みかづき荘の晩御飯03
火曜日
・新じゃがとかぼちゃのそぼろあんかけ
・鮭ボール
・青菜の海苔和え
・おかかおくらじゃこねぎが入った月見納豆(お好みでたくあんも)
・キャベツと鶏むね肉のニンニクしょうゆ炒め
・おふとわかめの味噌汁
「やちよさん、日付変わるかもって」
そう言って電話を切った妹に、いろはは薄い笑みを返した。
「そっか。わかった」
本日恋人は仕事の日だ。大学が終わってから現場に向かうので、遅くなるかもしれないとは言っていた。けれど思った以上に遅い帰宅となりそうなので、少しばかり料理の内容を変更する事にする。
「あさりの酒蒸しは今度にして……今日は醤油炒めにしようかな」
貝は過熱をしすぎると、見るも無残な程に小さくなる。やちよの帰宅に合わせてもう一回火を入れる事を考えると、身の締まる食材は選択肢から外した方がいいだろう。
「うい、玄関からかぼちゃとじゃがいも取ってきてくれる?」
「わかったー」
頭の中でさっと献立を組み立て直し、うんと頷く。零時を過ぎると米を食べないやちよのために、腹持ちの良い一品も追加する事にしよう。
「持ってきたよ!」
「ありがとう。じゃあ、そのままおいもを洗ってくれる?」
「はーい」
新聞紙に包まれた砂付きのじゃがいもは、鶴乃の父から貰った物だ。贔屓の農家がおまけとしてくれたらしいのだが、中華にじゃがいもは然程使わない。助けると思って、と渡されたそれを、今日はたっぷり使わせてもらう事にしよう。
「何個?」
「小さめだから十個くらい」
皮が薄い新じゃがは、ほんの数ヶ月のお楽しみだ。くしゃりと握ったアルミホイルで軽く擦ってやれば、それだけで準備はおしまい。皮を剥く必要もない。
「かぼちゃのタネ、捨てちゃう?」
「食べるなら捨てないよ」
「わーい」
嬉しそうだ。ごしごしと芋を洗う妹の隣、小振りのかぼちゃに刃を入れながら、いろはは少し笑ってしまった。
自分の食の趣味も大概だとは思うのだが、ういは時折その上を行く。カリカリ梅の種を食べるためだけに小遣いでくるみ割りを買ってきた時など、あまりに驚いてやちよと顔を見合わせてしまった。
「明日のおやつにしようね」
「うん!」
梅干しの種、食用のひまわりの種、そしてかぼちゃの種。ポリポリと音を立てながらそれらを食するういを見て、恋人は優しい顔をしていた。ハムスターみたいと笑う彼女になるほどと頷いて、二人して小一時間程妹の姿を眺めていた事もある。
好物が出来るのは素晴らしい事だ。カロリーや栄養バランスにがんじがらめになる事もなく、思い至った時に好きな物を食べられる。ういにとって、そしていろはにとっても、それは素晴らしい事だった。
「洗い終わったよ!」
「ありがとう。じゃあまな板をもう一つ出して、一口大に切ってくれる?」
ういの好き嫌いを知ったのなんて、それこそここ数年の事だ。病院では食べるというより流し込むような時もあったし、水分一つ取るのにも、スポンジを使わなければいけない事だってあった。
自ら手を動かし、自らの意思で物を食べる。それは決して当たり前の事ではないのだ。
「よい、しょ!」
「がんばれお姉ちゃん」
「……」
「虚無の顔しないで!」
あの時は、並んで料理をする日が来るなんて考えもしなかった。硬いかぼちゃに包丁を食われ、二人力を合わせて引っぱる時が来るだなんて。
「これ、もう押し切った方がいいんじゃないかな?」
「うい、ちょっと離れてて」
「う、うん……」
薪の方がもう少し素直かもしれない。ぜぇはぁと肩で息をしながら、何度も何度もかぼちゃをまな板に叩き付ける。その甲斐あって包丁は少しずつ実を切断していくが、如何せん騒々しい事この上なかった。
「切れ……った!」
「やったね!」
半分にしてしまえば、その後はいくらか楽になるか。本当は少し火を入れてから切った方がいいのだが、今回はそのひと手間を省いてしまった。
急に献立を変更したのであまり時間がない事が理由なのだが、これなら火を入れておいた方が早かったかもしれない。急がば回れとはよく言ったものである。
「じゃがいも、切れた?」
「うん」
「じゃあ軽く洗って、お水から茹でてもらえるかな?」
「おなべ大きい方がいいよね? パスタ茹でるのにする?」
「そこまで大きくなくていいよ。カレーを作る時のおなべでおねがい」
「はーい」
じゃがいもは根菜、けれどかぼちゃはそうではない。これだけ硬いくせに実はウリ科なので、一度火を入れ始めると柔らかくなるのは早かった。
だから先にじゃがいもを茹で始め、ある程度火が通ったところでかぼちゃに合流してもらう。
種類や切る大きさによって多少の違いはあるが、じゃがいもは十五分前後、かぼちゃは十分程度で火が通るだろうか。
「じゃがいもは水からね」
「うん! 五分経ったらかぼちゃを入れて、沸騰したら弱火!」
「よくできました」
煮崩れる原因は、大抵火の勢いだ。鍋の中で具材が動く程の火勢だと、衝撃でどんどん崩れていってしまう。水が沸騰してしまえば、強火でも弱火でも中まで火が入る時間は殆ど変化がない。それならば見た目にも気を遣って、弱火にしておく事にしよう。
「うい、待ってる間にお豆腐をチンしてもらっていい?」
「水切り?」
「うん」
大鍋にたっぷりの水とじゃがいもを入れたら、後はしばしの隙間時間だ。その間ぼーっと待つのは勿体ないので、すぐに次の作業に取り掛かる。こちらもそこそこの時間がかかるので、手早く取り掛かる事にしよう。
「チルドに入ってる鮭も出しておいて」
「あ、鮭ボール!」
「ふふ、当たりー」
安い時に買って冷凍していた鮭が、そろそろ冷凍焼けを起こし始めていたのだ。これ以上置いておくと見た目だけでなく味も悪くなるので、今日使ってしまう事にした。
「キッチンペーパー二枚だっけ?」
「うん。きつめに巻いてね」
皆が大好きな鮭ボールは、いろは考案の魚料理だ。作るにはいくらか手間だが、一度にかなりの量が出来る。基本的に何をつけても美味しいので、ご飯の御供にも酒のつまみにもなる、優秀な一品だ。
「一分加熱を……今回は三回くらいかな。キッチンペーパーは一回一回変えてね」
「うん。ラップはしなくていいんだよね?」
「そう。熱くなるから気を付けてね」
これも元々は、対フェリシア用の料理だった。魚より肉の彼女は、干物や煮つけだと露骨に嫌そうな顔をする。最近は以前よりマシだが、それでも箸が伸びる回数は少ないままだ。みかづき荘に来てすぐの頃など、魚には一度も手を付けずに食事を終わらせてしまった事もある。
そんな彼女に、どうにか魚を食べて欲しい。叶うならば美味しく、楽しく。
そう思ってあれこれと頭を悩ませ、ある日いろはは気が付いた。フェリシアは、魚のすり身ならば食べるのだ。
さつまあげ、ちくわ、魚肉ソーセージ。かまぼこはあまり得意ではなさそうだが、おでんに魚河岸揚げを入れたならば喜んで食べる。
これだ。
魚河岸揚げは、魚のすり身と豆腐を混ぜた物。フェリシアがあまり得意ではない魚と豆腐を使っているのに、それは好きだと言うのならば。作って見せようではないか。新しい料理を。
「ただいまー」
「ただいまです……」
「おっじゃましまーす!
「おかえりなさい。三人ともいいところに」
そこからは半ば意地だった。何度も何度も失敗し、その度一人で腹を膨らませて、ようやく丁度良い塩梅を見つけたのは、実に十数回目の挑戦時だったか。
豆腐の水切りは念入りに。足りなければ油に入れた時に爆発する。温度は160前後。高温になり過ぎるとやはり爆発する。そして一度に沢山入れず、あまり触ってもいけない。うっすら色がつく前に触ってしまうと、あっさり崩れてカスになってしまう。
「今日は鮭ボールだから、手伝ってもらっていい?」
「お、やったー! 手洗ってくる!」
「私も……!」
「よーしやるぞー!」
笑顔で駆けていく三人の背中を見送って、いろはは鮭の準備だ。今日は卵黄の使い道があるので、繋ぎ用の卵白も取り分けておく。これがあるかないかで、成形の難易度が大幅に変わる。
「骨は買った日に取ってあるから……皮は……」
「食べる!」
「……だよね。じゃあこっちはグリルに入れて、と」
鮭の皮はやちよも好きなので、彼女の分は取り分けておこう。帰路の連絡を受けてから焼き始めれば、恐らく丁度よいくらいだ。
「来たぞ!」
「ありがとう。じゃあエプロンしたら、すり鉢を持って集合」
「おう!」
いい返事と、三人の笑顔。差し出されたすり鉢に小さく切った切り身を移しながら、いろはもなんだか楽しくなった。やちよと二人でキッチンに立つのも大好きだが、皆で和気藹々と料理をするのはまた別格の楽しさがある。
「押さえますね」
「あ、ういちゃん、わたし豆腐見るよ」
「ありがとう。じゃあ私は……」
「そぼろあん作ってもらえるかな? そうしたら、その間にお姉ちゃんは他のことが出来るから」
「うん!」
すり鉢の中には、切り身以外に醤油と鶏ガラ粉末。そして塩気を和らげるために、ほんの二摘まみの砂糖を入れておく。
翌日の匂いを気にしないのならば、ニンニクを入れてもいいだろう。今回は生鮭なので味付けをしたが、塩鮭ならば香味だけでも十分だ。
「何を出せばいい?」
「豚ひき肉と、お酒、お醤油、お味噌、砂糖、あと粉末のお出汁と、片栗粉かな」
「はーい」
三つあるコンロの内、一つは大鍋、一つはフライパン、一番小さい部分に片手鍋。そして電気ケトルでお湯を沸かし、いよいよキッチンが忙しくなってきた。
「かぼちゃとおいもに味がついてないから、濃い目でお願いしまーす」
「はーい」
少量の油を落としたフライパンで豚ひき肉を炒め、酒、砂糖、出汁、醤油、味噌の順番で調味料を入れていく。最後に水溶き片栗粉でとろみをつけるので、この時点での味は少し塩辛いくらいがいい。
「もうちょっと水気が多くていいよ」
「これくらい?」
「うん」
この時汁気が全くないとただのそぼろになってしまうので、半分くらいタレを作るつもりで調味料を入れるといいだろう。最終的に水溶き片栗粉の水分で味を調整するつもりで、怖がらずに味を入れてしまって構わない。それだけで食べた時味が濃くとも、じゃがいもやかぼちゃと一緒に食べれば、意外と物足りなかったりもするのだ。
「豆腐いくよー!」
「あっち! おい鶴乃! 気を付けろよ!」
「ごめんごめん」
あちらも一段階進んだらしい。もうもうと湯気を立てる豆腐を素手で持ち、鶴乃がすり鉢隊の許へ走っていく。途中接触事故があったようだが、火傷をした者はいないようだ。
「こっち何かある?」
「座ってていいよ。久しぶりのお休みでしょ?」
「うん。でもみんなで料理してる方が楽しいから!」
「ありがとう。じゃあ、おくらの塩すり、してもらっていいかな?」
「おっけー!」
鶴乃の手は鋼鉄製なのかもしれない。少し赤くなってはいるが、痛みはないようだ。普段から火を使っているおかげで、いくらか手の皮が厚くなっているのだろう。
「角取りはいいの?」
「うん。今日はヘタのところ全部落としちゃうから」
鶴乃が塩でおくらの産毛を取ってくれている間に、いろはは小鍋に沸かした湯を移し、そこにほうれん草を投入していく。
「産毛取ったら軽く洗っておいてくれると嬉しいな」
「おっけー。塩が取れればいいよね?」
「うん」
葉の部分を持ち、茎の部分が柔らかくなるまで数秒待機。少しの力で曲がるようになったら、ほうれん草全体を湯に沈める。今日は同じ鍋でおくらも茹でるので、塩すりの時の塩は落としておく事にした。本来ならば、塩を入れて茹でた方がいい。
「入れていい?」
「うん、氷水作っておいてくれる?」
「まっかせて!」
さっと洗ったオクラも入れて、沸騰したら一分半程度。
「こっち、水溶き片栗粉入れていい?」
「いいよ。うい、動かないでね。後ろ通るよ」
「わかった」
火が通ったらすぐにお湯を捨て、ほうれん草諸共氷水の中に沈めてやる。しっかり熱が取れたら水気を切り、食べる直前に切れば水っぽくならない。
「そっちはどうかな?」
「もうちっと!」
「わかった。油温めておくね」
オクラとほうれん草を湯切りしたザルは、さっと水洗いしてもう一度使用する。丁度良くタイマーが鳴ったので、じゃがいもとかぼちゃの湯切りをするのだ。
「鶴乃ちゃん、ケトルに残ってるお湯、このお皿に入れてくれる?」
「なるほど。ちょっとでいいよね?」
「うん、ありがとう。さすがだね」
「まあね! ふんふん!」
今回はもうひと手間だ。今日はまだおかずを作る予定なので、先に出来た料理が冷めてしまわないように、器を少し温めておく。
すぐにそれを察して準備に移ってくれる鶴乃に礼を言い、いろはは鮭ボール用のフライヤーを引っ張り出した。まだ熱い五徳の上に黒い鍋を置き、オリーブオイルを惜しまず投入。この時油が少ないと、直火が当たって変な焦げ方をしてしまう。
「油、火にかけちゃうよ」
「はい。すぐ行きます」
油が温まるまでは、少し時間がかかるだろう。揚げるのにも多少時間を使うので、その間に他の料理に取り掛かっておく。
「器あったまったよ」
「ありがとう」
「あ、大丈夫。私がやるから」
「うん。じゃあお願いね」
温めて水気を拭った器には、湯切りをしたじゃがいもとかぼちゃ、そして出来たばかりのそぼろあんかけをかけておく。そして邪魔にならないようにレンジの中へ移動して頂き、フライパンは熱い内に洗ってからもう一度五徳の上へ。
「タネできたぞ!」
「ありがとう。じゃあ次は納豆おねがい」
「げぇー、まだ混ぜんのかよぉ」
「よし、じゃあわたしが混ぜるから、フェリシアは押さえててよ」
丁度出来たタネは油の番をするさなに渡し、それぞれが場所を移動する。鶴乃がカウンターの向こうに位置をずらして、コンロの前にさな、そして二つ並んだまな板の前に、もう一度環姉妹が陣取った。
「ほうれん草、どのくらいに切る?」
「五センチ幅くらいかな。きょうは海苔和えにするから」
「わかった!」
おくらは輪切り。じゃこ、ネギ、おかか。そして取り分けられた卵黄と共に、納豆と仲良くしてもらう予定なのだ。
「揚げはじめますね」
「うん。お願いします」
その隣で、さなが二つのスプーンを構えた。いろはに付き合って鮭ボールの開発をしてくれたので、すっかり揚げ物のプロになってしまった。唐揚げももちろん、かき揚げだって上手に作る。
今も二本のスプーンでもって柔らかいタネを油に落としていく手つきは、素早く的確で迷いがなかった。
「納豆隊ー、器をこっちにおねがいしまーす」
「ほーい」
「たくあんは?」
「解凍するのを忘れたので今日はなしです」
「ぶー」
やちよの分も含め、六パックの納豆が入った器は重そうだった。その上今色々と追加したので、かき混ぜる鶴乃は少し大変そうだ。
「海苔和えのお皿ってこれ?」
「あ、うん。それでいいよ」
ひぃひぃ言いながら菜箸を動かす彼女に申し訳なくなるが、時間は止まってはくれない。考える間にも妹に尋ねられ、いろはは慌てて冷蔵庫を漁った。
「海苔と……梅、梅、あった」
焼き海苔は妹に千切ってもらう事にして、こちらは梅干しを刻む事にしよう。商店街の漬物屋で買った梅干しは、匂いを嗅いだだけで口がきゅっとなるくらいだ。果肉を外して包丁を動かす間にも、口の中に唾液がわいてくる。
「食べる?」
「うん」
刻んだ梅肉を海苔にまみれたほうれん草に載せ、めんつゆを回しかける。最後に種を妹の口に放り込めば、彼女は途端にきゅっと顔をしかめた。
「すっぱいぃ」
「ふふ、毎回やってる」
わかっていても毎度口を開けるのだ。そしてしばらく口の中で種を転がし、手が空いたところでくるみ割りを装備する。
「種らけって売ってらいろからぁ?」
「売ってるみたいだよ……。この間みふゆさんが、駄菓子屋さんで見たことあるって教えてくれたの」
「ほんろに?」
「うん。今度一緒に見に行ってみようか……?」
「うん!」
もごもごと話すういに、さなが優しい笑顔を向けた。鮭ボールは順調なようだ。大皿は、きつね色の球体で埋まり始めている。
それを笑顔で眺めながら、いろはははたと思い至った。
「あ、お味噌汁」
すっかり忘れていた。今日は元々あさりの酒蒸しを作る予定だったので、汁物の事を考えていなかったのだ。
今からレンジを使うのも面倒だしこれ以上洗い物も出したくないので、氷水の入っていたボウルだけで出来る物を考える。
「おふとわかめでいいかな?」
「はい」
「なんだかんだ美味いしな」
緑物を茹でた片手鍋を軽く洗い、水を張りながら問いかけた。すると四方八方から同意が返ってきたので、ここは即決でいいだろう。
乾燥わかめをゆすいだボウルに放り込み、戻す間に鍋を火にかけておふを取り出す。あらかじめ戻しておく必要がない種類なので、これも一緒に水に入れてしまって、沸騰したら出汁と味噌を溶かせばそれで終わりだ。最後に水を絞ったわかめを入れれば完成。
ついでにこのタイミングで、鮭の皮を入れたグリルにも点火しておく。タイマーも忘れずに。
「よし、じゃあ最後!」
本日のメイン。胸肉とキャベツの炒め物だ。
「うい、キャベツお願いね」
「はーい」
キャベツはたっぷり半分程。鶏むね肉は皮つきのまま薄切りに。鮭ボールのフライヤーから熱い油を分けてもらい、先に鶏肉を炒めてしまう。粗方火が通ったら皿によけ、もう一度油を分けてもらって、次はキャベツだ。
「切れた分から入れていいよ」
「うん」
切り方は大きめのざく切りがいい。そして半生くらいの方がボリュームは出るだろう。勿論しんなりする程火を入れてもそれはそれで美味しいが、咀嚼による満腹中枢の刺激を狙いたいので、今日のところは半生だ。
「うい、冷蔵庫からニンニク醤油出してくれる?」
「わかった!」
火が入ってかさの減ったキャベツも鶏肉の皿に移しておいて、第二陣を炒める間に調味料の準備。
「まず鶏ガラ」
「はい」
「ニンニク醤油」
「はい」
最後にごま油を少しだけ垂らして、全体に味を馴染ませれば完成だ。ちなみに全部強火。スピード料理だ。
炒め物が完成したタイミングで揚げ物も終わったので、あとは納豆を残すのみ。もしかしたらあれが一番重労働だったかもしれない。
「ニンニク醤油、減ってきたね」
「そうだね。中のニンニクも真っ黒だし、新しいの作っておこうか」
翌日に予定があるので、がっつりニンニクの効いた料理は食べられない。けれど風味は欲しい、という時に重宝しているのがニンニク醤油だ。
作るのに難しい事は何もない。ただニンニクを剥いて瓶に入れ、醤油に浸しておけばいい。市販の醤油さしで作れば、そのままさっと回しかけたりも出来る。
漬かりきって黒くなったにんにくは、みじん切りにして、鷹の爪、ごま油、めんつゆと混ぜ、茹でた枝豆なり卵なり、あとは砕いたきゅうりなどを漬ける時に使うといい。勿論そのまま食べてもいいが、かなり濃い味なので要注意だ。
「納豆もういいんじゃない?」
「ありがとう。じゃあえーっと、タレ、タレ、あれ? どこに置いたっけ」
「こっちにあるぞ」
「じゃあそれを入れて、お醤油もちょっと」
「最後に軽く混ぜてー!」
「出っ来上がりー!」
これで全部の料理が完成だ。最初に出来上がったあんかけ芋も、火傷しない程度の温度になっているだろう。
「取り皿並べてー」
「オレご飯大盛り!」
「炭水化物あるんだから程々にしときなよー?」
「お箸持ってくね」
「あ、さなちゃん、海苔とスプーンもお願いね」
「はい」
運ばれていく料理と共に、一緒に焼き海苔も出しておく。箸が糸を引くのをさなが少し嫌がるので、納豆はスプーンでとって海苔巻きにして食べるのだ。
「あ、鮭の皮!」
「忘れてた。取って来るから食べてていいよ」
「そんな時間かかるわけじゃないから待ってるよー」
こんがり焼けた鮭の皮を皿に盛り、マヨネーズと七味を添えて、今度こそ準備は終わりだ。
「かける物も出てるよね。じゃあ、いただきます!」
「いただきまーす!」
一人欠けた食卓だ。けれどいつもと然程変わらない騒がしさ。
あれ取って。お茶おかわり。味噌汁まだある? 鮭の皮もっと食いたい。やちよさんの分だからだめ。
一人一人順番に話すわけではないので、時には聞き取れずに首を傾げる事もある。それでも他の誰かが音を拾って、そうこうしている間に次第に波は落ち着いていくのだ。
一瞬の沈黙、けれど不快にはならない隙間。そういえばさ、と誰かが切り出すまで、箸の音だけが響く時間。
無音を愛せるのは、共に過ごす仲間を愛しているから。同じ時間を共有するだけ、こうして一緒に食卓を囲むだけで、幸せだと思えるのは嬉しかった。
***
「おかえりなさい。ご飯は?」
「ただいま。頂くわ」
「お米はどうしますか?」
「いらない。おかずだけでいい」
深夜。疲れた顔で帰宅したやちよは、案の定そう言った。予想通りの言葉に頬をゆるめ、いろははそっとエプロンをつける。
彼女の分と取り分けておいた食材に火を通すためにキッチンに立つと、すぐに腹部に恋人の腕が回った。
「つかれた……」
「大変な撮影だったの?」
「そうじゃないんだけど、機材トラブルがあってね」
ただ無為に過ぎて行く時間が、それはそれで辛かったのだろう。直せるにしても、時間をかけて化粧をしているのだ。用意されていた軽食に食らいつく事も出来ず、だいぶ腹を空かせていたらしい。
「いいにおい」
「うん。すぐできるから」
「そうじゃなくて、いろはよ」
シャワーはスタジオで浴びてきたらしい。今日はいつもと違う匂いを纏った恋人は、いろはの首筋に顔を埋めてすーっと大きな深呼吸をした。
「おちつく」
「いつもと同じシャンプーですよ」
「だから落ち着くの」
シャンプーの香り。コンディショナーの香り。ボディソープと、いろは自身の体臭。そこに食卓の匂いも少し混ぜて、それでやちよの恋人だ。
落ち着くし、いつも少しおなかが減るし、なんだか無性に愛おしい。
「ただいま」
「うん。おかえりなさい」
するり。頬に頬を押し付けると、くすぐったそうにいろはが笑った。お返しに擦り寄ってきてくれる彼女に微笑んで、小さな顎を掴むと苦笑まじりの声。
「料理中だから」
「一瞬でしょ」
言いながらも振り向いてくれたから、優しさに甘えて唇を寄せた。柔らかく薄い肌に二度吸い付き、舌を侵入させれば少しの抵抗。
「先にご飯食べちゃってください」
「その後ならいいの?」
「明日も学校だから手短にね」
「めずらしい」
「少し寝ておいたから」
こうなる事を見越していたらしい。夕食後に仮眠を取ったといういろはに、やちよは思わず苦笑いだ。どんどん先読みが上手くなる。
「はい、出来ました。カウンターでいい?」
「ええ」
四つも歳下の恋人に甘やかされる自分が恥ずかしいと思わないでもないのだが、最近では抵抗する気もなくなっていた。だって、いろはに甘やかされるのは心地良い。やちよのいろははそれこそやちよのためだけに存在するようで、あれもこれもと先回りされると、恥ずかしいを通り越して幸せだけで彩られてしまうのだ。
一つ言えば十をくれる。負けじと十を返せば百も二百も返されてしまう。けれどそれらは、全てやちよを想ってこそだ。
見て、聞いて、心全てをやちよのために傾けて、だからこそいろはは先を歩く。好いてくれるから、愛してくれているからこそ。そしていろはも幸せを感じてくれているから、たくさんの優しさを返してくれるのだ。
「ご飯は食べないと思って、じゃがいもとかぼちゃにしたの」
「うん」
「キャベツもたくさんあるから、おなかにたまるよ」
「うん」
「ちゃんと食べないと、明け方におなか鳴っちゃうもんね」
「うん」
「この後運動もするしね?」
「ふふ、うん」
今日はおかずが沢山あるのも、やちよを想っての事だろう。中途半端に食べて寝た時、夢の中で腹を空かせていたらしい。あれはいつの事だったか。いろはの笑い声で目が覚めて、首を傾げたのもいい思い出だ。
「あんかけ、丁度いい」
「ういが作ってくれたの」
「鮭ボール、しっとりしたのもまた美味しいのよね」
「フェリシアちゃんも混ぜるの早くなったし、さなちゃんも揚げるのどんどん上手くなってるよね」
「色んな物が入った納豆も好きだわ。混ぜるのが大変だけど」
「鶴乃ちゃんが頑張ってくれたんだ」
「炒め物、食感も味も最高」
「よかった」
もぐもぐ。咀嚼を続けるやちよを隣から眺め、いろはが穏やかに微笑んでいる。頬杖をついて、嬉しそうに。そして幸せそうに笑うから、やちよはなんだか子供のような気持ちになってしまった。
いつか、ずっと昔。けれど掘り返す程は遠くない記憶の中で、祖母もよくそんな顔をしていた気がする。
一生懸命口に物を詰め込むやちよを見て、彼女も嬉しそうに笑っていた。
―そんなに急がなくても料理は逃げたりしないよ。
そう言って口の端についた食べかすを拭ってくれた指先を、やちよは生涯忘れないだろう。沢山の幸せを作ってきた手は、皮が厚いのに優しい感触がした。
「お酒が欲しくなるわね」
「ふふ、鮭の皮食べる度にそう言ってるよね」
明日も仕事なので飲みはしないが、そう思うのは止められない。なにせ、脂ののった皮はアルコールによく合うのだ。
白米に合う物は大抵酒にも合う物で、酸味のきいた海苔和えも、酒の肴にはよさそうだ。
「いろはって、海苔和えよく作るわよね」
「うん。簡単だし彩にもいいから」
今日は梅が入っているが、基本的には海苔とめんつゆだけ。たまにごま油と鶏ガラ醤油で和えられるそれは、やちよのお気に入りの一つでもある。
「これ、元々は病院食で知ったんです」
もう一口。そう思って箸を伸ばしたところで、不意にいろはがそう言った。
「一時期ういの体調がすっごく悪い時があって、お母さんがずーっと泊まり込みをしてたことがあったの」
思わず箸を止めたやちよに微笑みを返し、語る彼女は優しい表情だ。最近は、妹の闘病生活を語る時にも穏やかな事が多い。
「その時ね、お母さんに毎日ご飯を届けに行ってて、私もその時お夕飯を一緒に食べてたんです」
それは、あの日々が彼女の中で過去になったからだろう。健康になった妹と数年を過ごし、ようやくいろはは安心した。だからこそ思い出は思い出として痛みが薄れ、今は穏やかに語る事が出来る。
「うい、箸もつけられなくて。でも残しちゃうのは勿体ないからって、私とお母さんで食べて。その時美味しかったメニューなの」
病院の食事は減塩が基本だ。一昔前は食べられた物ではないなどと言われていたが、最近は様々な創意工夫が凝らされている。
「茹でたほうれん草って、水分が多いからタレを吸わないんですよね。でも海苔と一緒に和える事でタレを吸ってくれるし、風味もついて美味しいの」
油揚げと一緒にするのもいいだろう。味を吸わない物に浸る程の醤油をかけるならば、一緒に吸いの良い物を和えた方が減塩になる。
「もちろん、辛いことも多かったよ。今でも思い出すと、胸がぎゅーっとする時もある」
「ええ」
「でも、こうしていいこともあるんだなーって。人生って何が役に立つかわかりませんね?」
そう言って、いろはが笑った。朗らかに、影などなく。ただ純粋にそう思っての言葉はふわりと温かいくらいで、やちよもそっと口許を緩めた。
「そうね。本当にそうだわ。人生って何が役に立つかわからない」
「うん」
「だからこそ、嬉しいのよね。ふとした時に何か意外な経験が役に立って、その度思うの。ああ、無駄な事なんて一つもなかったんだなって」
やちよだってそうだ。辛く苦しい数年を過ごし、生きていたってどうしようもないのではと思う事も沢山あった。
けれどその数年があったからこそ出会いの瞬間にいろはを救えたし、その一瞬が今の今まで続いている。
「奇跡は起こるから奇跡なの。でも、きっかけを手繰り寄せるのはいつも自分の力だわ」
「うん」
「……あなたを引き寄せたのも、私の力って思っていいかしらね?」
「うん。やちよさんの魅力」
「……もう」
冗談のつもりで言ったのに、今回も百を返されてしまった。あっという間に熱を持った頬を隠すつもりで箸を置けば、それより先に恋人に指先を絡め取られてしまう。
「好きだよ」
「……知ってる」
「私も知ってる」
「ばーか」
ああ、今日も敵わない。そして明日も、明後日も。この先一生、やちよはいろはに敵う事はないだろう。
「歯を磨いてくる」
「はい。その間に片付けしちゃいますね」
「先に寝たらいやよ」
「ちゃんと待ってる」
後の口説き文句は、ベッドで聞こう。同じだけ口説き返して、二人で幸せな夢を見る。
もう何度も繰り返した事を、今日も飽きずにもう一回。けれどそれが幸せなのだと、どちらもそう確信しているのだ。
想い想われ、今日も恋人同士の夜は長い。