みかづき荘の晩御飯01
「ねえ、前々から気になってたんだけど」
「はい?」
「いろはってどうやって献立決めてるの?」
それは、何気ない疑問だった。今やみかづき荘の台所を仕切っていると言っても過言ではない恋人。週に一度の買い物で一週間分の献立を組む彼女の脳内を、一度でいいから覗いてみたかったのだ。
「うーん、大抵は日曜日に皆で買い物をした時に安かった物で考えて……」
「ええ」
「あとは味のバランスだけですね」
「味のバランス?」
「しょっぱいもの、甘いもの、すっぱいもの」
「ああ……」
なるほど。日々の食卓を思い浮かべて、やちよはすぐに理解した。例えば塩鮭、卵焼き、酢の物、といった具合に、それぞれの皿で味が違うのだ。勿論そうではない日もあるのでそこまで徹底してはいないのだろうが、基本的にはそのバランス。
「すごいわね。よく考えてる」
「うーん、というより、私が好きなんです。口の中で色んな味が一緒になって、もっと美味しくなる瞬間」
「口中調味ね」
「はい」
やちよの言葉に、いろはは嬉しそうな顔をした。その表情は食事をしている皆を見る時によく似ていて、やちよもなんだか楽しくなる。食事が楽しいのはいい事だ。食事にこだわれる間は、余裕がある事の何よりの証でもあるのだから。
「やちよー、準備できたぞー」
「よし、じゃあ買い物行きましょうか」
「はい」
日曜日。今日は週に一度のまとめ買いの日だ。勿論それ以外にも細々とした物を買い足しはするが、基本的に週の頭で大目に買っておく事にしている。やちよが仕事に本腰を入れるようになり、皆もそれぞれ忙しくなっているのだ。重い物を買うのに人手を集めるならば、ついでに一週間分の食材を買ってしまおうという話になった。
必然生ものが並ぶ機会は減ったが、それ以外、時間のかかる料理が並ぶ機会は増えたように感じる。夕方に安くなっている物で献立を決めなくなったからだろう。朝、もっと言うなら前日の夜に仕込みをしておくような料理に挑戦しやすくなったせいか、いろはのレパートリーはいくらか増えたようだった。
「あ、むね肉安い」
「ほんとね。グラムで四十円切ってるのはかなり安いわ。しかも三パック買うとさらに安くなるみたいね」
「うーん……」
冷蔵庫はすっからかんだ。毎週きっちり使い切るので、余る物は殆どない。その代わりに土曜の夕飯後に腹が減ると悲惨なのだが、まあそこは早く寝れば済む話でもある。
「オレ、むね肉あんま好きじゃねーなー。ぱさぱさしてるし」
「私は好きだよ。モモ肉ってけっこう脂っぽいから、まだあんまり慣れないな」
一パック四枚入りの胸肉を前に、いろはがじっと考え込んでいる。その後ろであーだこーだと話し合っているのはフェリシアとうい。さなは他の精肉を覗きに行っているようだった。
「……よし。三パック買いましょう」
話を聞いていたのかいないのか。とりあえず、いろはの中では献立が決まったようだ。計十二枚の胸肉を籠に入れ、気合一発ふんと拳を握る。
「今週はむね肉週間……」
「いろはさん、豚肉も安いみたいです……!」
「……と、その他いろいろです!!」
――やれやれ。台所を預かる者は大変だ。
【日曜日】
・鯛とサーモンのカルパッチョ
・胸肉のチキンステーキ(オニオンソース)
・ほうれん草とコーンのソテー
・ミネストローネ
冷蔵庫に文句を言われながら買ってきた食材を詰め、皆がほっと一息ついたあたりだった。トイレから戻ってきたいろはがそのままエプロンを身に着けるのを見て、やちよはあらと目を瞬かせる。
「もう夕飯の準備?」
「いえ、今日はそれ以外にやりたい事があって」
まだ大分早い時間だ。疑問を抱きつつ彼女の手元を覗き込み、そこでやちよは納得した。鶏むね肉、砂糖、塩、既に口を開けた状態の真空ビニール……なるほど。
「鶏ハム?」
「はい」
皆の好物だ。作るのに日数はかかるが出来てしまえば冷凍も出来るので、以前からたまに作ってはいた。今出ている胸肉は六枚。今回は沢山作るらしい。
「手伝うわ」
「ありがとうございます」
そのままでもサラダにしても、焼いてみても美味しい物だ。冷凍保存が可能とは言え大抵はすぐに食べきってしまうので、あまり冷凍した事はない。沢山作っておけば、フェリシアの小腹も満たしてくれるだろう。一緒に買った食パンは、恐らく彼女のおやつとして消える。
「よし、あとは後日ですね」
「そうね、楽しみだわ」
下準備を終える頃には、丁度夕飯の支度を始める頃だった。手を洗いついでに米をとぐやちよを横目に、いろはがあくせくと動き出す。
「今日はマグロ?」
「いえ、マグロはまだ凍ってる状態の物を買ってきたので、あれはそのまま冷凍です。今日は鯛とサーモンのカルパッチョ、かな」
買い出しの日は生ものの日でもあるのだ。週に一回、月に四回は刺身が出る。これが最近の決まり事だ。
「カルパッチョ。素敵ね。お酒でも飲もうかしら」
「ふふ。やちよさんは明日お休みだしいいかもしれませんね」
恋人の言葉に頬を緩め、いろはが食材を出していく。カルパッチョはすぐに出来るので、今は先にチキンステーキの準備をしていこう。本日買ってきたむね肉は、早くも大活躍だ。鶏ハム用に六枚も使ったし、今日のメインもお任せする。
「よいしょ」
純白の皿という舞台に上がって頂くためには、色々と準備が必要だ。とりあえずこのままだと厚すぎるので、観音開きに包丁を入れて少しダイエットをしてもらう事にしよう。それが終わったら半分にカットするのだが……これは最早、ダイエットと言うより手術だろうか。
「……なるほどね?」
三枚の胸肉を六枚へと錬成したいろはを見て、やちよが小声で囁いた。それに横顔だけで笑みを返し、いろはも同じようにそっと囁き返しておく。
「二枚盛ってあげても一枚です。内緒ですよ?」
分厚いむね肉だから出来る事だ。モモ肉ではこうはいかない。モモ肉より安くてボリュームはあるのだから、有効に活用させてもらう事としよう。
「お塩取ってもらっていいですか?」
調理法にさえ気をつければいいのだ。フェリシアはむね肉をパサパサして苦手だと言ったけれど、料理の仕方次第でいかようにも化けてくれる名俳優だ。
「下味?」
一枚一枚塩をふり、二枚のキッチンペーパーを挟んで重ねていく。その様を見て首を傾げるやちよに、いろははやっぱり横顔だけで笑みを返した。
「こうすると余分な水気が抜けるの。焼く時に皮がパリパリになるんだ」
最後の一枚にキッチンペーパーを被せ、ラップを手に取る彼女は楽しそうだった。最近、料理をしている時はいつもそんな顔だ。純粋に好きなのだろうが、やちよに物を教えられるようになったのが嬉しいのだろう。料理に関してならば、いろはの方がとっくに先を行っている。
「楽しみね」
「ふふ」
しばらく置いて水抜きをすると言う彼女を覗き込み、にこりと笑えば同じような笑顔。横目で家族の姿を確認し、誰も見ていないのをいい事にキスをした。
「……ミネストローネを作ります」
「照れなくていいのに」
ちゅ。
微かなリップ音がすれば、いろはは少し慌てたようだった。赤くなった顔でちらりとリビングを見て、すぐさまやちよに背を向ける。華奢な後姿へと囁きかければ、指先にしっしっと追い払われてしまった。邪魔をするならあっちに行けという事らしい。
「手伝うわ。何をすればいい?」
「……人参を切ってください。私は玉ねぎを切るので」
「賽の目切りでいいの?」
「はい」
追い払われてはたまらない。料理をする恋人の姿は、やちよのお気に入りの一つなのだから。
「ひよこ豆沢山入れてね?」
「わかってますよ。ひよこ豆だけ多めに買ってきました」
「わーい」
「……もう」
無邪気に喜ぶやちよを見て、いろはは抜けるような笑みをこぼした。ふ、という吐息だけの優しい笑顔は、困り眉も相まってひどくくすぐったいものだ。正面からそれを喰らうと毎度少し胸が苦しくなるのだが、いろはの人柄を表した様なその笑顔が、やちよは好きで好きでたまらない。
「……指切っちゃったら舐めてくれる?」
「やちよさんって、照れると変なこと言いますよね」
「うるさい」
どうやら下手な誤魔化しはバレバレのようだ。二人並んで野菜を切りながら、あやすような声を聞いている。
「……切れたわ」
「ふふ、私はこのままセロリも切るので、やちよさんは鍋のお世話をしてもらっていいですか?」
「ええ」
いろははそれ以上何も言わなかった。恐らく少し赤くなっているだろうやちよに笑みを投げただけで、後は黙々と調理を続けていく。
人参、玉ねぎ、セロリを、五ミリくらいの賽の目切りに。バターを落とした鍋で軽く炒めたら、水を入れて沸騰を待つ。
「このサイズが限界?」
「……そうですね。それ以上大きいとフェリシアちゃんが神妙な顔になります」
「最近は野菜も食べるのにねぇ」
ことことこと。野菜はかなり小さく切っているので、沸騰する頃には粗方火が通っているだろう。分厚い鍋は温まるまでに少し時間がかかるが、一度熱くなってしまえば一気に高温まで駆け上がってくれる。その間にこそこそと話をしつつ、ソファでくつろぐ金髪美少女を眺めやった。
「あんだよ」
「なんでもないわよ」
にょきにょきと身長が伸びている彼女は、既にやちよを追い越して久しい。その上まだ伸びているらしく、食べる量は増える一方だ。そのくせあれこれと好き嫌いはあるのだから、全く手のかかる。
「今日の晩メシなに?」
「チキンステーキと、カルパッチョと、ミネストローネ」
「おー肉じゃん!」
「フェリシアには二枚よ」
「やりぃ!」
とはいえ我儘を言ってくれるのは心を許している証拠でもあるので、それはそれで可愛いのだ。やちよもそうだがいろはもなんだかんだ彼女に甘いので、料理の基準はフェリシアが食べるかどうかであったりもする。豪快におかわりをする姿は何度見ても気分がいいものだ。
「今日はマカロニも少しだけ入れます」
「コンキリエね」
「そんな名前なんだ……」
貝殻の形をしたショートパスタはさなのお気に入りだ。これを出すとニコニコするので、色んな形をした物を揃えている。乾燥した状態のそれを一つ摘まんで、いろははへーと声を上げた。
「茹でないの?」
「私は最近乾燥したまま入れちゃってます。その方が味が染みる気がするので」
「なるほど? まあ量も少ないしね」
「はい。それに、ちょっととろみがついてる方が好きなんです」
お湯が沸いた。そこに一つかみ分のマカロニとコンソメキューブを入れ、空いた手がトマト缶に伸びる。
「ケチャップもいきまーす」
「はーい」
カットトマトを一缶丸々鍋に入れ、次いでケチャップも力いっぱい。ぶぎゅるーと出てきたそれをおたまで拡散しながら、嗅ぎなれた匂いに頬が緩む。
「ミートソースとミネストローネ作る時は目に見えて減るわよね」
「ふふ、そうですね。うちは皆甘めが好きだから」
甘味が不要ならば、ケチャップは入れなくてもいいだろう。ただ、既に熟成と調味が済んでいるケチャップを入れれば、味にいくらか深みが出る。好みで選択するといいだろう。
「あとは弱火で……よし。スープが煮込む段階に入ったので、カルパッチョに取りかかりますね」
「レタス刻むわよ」
「ありがとうございます。じゃあ私お魚切りますね」
二人、再び肩を並べて、二つのまな板で食材を切っていく。やちよの操る包丁が軽やかなリズムを刻めば、ういがニコニコとキッチンを覗き込んできた。先程人参などを切っていた時も楽しそうだったし、普段もこうして覗き込む機会が多い。この音が好きなのだろう。
「今度飴切りを見に連れて行ってあげる」
「わぁ! 見たい見たい!」
下町名物の飴切りは、見ていてとても気分がいい。楽しい上に美味しいのだ。これ程素敵な事はないだろう。
「私もお手伝いするよ」
「ありがとう。でも今日はもう殆どないから、また今度お願いしていい?」
「わかった。じゃあ何かあったら言ってね」
姉妹、よく似た笑顔を交わし合って、ういがソファに戻っていく。その背中を見送ってから、いろはが小さなビニール袋を広げた。
「レタスなんですけど、このままだとフェリシアちゃんが食べてくれないので……お塩とレモン汁で先に軽く揉んでおきます」
どちらかと言えば海鮮サラダになるだろうか。細切りにしたレタスを袋へ移しながら、やちよ脳裏でチューハイのプルタブを引く。いや、ワインでもいいかもしれない。
「しんなりしたら水気を絞ってお皿にしいて、その上に切り身を……やちよさん?」
「……ん、ん? ああごめん。ちょっと未来を生きてた」
「????」
軽快な音楽が鳴り響いた。米が炊けたのだ。やちよの言葉はまるでわからないが、時間は止まってくれない。詳しい事は後で聞くとして、とりあえず料理を再開する事としよう。
「えーっとお塩と、コショウ少々……コショウ少々って言いたくなりません?」
「ふふ、確かに」
「あとオリーブオイルをかけて、出来上がりです。レタスと一緒に食べると丁度いい味になるくらいがベストですね」
「なるほど。これでフェリシアも野菜を食べてくれると」
「そういうことです。この時ドレッシングを出しちゃうとそれで食べちゃうので、心を鬼にするのも忘れないように」
「ふ、ふふふ、苦労するわね」
どうやら色々と試行錯誤をしているようだ。元来優しい性格なので、本人が嫌いなら無理して食べさせなくても……と考えてしまうのだろう。わざとらしく眉を吊り上げるいろはを少し笑って、カルパッチョは味を落ち着かせるために冷蔵庫へ。
「じゃあチキンソテーの続きですね」
「はーい」
入れ替える形で鶏肉を取り出し、いろはが新しいキッチンペーパーを手繰り寄せた。それで念入りに水分を拭きとって、次に片栗粉をまぶしていく。これ以上水分が抜けるのを防ぐためだ。余計な水分はぬけて欲しいが、必要な水分まで抜けてしまっては困る。
「フライパン、二つ出してもらっていいかな?」
「二つ?」
「付け合わせにほうれん草のソテーを作ろうと思って」
「……やっぱりワインかしら」
「え?」
「いえこっちの話」
不思議そうないろはに爽やかな笑顔を返し、とりあえず両方のフライパンにオリーブオイルを落としておく。
「ほうれん草は今日買った方?」
「うん。お願いします」
そのままフライパンに強火を入れ、温まるまでの間にほうれん草を洗い、カットしていく。
「中火でお願いしまーす」
一袋……三束のほうれん草を五センチ幅に切っているやちよの後ろを、タッパー装備のいろはが通過した。粉をまぶし終わった鶏肉がフライパンへと投下された瞬間、ジュッと良い音がすれば心が躍る。歌うような声がそれに続けば、やちよは自然と笑顔になった。
「いい焦げ目を作るには触らない」
「その通りです」
中火で三分以上放置しても意外と焦げないものだ。肉の縁、油が茶色くなってきてから反せば丁度いいくらい。両面がこんがり焼けたら火を止めて、後は余熱で火を入れればいい。鶏は火が通りやすい肉だ。
「こっちでソテー作るわよ」
「お願いします」
先に火を入れ始めた方の肉をもう一つのフライパンに移し、軽く油を拭う。そこにバターを落として、ほうれん草とコーンを投入。ほうれん草がしんなりし始めたら軽く塩コショウをふって、これで料理はほぼほぼ終了だ。
「ソースはどうするの?」
「ミネストローネでトマトを使ってるので、こっちはオニオンソースにします」
ソテーとチキンステーキを皿に盛りながら尋ねれば、いろはが鼻声でそう言った。やちよのそれより一回り小さな手がソテーを炒めていたフライパンをさらっていき、再び炎の上へ。
「すりおろした玉ねぎをバターで軽く炒めて、あとは市販のオニオンドレッシングとお醤油で味を調整……うう」
「大丈夫?」
やちよが肉を焼いている間、隣でごりごりやっていたのだ。みじん切りまでは耐えられても、すりおろしは無理だったらしい。大きな瞳から涙を流し、いろはが一つ鼻をすする。
「うん……うん。もう大丈夫です。あー痛かった……」
それでもテキパキとソースを作り、それをチキンステーキの上にかけていくのは流石としか言いようがない。
「素直にステーキソース買ってくればよかった……」
後悔先に立たずとはよく言ったものだ。とはいえこれですべての調理が完了したので、後は食器を並べるだけ。
「さ、みんなご飯よー」
「ぃよっしゃぁー! オレ米よそう!」
「私お箸用意するね」
「飲み物何にしますか……?」
わいわい。
一気に騒がしくなったキッチン。いまだ少し目が赤いいろはは、盛り付けの終わった皿をカウンターへと置きながらいい笑顔だ。それを横目で眺めながら、やちよはさなの後に続いて冷蔵庫を開ける。今日はワインにしよう。甘めの白を取り出し振り返れば、既にカウンターにワイングラスが用意されていた。
「ありがと」
「どういたしまして」
やはりなんでもお見通しらしい。エプロンを外すいろはに苦笑を送れば、得意そうな笑顔を返されてしまった。それにもっと眉を下げつつ、けれど決して嫌な気持ちなどしない。美味しい食事に好みのお酒。そして好きな人の笑顔があって、何を不機嫌になる事があるだろうか。
考えながら、華奢な背中についていく。あまり飲み過ぎないようにしなくては。気分だけは既に、彼女で酔ってしまっているのだから。