どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話07

 

 大正時代の結婚について、皆さまはどのようなイメージをお持ちで御座いましょう。女に自由意思はなく、貴族の娘ともなれば許嫁や婚約者がおり、まだ少女の内から結婚して子供を産む。対する男は妾を持ち花街へ出かけ、割合と自由に過ごしている、と思う方もいらっしゃるかもしれません。
 けれど当時の貞操観念は今とは比べようもない程で御座いまして、特に結婚などは一度しましたら滅多な事で離縁は叶いませんでした。これは女だけでなく男も同じで、貴族の令嬢を娶ったならばそれ相応の態度が必要となって参ります。そして当時の男達は余程遊び慣れた者でもない限り、生涯一人の女を愛する事を誓う者の方が多御座いました。後の記録は華やかな面が取り沙汰され安う御座いますれば、当時を生きた方々にとってはいい迷惑でもあるのやも知れません。なにせ女に現を抜かす者は”軟派者”と揶揄された時代で御座いますから、世間の目を考えましても仲睦まじい夫婦である方が余程良い事であったので御座います。
 とはいえ、同じ結婚と申しましても、女と男が決して対等であったわけでは御座いません。嫁して三年子供ができねば、例え夫の方に原因があろうとも”うまずめ”等と誹りを受け、実家に返される女もおりました。また、夫の浮気は許されたとしても、妻の浮気は決して許されません。酷い時には死罪もあり、男女平等などという言葉はまだまだ遠い未来の話で御座いました。
 例え夫が浮気をしても暴力をふるっても、それに抵抗した瞬間、罰せられるのは女です。離縁に留まったとしても”我慢できぬ女が悪い”と怒り出す父もおりました。男子が絶対の時代で御座いますれば、已むを得ない風潮でもあったでしょう。けれど確かに、女にとっては生きづらい時代でもあったので御座います。
 けれど、何もそう息苦しい事ばかりでも御座いません。人々が西洋文化に傾倒しつつあったこの時代、貴族の親の中にも娘を想う相手と添わせてやろうという者も現れつつありました。この舞台の役者たる環家の面々はまさしくそうで御座いましたし、そうでなくとも下手に駆け落ちされるくらいなら、まだ男の方を一度貴族の養子にするなどして正式に結婚させた方が、世間体も良く皆幸せになれると思う者もちらほらと居りました。
 また、女の方にも全く自由意思がなかったわけでもなく、会ってみて人柄が一切合わぬと感じれば、父に申し出て話を白紙に戻してもらう者も少しは御座います。身分違いの恋も江戸の頃に比べれば易くなってきておりまして、時代は緩やかに、けれど確実に”未来”に向かって歩みを進めつつあったので御座いました。

 

 


『見合い?』
 夕食の席、父から持ちかけられた話に、先に反応したのはやちよだった。瞬き一つの間に食堂全体に結界が貼られ、いろはの横で巨躯の狐が人形を取る。
「先方に押し切られてしまいまして……会うだけで構わないからと」
 凄まじい威圧感だ。家長のはずなのにしゅんと肩身を狭くして、冷や汗に溺れそうな父がしどろもどろに返答する。それをじっと睨みつけて、腕を組んだ神は不機嫌そうだった。
「……神にやるのは惜しくなったか? よもや娘を利用しようというのではあるまいな?」
「やちよさん」
 美しい髪の先が白く色を変えていくのを見て、いろはは慌てて声をかける。そっと腕に触れると血走った眼が強くいろはを睨みつけて、それから低い唸り声が響いた。怒りで我を忘れかけている。普段はとても穏やかで優しい神であるのに、巫女の事になると少しばかり沸点が低い。今にも噛みつかんばかりの形相は般若もかくやといった様子で、巻き込まれる形となった母と女中頭は手を取り合って震えていた。
「止めるな。そなたの父君と言えども容赦はせんぞ。神との約束を違えればどうなるか……」
「やちよさん」
 その喉から低くしわがれた獣のような声が聞こえれば皆震え上がってしまうが、いろはは至って冷静だ。宥めるように自身の神の名を呼んでは、腕に添えた手の指先だけで、柔らかな愛撫を繰り返す。
「大丈夫です。私は他のどなたの所にも嫁ぐ気などありません」
「……」
「信じてはくださいませんか?」
 丁寧に丁寧に神に触れて、巫女はふわりと微笑んだ。じっと見つめてくる瞳はただ清廉と美しく、隠す気もない恋慕を見つければ気も削がれる。その表情にぐっと言葉を詰まらせ、やちよはやがて細い溜息を吐いた。
「……疑った事などないわ」
 そしてやや気まずそうにそう言うと、やがて人差し指だけがついと伸びる。優しく、けれどどこか拗ねたように指の腹でいろはの手を撫でて、神は少しだけ眉を下げた。
「ただ」
「……ただ?」
「あなたの口から他の男の話が出るだけで、はらわたが煮えくり返る」
 どうやら心底からそう思っているらしい。言葉を紡ぎながらもぐるると唸り、神は一つかぶりを振った。人間らしくもあり、獣のようでもある微笑ましい姿だ。
「お相手はどちらでしょう」
「あ、ああ。伊集院信篤様だ」
「ご華族様ですね。それは断りようもございません」
「うん、すまない」
 華族とは、明治二年から昭和二二年まで存在した貴族階級だ。江戸時代の大名家や、国への功績を認められた家、皇族を離れた方々など、やんごとなき身分の者にのみ許される特権階級である。
 いろはの家は上流階級ではあるが華族ではないので、そちらから正式に見合いを申し込まれれば断る事など出来やしない。けれどそうは言っても、父が流されるままにそれを受け入れたわけではないのだ。資本家は時に華族よりも財を持っているし、時には上手い事金を動かして娘の見合いを断る事もあった。ただ、今回は相手が悪かったのだ。
 古くは八代将軍徳川吉宗公の時代から質素倹約を続け、武人軍人としても強者揃い。数々の功績を上げ、爵位をも駆け上がった伊集院家が相手なのである。江戸の時代より武勲を上げる度に報奨金を頂き、土地も余る程頂いた。働かずとも食っていける程度の財はあろうし、そうなれば当然環家の武器も通用しない。下手に動けばこちらが付け入られる隙を与えるばかりだ。
 金もある上に権力もあるので、資本家としてはいかにもやり辛くてかなわない。
「お見合いは断ってもよろしいのでしょうか」
「もちろん。先方もそこは無理強いしないと確約してくださった。ほかのご華族様の前であった事だし、その約束は確かに守られるだろう」
 それもいくらか心許ない話ではあるが、今は先方を信じるしかない。とにもかくにもいろはは上手い口上を考えて、相手を煙に巻かなくては。
「そうだいろは。先方がね、一つだけ注文を付けてきた」
「なんでしょうか?」
「……それが」

***

 あれから一番近い大安の日。見事な庭園が見える料亭の一室で、いろははやちよと並んで座っていた。
『おかしな注文もあったものね』
「そうですねぇ……」
 いろはの飼っている狐を一緒に連れてきて欲しい。それが先方の唯一の注文だったのだ。その注文は唯一であるが故にやたらと悪目立ちし、いろはどころかやちよも少し落ち着かない気持ちでいる。
「お嬢。あっしはどこかおかしくないですか」
「大丈夫、じいやはどっしりと構えていて」
「へ、へえ」
 この日いろはの御供をしているのは、頼りになる女中頭のおみつではなく、気難し屋の庭師である梅三郎だ。腰が痛いの足が冷えるのぶつくさ言いながら、いろはのために枝を取ってくれたご老体である。
「お嬢」
「じいや、何度も聞かなくても大丈夫。スーツもよく似合ってるよ」
「へ、へぇ……」
 見合いでは、女側は男の付添人を、男側は女の付添人をつける決まりがあるのだ。同性の目からお相手を判断してもらおうというのである。
 とはいえこの爺、とてもではないが愛想の良い方ではなく、どれだけ捻って絞っても、気の利いたお世辞の一つ言えやしない。父母も初めは他の者をと考えていたようだが、ここで例のおみつが異を唱えたのだ。
 ――お狐様を連れて行くんでしょう。万が一があっちゃ困りますよ。頼りにはならないけど、梅じいを連れて行った方がいいと思いますよ。
 これには皆、頷くしかなかった。偏屈爺は偏屈ではあるが視る目もしっかり持っていて、狐の正体を知る一人でもあるのだ。いろはが幼い時分から「人には人の生きようがある。草木も同じように生きようを持っている」と言っては、無闇矢鱈に花を折って来るんじゃねぇと叱りつけてきた。人を見る目も実は確かな部分があり、彼がとった弟子は皆実直で働き者が多かったし、悪くない人選ではあるのだ。口が壊滅的でなければ、だが。
『ところで、相手方はやけに遅いわね。女が先に来る事などあっていいの?』
「女は支度に時間がかかります。なので男性は相手を気遣って、定刻よりいくらも遅れて参じるのが決まりなんですよ」
『……そう。破談を目論んだわけではないのね』
 つまらなさそうなやちよの言葉に、いろはは少し頬を緩めた。伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)の神話になぞらえて、先に待つ事で進んで破談を狙ったと考えたのが微笑ましかったのだ。女から先に声をかけた故に子を産みそこねたという神話。それがもし本当ならば、二人も子を産みそこなうのだろうか。やちよはどちらにもなれるが、今のところいろはに男役をさせるつもりはないらしい。それならば神話と同じく女が先に声をかけてしまった形になるが。
(鬼が大笑いしそう)
 くすり。自分の考えに小さく笑って、隣を見れば狐が同じように目を細めていた。印で繋がって以来、思考は筒抜けである。いろは側から神の思考を読み取るのはまだいささか難しくもあるが、楽しく思っている気持ちだけは感じ取れた。
「捨てませんよねぇ」
『そうねぇ』
 神話は時に恐ろしい物だ。二人なら、産まれてきた子供がどのような姿をしていたとて手元から離しはしないだろう。自然そう思えたのが嬉しくて、二人は顔を見合わせてくすくすと笑い合う。一人蚊帳の外のじいやは相も変わらずそわそわしたままので、その姿には気付いていない。
「伊集院様がおつきです」
 ようやく先方が到着したのは、二人のくすくす笑いがひと段落した頃だった。ころころと肉付きの良い中年の女性を引き連れて現れたのは、意外にもすらりとした優男だ。軍服の階級章は少佐だが、それにしては随分年若く見える。
「お初にお目にかかります。伊集院信篤と申します」
「環いろはです」
 いろはがすぐさま座布団から降りて畳の上で頭を下げると、じいやが少し遅れてそれに続いた。傍らの狐が興味なさげにがりがりと耳を掻いているが、それは唸り声を我慢するためだろう。既に口がひん曲がっている。
「こちらは庭師の梅三郎、そしてこちらが件の狐でございます」
「これはご丁寧に。こちらは女中頭のたかと申します」
 へこり、へこり。互いに何度も頭を下げ合い、勧められてからようやく座布団へと戻る。今回は世話人釣書……所謂プロフィール写真もないので、互いに相手の事を何も知らない。もしかしたら相手はいろはの事を徹底的に調べ上げているのかもしれないが、とかくこちらは丸裸だ。あまり会話の主導権を握られるのはまずいのだが……。
「それじゃあとは若いお二人でっ!」
 見事に握られた。食事中、端から端まで握られたまま、とうとう戻ってこなかった。
「お嬢……」
「大丈夫。慣れない事をごめんね。ゆっくり煙草を飲んできて」
「へえ……」
 女の方からあまり話しかけてはいけないのは見合いでの煩わしい部分でもある。そこを付添人の男が上手くとりなすのが常だが、梅じいにその役は荷が重かった。どうにもこうにも重すぎた。とは言えこれはかねてよりわかっていた事でもあるので、いろはに彼を責める気持ちはない。信篤の付添人が上手く水を向けてくれたので、最低限必要な事は話せたはずだ。それにここからは一対一、先程からにこにこと笑っているばかりの彼相手なら、いろはでも主導権を握る事が出来るかもしれない。出来たらいい。頑張ろう。
 思いながら机の下で拳を握るいろはを、信篤は少し困ったような顔で眺めていた。
「なに、取って食いやいたしません。ましてこれが何かの謀りという事もない。今回は本当にお見合いをしたくてお呼びしたのですよ。そこに他意はございません。それは心底からお約束しましょう」
 丁寧だが、少し砕いた言葉遣いだった。それでも品を感じるのは、彼が生まれついての貴族だからだろう。きっといろは以上に、様々な事を学んできたに違いない。だからこそ不審なのだ。金に困っているわけでもないのに、成金の家に声をかけてきた事実が。
「……なぜ、わたくしでございましょう」
「そこです」
 いろはの問いに、ぱちん。いい音で信篤の指が鳴る。彼が打ち鳴らした音はいっそパキンと響く程に高い音色を奏で、けれどそれとは裏腹に、その後続く言葉はない。訝しんでじっと信篤を見上げてみれば、彼は打ち鳴らした指をそのまま自身の顎に宛がい、呑気に首なぞ傾げてみるところだった。
「さて何から話しましょう」
「……」
 どうにも自分調子な男だ。思わず毒気を抜かれながら、それでもいろはは素早く思考を巡らせる。彼が思案を巡らせるのを、何も馬鹿正直に待つ事はないだろう。ここは気合一本自分から話をはじめ、はなからお断りの旨を伝えるべきだ。相手の調子に飲み込まれる前に、そして……既に唸り声を上げている神が、これ以上の無礼を働く前に。
(大丈夫、あんなに練習したんだから)
 それでも深呼吸が必要だったいろはを、誰も責められやしないだろう。相手は特権階級だ。一つ言葉を間違えれば、いろはのみならず父の首が飛ぶかもしれない。何度も何度も考え直して練習した口上は完璧だが、それを述べるための口はカラカラだったのだから。
「いや、煙に巻くのはよくないな!」
「……っ」
 けれどその一呼吸が無駄だった。いざ口を開いたところで第一声を大声に遮られ、いろはは思わず飛び跳ねる。実際に座布団から少し浮いたし、その驚きようにやちよまでびくりとしたくらいだ。それがどうにも恥ずかしく、どっと汗が噴き出してくる。そういえば、いろはは発表会の類が大の苦手であったのだ。
「単刀直入に申し上げましょう」
 そんな少女に気付いているのかいないのか。年若い少佐はやおら真剣な口ぶりになり、そしてひたり。音もなく言葉という刀の鯉口が切られる。
「自分は人ならざる者が見えます」
 ずばり。そう評するのが的確な切り出しだった。そして切り出しという言葉も格別に似合う。まさしく居合の一太刀を浴びたような気分になって、いろはは用意していた言葉をすっかり忘れた。
「家系でしてね。側仕えの従者も、幾人かが人ならざる者を見ます。そして今回いろはさんに見合いを申し込んだのは、何よりもそこが理由なのですよ」
 そう言って、ちらり。彼はいろはの傍らに”立つ”狐神を見上げる。それに釣られるようにして同じくやちよを見上げれば、彼女……いや、今は”彼”が、露骨に顔を歪めたところだった。二人の視線は正しく絡んでいる。神の威嚇に困った顔をしたところを見るに、彼は本当にやちよが見えているようだった。
「自分には、雪女がついています」
「……雪女?」
「雪の神、冬の神。あるいはその化身。そして自分は、その存在を妻とします」
「……あの、よくお話が」
 いろはもやちよに嫁ぐのが決まっている。人ならざる者と添う事を今更驚きはしない。けれどそれなら何故自分と見合いをしたのか。その一点がわからないのだ。
 困惑は、間違いなく表情に出ただろう。そんないろはに穏やかな笑顔を向け、信篤は再び口を開く。
「こんな話を聞いた事はありませんか。雪女は嫉妬深いと」
「……わたくしは、”用心である”と聞き及んでおります」
「はは、用心であるね。なるほど。それは言葉を選ばれた。やはり貴女が相応しいでしょう」
「あの」
「失礼。意地悪をするつもりはなかったのです。本題に入りましょう」
 その後語られた信篤の話を要約すると、つまりは仮面夫婦になりましょう、という事らしい。
 彼の家系は、たまに雪女と”めおと”になる者がいる。遠く祖先が神を降ろす体質だったか、それともいつかに契約をしたか。力の強い者、人ならざる者をはっきりと見て捉えられる者にだけ、神が降りて来るそうだ。
 そして彼の家では、”神降ろし”が当主になるという習わしがある。彼自身も元は分家の三男坊だったが、生まれ落ちた時に室内で雪が降ったが故、本家の跡取りとして目もろくすっぽ見えぬ内に父母から引き離されたらしい。なんとも難儀な話だ。
「不幸に思われるかもしれませんが、自分はそこまで感傷的でもないのです。彼女のおかげで大きな災いから逃れ続けてきましたし、武勲も既に上げました。三十路前に少佐に慣れた上、見目も麗しい者を妻とするのです。なんの否やもない」
 けれどいくら”神降ろし”と言えど、人は人。戸籍がある以上、そして高貴な者として生まれた以上、一族を繋いでいくのはもはや義務だ。突然子が湧いてきても怪しまれる。養子を取ったと言えばその出所を確かめられるし、仮初といえども妻は欲しい。そこまで至って、ようやくいろはを選んだ理由が語られるのだ。
「雪女は浮気を嫌います。たとえ体だけであっても、他の女性を抱けば祟りを起こす。けれど子はいないと困るので、あなたの子を頂きたいと申し上げているのです」
 いろはがやちよとの間に子を生したいのであればそれもよろしい。むしろ子を生し、その子を跡取りに据えたい。しかもいろはが信篤と同じ”神降ろし”であれば、説得はより容易くなるだろう。彼、そして彼を取り巻く者達は、そう考えたのだ。
「信篤様が自ら御子を生すという事では」
「生らぬのです。絶対ではありませんが、おそらく無理でしょう。雪女を降ろす身は、清くなくてはいけないのかもしれません。自分は生まれ落ちた頃より、股に男がついていないのです」
 あまりにあっけらかんとした物言いだった。あっけらかんとした物言いだったが故に、いろはは言葉の意味を理解できず、ぽかんと呆けて固まってしまう。すると彼はにわかに慌て出し、えーととあちらこちらに視線を彷徨わせた。
「いろは」
「はい?」
 あたふたと忙しい彼をしばらく眺め、やがてやちよが溜息を吐く。ちょいと指先を動かすのに従って顔を寄せれば、耳元で低くも柔らかい声が一つの身体名称を囁いた。
「っ」
 ようぶつ。陽物。たった四文字の音に、正しい漢字が当てはまるまでに少しかかる。けれど理解した瞬間に頬がぼっと熱を持ち、それを見た信篤はなんだか申し訳なさそうな顔になった。
「失礼。随分神気を帯びておられたので、てっきり済ませたものかと」
「いえ、あの、いえ……はい」
 見合いですらすぐ次の間に両家の人間を置くくらいなのだ。初対面の男性とこのような話をする事なぞまず有り得ないし、顔はいよいよ熱くなるばかりだった。
 そして彼が下の話をした理由が、これまたいろはを俯かせる要因となっている。貴子の時もそうだったが、やはり”視える目”を持った者ならばその辺りまで理解が及ぶらしい。
 これから会う通力持ちの方は皆私の事を察してしまうのだろうか。詮無いながらも考えずにはおられない事を考えて、いろははハンカチで額の汗を押さえた。
「これが気休めになるかはわかりませんが……名を持つ神降ろしでもない限りは、おいそれと深い事までわかることは有り得ないかと」
「……ありがとう存じます」
 建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、稲荷神、人から名を与えられた神を降ろせる者は、今となってはごく僅かだ。遠く遠く、卑弥呼などは日本最高位の日の神を降ろせたと囁く者も居るが、それが真実であったかは誰にもわからない。
「あい失礼いたしました。わたくしは大丈夫です。お話を続けてくださいませ」
「……では」
 ようやっと汗が引いてきた。よくよく考えればほむらはこちらの事情に言及してこなかったのだし、本来使役神を降ろす物はあの程度が常の力なのだろう。彼女は曇り目だったが、人ならざる者の気ははっきりと感じ取っていたようだった。いろはが”おぼこ”でないと理解していたならば、警告なしにやちよを調伏しにかかっていただろう。
「いろはさんも人の世を捨てる気はないでしょう。自分と仮初のめおととなってくれれば、好いた相手もお家も両方守れますよ」
 優しい声色だった。事実彼は、決して悪い人ではないと思う。むしろその気は随分と穏やかで、落ち着く雰囲気があった。以前やちよの言っていた”波長の合う相手”なのかもしれない。それに実際問題を考えれば、いろははかなり特殊な部類なのだ。彼が普通で、いろはは特異。本来は彼のような考えの方が、余程人に即している。
 人の世に生まれ人の世で生きてきた以上、人として背負うべきさだめは誰にでもある。本来ならばいろはは婿取りをして、父母から授かった家に跡目を産む事で恩返しをせねばならなかったはず。恋を選び家を捨てる者はこの時代では大変な親不孝者であり、また呪われ祟られても仕方ないような人間とされているのだ。無残に野垂れ死んで遺骸を獣に食われようとも、やれ天罰があたったねと後ろ指を刺され続けるような時代。
 女は子を産み男が養う。女が覚えるのは家庭の事。学などいらぬ、良妻賢母であれ。それが世の普通だ。かつて貴子が……そうであったように。
「……お言葉ですが」
 その中に生きて、人の世を捨て神と結ばれる事を許してもらったのは、まこと有難く幸せな話だ。両親にはただひたすらに頭が下がる。家を繋ぐには従兄を養子に入れればいいからと、本当なら泣きたいような心で笑ったのだろう。
 けれど、だからこそ、だ。
「わたしくしは、すでに身も心も此の神に捧げております。いずれは人の世を捨て、此の神とそちらの世界へ参る覚悟。たとい形だけだとしても、他のどなたの許にも嫁ぐつもりはございません」
 いろはは意地を通さなくてはならない。父が、母が、涙と共に繋いでくれた道だ。家の事は忘れろと言われたのだから、ここで揺らいではならない。なんの力もない小娘が己の我儘を語り、立場と守る者のある父母がそれを通してくれた。ならばどんな事でも迷うはならぬだろう。頑と固めた意志ならば、死ぬまで貫き通して初めて粋だ。途中でなよっていては、まるで格好の一つもつきやしない。
「……そうですか」
 信篤は、いろはの言葉に反論はしなかった。ただふーと長い息を吐いて、軍服の詰襟を少し緩める。
「振られちゃったよ、うっちゃん」
 そして虚空に向かって話しかけると、人の良さそうな笑みを浮かべた。その言葉にそちらを見ても、いろはの目には何も映らない。存在と微かな光は感じられるので、どうやら今一つ力が足りないらしい。
「……ああ、これは大変失礼を。連れに挨拶をさせていませんでしたね」
 少しばかり目をすがめたいろはを見て、彼はこりこりと頬を掻いた。どうやら意地悪でも試したわけでもなく、本気で忘れていたらしい。知れば知る程、この信篤という青年は面白かった。今も雪による叱責を受けて、その頭が雪だるまへと姿を変えていく。
「やあ、ご挨拶をなさい。非礼をなさってはならないよ」
 めこり、めこり。雪にうずもれながら、呑気な男がはははと笑った。それと同時に彼の隣へ細身の女性が現れ、その瞬間に強い吹雪。
「これは宣戦布告か? 優男」
「いえなに、彼女の癖みたいなものですよ。何も悪気のあるわけではござりませぬ」
「……余計に質が悪い」
 ぶわりと飛んできた湯のみとその内の茶は、やちよが咄嗟に抱えてくれた事でいろはに当たりはしなかった。けれど巫女への狼藉で、気の短い神は既に堪忍袋の限界だ。信篤の毒気抜きにいくらか脱力した風はあったが、それでもピリピリと刺すような雰囲気を纏っている。
「稲荷の神様」
「わかっている。突然食いかかったりなどしない」
 頑固は押し通すと決めたとて、何も進んで父母を不幸にしたいわけもない。爵位持ちの信篤、ひいてはその”婚約者”にも、なんの手出しもせず終わりたいのだ。
 そう思ってやちよを呼べば、すぐに返事が返ってきた。既にその髪は真っ白だが、すぐ変化できるようにという準備なだけらしい。
「あれ、わたくしとした事が。どうにも姿を現すはあまり得意ではござりませぬ。粗相をいたしました。なんぞおかしなところはありませぬか?」
 ひらり、ひらり。その女性は、まさしく小雪が降るようであった。氷のように白い肌、青みを帯びた白い着物。抜けるような青に、雪持ち文様の雅な打掛。その髪は老人のそれよりも真っ白なのに、微笑む姿は艶盛りのあだっぽさがある。
「……なんて」
 美しい。言いかけて、いろはは慌てて口を押えた。やちよはこれでかなりの焼き餅妬きなのだ。滅多な事を言えば、きっとすぐにでも怒り出すだろう。その怒りがいろはだけに向くならば構わないが、今は折悪く競う相手がいる。下手をすればいろはの目に毒だと、一足噛み付きに向かいかねない。
「いろは?」
「違うんです。まるで晴れの日の雪化粧のようだと思っただけで」
「ふん」
 危ない。本当に危ない所だった。美しい、のうの字も出ていれば、彼女は迷いなく畳みを蹴っていたかもしれない。
「あな嬉しや。わたくしの出で立ちがおわかりになられますか」
「っ……は、はい。整えられた庭にしんと木霊する静寂のようだと」
「晴れの日の」
「はい。空気は澄み渡りまして、日に輝く一面の白水晶が見えまする。きらきらと、吸い込まれるほどの輝きを」
「嬉しや嬉しや。お前様は慧眼であられる。気分がようございます」
「……ありがとう存じます」
 どうやら難を乗り切ったらしい。畳に指をついて頭を下げつつ、いろははほっと息を吐いた。隣のやちよもとりあえずは攻撃の体勢を解いたらしく、今はじっとその姿を観察している。
「……そなた」
「はい」
 じー。それこそ、穴が開くほどの凝視だった。雪女の姿を上から下から何度も何度も視線で撫ぜて、やがて神はこう言った。
「そなた神ではないな」
 ああ、やはり。それはいろはにも薄々ではあるがわかっていた事だ。ただ気配を感じていただけの時から、なんとなく違和感は抱いていたのだ。どうにも回線が合わぬと言うか、見えるはずの物が見えない違和感と言うか。神にとても近しくはあるが、どこか外れた雰囲気もある。
「あれ」
 やちよの言葉に、雪女は驚いた顔をした。切れ長の目をまろく見開き、黒曜の瞳がぱちぱちと瞼の裏に消える。そしておっとりと袖で口元を押さえ、真っ赤な唇から出てきたのはこんな言葉だ。
「いずれ名のある御方には見抜かれようものとは覚悟しておりますれども、まさかこのような下仕えに見抜かれようとは……」
 その物言いに、やちよよりもむしろいろはの方がカチンと来た。
 やちよは確かに、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の御使いだ。遠くはかの女神に付き従って出雲の神有の宴にも参加した事があると言うし、下仕えという言葉を否定するつもりはない。けれどそれにしたって、あんまりな言いようではないか。やちよはやちよ自身としても十二分に力を持っているし、日本ではいっそ狐神の方が有名なくらいだったりもする。名が知れているから偉いなどと述べるつもりはないが、軽んじられていい気はしない。やちよが怒らないのでこの程度は常ならざる者の当たり前の物言いなのかもしれないが、いろはとしては想い人を悪し様に言われた気がしてならず、どうにも顔がかっかしたのだ。
「いろはさん? どうしました?」
「……いえ」
 崩れた雪玉から顔の半分だけを出して、信篤が問うた。そのとんちきな格好もこちらを馬鹿にしているようでむかっ腹が立ったが、人同士の立場はあちらが上。いくら「お若いお二人で」とは言われていても、周囲に誰もおらぬわけもない。次の間にはそれぞれ事情を知った従者が控えているし、ここで事を荒立てれば、立場が窮となるのはいろはの父である。
「お前様、いかっておいでですね」
 静かに激昂するいろはに、雪女が囁いた。至極楽しげ、あるいは満足げに微笑む意味が理解できず、微かに眉根を寄せれば笑い声。
「恋する女はまこと美しいもの。世には同族嫌悪なぞという言葉もありますれども、わたくしは同族を愛しゅう思いまする」
「どういう……」
「想い人のために腹を立て、父のために怒りを抑えるお前様を、愛しいと申しておるのですよ」
 どうやら彼女は、本気でいろはを愛しく思ったらしい。柔らかく細められた目に険はなく、むしろいつくしむような光を宿していた。
「このような、と申した事、重々謝罪いたしましょう。この口は思うた事をそのまま紡いでしまいまするので、これよりもしばし咎められておりました」
 これ、の部分で信篤を見て、神ならざる者はころころ笑う。その笑顔はつぅと目を細めただけのそれよりずっと華があり、いろはは少し面喰った。雪女と言えば冷たい者とばかり思っていたが、このように温かい笑顔を浮かべる事も出来るのだと。
 そんないろはと隣のやちよを数度見比べ、やがて彼女は畳の上へと膝をついた。完璧な仕草でたおやかに頭を下げ、述べる口上にも艶がある。
「わたくしは神ならざる者。けれど神と生まれを同じくした者。人が語り、人が伝え、人がわたくしをこう呼びました。宇津田(うつた)姫、と」
「……冬の姫様でございますね」
 春の佐保姫(さほひめ)、夏に筒姫(つつひめ)、秋は竜田姫(たつたひめ)、冬で宇津田姫(うつたひめ)。源氏物語の時代に現れたこの姫君達は、情緒を楽しむ歌人達により想像され、また創造された四季の化身である。神ではないが神に近しく、人の力をもって姿を得ている。
「あな嬉しや。のぶ、のぶ坊。このお嬢さんは学があられる。わたくしはすっかり気に入りました」
 いろはに見止められた姫は、嬉しそうに肩を揺らした。氷のようだと思った頬にさっと朱を走らせ、今ではまるで童女のようだ。歌や物語は高貴な者の嗜みだが、そうは言ってもぱっと出て来る者は少ないのだろう。まして自身の姿をはっきりと目にし、語り掛けてくれる存在は随分と減った。
「のぶ坊や、惜しい事をなさいました。このお嬢さんとならば、人として添う事を許しましょうに」
「いやいやそれは彼の神が許すまいよ。あと僕を坊と呼ぶのはおやめなさい」
「なんの、お前様が僕を卒業できるまではいたしませぬ」
 ああ、なんだろう。なんとも微笑ましい光景だ。そう思って小さく笑えば、やちよがちらりと視線を寄こしてきた。いろはがすっかり力を抜いたのを見て、完全に毒気が抜けたのだろう。しゅるしゅるとその背が縮み女神の姿を取るのを見て、いろはは慌ててしまった。
「ありゃ。これは自分が負けるのも無理はない」
「の、信篤様」
「いえこれ以上は申しませぬよ。世界は広いのです。人ならざる者を見る事が出来るのに、なにを世界の道理についてなど語りましょうか」
「……ありがとうございます」
「いえ。楽しい時間のお礼です。僕も久しぶりに肩の力を抜けました」
 お互いちらと素が出てしまった。微笑む彼に同じように微笑み返して、いろはは畳の上へと移動する。
「それでは此度のお話は、全て白紙という運びでお頼み申し上げまする。そして重ねましても、此度のご無礼、平にお詫び申し上げます」
 するり。三つ指ついて丁寧に頭を下げれば、いろはの隣、珍しくやちよも同じように膝を折って頭を下げた。それにはさすがの信篤も宇津田姫も驚いた顔をし、慌てて畳に降りて同じように頭を下げる。
「これは、神に頭を下げさせるなどこちらこそとんだご無礼を。わたくしも連れも誠に残念なお返事を頂戴いたしましたが、お嬢様と稲荷の神様の今後のご多幸を深くお祈りする所存で御座います」
「ありがたく。此方よりも、信篤殿のますますの飛躍を心よりお祈り申し上げる」
 信篤のなめらかな口上に返事をしたのは、やはりやちよだった。いろはと足並みを揃える努力を始めてから、時に人のような振る舞いをする事があるのだ。今礼を述べたのは、いろはの”伴侶”としてのものだろう。礼を尽くした者には相応の礼を。敬われて当然であったはずの神は、ここまで人に近しくなった。
「こちらこそありがたく」
 それに吐息だけの笑みを零したのは誰であったか。もしくはやちよ以外の三人がそろって零した小さな吐息が、一つの音になったのやもしれない。なにも嘲ったわけではないが、それが妙におかしくて、二人と人ならざる者はくすくすと肩を揺らす。
 一人不思議そうな顔をしたやちよは、笑う巫女を見てひょいと首を傾げただけだった。

***

 ただいま戻りました、と玄関口で声を張り上げた後、いろはは二度も三度も驚く事になった。何故って書生に母に庭師の爺やに、それはもう大勢の人が入れ替わり立ち代わり話しかけてきたからだ。とはいえいろはは見合い帰り。仮にそこまでは察しがついたとしても、その後半ば担ぐようにして奥の間に連れて行かれた事も驚いたし、何より一番驚いたのが、畳の部屋にいた父が白装束を纏っていた事だ。
 お父様!? と声をかければ、彼はぎくしゃくと振り返った。そして娘の姿と変わらず寄り添う神の姿を見止めると、ぷつんと糸が切れたように倒れ伏してしまったのだ。
 聞けば娘が意に添わぬ婚姻を結んでしまった時は、神に詫びるため腹を切るつもりでいたらしい。神が激昂した状態で一人帰ってきたら、手を煩わせるまでもなく刀を突き立てるつもりだったと。
 それが変わらず二人寄り添って入ってきたから、一気に緊張の糸が切れたのだ。
「まったくもう! 人騒がせな!」
「まあまあ、そう怒らないの」
 いつもとはあべこべである。ぷんぷんと腕を組むいろはの頭を撫でて、神は優しい苦笑を浮かべたままだ。部屋に戻ってきてひとしきり笑った後は、ずっとこの表情のまま。思い詰め方がぶっ飛んだ父親と怒るいろはとが面白いのか、機嫌は良さそうだ。
「父君のなさりようは私にも一因があるのだから、そんなに怒っては可哀そうよ」
「でも私は心の臓が縮み上がりました!」
「ほら、怒った顔をしていてはせっかくの花のかんばせが勿体ない。いつものように笑ってちょうだい」
「今は無理です!」
「まあまあ」
 父親は、今は自室で横になっている。医師にも診てもらい、特に異常のないらしい。ならば安心と一息ついて、今度はふつふつと怒りが湧いてきた。今日はとことんやちよを見くびられている気がする。たとえいろはが望まぬ婚姻を結んだとて、やちよが怒りを向けるのは父ではなく伊集院の家だろう。父はたまにやちよの事を分別のない獣のように扱うが、彼女は優しく気高い存在だ。いろはが傷つくようなやりようはしない。
 例えば信篤がもっといやみな人間で、力づくで婚姻を結んだとしよう。少し前のやちよなら、その時点で彼を噛み殺した可能性もあったかもしれない。けれど今は、いろはが望まぬ限りそうとはしない。いろはが守りたいと思ったならば、きっとその全てを守ってくれるだろう。
「やちよさんは腹が立たないのですが?」
 だというのに誰もかれもやちよを見た目だけであれこれ決めつけて。そう思えばどうにもむかっ腹が収まらず、いろはは上機嫌な神の袖を引いた。
「私が? 何故?」
「何故って……。だって、父はやちよさんに食い殺されると思っていたんですよ」
「そうね」
「宇津田姫だって、下仕えって」
「事実だわ」
「そうですけど……でも」
「……いろは。何をそんなに怒る事があるの。私は他者にどう思われていようと構わないわ」
「どうして……」
「だってあなたがこんなに想ってくれるじゃない」
「……」
 問いかけに返ってきたのは、至極当然といった風情の言葉だけ。それに数瞬唖然とし、やがて怒りとは違う熱で頬がかっかとした。それと時を同じくして胸の奥がくすくすとこそばゆくなって、どうにもむずむず口元が緩んでしまう。
「違う?」
「いいえ……いいえ」
 ああ、なんて嬉しい事だろう。やちよは本当に、いろはを疑う事など頭にないのだ。焼き餅はいくらも妬いたとて、いろはの想いだけは心の底から信じてくれている。いくら考えている事が筒抜けといっても、それは思考までだ。心の根っこ、奥の奥の深い所までは、全て伝わるわけもないと思っていたのに。
「……やちよさん?」
「なに?」
「……お慕いしています」
「ありがとう。私もよ」
 確かに届いていた。それでも口に出さずにはいられなかった。優しいかいなに抱かれながら、いろはが想うのは自身の神の事ばかりだ。
 ああこの方が、笑い、息をし、ただ生きていてくれればいい。この方の存在全てを、自分が守れたらどんなにいいだろう。
 考え、本気の本気、心の奥底から祈りながら、いろははそっと目を閉じる。彼女しか見えなくなる刹那、漏れた吐息はただ甘く、しっとりと露に濡れた若葉のようでもあった。優しい春の雨に濡らされながら、夢見心地で全てを預ける。
 それだけが、ただ愛しく、幸福の肌触りをしていた。