どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

人狼03

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「……何してるの?」
 風呂から上がった直後の事だった。バスタオルで体を拭うやちよの眼前、バスマットの上で、いろはがちょこんと蹲っている。
「え……舐めてる」
 それはわかる。
「そうね、聞き方が悪かったわ。今お風呂に入ったばっかりなのに、どうして舐めてるのかを聞きたいのよ」
 問題は、そこだ。蹲るいろはの腕の中。まだ目も開いていない我が子が、もぞもぞと体を動かしている。全身びしょ濡れの仔狼は、今日が初めてのお風呂だった。両親に支えてもらいながら湯の中で溺れ、やっと様々な汚れを脱ぎ捨てたばかりなのに。

「だって、体ぬれたままだと、よくない」
「いろは見て。ここにタオルがある」
「あ」
 言って、タオルを掲げてやれば、いろはは間の抜けた声を上げた。
 仔供が生まれてからというもの、いくらか野生返りしているのだ。生まれてすぐの生臭い我が子を必死に舐めた事から始まり、裸で体温を移す、運ぶ時に口で咥える、そして今の行動。とにかく本能が前面に押し出されている状態らしく、ここまで培った人間らしさはどこへやら、だ。
 やちよに言われてようやくタオルの存在を思い出したのか、素早く立ち上がる彼女は恥ずかしそうだった。
「本能ってすごいわねぇ」
「……うぅ」
 正直少し驚いている。祖父母の論文から事前に情報は得ていたにも拘らず、やちよは最近驚いてばっかりだ。
 過去散々後手に回った事でいくらかの学習をし、今回は『番活動』に入る前から様々な情報を得ていた。特に人狼の交尾、出産、育児についての項目は諳んじられる程に熟読したし、ある程度の事は覚悟もしていたのだ。その上でなお、いろはの行動は驚く事ばかり。野生返りが予想の範疇を軽く超えている。
「一人目だからかしらねぇ……」
 手に持ったタオルで仔供を拭きながら、いろははちろりちろりと舌を出していた。やちよに言われてタオルを持ったはいいが、舐めたい気持ちはどうしようもないらしい。タオルを動かすのに合わせてぺろぺろと舌を動かす姿を少し笑い、やちよはちらりと自分の腹部を見下ろした。
(まあ、変わらないわよね)
 自分で見ても、子供を産んだとは思えない。相変わらずつんつるてんの腹部はさしたる膨らみも弛みもなく、以前と同じように平らかなままだ。それもそのはず。人狼の仔と人間の子では、実に六倍近い体重の差があるのだから。
「体重は?」
「んー……もうすぐ一キロ」
「生まれた時は五百グラム弱だから……五日で倍ね。早いのか遅いのか……」
「おなかぱんぱん。毛もふわふわ。元気」
「……じゃあいいのかしらね」
 五百グラム弱……と言えば、人間の子ならば二十週にも満たない頃だろうか。ある程度の機能は完成し始めているが、生まれるまでには程遠い。胎動に耳を澄ませて一喜一憂する頃合いだ。
「異常があったらわかる?」
「んー、たぶん? 匂い、かわるから」
「そう。じゃあ何かあったらすぐ言って」
「わかった。やちは平気?」
「今のところはすこぶる健康よ。こっちもあなたの鼻を信用してる」
「うん、任せて」
 産後の肥立ちは悪くない。けれど自宅で出産してから病院に行ったわけでもないので、細かい事までわかるわけでもなかった。なにせ妊娠マニュアルがない……いや、その言い方だと語弊があるだろうか。正確に述べるならば、『人狼の仔供を人間が妊娠した場合のマニュアルがない』のだ。
 人間と人狼、互いに人と付く以上交配は可能だが、愚かな歴史を歩んできたせいで、前例らしい前例が残っていない。となれば学ぶ機会があるはずもなく、学ぶ機会がないならば、当然人間の医者には診られない。よしんば診られたとしても正しい理解は出来やしないだろう。かと言って獣医には人間を診る資格がないのでそちらに世話になる事も出来ず、結局やちよは自分で自分を調べる事になった。
 古い型ではあるが幸いエコーは家にあったし、薬もあれば手術室もあるのだ。そしてやちよは医師免許も獣医師免許も両方持っている上に、亜人研究で博士号まで持っている。人狼の仔供を妊娠した人間を診るのに、これ程適した人物もいないだろう。
 番の発情期、それに連なる交尾は勿論の事、妊娠発覚から出産までを事細かに記録した。出産時にはカメラまで回したし、本当にギリギリまでメモを取り続けたのだ。人間の子供の六分の一程度しかない我が子を抱いた時も、感動より何より先に、瞳孔反応の確認をしたくらいだ。
「まだ見えてない?」
「どうかな……光くらいはかんじてるかも」
 狼の仔供は、暗い巣穴の中で生を受ける。そしてそれは人狼も同じだ。狼ならば三メートル、人狼ならば六メートル前後の穴を掘って、一週間はその中に籠って出て来ない。それ故生まれてしばらくは視力を持たず、なんなら耳も聞こえないくらいだ。穴の中、親に守られて生活する分には必要がないからだろう。
「あなたはどれくらいだった?」
「二週間はかからなかったと思う。たぶんこの子の方がちょっと早い、かな」
 本来暗がりで過ごす期間を光の中で過ごしたらどうなるのか。それが現在のやちよの研究内容だ。自分の事、仔供の事、そしていろはの行動、野生返り。その全てを事細かに記録して、とにかく情報を集めるしかない。
「ここからどうやって人型になるのよ」
「のびる」
「……」
 頼みの綱の番はこんな調子なのだ。生後一ヶ月ちょっとしか親許にいなかったにしては色々な事を知っているが、如何せん科学的根拠がないので説明が雑に過ぎる。
「そんな感じでよく子育てが出来るわね……」
「……わたしからいえば、人間の方がおかしいけど」
「どういう意味よ」
「りかいしたいって言いながら、あいて、見ない」
「……」
人狼、あいてを見る。たくさん見る。人間、文字ばっかり。本とにらめっこして、あいてを知った気になる。知ったのは本だけ。あいてじゃないのに」
 正直、耳の痛い話だった。何もいろははやちよを責めているわけではないだろうが、それにしてもぐさりと刺さる。いろはとの触れ合いすら、やちよは殆ど文字から知識を得ているのだ。本人に聞けばいいだけの事も、あれやこれやと資料を漁った。交尾についてなどそれこそいろはと対話をしていくべきで、知ったかぶりなどするべきではなかっただろう。
「……ごめんね?」
「? なにが?」
 居た堪れなくなって謝れば、いろははきょとんとした顔をした。眉を下げる番をじっと眺め、それから合点がいったようにああと頷く。
「いいよ。やち、けんきゅうがおしごと。わたしはえーっと、割り切ってる?」
「そう思わせる事がそもそも駄目なのよ」
「そうかな? いやだって言ってること、聞かないのはだめ。だけどわたしはいやじゃないよ」
「……そう?」
「うん。だってそれがやちだもん」
 やちよは自分の研究を武器だと言った。戦うための得物だと。けれどそれだけではなく、純粋に研究が好きなのも理解している。それは彼女の生涯だ。生きる意味と言ってもいい。
「わたし、けんきゅうしてる時のやち、好きだよ」
 これでやちよが、いろはの事まで研究の一環として扱っているなら怒っただろう。そこに愛がないならば、いろはだってただ黙って研究されてはいなかった。けれど、彼女の根底には愛がある。決して目には見えないけれど、そこには確かな情がある。いろはを少しでも長生きさせるため、生まれてきた仔供を健康に育てるため。そして自分自身も生かすために、彼女は日夜筆を走らせるのだ。
「やちが好きだよ」
「……ん」
 家族を守るために武器を振るう彼女を、いろははとても尊いと思う。やちよに引き取られてこのかた、嫌だと思った事は一度もない。理解が出来ない期間はあったけれど、理解が及んでしまえば嫌悪感は溶けて消えた。
 この人間は自分を生かそうとしている。やちよの一挙手一投足から、逐一それを感じたのだ。彼女は優しい。いろはを傷つけたくて傷つけた事など、ただの一度もない。吹き矢を向けてきた瞬間すら、彼女の目に浮かんでいるのは守りたいという一念だけだった。紅い唇から零れ落ちたのは、ごめんね、という謝罪だった。
「やちもふいてあげる」
「自分で出来るわ」
「つがいのしごと」
「……ふふ、くすぐったい」
「がまんがまん」
 言葉が喋れないいろは相手に、それでも彼女は語りかけ続けてくれたのだ。朝も昼もなく、たとえ返事がなくとも。
 おいで。大丈夫。何もしない。いい子ね。
 いろはが期待に応えなかったとて、彼女は怒ったりしなかった。悪い事をすれば容赦のない拳骨が降ってきたけれど、それは教育的指導だ。いろはだって、親にがぶりとやられた事が何度もある。
 やちよは優しかった。愛を持っていろはに接してくれた。最初から、ずーっと。
「かみかわかしたら、ご飯にしよう」
「そうね」
「今日はお肉だよ」
「ふふ、ちゃんとナイフとフォーク使ってね?」
「小さいころの話、きらい」
「ついこの間よ」
「わたしにとっては昔だもん」
「はいはい」
 もはやおなじみとなりつつあるやり取りをして、いろはは仔供を抱え直す。小さな体をバスケットに入れて、タオルをかけてやる姿は嬉しそうだ。その横顔を見ながら、やちよもとろりと目を細める。
 大切な人たちが幸せであればいい。今はただ、その一心だった。

***

「おいでおいで」
 呼びかけに、仔供がてちてちと歩き出す。障害物を避けて声のする方に向かっていく姿は、いくらか人間味を帯びてきただろうか。
「光の明暗は理解できてる感じね」
「そうだね。声はまだわからないけど」
 生まれて二週間。突然変異レベルの骨格変化を起こしている我が仔は、最近よちよちとでも歩き回るようになっていた。まだまだ四足歩行ではあるが、足の裏がしっかりと地面を掴んでいる。足が伸びてきたのではいはいの方が楽そうなバランスではあるが、そこは人狼の仔供だ。人間とは始まりが違った。
「耳が聞こえない感じよね」
「うーん。そうだねぇ」
 いろはの話では一週間程度で喋り始めるとの事だったが、未だそのような兆しはない。声と言うより明暗だけでやちよの白衣の下に潜り込み、小さな体がみーと鳴いた。
「顔もいくらか人間ぽくなってきたけど」
「うーん」
 生後一ヶ月ちょっとのいろはを拾った時、その姿は人間の五歳児程度だった。いろは曰くこの頃には走り回っていたらしいのだが、この子はかなり成長が遅い。
「人間の血が濃いのかしら」
「そうなのかなぁ」
 ここにきて、やちよよりいろはの方が余程不安そうな表情をする事が増えている。彼女の本能や記憶と大分違う成長具合に、うんうんと唸っている事も多い。
「匂いは?」
「げんき」
「じゃあ平気よ」
 割合的な物は確実にあるのだろう。人に比べたらいくらも早い成長である事は確かだし、やちよとしてはそこまで気にしてもいない。急激な成長に耐えられるようにと弛んでいる皮を引っ張りつつ、番に向けてにっこりと笑いかけてやる。
 だって、野生ではないのだ。天敵がいるわけでもなければ他の群れと争う事もなく、まして密猟者に狙われる事もない。この子の傍にいる獣は、親であるいろはだけ。
「だからかもね」
「?」
「この子の成長がゆっくりな理由。生き急ぐ必要がないからかもって」
 目が見えなくても親からはぐれる事はない。敵がいないから耳が聞こえなくても問題ない。急いで体を成長させなくとも、命が続く事を知っている。
「……爪がたいらなのも、穴をほるひつよう、ないからかな?」
「……そうかもね」
 やちよの顔を目指して這い上がってくる仔供。その両手の爪は、いろはのそれとは違って平らで丸い形。人間のそれより少し分厚い爪は、まだまだ頼りなく小さい物だ。服に引っかからない分いくらか上り辛そうではあるが、代わりに握力はそこそこありそうだった。
「くすぐったいよ」
「我慢」
「んー……っ!」
 人狼と人間、似ている部分も山程あるが、種族が違う以上異なる部分だって山程ある。今、やちよに顔を撫で回されるいろはの頭では三角耳が震えているし、その背後ではふさふさとした尻尾が揺れていた。捲り上げた服の下、びっしり生えた体毛は、まさしく毛皮と呼ぶに相応しい物。笑う彼女の口許からは牙が覗き、その奥には薄い舌がある。
「どこまでさわるの?」
「どこまでって言うか……好きなだけ?」
「ふふ」
 肩まで登ってきた我が仔をいろはに渡し、動きを封じた上でその体にのしかかる。指先で毛皮の下の筋肉をなぞれば、彼女は楽しそうにくすくす笑った。
「やち、おなかさわるの好きだね?」
「気持ちいいのよ。低反発で」
「わたし、まくら?」
「今度お昼寝させてもらおうかしら」
「ふふ、いいよ」
 毛皮の下、殆ど脂肪のついていない腹部は筋肉の塊だ。全体的な体つきはやちよよりも細く見えるのに、皮膚の下には人間の数倍は密度の高い筋肉が詰まっている。弾丸のような瞬発力を生み出すくせにしなやかで柔らかいそれは、頬を寄せると気持ちいいのだ。
「本当の力とは、それを使わない事である……か」
「なに? それ」
「さあ。どこかの誰かの格言だった気がする」
 彼女は……いや、彼女達は、その力を家族のために使う。誰かを守るため、誰かを生かすためにしか使わない。多くを殺さず、また多くを持たず。向かってくる敵にすら、威嚇で事が済むなら何もしない。獣人の手のひらは、家族を抱きしめるためにある。長い爪は拳を握るには適しておらず、多くは家族を抱き寄せるため、その頬を撫でるためだけに使われるのだ。
 人は多くを持ち過ぎた。争う必要がないからと薄くなった爪、握るのに適した手のひらに武器を持ち、守るよりも多くの命を消している。
「またむずかしいこと考えてる」
「……うん」
「やちは少し休んだ方がいいよ」
「そうね。……うん、そうかも」
 触れても触れても、わからない事ばかりだ。いや、いろはに触れる程に、疑問は増えていくばかり。命とは何だろう。生きるとは何だろうか。刈り取られた植物すら、茎から葉から根を伸ばし、必死に命を繋ごうとする。今まさに飢えて死に逝こうとしている仔供すら、遺骸の乳を吸って足掻いていた。
 生きるとは愛だけではない。損得だけでもない。上下でも優劣でもない。食事や医療環境が整っていればそれでいいわけでもない。進化は、あるいは退化は、種を繋ぐという事は不思議なものだ。
「私達って顔ダニみたいなものなのかもね」
「一から話してもらっていいかな?」
 やちよの言葉に、いろはは困り笑顔で優しい声を出す。我が子をクッションの上に下ろし、空いた両手が頬を撫でた。優しく、柔らかく、それこそ傷つける事がないように。
「色々な事を考えるとね、いつもそこに行き着くのよ」
「うん」
「私達が自分の体で色んな生き物を養っているように、私達もまた地球に養われているだけじゃない?」
「うん」
「顔ダニにとっては長い時間でも私達にとっては一瞬であるように、地球にとっての私達もそうなのかなぁって」
「うん」
 人は、命は、多くの物が寄り集まって初めて命だ。臓器に意思はなくとも、細胞に意識はなくとも、それもまた一つの個体。その一つ一つの終わりが命の終わりではないと、どうして言えるのだろう。それとは逆に、今自分が住まうこの大地が、何か大きな存在の一部ではないと、どうして言い切れるのだろう。
「やちはむずかしいことを考えるね」
「……そう?」
「うん。きっと、かおダニはそんなこと考えないよ」
 あと、わたしも。
 穏やかな声だった。
 知らず寄っていたやちよの眉間を揉みながら、いろははただ優しい微笑みを浮かべる。およそ野生に相応しくない柔和な笑顔は、きっと彼女の父親に似たのだろう。望むべく再会ではなかったが、ガラスケースの中の両親と、それを見下ろすいろはの横顔はよく似ていた。
「他にね、だれかの力がはたらいていたとしても」
「……うん」
「自分がもっと大きな何かの体を借りているだけだとしてもね?」
「うん」
「それとわたしの気持ちは、なんにもかんけいがないもの」
 いろはは一生懸命生きている。たとえ家族全てを喪っても、その生首と対面する事になっても、何度悪夢を見て飛び起きても、それでも懸命に生きている。もしあそこで死んでいたとしても、それでもいろはは胸を張って言っただろう。
「わたしは、わたしを生きてるから」
 最初から最後まで、ずっと「わたし」だ。誰かの操り人形ではない。自分であるために生きている。
「やちもそうだよ。やちはやちであるために、やちを生きてる」
「……」
「たとえばあの時死ぬことをえらんでいても、やちはやちだよ。やちを守るために、やちとして死んだの。だから、やちはやち。やちのための、生きる」
「――……ああ」
 自然、声が出た。迷路を飛び越えたような答えだった。
「……ああ、そうね。そうよね。私は、私だわ」
「うん。どんなやちでも、やちはやち。こうして生きていてくれて、わたしと出会ってくれて、うれしい」
「っ……うん」
「これでかおダニも少しは愛せる?」
「それはない」
「ふふ」
 ……本当は。
 本当は、心のどこかで苦しかったのかもしれない。自分一人が生き残った事。家族に守られ、その命を犠牲に生きながらえてしまった事が。その無念を晴らそうと、その遺志を継ごうと、ずっと前を見据えていても。志半ばで倒れた彼女達の願いと祈りを背負い、なのに歩みは泥のようだった。一足ごとに底なし沼に沈むような気持ちで、やっとの思いで獲った仇の首も、やちよにとってはただ虚しいだけだった。
 これで家族が帰ってくるわけではない。大切な物全てを喪って、それでも生きている意味はなんだろう。命とは何だろう。生きるとは何だろうか。自らに課した「意味」はあっけなく終わりを迎え、そうしたら何もわからなくなってしまった。いっそ何か、自分ではどうしようもない何かに生かされているのだと思った方が……ずっと、ずーっと、楽だったのだ。
「……私、何もしなくてもいいのかな」
「うん」
「何もしなくても、許してくれるかな」
「……つぐなってほしいなんて、思ってないよ」
「っ……そうかな」
「うん」
 生きたのだ。やちよの家族も、自分が自分であるために生きた。自分の命を、自分が使いたいように使ったのだ。今わの際、やちよに告げた言葉が全てだろう。
「この子にたくさんうたってあげたらいいよ」
「っ……ん、うん、うん」
「みんな、やちのうた、大好きだったんだよ」
「うん……っ」
 自身がもう終わると知った時、彼らが求めたのは歌だった。命が尽きるその時まで、愛し守った存在を感じていたかった。最後まで、愛しいやちよの声を聞いていたいと願ったのだ。叶うなら泣き声ではなく、家族で口ずさんだ思い出の一幕を。
 愛しい人が、これからも幸せである事を祈って。
「生きてていいんだよ」
「うん……っ」
「幸せになっていいんだよ」
「っうん……」
「やちが好きだよ」
 そう言って、温かい両手がそっとやちよを包んでくれた。武器にもなるその手が、寂しかったやちよを包んでくれた。あの日の小さなやちよにまで、やっと救いの手が伸ばされた。
「ごめんねお母さん、ごめんねお父さん、おばあちゃん、おじいちゃん……っごめんね」
「うん、うん」
「っありがとう……っ」
「うん」
「いろは、いろは、わたし……っ」
「……うん。もう、いいんだよ。よくがんばったねぇ」
「うん……っ」
 ああ。そうだ。
 やちよはきっと、誰かにそう言って欲しかったのだ。もう謝る術もない彼らに代わって、誰かに優しく許してほしかった。
 そして、その許しが。
 他でもない愛しい人から与えられたからこそ、こうして救いになったのだ。
「っくぅー……!」
 必死にいろはを掻き抱いて高く鳴けば、彼女が嬉しそうに尾を揺らす。番の背中に回した手にぱたりぱたりと温かな毛が触れればもっと泣けてしまったけれど、今はそれを我慢する必要もないのだ。
 いつかと同じで、それでも違う硬い床の上、二人分の体温で温まったそれは、いっそ驚く程に優しくもあった。
 手に、体に馴染む体温は愛しいばかりで、悲しみが昇華されていけば優しくて、二人はこの日、夜の帳が街を覆うまで硬い床の上で身を寄せ合っていた。

***

 あれから数日。相も変わらず白衣を纏って研究に没頭するやちよに、いろはは少し眉を下げた。
 やはり彼女は純粋に研究が好きらしい。あの出来事を越えていくらか落ち着くものかと思ったが、その見立ては完全に甘かったと言わざるを得ないだろう。むしろより一層没頭するようになった人狼研究に寝食を忘れる事も増え、最近では実力行使も増えている。
「本能って面白いわねぇ」
 しみじみと呟くやちよに、いろははついに溜息を吐いた。出産直後にボイスレコーダーで簡易記録を取った時もそうだが、何かと白衣を着たがる番に少し呆れているのだ。彼女が研究をする姿が好きというのも本心だが、もう少し休んで欲しいと思うのも番心。
 今日もあの手この手で研究室から引きずり出したのだが、寝かせるためと思って寝室に連れ込んだのがまずかった。徹夜ハイでテンションがおかしくなっている番にひん剥かれ、抵抗虚しくその気にさせられて……今だ。
 一睡もしていないのだから一回すれば落ちるだろうと、甘く見たのもまずかった。むしろ一回を許したせいで血の巡りが良くなったのか、今のやちよは完全に目が冴えてしまっている。いろはの上に馬乗りになって、しげしげと体を眺め回す彼女は元気一杯だ。
「……やち、もしかしたらわたしより体力あるよね」
「これでも厳しい訓練を積んだレンジャーですから」
「……すごいね」
「ありがと」
 学者としてフィールドワークをこなし、要請があればレンジャーの活動。そして家に帰れば論文をまとめ、休日には施設に赴いて亜人達の診察までしているのだ。最近はそれに子育ても入る。なるほど体力がなければとても務まらないだろう。
「やち、さわるのはいいけど、しゃしんはだめ」
「……一枚だけ」
「だめ。ろんぶんにのせるでしょ?」
「載せないわよ。……たぶん」
「しゃしんはだめです」
 どこからかカメラを取り出したやちよを押さえ込み、そのままくるりと体勢を入れ替える。鋭い爪で彼女を傷つける事がないように細心の注意を払い、それでもやや強引に。
 まあ、それくらいでやちよの好奇心まで抑え込めるとは思っていないのだけれど。
「何も感じないの?」
「人間とはちがうから」
「ふーん」
 やちよが今興味を持っているのは、いろはの胸だ。乳首までがぴんと張り詰めたそれは人間のそれよりいくらか……そう、薄い感覚がして、どこか水風船を思わせる。
「やっぱりあなたがボスって事かしらね」
「うーん、どっちかって言うと、たちばがあやふやだから……かも?」
「どういう事?」
 狼の社会には、アルファ、ベータ、オメガの三段階に区分された徹底的な上下関係がある。ボスであるメスとその番だけがアルファ個体であり、通常仔を孕むのはアルファのメスだけだ。ベータは群れに留まった子供達や古参の仲間で、オメガは弱者や新参者。
 いろはは群れを出た若い個体だ。望まぬ巣立ちではあったが、群れを出た以上新しく自分の群れを作るか、どこかの群れに入れてもらう必要がある。勿論彼女はそんな本能に縛られる事無く、人間として自由に生きていく道もあっただろう。それでも、いろはが選んだのは群れを作る事だった。やちよを番として新しい群れを持ち、アルファ個体として家族を率いていく。
 いくつもの分岐の中、いろはが最も幸せだと思った選択だ。
「わたしは、やちがボスでもいい。と言うより、やちが番で奥さんなら、なんでもいいの」
「……ん、うん」
 いろははやちよを連れて野生に戻ろうとは思わなかった。彼女もまたそれを望みはしないだろう。だからこうして人里で過ごす事になんの不満もないのだが、理性と本能はまた別のお話。DNAに刻み込まれた種族の記憶は、そうやすやすと人里に慣れてはくれなかったわけだ。
「まえも言ったように、狼、つよいメスしか仔供うまない」
「うん」
「りにゅうき? に入ってない仔供のめんどう、本当ならアルファメスしかみないから」
「ああ……」
 人狼が仔供を産み落とすのは、地面に掘った深い穴の中だ。仔供の耳がしっかりと聞こえるようになるまで……つまり親の発する警戒音を理解できるようになるまでは、決して外に出す事がない。その間に仔供の世話をするのは実の母であるアルファメスだけであり、番であるアルファ個体ですら顔を見る事も叶わないというのに。
「毎日仔供といっしょにいるから、体がかんちがいしたの」
 あと、やちの方がいない時間が多い。
 最後の言葉は不満げに呟いて、いろはは少し眉を下げる。目の下にクマを作ったやちよを心配そうに覗き込み、その瞳は暗がりの中でも不安そうに揺れていた。
「やち、しごとしすぎ」
「……ごめんなさい」
「わたしたちのこと、大切にしてくれるのはわかる。だけど、わたしにだって番はやちしかいないんだよ」
「うん……」
 授乳期のメスは大量の養分を必要とする。だからこそその番は四六時中獲物を求め、日に何キロも縄張りを走り回るのだ。いろはとやちよはてんであべこべ。仔供を産んだやちよが日に何時間も研究室に籠り、その間はいろはが世話を続けているわけだ。それは体も勘違いをするだろう。
「もうちょっと皆ですごそう。このままだとあの子、やちの匂いおぼえないよ?」
「明日から一週間お休みにします」
「よろしい」
 出掛ける時、「いってらっしゃい!」ではなく「また来てね!」と言われるような親にはなりたくない。心の底からそう思って、やちよは神妙に頷いた。
 そんな番の上、ようやく表情を緩めたいろはは嬉しそうだ。毛布の中でぱたりぱたりと尻尾が揺れ、それに合わせて空気が動く。頬を撫でる風は二人分の体温で温くなっており、それを感じるとなんだか少しくすぐったい気持ちになった。
 もう長い事、冷たいシーツに触れていない事に気が付いたから。
「眠くなってきた」
「ねていいよ」
「……明日、私が朝ご飯作るわ」
「ホットケーキがいいな」
「ん、チョコレートたっぷり……ね」
「うん」
 一人ではない。それに、一人で頑張る事もない。だっていろはは家族なのだ。やちよはいろはの群れに置いてもらっている。わからない事があっても、時にはもしかしたら辛い事があったとしても、もう一人ではない。
「いろは……」
「……おやすみ」
 眠りに落ちる時、悪夢を心配する事もいつの間にかなくなっていた。それは愛しい人のぬくもりがあるからだと、改めて感じた夜だった。

***

「うがぁっ!」
「うがぁじゃないの。服を着なさい」
 ああ、懐かしいやり取りだ。思いながらすっぽんぽんの子供を捕まえて、無理矢理ワンピースを被せてみる。
「脱がない!」
 大分人間らしくなった我が子は、現在生後一ヶ月。やちよと出会った頃のいろはと同じくらいだが、相変わらず成長は遅いままだ。獣型から人型への変態もまだ完全とはいかず、白目のない目許はまだまだ獣の方がいくらも近いくらいだろう。
「っ……くく、ぶっ」
「やち!」
「ご、ごめ……っだって、だって……ぶはっ!」
「わらわないの! もう!」
 それでも器用さは人間のそれだ。いろはが服を着せる傍からボタンを外し、するすると逃げ回る姿は小賢しい限り。かつて自分がやった事を我が仔にそのまま返されて、今のいろはは親の威厳が見る影もなかった。
「やちぃ」
「はいはい、おいで」
「……もー」
 言葉はまだ「やち」の一言しか喋れない。それでも耳が聞こえるようになり目がはっきりと物を捕らえるようになってから、仔供の成長は一気に進んだように思える。両親の会話からよく聞く音を拾い出し、たどたどしく真似てみる我が仔は可愛かった。
「いろはって音は少し言いにくいかもね」
 人狼は親でも名前で呼ぶらしい。一つ一つの群れに王がいるような環境だからかもしれないが、単純に雌雄を自己で選択できるからかもしれない。いろはは人間の生活にならってパパなりママなり呼ばせるつもりでいたようだが、両方ママだとわかりにくいのも事実なので、人狼側のルールを採用する事にした。
「人型になってきたから大分落ち着いた?」
「んー、どうかな。まだ舐めたくはなる」
「ふふ、まあいいんじゃないの? 家の中だけなら」
 いろはの本能は、相変わらず理性を突き破り気味だ。仔供の体も大分大きくなったので口に咥える事はなくなったが、それでも暇さえあれば頬やら背中やらをぺろぺろ舐め回している。風呂から上がった我が仔をタオルで拭きつつ、ぺろぺろ舌を出す姿も変わらないままだ。
「外でやったらどうしよう……」
「大丈夫よ。いろはは心配性だもの」
 家では気が緩んでいるからそうなるだけだろう。外での彼女は品行方正、真面目が服を着て歩いているような状態だ。挨拶をされる度に立ち止まって挨拶を返すので、近所のマーケットに行くだけで片道一時間はかかってしまう。
 やちよの番は人気者なのだ。
「家でくらい気ままでいてよ。暴れん坊で甘えたがりなあなたも大好きなんだから」
「あばれんぼうじゃないもん」
「甘えたがりは否定しないのね」
「うーっ。やちいじわる!」
 仔供を必死に舐め回すのは、純粋に愛しているからこそだ。やちよとの間に生まれた命を、とてもとても慈しんでくれているから。愛していなければ、きっと視線すら寄越さないだろう。
 亜人は他者の仔供を愛さない。たとえ同じ群れ、仲間の子であったとしても、乳を分けてやる事は滅多にないのだ。それでその仔が飢えて死んでも、それはあくまで他人の話。心を痛める事もなければ、数日後には記憶から消してしまっている事もある。厳しい野生で生きていくためには、情は持ち過ぎてはいけないのだろう。時に非情にならなければ皆が飢えて死んでしまう。全を生かすためには個を切り捨てる事も、また彼らの生なのだ。弱い個体は死に逝く運命。彼らはそれを受け入れている。
「いいのよ。本能に従っても。愛してくれるなら」
「やちはたまに、当たり前のこと、言うね?」
「そうね。そうかも」
 本当はやちよも、少しだけ怖かった。仔供の成長が遅いと知った時、いろはが見捨ててしまうのではないかと。彼女はやちよとは違う。人種なんて甘ったれた区別ではない。種族自体が違うのだ。違う種は歩み寄れる事はあっても、決して理解し合える事はない。番であるいろは相手にだって、やちよはもう何度もそれを痛感してきたのだ。
 彼女の腹部に毛が生えてきた時、やちよはそれを格好いいと言ってやる事が出来なかった。今でもそれを理解する事は出来ない。初めていろはの歯磨きをしてやった時、ずらりと並ぶ鋭い牙に怯えなかったと言えば嘘になる。その牙が深々と手に突き刺さった時、恐怖を抱かなかったと言えば嘘になる。
 尻尾を気にして仰向けを嫌がる事も、彼女に合うヘッドホンがないのも、実はいつもつま先立ちである事も、春と秋に換毛期がある事も、知識としてわかっていても理解してやる事は出来ないのだ。
 ならばいろはがそうでないと、誰が言いきれるだろうか。
 人の子供は十数年をかけて成体になる。歩き出すのも言葉を覚えるのも、亜人達よりずーっと遅い。それを知識として知っていても、理解できるかはまた話が別だ。理性がどんなに理解したくとも、本能がそれを許さない事だってあるだろう。
「可愛い?」
「かわいい。やちも、この子も」
「私も?」
「可、”よい”とか”べし”っていみだって、じしょに書いてあった。愛すべき人。だからやちも、かわいい」
「……ふふ」
 いろはは愛してくれる。ちゃんと向き合って、一心に愛を傾けてくれる。彼女の理性を突き破った本能は、ただ愛ばかりに満ちていた。本能のままに仔供を舐め回し、ついでにやちよも舐め回し、ただ体を寄せて守ろうとしてくれるのだ。それがどんなに嬉しい事だったか、彼女にはわからないだろう。
 やちよはいつも、いろはに救われている。
「もっとゆっくり大きくなってもいいのよ」
「そうだね。巣立ち、しなくてもいい」
「んー、それはどうかしらねぇ」
 いくら舐め回してもいい。優しい本能ならば、いくら出てきてしまっても構いやしない。やちよは人狼としてのいろはも愛しているし、何もかもが人間に染まってしまっても寂しいではないか。だから大抵の事は止めるつもりがないのだ。やちよがやちよでいていいと言われたように、いろはもいろはでいて欲しいと思う。
 まあ、仔の下の世話まで舐めてしようとした時は、さすがにスライディングで止めたけれど。
「あなたは街と森、どっちを選ぶのかしらね」
「ぁうー?」
「いい子いい子」
 この仔がもう少し大きくなったら、やちよはいよいよ世界に飛び出していく事になる。向かう先は人の手が入っていない大自然ばかりだ。その中に身を置いて、我が仔は色々な事を学ぶ事になるだろう。
 いろははもう手放してはやれないが、仔が歩んでいく道は邪魔したくないと思う。やちよにはやちよの幸せがあったように、この仔にはこの子の幸せがあるだろう。
「案外森を選ぶかもね」
「服がきらいだから?」
「それもあるけど……狭い世界には収まらない気がして」
 人よりは大分早く、けれど人狼にしてはかなりのんびりと。それでも確かに成長をしていく仔供は、新たな時代の架け橋になるかもしれない。可能なら、この子の進む道が遥かに開けていますように。
 思いながら、やちよは歌を口ずさむ。思い出の歌、かつては血と炎に塗れ、それでもこうして蘇る。いつか自分が終わる時、祈りを籠めたこの歌を抱いていければいい。
 かつて家族への葬送となった歌。そして今のやちよにとっては、何よりも尊い幸せの歌を。