込んできて、それなのに今日は鳥肌が立つ。
「やちよ」
「……ん?」
「わたしをえらんで」
「っだから、そういうのやめてってば」
「じこあぴーる、だいじ」
「もう……んっ」
 番ではない。夫婦ではない。恋人ですらない。それなのに何度も何度も角度を変えて、キスを繰り返す。これは絆を深めるための行為だ。相手を好きになるための行為。もっと、もっと、もっと。もっと深く相手を知って、そして自分を許す行為。
 いろははやちよを選んだ。やちよは……まだわからない。ただこの触れ合いがとても心地良く、そして一度だって嫌だと思った事がないのは確かだった。
「やちよ、えらんで。わたしをすきになって」
「だ、から……っもう」
 いずれにせよ、結論が出るのはそう遠い未来の話でもないだろう。いろはが二歳になる頃には、文字通り雌雄が決しているかもしれない。
 いろはが人らしくなるのが先か、やちよが落ちるのが先か。結果は……きっと書き記すまでもないだろう。