みかづき荘の晩御飯05
木曜日
・アサリの酒蒸し
・海鮮サラダ
・鶏ハムのポテトサラダ
・ピカタ
冷蔵庫を開けると、食材が少し増えていた。いろはは大抵、水曜か木曜に一度買い物をする。水曜日はスーパー、木曜日は商店街で安売りをするので、そのどちらかで安い食材を買い足すのだ。他にも足が早いニラやセロリなどは学校帰りに安い店を探して買い足したりする事もあるが、基本的には日曜と、水木どちらかしか買い物をしないようにしているらしい。
出費を抑えるにはまず買い物をしない事だ、とは彼女の談で、やちよも成程と頷いた。日曜日は毎週一万円近い買い物をするので計四万。そして残りの一万で細々とした物を買い、おかずの分はなんとか月に五万で抑えているようだ。
以前は月五万を上手くやりくりして隔月で米を買っていたが、最近それは諦めたらしい。フェリシアの消費に、五万ではさすがに追い付かなくなったのだろう。米は毎月十キロ買っても足りない事があるので、これに関しては別会計だ。そちらはそちらでいろはが管理しているので、最近食材に関しては殆ど任せきり。頭が下がる。
二十代の平均的な食費が月四万以上かかる時代に、学生ばかりが五人の家庭で月七万。しかも米を除けば基本は五万で抑えているので、いろはの努力は大した物だと思うわけだ。
「おつりは好きに使っていいんだからね?」
「はい」
家計簿をつけている彼女の手元を覗き込み、そっと囁けば穏やかな笑顔。返事はしつつも絶対に自分の為には使わないだろうな、と思いながら、やちよはやれやれと眉を下げた。
「……十万以上貯まったなら言って。大きいお金を家に置いておくのはあまりよくないから」
「どうするんですか?」
「口座を作るわ。それ用の」
「あ、じゃあ持ってきます」
「今はいいから」
案の定だ。丸二年もあれば、それくらいは貯めるだろう。
「あなたに家計を預けておけば安心ね」
「えへへ、そうですか?」
「ええ。その内私の口座も管理してね?」
「……えと、はい。がんばります」
「ふふ」
遠回しなプロポーズを正しく受け止めて、赤い横顔が頷いてくれる。それだけでとても嬉しくなって、やちよはさっと体をかがめた。
「なんでよ」
「いえ、あの、なんか……それだけで終わらない気がして」
やちよの部屋、ベッドの傍。簡単な書き物をする時に使うローテーブルは、簡単に動かせてしまう。以前抵抗するのを無理矢理押さえ込まれ、ラグの上でどろどろにされたのを忘れたわけではない。変なところでスイッチが入る恋人相手では、気を付けておいて過ぎるという事はないだろう。
「そろそろお夕飯の準備をしないと」
「もう子供じゃないんだから、あの子達だって適当に食べるでしょう」
「やちよさん、風紀って知ってます?」
「私の辞書には載ってないわね」
しれっとした顔でそう言いつつ、今のところは解放してくれるらしい。頬に唇を押し当ててから体を離したやちよに、いろははほっと溜息を吐いた。今日は足の早い食材を買い足したばかりなのだ。予定が狂うと野菜室が悲惨な事になる。
「今日は唐揚げ?」
「ううん。ピカタです」
「ああ、そっち」
先程冷蔵庫を開けた時、チルドで漬け込まれている鶏肉を見つけたのだ。だからてっきり唐揚げかと思っていたのだが、よく考えてみれば、いろはが二日続けてカロリー爆弾を作るはずがない。
「やちよさん、山芋の皮を剥いてもらってもいいですか?」
「了解」
「ゴム手袋、場所を移動したから。こっちにあります」
「わかったわ。ありがとう」
山芋を素手で握ると手が痒くなってしまう。針状の成分が肌を刺激してうんたらだとか、お酢につけると緩和されるだとか、まあ色々な情報があるが、厚手のゴム手袋があるならばそれに越した事はないだろう。
オペ前の医師よろしくそれを装着したやちよを横目で見つつ、いろははチルドから、例の鶏肉と自然解凍したマグロを引っ張り出した。
「剥けたらすればいい?」
「ううん。今回は切ります」
「切るの?」
「はい」
「すらないで?」
「切ります」
てっきりやまかけにするのかと思っていたが、どうやら違うようだ。今日は予想がよく外れるなぁと思いつつ、とりあえず皮を剥いていく。
その横でマグロのサクをぶつ切りにしていくいろはは、やちよの視線を受け取って横顔だけで微笑んだ。
「さなちゃん、ねばねばがあんまり好きじゃないでしょう?」
「ええ」
「それでも頑張って食べてくれるけど、せっかくなら美味しく楽しく食事して欲しいじゃないですか」
味は嫌いじゃない、という言葉の通り、さなは納豆もとろろもちゃんと食べる。けれど毎度毎度空中に漂う糸で四苦八苦しているので、可能な限りそれを軽減してやりたかったのだ。
「今日は海鮮サラダにして、一人一人盛ろうかなって」
「なるほどね」
人数が多いので、納豆もとろろも、基本的には大皿でどん、だ。だからこそ伸びる糸に四苦八苦するので、今日は根本的な部分から軽減していく事にした。とはいえ小鉢物にすればそれだけ洗い物が増えるので、可能ならばねばねば成分自体を最小限で押さえたい。
「またお酒に合いそうなものを……」
切った山芋とマグロのぶつ切り、そしてたっぷりのカイワレと水菜を、ポン酢と少しのめんつゆで和えていく。もちろんカイワレは無くてもいいし、逆に玉ねぎを入れたり、からし菜やほうれん草、海苔でも合う万能料理だ。
「ふふ、やちよさんは明日お休みだし、飲みますか?」
「ううん。それはご飯にかけて食べたいわ」
「お米、好きですもんね」
「いろはの作る料理は美味しいもの」
「ありがとう」
大学も最後の一年だ。すでに単位は取り終わっているし、やちよは就職先を探す必要もない。仕事のない日は一日中体が空く事も多く、その前日に少量のアルコールを嗜むのが最近の楽しみだ。
「これはいろはの皿ね」
「どうして?」
「葉っぱが多いから。水菜、あんまり得意じゃないんでしょう?」
「……刺さらないってわかってるんですけどね」
水菜は煮ても炒めてもピンとしているので、胃に刺さりそうで怖いらしい。それでも食べるのがいろはの良い所だが、食事は美味しく楽しくとは本人の談だ。いろは自身にも、是非そうであって欲しい。
「出す時におかかとお醤油も忘れないように」
「わかった。覚えとく」
味が足りない時はそのどちらか、あるいは両方で調整してもらう事にしよう。年月を重ねていろはの料理もだいぶ味が濃くなってきたが、それでも薄味なのは変わらないままだ。
やちよはそれでも十二分に美味しいと思うが、若人達はまだまだ濃い味を求めている。最近ではフェリシアだけでなく、ういも味を足す事がある。初めてその光景を見た時は、いろはの瞳がうれし涙で濡れていた。健康というのは、まことに幸せなものである。
「冷蔵庫開けたついでに、おいもとピカタのお肉も出してもらっていいですか?」
「ええ。ピカタはこれで……お芋はこのボウルね」
「はい。あとあさりも」
「どこ?」
「そっちは冷凍庫」
「……ああ、これ?」
「はい」
海鮮サラダは時間まで冷蔵庫で冷えてもらって、次は一気に二品を作る。ポテトサラダと、この間醤油炒めに出番を取られたあさりの酒蒸しだ。
あさりは買った時に砂抜きをして冷凍しておいたので、このまますぐに調理できる。そしてピカタの肉を漬け込む時にじゃがいももレンジで火を入れて皮を剥いておいたので、こちらの調理も簡単だ。
「やちよさんはごろごろしてる方が好きだもんね」
「ふふ、そうね」
火を入れてすぐに芋を潰せば滑らかに、冷やしてから潰すとブロックが残る。牛乳やバターを足せばどちらの場合も滑らかになるが、やはり冷やした物の方がかたまりは残りやすいだろうか。
恋人が塊を残す方を好むので最近は冷やしてから潰すようにしているが、いろはの実家は塊を残さないタイプだった。入れる物もクリームチーズと玉ねぎ、そしてゆで卵だけで、コショウもそこそこ効いていただろうか。どちらかと言うとお洒落な部類のポテトサラダは、和食の多い環家の食卓で、どことなく異彩を放っていた気がする。
「今日はリンゴは?」
「入れる」
「はーい」
みかづき荘のポテトサラダは、恐らく皆が思い描くポテトサラダだ。ハム、きゅうり、たまにリンゴが入ったそれに、時間がある時はゆで卵も入れる。ハムはたまに魚肉ソーセージになったりするし、リンゴがミカンの缶詰になる事もある。おかずと言うより箸休めに近いポジションだが、やちよの好物なので何かと作る機会は多かった。
「じゃあ、色々切っていきましょうか」
「ええ」
二人、まな板と肩を並べて、食材を切ってはボウルに移していく。熱心にリンゴをつまみ食いするやちよに苦笑しつつ、後は味付けだけだ。
「今日はマヨネーズだけがいいわ」
「うん。じゃあそうしようか」
日によって、入れる調味料は少し変わる。基本的には塩コショウ、あとは粉末出汁だったり、味噌だったり。温かい内に食べるのであれば、溶けるチーズを入れても中々美味しかったりする。
「じゃあ、味付けは任せますね。私は酒蒸しやっちゃいます」
そう言ってコンロの前に立ち、収納から取り出したのは深めのフライパンだ。今日は汁物を作らないので、あさりの酒蒸しが一汁も賄う事になる。出汁が沁み出したつゆは、それだけで十二分にご飯のお供になってくれるのだ。
「えほっ、うぇ……っ」
「大丈夫?」
「だいじょぶれす……」
容赦なく注がれた日本酒は、むせ返る程の酒気を帯びていた。毎度毎度咽てしまうが、それは最初の数秒だけだ。火を点け、粗方のアルコールを飛ばせば、すぐにいい香りが漂い始める。
「このままでいいのよね?」
「うん」
酒が沸騰し、そこからしばらくアルコールを飛ばしたら、凍ったままのあさりを投入して殆どの調理はお終いだ。あさりだけでも十分に出汁と塩分は出るし、もし足りなかったとしても、粉末出汁と醤油を少しで事足りる。バターを少し落とすとこってりした味になるが、今日はなしだ。
「じゃあ煮ている間に、ピカタに取り掛かりましょうか」
「その前にポテトサラダの味をみて。何度も味見したらわからなくなっちゃった」
「つまみ食いじゃなくて?」
「味見よ、味見」
頼まれてポテトサラダを頬張り、酸味と塩気のバランスに一つ頷く。いろはにはほんの少し濃いくらい。フェリシアにはやや薄味。丁度いい塩梅だ。
「美味しい」
「よかった」
「もう味見はいらなくない?」
「これはつまみ食い」
「うーん……」
違いがよく分からない。けれど何かを食べている時のやちよはいい笑顔なので、いろははいつも強く言えないままだ。
自分と一緒にキッチンに立つのを楽しみにしていたり、こうしてつまみ食いをして子供のように笑ったり。そんな彼女を愛しいと思うから、きっと一生言えないままだろう。恋人に弱いのはお互い様だ。
「多いわね」
「でも唐揚げよりはずっと楽だから」
ピカタ用の肉は、漬け汁を捨ててもずっしりしたままだった。削ぎ切りされた胸肉は、相変わらずぎゅうぎゅうと互いを押し合っている。
「ここに広げて」
ニンニク醤油、鶏がら粉末、コショウ、そして少々の酒。それらで二時間ほど漬け込まれた肉は、ほんのり色を変えていた。汁気を拭うためにキッチンペーパーの上に広げられた彼らは、光を照り返してすでに美味しそうな見た目をしていた。
「生肉が規制されたのは残念だわ」
「まだ馬刺しがあるじゃないですか」
「鶏刺しも好きだったのよ」
「安全のためですよ」
唐揚げ程粉がついても困るので、表面についた汁気はある程度拭っておく。それから薄く小麦粉をまぶし、あとは卵に落とした傍からひたすら焼いていくばかりだ。
「ん、酒蒸しももうちょっとかな」
大分口が開いたあさりを覗き込み、これ以上の水分が飛ばないようにフタをしておく。ちなみにこれも、再沸騰してからはあまり火勢が強くない方がいい。少なくとも中火以下に抑えておくのがいいだろう。
「じゃあ、フライパンはお任せしてもいいですか?」
「ええ」
今度は広く浅いフライパンをコンロに載せ、ここからは二人三脚だ。あるいは餅つき。
いろはが肉に卵をつけてフライパンに落とし、少し焼けたところでやちよがそれをずらし、次の肉のために場所を開けていく。早すぎると卵が帯を引き、あまり入れ過ぎるとくっついてしまう。右に左に上に下に。たまに少量の油を足して、あとはこんがり色がつくまで焼けばいい。
「すぐご飯になるよ」
「はーい」
リビングで宿題をしていた面々に声をかけ、必要な取り皿の枚数を指定。先に手が空いたいろははレタスとトマトを刻み、ピカタ用の皿に盛りつけた。後はやちよが焼きの作業を終えれば夕食だ。
「わさびも出しますか?」
「あ、そうだね。お願い」
「追いマヨネーズ!」
「程々にしなさいよ」
「今日はご飯多めに食べようかなぁ」
食事の準備が終わる頃になると騒がしくなるのは、もはや毎度恒例だ。ガチャガチャ、ざわざわと音がして、それが妙に愛おしい。
「さ、いただきましょうか」
「うん」
今日も今日とて笑い声の聞こえる食卓だ。皆が一緒くたに喋るのも毎度の事。そしていつも通りにちょっとした沈黙を愛し、今日も夜は更けていく。
***
晩酌
・シシトウ炒め(おかか醤油)
・鶏ハムとネギの塩だれ炒め
「何かおつまみ作ろうか?」
全員が入浴を終えた後。冷蔵庫から日本酒を取り出し、残った酒蒸しの出汁を温めるやちよを見て、いろはが苦笑まじりにそう言った。
「あらほんと?」
「簡単な物しか出来ないけど」
「嬉しいわ。素敵」
ご飯と食べたいと言って夕食の席では酒を辞したが、やはり少しだけ飲みたくなったのだ。出汁だけでも十分つまみにはなるが、作ってくれると言うならその好意に甘えよう。
「すぐできるからちょっと待ってて」
「ええ」
そう言ってエプロンを身に着けたいろはを追いかけ、やちよはカウンターに腰を下ろした。料理をしている恋人を見るのが好きなのだ。真剣でありながらどこか楽しそうな彼女は、普段の控えめな様子とは違ってときめきがある。
「やちよさん、少しお酒ちょうだい」
「飲むの?」
「違います。まぶしたいの。……はい、まず一品」
「早い」
「混ぜるだけだから」
時間にして五分程だろうか。小振りのスルメイカを薄い輪切りにし、キムチとネギを和えただけのそれは、簡単だが見るからに酒に合う。イカを解凍した様子もなかったので、もしかしたらやちよのために買ってきてくれた物なのかもしれない。少量の白髪ねぎを作る手つきも見事な物だったし、調味にも迷いがなかった。
「鶏ガラ粉末と?」
「それだけですよ。キムチにも味があるから」
やちよが飲もうとしていた日本酒をまぶしてあるので、親和性は抜群だ。迷いのない手つきに瞬きをすれば、いろはは眉を下げて照れ笑いのような笑顔を浮かべる。
「ちょっと勉強したんです」
「……私のため?」
「他に誰がいるの?」
二十歳を過ぎて酒を嗜むようになった恋人が、乾き物をつまみにする姿を見て思ったのだ。塩分がどうのではない。少しつまらないな、と。
「胃袋から掴んでいこうかなーって」
「……これ以上惚れようがないんだけど?」
「そんなこと言わないで。私はまだまだ先が長そうなんだから」
言外に、けれどありったけの好意を込めて。優しく囁いたいろはは楽しそうだった。誰かのための料理を作る時、特にやちよのために包丁を振るう時、彼女はいつも楽しそうにする。してくれる。
「……私は毎回惚れ直すの」
「その度大きくなってたら嬉しいですけど」
「言わなくてもわかるでしょ」
二品目に取り掛かりながら、笑う恋人は綺麗だった。今までずっと可愛い少女だと思ってきたが、最近ははっとする瞬間も多い。いろはは間違いなく綺麗になった。恋が人を美しくさせるとはよく言ったもので、朝日が昇るたびに彼女は磨かれていくようだ。
「先にこっちね」
「いつの間に」
「これも簡単だから」
シシトウに穴を開けてフライパンで炒め始めたな、と思っていたら、もう二品目が出てきてしまった。鶏ハムにネギと砕いたきゅうりを混ぜたそれは、レモンの香りがかぐわしい。
「美味しい」
「よかった」
ネギ塩ダレだ。隠し味程度にごま油を垂らしてあるのか、爽やかながらもどこかがっつりしているように感じられ、なおかつ口に入れた時と嚥下した瞬間、二度に分けて鼻腔を楽しませてくれる。
「塩だけよね?」
「うん。鶏ハムに味があるから、これも調味料はちょっとだけ。私が見たレシピだとニンニクもごま油もがっつりだったんだけど、今日はピリ辛和えを先に出してたから」
「……さっぱりしてて美味しいわ。でもこれはこれでお酒が進んじゃうんだけど」
「程々にね」
「努力はする」
最後の一品はシシトウ炒めだ。少量の油で炒められたそれは、おかかと醤油を纏って見るからに美味しそうだった。
「ん……ん? これ、油……」
「マヨネーズです。普通の油の代わりにマヨネーズで炒めると、コクが出て美味しいって」
「……はぁ」
思わずため息が出てしまった。料理に関しては、もういろはには敵わないだろう。やちよだって料理は出来るが、ちょっとした小技の引き出しが違いすぎる。
「大きくなったのねぇ」
「ふふ、おばあちゃんみたい」
「今回ばかりはそのセリフを受け入れるわ」
毎日彼女を見て、小さな変化にも山程気付いたつもりでいた。けれどやちよの見ていないところでもいろははどんどん成長していて、ふとした瞬間にこうして驚きを得るのだ。
「あなたってびっくり箱みたいだわ」
「……」
「なによ」
感心して呟けば、調理器具を洗っていたいろはが驚いた顔をする。それに驚いて首を傾げれば、ややあってから恋人は嬉しそうにくしゃりと笑った。
「ううん、なんでもない」
「そうは見えなかったけど」
「なんでもないの」
「……そう?」
言いつつも納得した様子ではなかったが、これ以上の回答は得られないと判断したのだろう。大人しく引き下がるやちよにもう一度笑みを向け、後はただただスポンジを動かす。
「ふふ」
「……なによぉ」
「なんでもなーい」
びっくり箱。それはいつも、いろはがやちよに対して思っていた事だった。変な所でスイッチが入るところ、意外と幼い部分、そしていろはには想像もつかない引力で、心を惹きつけ離してくれない事。やちよは色んな初めてをくれる。山程の驚きをくれる。そしていつでも、いろはを笑顔にしてくれる。
驚きの後、必ず訪れる笑顔の時間が愛おしい。とてもびっくりしたのにどうしても笑顔になってしまう。彼女の色々な行動を、びっくり箱のようだと思うのだ。
だから、同じ言葉を返してもらったのが嬉しかった。いつでも一枚上手のやちよに、驚きを与えられている事が誇らしかった。
「美味しい?」
「ええ。とっても」
「よかった」
結局それ自体に驚かされてしまったけれど、やっぱり今日も笑顔になる。
やちよはいろはにとってびっくり箱だ。いつでも清々しく新鮮な恋の色を纏って、変わらずこの手を引いてくれる。
それが幸せだから、今日もいろはは彼女の隣を歩くのだ。新しい彼女を明日も見たい。そしていつか終わる時まで、変わらず笑顔でいてくれたらいい。