どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

人狼02

 

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 トントントン。遠くから、軽快な音が響いていた。その音にふっと意識が戻ってきて、何気なく時計を見れば夜七時。
「っ……!」
 いつもならとっくに夕食の時間だ。夢中になっていてアラームにも気づかなかった。慌てて白衣を脱ぎ部屋を飛び出せば、規則的な音がぴたりと止む。
「っごめんいろは! 今から……ゆう、はん……」
 いい匂いが、した。駆け込んだキッチンにはいろはの姿。やちよのエプロンを身に着けた彼女は、駆け込んできた番『候補』を見て優しく微笑む。
「おつかれさま。ごはん、もうちょっと」
「え……え?」

 状況が上手く理解できなかった。だというのに空腹から小さく腹が鳴って、やちよは少し赤くなる。そんな彼女を見て、いろははただ優しい笑顔を浮かべるばかりだ。
「ちゅー」
「う、うん」
 混乱しているのをいい事にさっと唇を触れ合わせ、彼女はさっと離れて行った。それからまな板の上の刻まれたネギを椀の片方に落として、手袋を取る。
「わたし、おミソ汁つぐから。やちよ、ごはんよそって?」
「え、あ、はい」
 言われるままに炊飯器を開けたところで、やちよはようやく状況を理解した。理解したけれど、いまだに混乱したままではいる。
 だって、いろはは今まで料理などした事がないのだ。やちよを手伝って一緒にキッチンに立つ事はあっても、全てを一人でやった事はない。だというのに、これはどうだろう。
「味、足りなかったら、おしょうゆ使って」
「ありがとう……」
 ブリ大根、卵焼き、冷しゃぶサラダに、香の物。納豆にはウズラの卵まで落とされて、味噌汁にはナスと油揚げ、やちよの方にだけネギが落とされている。完璧だ。
「これ、全部あなたが作ったの?」
「そうだよ。食べてみて」
「……いただきます」
 まずは味噌汁から。恐る恐る一口啜ってみて、やちよは目を見開いた。はやる気持ちでブリ大根を食べ、卵焼きを食べ、冷しゃぶサラダのために用意されたドレッシングを味見する。
「すごい」
「……おいしい?」
「おいしい。すごい。……私の味だわ」
 驚いた。本当に驚いた。正確な分量を教えた事もないのに、どの料理からも慣れ親しんだ味がする。やちよが必死になって練習した、祖母の味だ。
「どうやって……」
「わたし、はながいいの。忘れちゃった?」
 やちよが目を瞬かせれば、対面のいろはがにこりと笑った。指先でトントンと自身の鼻を叩く姿は誇らしげだ。
「匂いだけで?」
「それだけじゃないけど、でも、それもある。やちよのこと、よく見てた。あとは匂いでバランスわかる。すごい?」
「……ええ」
「ほめてくれる?」
「もちろん。もちろんよいろは。あとで沢山撫でてあげる」
「うれしい」
 きっと彼女は、やちよを手伝いながら様々な事を覚えていったのだろう。包丁の使い方、米を炊く時に入れる水の量、そして使う物の匂いと、そのバランスを。
「やちよ、忙しいから。これからご飯はわたしが作るよ」
「ありがたいけど、あなたにはアレルギーもあるでしょう?」
「うん。だから、てぶくろして作る。大丈夫」
「……ありがとう」
 家にいる時は研究をして、要請があれば密猟者ハンターとして出動する。時期によっては詰め所に常駐する事もあるやちよには、休んでいる暇が殆どない。そんな彼女の姿を見て、いろはは常々考えていたのだ。何か出来る事はないだろうかと。
 風呂掃除は、すでにいろはの担当だ。掃除機は音が怖いのでかけられないが、ワイパーだけなら日に一回かけている。後は何が出来るだろうと考えて、料理に思い至ったのだ。
 世の平均はわからないが、やちよは大体一食につき一時間半くらいはキッチンに立つ。朝と昼は時短料理や前日の残りも多いが、夕飯だけは欠かさず一から作ってくれた。その時間が空けばやちよはもっと楽になるだろう。いろははそう考えたのだ。
「あんなに手がかかったのにねぇ」
「……小さいころのはなし、きらい」
「ついこの間でしょう?」
「わたしにとってはずっと前」
「ふふ、はいはい」
 人狼の成長は早い。生まれて一週間もすれば喋り出すし、四つ足でなら歩けるようにもなるのだ。そして生後一ヶ月もすれば二足歩行を覚え、自分で判断して危険を回避できるようになる。
 今、いろはの見た目はやちよと同じくらいだ。もうすぐ二歳になる彼女はこのところすっかり大人っぽくなって、表情や仕草も大分人間らしくなってきた。言葉はまだたどたどしい事もあるが、それでも一人で本を読み、簡単なメモくらいなら取れるようになってきている。電話の応対をしている姿を見た時など、やちよは目頭が熱くなったくらいだ。
「いい女になったわね」
「うん。やちよのため」
「げほっ」
 親のような気持ちで賞賛を口にすれば、彼女はにこりと微笑んだ。そして事も無げにそう返してくるものだから、やちよは思わずむせてしまう。
 いろはのアプローチは相変わらずで、日に何度もやちよを口説くのだ。言葉を覚えた分口説き文句はどんどん達者になっており、歯の浮くようなセリフを言われれば、やちよは毎度気管がむず痒くなる。
「そういうのやめてって言ったでしょ?」
「んー、でも自己アピールできないと、しけんかんがなっとくしてくれないって、やちよが」
「私は試験官じゃないわ」
「そんなことない。わたしを見て、えらぶ」
「……っ」
「今、こたえ……くれる?」
「えっと……あの、っっごちそうさま!!」
 危ない。雰囲気に呑まれるところだった。頭から丸のみだ。酷く愛しげにじっと見つめられれば、いつも胸が高鳴った。成長と共に相手を理解していったのは、なにもやちよだけではないのだ。いろはも十二分に人間というものを理解し、そしてやちよ自身を理解しつつある。
(私、こんなに乙女だった?)
 職場でのやちよは、氷の女王と呼ばれるような存在だ。誰に対してもそっけなく、常に無表情でいるからと。アイスクイーンという渾名はあまり好きではないが、余計な人間も寄って来ないのでその点だけは楽でもある。
 職場で一番のナンパ男とバディを組んだ時も、睨みついでに舌打ちしてやればすぐに大人しくなったものだ。諦めないのは上司でありハンターのトップであるセクハラオヤジだけだが、こちらは他に対処のしようがあるので構わない。彼の奥さんの話題を出せばいいのだ。まったく、家庭を持ちながらよくやる。
「逃げた」
「逃げてない」
「逃げたよ」
「逃げてないったら!」
「ことわればいいだけ」
「っ……それは、そうだけど」
「だけど?」
「色々あるの」
「ふふ、やちよは、わるいおんな、だね?」
「……どこで覚えてくるのよ、そんな言葉」
「一人で待ってるあいだ、色んなドラマでことば覚える」
「……仕事も程々にするわ」
「それがいいよ」
 にこり。微笑むいろはの視線は、やちよとほぼ同じ高さ。まだ少し成長する事を考えれば、最終的にはいろはの方が大きくなるかもしれない。元より人狼は人間よりも身長が高い種族だ。いろははむしろ、小さ過ぎる。
「栄養が足りてないのかしら」
「……やちよは、もっと大きい方がいい?」
「そうじゃなくて純粋な心配よ」
「ほんと?」
「本当」
 視線の高さは近い方がいい。その方が彼女を見つめやすいし、キスだって……。
「ちがう」
「? なにが?」
「なんでもない!」
 恋だの愛だの、そういうややこしい事を考えるのは苦手だ。やちよに必要なのは、敵を引き裂ける力だけ。昔も今もこれからも、誰にも負けない自信だけだ。きっと……そのはず。
「お風呂に入ります」
「はい」
「いろはも入るでしょう?」
「……」
「私の事が好きなんじゃないの?」
「うう……やっぱりやちよ、わるいおんな」
「なんとでも」
 やちよはいろはを守りたいのだ。彼女はまだ、世界を知らないだけ。街にだって数回しか出た事がないのだから。
 いずれいろはは世界を知る。その時に選択肢は多い方がいいだろう。狭い世界の中だけでやちよを選び、今からがんじがらめになってしまう必要はない。
「ほら入るわよ」
「くぅん……」
「可愛い声出してもだめ。ほらチャキチャキ動く!」
 とりあえず、目下のところはいろはの風呂嫌いをどうにかしなくては。冬場は毛が厚くなる分匂いが籠りやすくなるのだから、毎日入る習慣をつけておいた方がいい。
「あぶらがおちちゃうから……」
「そのために入るの」
「しがいせんが、ほら」
「服を着てるでしょう」
「うー……っ」
 渋るいろはを風呂場に追い立てつつ、漏れるのは小さな笑みだ。
 ここまで来るのは大変だった。これまでの苦労をやちよははっきりと覚えているし、きっとこれからも忘れる事はない。今となっては、どれもこれも大切な思い出だ。
「あんなに手がかかったのにねぇ」
「そのはなし、きらい」
「はいはい」

***

 ばっしゃぁん。大きな音と共に、高く、それはもう高く、水しぶきが上がった。
「いぃろぉはぁぁああ……!!」
「うーっ、ぐるる」
「ぐるるじゃない! もう!」
 いろはを引き取ってから、一ヶ月になろうかという頃。二人の転機となる嵐の夜の少し前。三日に一回と定めた風呂の時間に、その事件は起きた。
 いろははどうやら体が濡れるのが嫌いらしい。風呂の時間と知ればそれはそれは凄まじい抵抗をするし、やちよは毎度びしょ濡れになるのだが……まあそれはいい。嫌がる獣に無理矢理人間の都合を押し付けているのだ。多少の仕返しは大目に見よう。
 だが今回の行為は、いくらなんでもやり過ぎだ。
「大体どうして唸るのよ。自分で引っ張ったんでしょう」
 今、やちよはいろはと同じく湯船の中だ。シャンプーが終わった人狼の仔供を湯の中に突っ込み、はーやれやれと背中を向けた瞬間だった。急に腰を掴まれて、気づけば尻から湯船にダイブしていたのだ。
「ヴヴヴヴヴヴ」
「だからどうして唸るのよ!」
 やちよに尻もちをつかせた張本人は、湯船の隅っこで臨戦態勢。自分から引き寄せておいて接近を怒るのは、いくらんでもあんまりではないだろうか。
 大体、尻もちをついたのが湯の中だったからよかったようなものの、これが床なら脊椎を損傷していたかもしれない。もちろんやちよは訓練を積んだハンターで、今回も受け身は取った。けれど一歩間違えれば大事故だ。
「ぐるる」
「いろは! だめ!」
「っ」
 なおも唸る獣相手に、きつく怒鳴ればまん丸の目。今までこんなに大声で怒った事はないから、恐らく驚いたのだろう。すぐにその耳が後ろへ逃げ、唸り声も聞こえなくなる。
「だめ! 急に引っ張ったら危ないの! あと自分からやっておいて唸らない!」
「っ……」
「だめ! わかった!?」
「……」
 びくびく。小さな肩が震えていた。それを見れば少しの罪悪感も湧いたが、これに関しては本当に命に関わる。いくら受け身を取ったとしても、打ちどころが悪ければ人は簡単に死んでしまうのだ。
「だめよ。いいわね?」
 返事はない。けれど人狼は賢い生き物だ。本来は親から様々なルールを学び、それを守って生きていく。
 いろはに親はいない。その代わり、やちよがしっかりとその役目を果たさなくてはいけないのだ。人狼だって三日に一回水浴びをするし、その時同時に泳ぐ訓練もするはずだ。祖父に連れられて人狼を保護している施設を見学した時も、仔供達が次々水に放り込まれていた。やちよはあんなに高く放り投げていない。これでも大分優しいくらいだ。
「まったく……もう私も入っちゃおうかしら」
「……」
 憮然として呟けば、いろはの耳がぴくりと反応した。ちらりと見つめてくる視線がどことなく期待しているような気がして、やちよはやれやれと溜息を吐く。これも親代わりの務めか。
「唸らない。噛まない。引っ掻かない。いい?」
 相変わらず返事はなかった。けれど拒否もしないので、やちよはさっさと服を脱ぎ始める。
 仔供が水中で溺れている間、親はずっと傍にいるのだ。いつでも仔供を助けに行けるよう、臨戦態勢で岸辺に待機している。やちよはいつも風呂場の外からいろはを観察していたが、それでは少し不安だったのだろう。
「っさむ、うう」
 濡れた服を脱ぐと、いろはがしげしげと裸体を眺めてきた。毛が生えていないのが物珍しいのかもしれない。やちよの体を見た後に自分の体を見下ろし、何度も何度も首を傾げている。
 その様を笑いながらさっと頭から体までを清め、完全に冷え切ってしまう前に湯船に沈んだ。
「撫でないの」
「? ?? ????」
 本当に不思議がっている様子だった。投げ出されたやちよの足をおっかなびっくり撫でまわして、それから再度自分の体を見る。それから何故か自分の足も恐る恐る撫でてみて、彼女はひょいと首を傾げた。
「なによ。なんか文句あるの?」
 じー。
 今度は胸だ。まろく柔らかなふくらみをまじまじと眺めては、右に左に首を傾げる。あっちを見てこっちを見て、しばらくうーんと考えて、赤い瞳が不思議そうにやちよを見た。
「うぁ、う、うう?」
「……人間は、子供がいなくても胸が大きくなるの」
 その疑問を正確に受け取って、やちよは小さく苦笑する。
 人狼は雌雄同体だ。いや、どちらかと言うと、両方の可能性を持っている、と評した方がいいかもしれない。一応見た目的な雌雄はあるのだが、どちらも孕むしどちらも種をつける事が出来る。ワー種族は殆どがそうだろうか。人間も望めばサイボーグパーツとしての着脱は可能だが、彼らのそれとは違って科学的な物だ。
 そしてもういくつか大きな違いがあり、その内の一つが……乳房の形。
 野生で生きていく事を前提とした彼らの体には、乳房は余計な物なのだろう。出産をし、子育てをしているメスだけが乳房を持ち、それ以外の個体の胸はまったいらなまま。だからいろははやちよに子供がいると思ったし、それを見かけていない事を疑問に思っているのだ。
「あなたには珍しいかもしれないけど、これが人間のふつ……ちょっと!」
「ぎゃん!」
 わかっているかどうかはともかくとして、とりあえずの説明をしてやっている最中。無遠慮にその手が触れたので、思わず手が出てしまった。ゴツンと頭頂部を殴ると人狼の仔供は悲痛な悲鳴を上げ、慌ててやちよから距離を取る。
「いい? いろは。人間はね、そう簡単に胸を他人に見せないし、触らせないものなの!!」
「ぎゅう、きゅー、きゅーっ!」
「うるさい! 今のは謝らないわよ!!」
 他人に触れさせた事のない場所だ。いくら相手が仔供だとしても、こればかりは許さない。自分の胸を庇って怒鳴れば、いろはは渋々、と言った様子で引き下がった。
 けれど、その代わり。
「こんの……エロガキ!!」
「ぎゃいんっっ!!」
 今度はその手が陰毛に触れたので、やちよは容赦なく足を振り上げたのだった。

***

「やち、やち、やちー」
「ちょ、っと、離して」
「うー!」
 風呂場での事件から数週間。例の夜を乗り越えてから、いろははまるで、人が変わったようにやちよにべったりになっていた。言葉も真剣に学ぶようになって、発音もいくらか上手になってきただろうか。それでもまだまだボディランゲージの方が多いが、感情面はだいぶわかりやすくなっている。
「やちぃ……!」
「トイレだってば……んもう!」
 へばりつく仔供をずるずると引きずりながら、やっとの思いでトイレの前までやってきた。これだけで大した重労働なのに、ここからもうひと悶着あるのだからたまらない。
「いろは、おすわり」
「うん」
「まて」
「んーん」
「んーんじゃないの。まて!」
「うー……」
 簡単なしつけはあっさりと覚えてくれた。けれどそれに従うかどうかは……また別の話だ。やちよの言いつけ通り床に座り込んだ彼女の右手は、白衣をぎゅっと掴んだまま。その手を離して命令をしても、殆ど従ってくれる事はない。
「ふっ!」
「あー! あー!!」
「まてよいろは! まて!」
 だから毎度服を脱ぎ捨ててトイレに駆け込む事になるのだ。
「やちー」
「まだ」
「やちまだ?」
「まだよ」
「……おわた?」
「まだ」
「やちぃ……」
「静かにさせてよ!」
 生理的欲求の発散は、誰かに急かされながらするものではないと思う。少なくともやちよは、個室の中では静かにしていたいタイプだ。
「やちぃぃぃぃ……っ」
「もぉぉぉ」
 だというのに、最近はその静寂を破られてばっかりいる。おかげで三分と便座に腰かけていられない。幸いとやちよは便秘体質ではないが、それにしたってもう少しのんびりしたい。トイレでボーっとしている間に閃きが降って来る事だってあるのだから。
「やちまだ?」
「開けない!!」
「ぎゃんっ!」
 ガチャリ。遠慮なく開かれた扉に、迷いない右ストレートを繰り出した。正確にいろはの額へと拳骨を叩き込み、手が離れた隙に扉を閉める。そのままガチャリと鍵を閉めると、扉の外から悲痛な呻き声が聞こえてきた。
「やちなんで……うううー、なんでぇ……っ!」
「うるさい」
「やちぃぃぃ……っ」
 がりがり。爪が扉を引っ掻いても気にしない。扉の一枚くらい付け替えればいいのだ。もしくはずっとそのままにしておいて、大きくなったいろはを虐めるのに使ってやろう。
「っぐす、うぅ、っひ、やぢぃ……っ」
「っ……泣くしぃ」
 ようやく落ち着いて用を足せる。そう思えたのも一瞬だ。すぐに扉の向こうからしゃくり上げる声が聞こえ、やちよは頭を抱えた。これでは出る物も出やしない。
「やちぃぃぃぃいいいいいいいいぅぅぅぅわぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああ――――――んっっ!!」
「もぉぉぉおおおおおおおお……っ!!」
 結局手短に用事を済ませ、慌ただしく服を直して手を洗う。がちゃりと扉を開ければすぐさま小さな体が飛び込んできて、結局冒頭の体勢に戻る、だ。
「おーもーいー!」
「やち、やちぃぃいぃぃぃ、うぅぅぅぅううううううっ!」
 いろはを右足にくっつけつつ、ほうほうの体で歩いていく。この様子では、しばらく相手をしてやらないと泣き止まないだろう。
「重いってば!」
「ぅぅぅぅううううううっ、ぎゅぅっ、ぎゃうっ! がうあう! ぅぅうううううっ!」
「文句は人語で言いなさい!」
「ぶわ――――――かっっ!!」
「こんの……っ!」
 クソガキめ。口を割って出てきそうになった言葉をすんでのところで呑み込んで、必死にソファまで歩いていく。何を隠そう、いろはの罵倒は全てやちよから覚えたものなのだ。だから最近は汚い言葉を使うのを堪えている。堪えているのだが……。
「ばか! けち! へんたい! ぶわ――――っか!!」
「うるさいクソガキ! あと変態は使い方が違う!」
 どうしても堪え切れていないのが現状だ。やちよだってまだ成人したばかり。十代の小娘なのだから。見た目がアカデミーに入りたてくらいの仔供に罵倒されれば腹も立つだろう。
「そんなに言うなら今日はもう研究室こもるわよ!?」
「やちすきぃ」
「……はぁぁぁ」
 けれどこうだから憎めないのだ。
 泣きミソ狼がもう笑う。涙で濡れた顔のままにこにこと笑い、膝に乗ってくる彼女は可愛かった。
「ちうー」
「……はいはい」
 懐かないと言われる人狼が、ここまでべったりになってくれたのだ。少しくらい得意になってもいいだろう。思いながら小さな唇を受け入れ、ついでにぺろぺろ舐められておく。
 薄く滑らかな感触の舌は、何回触れても心地よかった。

***

 それから数ヶ月後の事だ。これはやちよが纏めた人狼研究の論文の中で、最も評価を受けた部分でもある。事細かに記録をされ、あまつさえ発表までされてしまったいろはには可哀想だが、これのおかげで施設の人狼……特に親無き仔が成人まで生き残る可能性は格段に上がった。
 きっかけは、些細な事だったのだ。
「なにしてるの?」
「かいかい」
 ある日を境に、いろはが不思議な動きをするようになった。カーペットの上に足を広げて座り、手だけで動き回る。お尻を擦り付けてずりずりと移動する姿は犬でもたまに見られる行為で、多くは肛門腺関係の異常が原因だ。
「また腫れてきちゃった?」
「かい、かい、かい」
「ずりずりしない。見せて」
 肉食の獣の肛門には肛門嚢と言われる袋があり、その中に分泌腺……いわゆる臭腺があるのだ。ここに溜まった分泌液はとても強い匂いを持っていて、それがマーキング時役に立つ。有名なのはスカンクだろうか。
 とにかく獣にとっては必要な器官なのだがこれがなかなか厄介な代物で、こと家飼いのペット達とその飼い主は、一生の内一度くらいはこの部分にまつわる異常を経験したりもする。
 例えば炎症。例えば悪臭。あとは純粋な違和感など。症状は個体によって様々だが、犬飼いならば一度は聞いた事がある身体の部位名称ではないだろうか。
「尻尾どけて」
「やぁん」
「やぁんじゃない。ほら力抜いて」
 マーキングのためには必要不可欠な器官。けれど問題を抱えやすい部分。通常は排せつ時の筋肉の緊張で自然と押し出されていく物だが、家飼いの肉食獣は筋肉が少なく、排出が上手くいかない事もある。特にいろはなどは、引き取られてから後やちよの家から一歩も出ていないので、溜まりやすくはなっているだろう。
「んー、とくに臭くはないけど」
「かいかい」
「うーん……」
 普段は隠れているデリケートゾーン。筋肉を極限まで弛緩させてそれらを曝け出し、いろはがもごもごとそう言った。尻尾の付け根を掴んでその部分を覗き込みながら、やちよは素早く脳内検索をかけていく。
 肛門に異常はなし。それ以外、つまり秘部にも炎症などは見られない。となれば、あとは……。
「いろは、採血しましょう」
「えー」
「えーじゃない」
 考えられるのはアレルギーくらいだ。肛門がわずかに腫れているのは乱暴に擦ったせいとも考えられるが、これが擦ったせいではないならば、なんらかのアレルギー反応の可能性が高い。
「ほら、指かして」
「いたい」
「痛くない」
「ちーでたぁ」
「採血だもの。ほら舐めてあげるから」
「んー……」
 人狼は、普通は人間と同じ物が食べられる。だが、遥か昔。もっともっと獣の血が濃かった時は、生態もアレルギーも獣そのものだったそうだ。今でこそ交配が進んで人間に近くなったが、当時は見た目だって獣の方が近いくらいだったらしい。
 そして今でもたまに、獣の血が強く出る者がいる。そうでなくても変異体は体が弱い事が多いので、いろはがアレルギーを持っていてもおかしくないだろう。
「ほらやっぱり。ネギとぶどうが駄目ね」
「うー?」
 案の定だ。改めて彼女の体を調べてみたら、関節の内側に少しの爛れが発見できた。人間に似た見た目をしているが、人間とは違って皮膚の大部分が毛で隠れているのだ。アレルギーは見つけ辛い。
「お薬飲みましょう」
「いや」
「アイス食べていいから」
「ぬわぁ~ぬぬん」
 やちよの言葉に、いろはは人と猫の中間のような声を出した。流れている血は狼のはずなのだが。余程嫌なのだろう。
「あーんしてあげる」
「……んー」
 それでも渋々頷く彼女の頭を撫でて、薬品棚の中から錠剤を取り出す。そして冷凍庫からチョコレートアイス、食器棚からスプーンを用意し、やちよ自身はソファに座った。もどもどと膝に乗ってくるいろはを後ろ向きに抱きかかえて、最初に錠剤を放り込む。
「はいアイス」
「んまんま」
 その後すぐにアイスを入れてやると、いろはは満足げな声を上げた。アイスと一緒に薬も飲みこんで、すぐにぱかりと口が開く。
「食べたら歯磨きよ」
「ん」
「いろはは歯磨き好きだものね」
「ん!」
 ブラシが口内をくすぐる感触が楽しいらしい。引き取ってすぐから、これだけは嫌がらなかった。口を開かせるのには多大なる労力を払ったが、実際に歯を磨き始めれば大人しいもの。それからは歯ブラシを見せれば勝手に口を開けるようになったので、そこだけは楽をさせてもらっている。
「あーん」
「あーん!」
 小さな口にせっせとアイスを運んでやりながら、やちよは少し頬を緩めた。
 少しずつ、ゆっくりと。けれど人間の子供よりは大分早く、出来る事が増えていく。いろはは一日一日と確かに成長を続けていた。
「いい子ね」
「いいこ?」
「うん、いいこ」
「くぅー……っ」
「ん、なによ」
「くぅー、くぅー」
人狼の言葉じゃわからないわよ」
「すき、やちすき」
「ふふ、ええ。私もよ」
「ふふふー」
 甘えたがりの欲しがりだ。アイスを食べさせてもらっているくせにもっと甘えたくて、体をひねっては唇を寄せてくる。
 大きくなってもこうなのだろうか。そうだったらどうやって親離れをさせたらいいのか。考え、チョコレート味の唇を受け入れながら、先の事を想うとどうしても笑いが止まらなかった。

***

「やちよ、みて」
「なに?」
「け、はえた」
「あら」
 二人が一緒に暮らし始めてから、半年以上が経過した頃の事。大分言葉の上手くなったいろはが、すっぽんぽんで駆けてきた。最近は服を着るのも嫌がらなくなったのにどうしたのだろう。そう思って目を丸くし、けれど彼女の言葉ですぐに理由を察する。
「ほんとね」
「ふふーん」
 真っ白で柔らかいおなか、今までは全く毛の生えていなかったその部分に、ちょろりと数本の毛が生え始めていたのだ。まだまだ腹を覆う程ではないが、それでも確かな成長だろう。急所が完全に隠れれば、それは大人になった証拠でもある。
「かっこいい?」
「え? うーん……」
 やちよの感性としては、頭髪と睫毛以外の毛は少ない方がいい。眉毛や陰毛などは全くないのも少し嫌だが、うんざりする程あるよりは少ない方がまだいいだろう。あくまでもやちよは、だけれど。
「かっこよくない?」
「……えー、と」
 そもそも人狼と人間では感性が違う。当然性的嗜好も。けれどそれをそのままいろはに伝えるのは気が引けて、やちよは少し言い淀んだ。
「……きらい?」
「そうじゃないわ」
「じゃあかっこいい?」
「う――――ん……っ」
 難しい質問だった。人狼的には、腹部に毛が生えるというのは格好良さの象徴なのだろう。もしくは大人の象徴。人間が「下の毛も生え揃っていない子供のくせに」という下世話な罵倒を持つように、人狼の世界では「腹の毛も生え揃っていない仔供のくせに」という文言があるのかもしれない。
 とにかくいろはの中では『腹部の毛=格好いい』の図式があるらしいので、それを自分の感性だけで否定するのは心苦しかった。
「かっこいいけど、ちょっとさみしい……かしら」
「さみしい?」
「いろはのおなか、つるつるして気持ち良かったから」
 だから誤魔化すつもりでそう言えば、彼女は難しそうな顔になる。それからてちてちとやちよのすぐ近くまでやってきて、指先で服を掴んだ。
「めくっていい?」
「……いいわよ」
 断るだけマシになっただろう。それに今は理由が理由なので、拒否をしたら可哀想だ。
「やちよ、おなかすべすべ」
「そうね」
「にんげん、け、はえない?」
「んー……、まあ、そうね。あんまりね」
「おすも?」
「生えてる人はいるけど、私はあんまり得意じゃないかな……っあ」
「……」
 しまった。思った時には遅かった。うっかり本音が零れ落ち、慌てて口を押えても後の祭り。案の定いろはは悲しそうな顔をして、止める間もなくぶちぶちと腹毛を毟り始めてしまった。
「ちょちょちょ、ちょっと!」
「いらない」
「でも人狼的にはかっこいいポイントなんでしょ!?」
「やちよきらいならいらない」
「いろは……」
 すっかり抜いてしまった。勢いで他の部分の毛まで毟ろうとする彼女を慌てて押さえ、ゆっくりと視線を合わせる。覗き込んだ赤い瞳はとっぷりと涙に濡れ、今にも溢れそうな程にゆらゆらしていた。
「ねえいろは」
「……ん」
「いろはは私が好き?」
「ん……すき」
「毛が生えてないけど好き?」
「うん」
「そう、ありがとう」
「うん、やちよは?」
「好きよ」
「たくさん?」
「ええ、たくさん」
「け、なくなったら、もっとたくさん、なる?」
「……いろは」
 傷つけてしまった。先程までの喜びが、今は見る影もない。しょんぼりと耳を伏せたいろはは、まるで捨てられた仔犬のような顔をしていた。それを見れば可哀想な事をしたと思い、やちよはじっくりと言葉を噛み砕く。
「いろは、さっきはごめんね。あんまり得意じゃないとか言って」
「んーん。だってやちよは、そうなんでしょ?」
「うん。人間相手ならね」
「……?」
「ねえいろは。いろはは、私に毛が生えてないのは嫌?」
「……んーん」
「私が人狼じゃないのは、嫌?」
「んーん」
「私も同じ。いろははいろはで、私にとっては大好きな人よ」
「! だいすき?」
「ええ、大好き。いろはが人間じゃなくても、毛が生えてても、それが私にとってのいろはなの。言いたい事、わかるかしら?」
「ぜんぶすき?」
「ふふ。ええ、そうね。それだわ。全部好き。私はいろはの全部が好きよ。おなかの毛が格好いいかどうかは私にはわからないけれど、でも、好き」
「うん」
「それでもいい?」
「うん! すきならいい」
「そっか。ありがとう」
「うん。わたしもやちよすき」
「うん」
「だいすき」
「うん、ありがとう」
「うれしい?」
「うれしい」
「じゃあわたしも。うれしい」
 ゆっくり、ゆっくり。何度も問答を繰り返せば。やがていろはは納得してくれたようだった。毟ってしまった毛をじっと眺めて、植毛を試みるので少し笑う。
「また生えて来るわよ」
はえたら、すきっていってくれる?」
「ええ。今度はちゃんとね」
「ん! わたしも、つんつるてんのやちよ、すき」
「ふふ、ふ、そうね、うん。うれしい。ありがとう」
「うん!」
 くっついてくる彼女を何度も何度も撫でて、強請るので唇を寄せた。額に、頬に、鼻に、そして唇に。合わせてぺろりと出て来る舌に舐められながら、改めて二人の違いについて考えてみる。
 人間の寿命が七十年かそこら。人狼は野生なら三十年弱。飼育環境……つまりは十分な医療体制の許で暮らすならば、倍の五十年強は生きられる。やちよが今、十九歳。いろはは生後八ヶ月。生きてきた年数は大分違うけれど、終わる頃は同じくらいだ。
 その頃二人はどうしているだろう。いろははどんな相手と番になるのだろう。死ぬまでに、何人子供を産むのだろう。考えると楽しくて、けれど少しだけ寂しくて、それでも今は、寂しさの理由はわからないまま。
 もう抱き上げるのも難しくなった人狼の仔供を撫でながら、やちよはぼんやり考える。いろはを無事に巣立たせたら、今度こそ自分の役目は終わりだ。その時自分に何が残るだろうか。
(きっとなんにも残らない)
 やちよは相変わらず空っぽのままだ。いつかはそれが埋まるのだろうか。それとも……。
「やちよ?」
「ん?」
「……」
「なによ」
「なんでもない」
 考えても、今はまだ答えなんて出ない。ただいろはの成長は楽しみで、彼女が囁いてくれる好きは愛しくて、触れ合っている瞬間だけは、やちよもとても満たされている。それだけわかれば十分だ。
 そうだ。今はまだ……それだけで、いい。

***

 ごろん、ごろん、ごろん。
「……いろは?」
「はっ」
 久しぶりに見る行為だった。脱衣籠に入らなかったやちよの服の上で、裸のいろはがのたうち回っている。
「大きくなってからだと何とも言えないわね、それ」
「……ごめんなさい」
「別に怒っているわけじゃないけど……」
 渋る彼女を脅して風呂の準備をし、さあ入るかというところだった。二人そろって服を脱ぎ、髪留めを解くいろはを横目に浴室に入る。そのまま髪を洗い、顔を洗い、体を洗おうとしたところで首を傾げた。何故って、いろはがいつまで経っても入ってこないからだ。
 訝しんで浴室のドアを開け、そこで久しぶりの光景を目の当たりにした。
「もしかして、ずっと我慢してた?」
「……うん」
「そう……」
 匂いつけだ。マーキングとは違って、これは匂いを纏う行為。好ましい匂い、もしくは意中の相手の匂いを体に纏うそれは、安心や主張のために行われる。好ましい匂いを纏うのは、まあ香水を纏うのと似たような物だ。けれどいろはの匂いつけは、どちらかと言うと後者の意味合いが強いだろう。
 彼女は主張したくて仕方ないのだ。やちよが自分の番であると。
「……早く入りなさい」
「……はい」
 初めてその行為を見たのは、あの夜を越えて少しした頃だった。ベッドに潜り込んでくるようになったいろはとの今後を考え、新しく大きめの寝具を買ってすぐ。せっかくだからと古い寝具も一新しようと、捨てる物を全部床に広げた時の事だ。
 ゴミ袋を取りに少し席を外し、戻ってきたらいろはが古い寝具の上でのたうち回っていた。
 ごろん、ごろん、ごろん。ずりずり。
 必死になって寝具に体を擦り付け、自分の匂いを嗅いでからまた飛び込む。ひとしきりその場でのたうちまわったら今度はふんふん鼻を鳴らし、一番強くやちよの匂いがする場所を探しては、ずっと同じ行為を繰り返していた。
 その時すぐに匂いつけと察しはしたが、まさか番の主張とは思うまい。それからも何度かその行為を見かけはしたが、やちよは基本的に微笑ましく眺めているだけだった。
「ねえいろは」
「ごめんなさい……」
「だから怒ってないってば」
 祖父母が纏めた資料から、その行為の意味については十分学んだ。本能的な物で、理性でどうこう出来るわけではない事も知っている。彼女がやちよを番だと思ってしまった原因は他でもないやちよ自身の行為と言動のせいだし、その点に関しては怒る資格もないだろう。
 やちよだって今すぐいろはの想いを断るつもりはないのだ。まだ教えたい事もあるし、人に慣れた人狼の研究だって終わっていない。だから今すぐ離れるのは惜しい。
「私じゃダメなの?」
「へ?」
 求愛行動については、最近はもう諦めつつある。番としてのスキンシップもすっかり慣れきってしまって、最近は避ける気にもならない事が増えていた。
「匂いつけって、私そのものじゃダメなのかなーって」
「し、してもいいの?」
「ああなんだ。いいのね?」
「それは……もちろん。でもあの、いいの?」
「いいわよ。私としては、持ち物で発散される方が嫌だわ」
「……わかった」
 いろははもうすぐ二歳だ。人狼としての成熟期。腹部の毛もすっかり生え揃って、体だって大分大きくなった。もうやちよが歯を磨いてやる事もないし、薬だって飲める。異常があれば口で説明できるようになったし、必要であれば一人で病院にだって行けるのだ。初めての発情期だって、この冬には来るだろう。
 もうすぐ二人は別れる事になる。
「だきしめていい?」
「今?」
「うん」
「後じゃダメなの?」
「……今がいい」
「……はいはい」
 いろはが成熟したら、やちよは彼女を手放す気でいた。施設で人語を話せる者に引き合わせ、ゆくゆくは二人揃って住民登録をさせる。人狼として初めて街で家庭を持ち、そして……。
「やちよ……すき」
「……そう」
 彼女は死ぬまでに、何人仔供を産むだろう。人狼の仔供は、生まれた時は獣の姿だ。故に妊娠期間も二ヶ月ちょっと。食う物に困らなければ沢山仔供を産むだろう。二年おきに産むならば、相当な数になる。
「……やちよ?」
「なぁに?」
「……なんでもない」
「なによ、変な子ね」
「……うん」
 彼女の仔供を野生に帰そうと思っていたが、いろはが嫌がるなら無理強いはしない。ここ一年余りで世情も大きく動いているのだ。本当にもう少しで、亜人たちの権利が確立されるかもしれない。そうしたら世界に働きかけて、家や仕事の問題にも取り組んでいかなくては。
(あと、どれくらい……)
 彼女と離れたくない。そう思う自分には気付かないふりで、獣の腕に体を預ける。湯でしっとりとした彼女は温かく、引き寄せる力はどこまでも優しいままだ。
「……っくぅー」
「……なに?」
「くぅー、くぅー?」
「ふふ、なによ。人狼の言葉じゃわからないわ」
「……好きだよ」
「……そう」
 祈る様な声には、返事を出来ないまま。生温い水の中で寄り添っている。
 この時間が永遠に続けばいいのに。そう思ったのは、きっとどちらも同じだった。自覚の有無だけは……別だったけれど。

***

 夢を見た。今は亡き母が、自分に向かって手を伸ばしてくれる夢。そっと、優しげに微笑んで、温かい手のひらが伸ばされる。頭を撫でられる準備に耳を倒して、いろははきゅっと目を閉じた。全身で甘える準備をして、なのにいつまで経っても優しい母の手が触れる事はない。
 不思議に思って目を開けた瞬間、雷鳴が鳴り響いた。暗い森の中、それでも光が少女を照らし、足元に広がる惨状までもを浮かび上がらせる。
 血の匂い、肉の匂い、母の匂い、父の匂い。群れの死体。ごろりと転がった生首。ころり、ころり。
 足に当たったそれを持ち上げ、手の中で転がしてみる。後頭部から、ゆっくりゆっくり、正面へ。普段は髪に隠れた耳が見え、やがてこめかみが見え、頬が見え、ついに鼻が見えた。深い色をした瞳は光を失い、それでもじっといろはを見つめている。
「っ……」
 無念を訴えるような眼差しに涙を湛え、整った顔立ちはぬかるんだ土で汚れていた。
「や、ち……」
 いつも触れる唇に、べっとりと血の痕跡。何度も触れた頬に、涙の跡。温かさを与えてくれた肌までひんやりと冷え切って、肌触りは冷たいゴムのようだ。それをころりと転がして、何度も何度も鼻先でついて、必死に頬を擦り付けて。そしていろはは、ほろほろ泣く。もはや物言わぬ肉片となってしまった彼女を抱いて、あの時と同じようにぶるぶる震えた。喉の奥から勝手に絶叫が漏れ出して、雷のように空間を震わせる。
 ああ、ああ、それは。ころりと小さくなってしまった、物言わぬ屍は。いろはが愛してやまない、たった一人。命よりも大切な、やちよの……生首だった。
「っああぁぁぁぁあああああああああ!!」
「いろは!!」
 パン。
 高い音と共に、意識が覚醒する。はっと目を見開いてから眩しさに瞼を下ろし、もう一度、今度は恐々目を開いた。上手く動かない体に鞭打ってなんとか視線を巡らせれば、必死の形相をしたやちよが視界に入る。涙で濁る目許に彼女の指が触れれば、深い色をした瞳が覗き込んでくるところだった。
「いろは……ああよかった。うなされていたのに全然目を覚まさないから」
 心配したのよ。
 そう言って笑う彼女は、心底からほっとした様子だ。そっと優しい手を伸ばしては、いろはの頬を伝う幾筋もの涙を拭ってくれる。頬に触れる手は温かく、血の通った者特有の柔らかさを持っていた。
「っくぅー……」
 ああ、生きている。その実感が頭の隅々まで行き渡れば、いろははもっと泣けてしまった。やちよが生きて、自分に触れてくれる。それだけで後から後から涙があふれ、一向に止まりそうな気配がなかった。
「どうしたの、いろは」
 必死に起こそうとしたのだろう。もしかしたら、何度も何度も体を揺さぶったのかもしれない。仰向けのいろはに覆い被さる形で、やちよの唇が頬に触れた。一瞬迷うような気配がないでもなかったが、今はいろはの安心を優先したのだろう。躊躇いがちに唇と唇が触れ、ちろりと軽く舌を出す。その先端だけで薄い肌を舐めながら、長い睫毛が震えていた。
 番同士のスキンシップ。絆を深めるための行為。意味を知る前は何かと彼女の唇が頬に触れたが、理解を深めてからは、精々避けない程度だったのに。
「……っ」
 やちよから舐めてくれたのは初めてだ。それに気付けば感動して、こめかみの辺りがぴくりと震える。人狼のそれとは違いぬるりと唾液を纏った舌の感触は生々しく、体温の存在を強く感じた。ちろり、ちろり。その触れ方は、いろはがいつも彼女にするものだ。求める動き、ねだる動き。
(やちよは、知らない)
 わかっていながら、それでも心臓がどくどくと駆け足の鼓動を刻む。たとえまやかしでも、無知ゆえの行為でも。それでも構わない。束の間の幻想でしかなかったとしても、いろはは今、確かにやちよに求められている。
「ん、ぁ……っ」
 応えるつもりで舌を出せば、思わずといったように甘い声が上がった。初めて聞くやちよの嬌声はしっとりとして艶があり、いろはは思わず身震いする。全身の毛穴が開くのを感じれば堪え切れずに、手が勝手に彼女の体を抱き寄せていた。
「やちよ……」
「っおしまい!」
「ぶっ」
 けれど、そこまで。細い腰に腕を回したところで、やちよに顔を押し退けられてしまう。せっかくいい雰囲気だったのに。
「やちよぉ……やちよ?」
「っなによ」
 不満に思いつつ指の隙間から彼女を見て、いろははぱちくりと目を瞬かせる。何故って、いまだいろはに馬乗りのままの彼女が、顔どころか首まで真っ赤だったからだ。
(もしかして……知ってる?)
 やちよの祖父母が遺した論文は難解すぎて、いろはにはまだ読めない。けれど彼女が何かとそれを捲っては、難しい顔をしていたのは知っている。本能からくるいろはの行為も資料と睨めっこする事で理解していったようだし、もしかしたらこの行為の意味も知っているのかもしれない。
「やちよ、もっと」
「っだめ!」
「なんで? もっとしてほしい」
「だめったらだめ!」
 本人は必死に怒った顔を作ってはいるが、瞳が潤みきっているので怖さは半減だ。酷く気分がいい。
「やちよ……」
「っ、いろ、は……っ」
 その表情ににこりと笑い返し、いろははゆっくりと体を起こす。やちよを抱き寄せつつ細い首筋に顔を埋めれば、腕の中、華奢な体がびくりと震えた。その腕が必死に抵抗を示すが、人間の力など人狼にとっては大した物ではない。捻じ伏せるだけならもっと幼い頃でも出来ただろう。事実、引き留めるためにやちよの腰を引いただけで、湯船に尻もちをつかせてしまった事がある。
(いいにおい)
 甘い匂いだ。いろはが渇望してやまないやちよは、いつも甘い香りを纏っている。優しく、温かく、心が満たされる匂い。
(いきてる)
 ぎゅっと抱きしめれば、とくとくと駆け足の音がした。いろはに触れている間、やちよはいつもこんな音。今まではもっとゆっくりとした響きだったが、ここ最近はずっとこんな調子だ。あんまり触れすぎると泣き出すから、いろはもずーっと遠慮していた。
「やちよ、すき」
「……」
「すきだよ」
 けれど、今だけ。悪夢を見た今日だけは、彼女にこうして触れていたい。生きているのだと実感したい。
「やちよ、やちよ。……やちよ」
「……」
 彼女は何も答えなかった。ただとくとくと駆け足のリズムを刻み、一つ溜息を吐いただけ。抵抗する腕がゆっくりと背中に回れば、いろははもっともっと嬉しくなる。やちよに触れてもらうのは心地いい。どこまでも満たされる感覚があって、そしてとても安心するのだ。
「やちよがほしい」
「っ」
「わたしをえらんで、おねがい」
「い、ろは」
「おねがい」
 彼女を失いたくないと、強く思った。母のように、父のように、仲間達のように。もしやちよまで失う事があるならば、いろははもう生きていたくない。命だけの話ではなく存在そのものをずーっと傍に置いておきたい。例え命があったとしても、別々に生きていくなんて絶対に嫌だ。番は一つでいなければ。
「やちよもわたしが好きでしょう?」
「っ……しらない」
「やちよ」
「っ知らない! 知らないの! 恋も愛も……しらない……っ!」
「……」
「触れないように、生きてきたの。もう何も失いたくなかったから、これ以上痛い思いはしたくなかったから……っ。だから何も持たずに……っ生きて、きたの」
「……やちよ」
「おねがい、考える時間をちょうだい。そうやって追い立てるのは、やめて」
「やちよ」
「ゆるしていろは……私はあなたみたいに、なれない」
 初めて、彼女の本心を知った。こんなにも弱い人間なのだと知った。いろはを奮い立たせ、守り、ここまで導いてくれた彼女は、こんなにも空っぽだったのだと理解した。いろはを愛で満たしてくれた彼女は、こんなにも寂しい子供なのだと……知る事が出来た。
「ゆるさない。やめない」
「っ、ちょ、っと」
「やちよ、言った。みじめにはいつくばるのはやめろって」
「っ……」
「人間、ごうまんって言った。わたしに人間になれって言った」
「そ、うだけど。今の話と関係……」
「ある」
「ええ?」
「わたし、人間になる。やちよと生きていく。人狼なのはどうしようもない、けど。人間として、やちよと生きてく。番になる。でも、ふーふにもなる」
「……えっ」
 彼女がいろはのために割いてくれた時間は、間違いなく愛情の時間だ。いろはが求める愛とはまた種類がちがったけれど、それでも確かに愛の時間だった。番だとか恋人だとか、そういう難しい話を抜きにしても、二人はずっと絆を深め合いながら時を過ごしてきたのだ。
 その時間が、嘘だなんて誰にも言わせない。
「ちゃんと、プロポーズ。人間として、する」
「……」
「人間、あきらめない、知ってるよ。だからわたしも、あきらめない。やちよがすなおになるまで、何どでもこくはく、する」
「っ……」
「一生ぜんぶ、やちよにつかう」
 ドォン。雷が響いたような、衝撃だった。揺さぶられるようだ。いや、事実激しく揺さぶられた。まるで全てを飛び越えたような答えはあまりにも強引であり、けれど溢れかえる程の巧みな言葉よりも、余程強く心に響く。あの時の雷にも似て、けれど驚くほどに柔らかな一言。激しいのに、どこまでも優しい。
 彼女は言ってくれたのだ。ずっと傍にいてくれると。そして同時に告げてくれた。いつまでも待っていると。
 ネガティブで臆病で考え込む癖のあるやちよを理解して、それでもなお、誓ってくれた。生涯やちよだけを好きでいると。
「……っいろは」
「うん。大丈夫。人狼、人間、ちがう。やちよはやちよ。わかってる。毛が生えてなくても、わるいおんなでも、やちよが好き。ぜんぶ好き」
「っうー」
「泣き虫なとこも、ぜーんぶ」
 こんなに優しい人がいていいのだろうか。こんなに尊い人がいていいのだろうか。やちよは本気でそう思った。思い、想い、そして考える。
 恋とはなんだろう。愛とはなんだろう。番とは、夫婦とは……なんだろう。
「でんわ、なってる」
「ぐす……もう、なによ。まだ六時前よ?」
「泣いてるのはずかしくても、八つ当たりしたらだめだよ?」
「うるさい」
 思考がまとまらない。なんだか色んな感情でぐちゃぐちゃだ。それでも今は涙を拭い、言われるままに携帯を掴む。
 そうだ。のんびりでいい。いろはは待ってくれると言ったのだ。彼女が約束を違える事はないだろうから、やちよものんびり考えてみよう。
「もしもし、十七夜?」
『七海、見つかった』
「え?」
『いろはの群れだ』
「――……え?」
 晴天の、霹靂。
 今日はつくづく、雷に縁のある日になるらしい。方向性のまるで違う衝撃を受けながら、やちよはゆっくりといろはを見る。彼女の耳はとても良いのだ。通話の内容など、きっと全て聞こえているだろう。
 事実彼女は、目を見開いて全身の毛を逆立てている状態だった。
 ――ああ、来るべき時が……来たのだ。

***

「高みの見物か」
 吐き捨てるような十七夜の言葉が、嫌にやちよの心をざわつかせた。密猟者との面会はこれが初めてではないというのに、手のひらにはじっとりと汗をかいている。その理由は考えるまでもないくらいに明白で、既に口の中はカラカラだ。
「いろは、大丈夫か」
「……はい」
 面会室に入ってから、既に数十分が経過している。落ち着きなく耳を動かすいろはを気遣って、十七夜が優しい声を出した。それにぎこちない返事をするいろはは硬い表情だが、十七夜相手に敵意を剥き出しにする事はない。
 いろはのその後を気にして、十七夜はちょくちょくやちよの家に遊びに来ていたのだ。その度山程のお菓子を抱えてくるので、いろはも彼女には懐いている。やちよとはまた違った気安さで、小さい頃は抱っこくらいなら許していた。いろはが大きくなる頃には彼女の階級が上がっていたので最近はあまり顔を合わせていないが、人の一年など大した事はない。いろはから見る十七夜は、何も変わらない、優しいお姉さんのままだった。
「ボスも見に来るなんて聞いてないわ」
「余程血を見たいらしい」
「やめて」
「む……すまない」
 人権団体のお偉方、この国のトップ。外国の大使。そして研究施設のお歴々に、密猟者ハンターのトップ。まさしく揃い踏みだ。メディアが呼ばれていないだけ、いくらかマシなくらいだろう。高い位置にある監視室に集まった面々をちらりと見て、やちよは小さく溜息を吐いた。セクハラオヤジも普段とは違って真剣な眼差しをしており、それも妙に落ち着かない。
 大勢の人間に囲まれる事に慣れていないいろはは、この状況だけで既に興奮状態だった。せわしなく動き続ける耳と、少しだけ内側に巻いた尻尾。しきりに手を組み合わせる姿は叱られる前の仔供にも似て、それを見ればやちよも不安になった。
「いろは、聞いて」
「っ……うん」
「私は今日、あなたに銃を向けなければいけないかもしれない」
「うん……」
 ここに来るまで、何度も話した事だ。ここに来てからも、十七夜がもう一度説明している。
 やちよが今回同席をしているのは、いろはの安心のためでも何でもない。二人の内の一人に十七夜が選ばれたのも、偶然などではない。二人は、もしもの時の責任を取るためにここにいるのだ。
「私はあなたを撃ちたくない」
「うん、知ってる。やちよ、ずっと泣きそうなかお」
「……ええ」
「ごめんね、こんな役、させて」
「謝るないろは。お前は……君は、何も悪くない」
「……うん」
 いろはを引き取ると言ったのはやちよだ。それを上に伝えたのは十七夜だ。だからもしいろはが暴走した時は、責任を持って彼女を殺せと言っている。今回の人選は、そういう事だ。
 今はかけられた暗幕の向こう。被告人はもういるのだろうか。それともまだいないのだろうか。ここは普段の面会室とは明らかに違うので、やちよにも状況はわからない。
「いろは、私……」
「……ん?」
「私……」
『容疑者、入ります』
「っ」
 伝えたかった言葉はなんだろう。それでも今、確かに何かを伝えたくなって、けれど時間はあまりに優しくない。いろはのように一生を約束してくれる事もなければ、そのいろはすら、一生傍にいてくれるとは限らないのだ。
 二人は静かに、ホルスターの留め金を外した。
「っなに、これ……」
「糞野郎どもが……」
 暗幕が外れた時、最初に目に入ってきたのは円柱状のケースだった。帽子入れくらいの大きさのそれは並々とした液体で満たされ、その中に、赤い瞳を持つ生首が入っている。
「っひゅ」
 鋭く、息を呑む音が聞こえた。その音にいろはを見て、そこでやちよは眉根を寄せる。ずらりと並べられた生首を見つめるいろはは、既に極限の緊張状態にまで上り詰めていた。
『んー? あー? へーえ、あの時の俺、こぉんな上玉見逃してたんだ。もーったいねー』
 その、向こう。悠然と席に着いたのは、意外にもひょろりとした優男だ。身なりも良く、高い服に着られている様子もない。口調は洗練された物とは言い難いが、優雅な仕草は文句なしに様になっている。
 だが、性根が完璧に歪んでいるようだ。一見すると優し気な瞳で値踏みするようにいろはを眺め、喉の奥で笑う姿は醜悪そのものだった。
『こんにちは、お嬢さん。俺があんたの仇だよ』
「っ、ふー、ふーっ」
『覚えてる? 覚えてるみたいだね? 今すぐ引き裂いてやりたいって顔してる。いいねぇ~。俺、そういう顔だーいすき。その顔が蝋人形みたいな無表情になる瞬間はもぉーっと好きだけどぉ』
「ぐ、る、ぐるる……っ」
『悔しい? 悔しいよねぇ? 可哀想に。やっと見つけた仇はどっかのぼんぼんで、檻の中にいるのに高い服を着たまんま。君のご想像通り、好待遇を受けてるよぉ? もしかしたら無罪放免かもねぇ?』
 わざと挑発的な事を言って、ニヤニヤ笑う姿は悪魔のようだ。わざとガラスギリギリまで顔を近づけ、いろはに向かってふーと息を吹きかける。相手がこちらに手を出せないと思って調子に乗っているのだろう。
 だって、面会室は分厚い防弾ガラスで隔てられているのだから。
(……弱い)
 けれど今、犯人が安全だと思っているのは一部の者だけだろう。やちよも十七夜も、この程度の厚さでは足りないと思った。このガラスは銃を防ぎはしても、爆発を防いではくれない。
(三回、いえ、二回)
 人間にとっては十分すぎるくらいの防壁に見える。事実口径の大きな銃弾は弾くだろう。けれどワー種族の力はそれ以上だ。人間なら片手で殺せる。本気を出せば巨木すら砕き、全力の連打は戦車の正面装甲すら凹ませるのだ。いろはは雌なので雄ほどの力は持っていないだろうが、それでもやろうと思えば、これくらいのガラスはきっと砕ける。
(……試されてる)
 今、この瞬間。高みの見物を決め込んでいるお偉方に。
 人狼は本来、人間に懐かないものだ。人の力を認めはしても、服従する事は決してない。どれ程慣れた相手でも、群れの一員でなければ意味が無いのだ。つい昨日まで腹を見せて挨拶してきたのに、翌日空腹であれば噛み殺す。そんな種族だ。
 狼は絆を尊ぶ。けれどそれは、仲間と認めた相手だけ。他者には決して情など向けない。敵に対してならば、容赦をする気すらないだろう。本来は。
(なんて低俗な……)
 いろはに人権を与えてもいいか。それを、よりにもよって今。この瞬間に試そうとしているのだ。憎くて仕方ない仇と引き合わせ、その供述を聞かせ、しかも、目の前に仲間の生首を並べて。
「は、はっ、は……っ」
 既にいろはの呼吸は乱れていた。茫洋と目を見開いた家族の首を前に、耳の先から尻尾の先端まで、全身の被毛が逆立っている。薄い唇がめくれ上がり、細い喉からは、ひっきりなしにぐるると低い音がしていた。
 怒っている。当然だ。
『何か喋ったら? その服はお飾りかい? 今の君はまるっきり獣だけど』
「うるさい……っ」
『おーお、喋った喋った。ぎゃはは! しゃーべった! 馬鹿みてぇ! 挑発に乗って喋りやがったこいつ! 最高だなぁ!?』
 ばん、ばん。ガラスを叩き、男が笑う。手錠をされた手で容器の一つを抱え込み、するりと愛し気に頬を寄せる姿。それにいろはの体が大きく震えた。
「おいお前! 止めろ! 何してる!」
 十七夜の怒声に、刑務官は何故だがちらりと監視室を見た。お偉方に傍観しろとでも言われていたのだろうか。訝しんだやちよが彼らを見れば、人権団体の人間が既に怒り狂っている。監視室の音はこちらには聞こえないが、国のトップの胸倉を掴み、警護の物に羽交い絞めにされていた。
『げほっ、あなたが掴みかかってこなければとっくに声を上げていた! あー、ごほん。すまない。刑務官は何をしている! 我が国は犯罪者にそこまでの自由を許可しているのか!!』
 マイクを通して聞こえてきた声は、轟々たるものだった。外国の大使も相当怒っているらしく、色々な言語での罵倒が響き渡って首相の声が酷く聞きにくい。けれど確かに響いた怒声に刑務官がびくりと震え、男を椅子に引き戻す。
 それに男は素直に従いはしたが、相変わらず挑発をやめる気はないようだった。
『なあ、綺麗だろう? この子達に囲まれて眠るんだ。そうするととぉーってもいい夢が見られる。俺の可愛い生首ちゃんさ』
「……こ」
『なーんだい? ちっちゃいお声じゃ聞こえないよぉ?』
「わたしのりょうしんは、どこ」
『あれぇ? ここにいない?』
「とぼけるなっ!!」
『っぅお』
 まさしく、ガラスを震わせる程の怒声だった。ビリビリと空間を震わせる音に監視室の面々もぴたりと黙り込み、やちよと十七夜はそろって腰の銃に手を伸ばす。再三、再三述べよう。今から引き抜く銃は、男の眉間を撃ち抜くための物ではない。いろはを射殺するための物だ。
(こらえていろは、おねがい……っ)
 どれ程力が強くとも、体の構造は人と同じ。皮膚が人よりいくら厚くても、その拳が銃より強い凶器でも、それでもその体が銃を弾く事はない。やちよが放った鉛玉は彼女の頭蓋骨を砕き、脳を抉り、脳髄をまき散らかしながら反対側に抜けるのだろう。
(おねがいいろは……っ)
 出来ることなら、やちよがいろはの代わりに男を殺してやりたかった。今すぐその眉間に銃を突き付け、躊躇う事無く引き金を引きたい。けれどそれは許されないのだ。高慢な人間が決めた、煩わしい法律のせいで。
「……いろは?」
 人を傷付けるならば、殺さなくてはならない。例えどれ程いろはに同情しても、この男が殺されて当然の罪を犯した者でも、法律がある限り傷つける事は許されない。男を裁くのは司法機関の仕事で、いろはが出来るのは彼を告発する事までで、生殺与奪を握る権利はないのだ。どれ程辛く苦しくとも、それがルール。力を持てば持つだけ、科せられる拘束も重い物になる。
 いろはは試されているのだ。そしてやちよも。人に慣れない獣人達が、人間側のルールに従うのか。そしてまた、人が彼らにルールを教える事が出来るのかを。
「いろは……っ」
 出来る事ならこれを使いたくない。思いながら銃を構え、安全装置をカチリと外す。震える指は、まだ引き金にはかからない。まだ、まだ大丈夫の、はず。
「いろは」
 耳がこちらを向いている。必死にやちよの声を聞いている。まだ全てを怒りに支配されてはいない。まだ彼女の中の理性は生きている。
「……っいろは。ねえ、いろは?」
 びくり、びくり。彼女の全身が震えていた。握り締めた拳から血が滴っていた。尖った爪が手のひらを破り、鋭い牙が唇を破り、痛みが彼女を留めている。自らの力で自らを傷つけて、いろはは怒りを必死に堪えている。
 人として生きたい。やちよと共に生きたい。そう言った通りに、彼女は理性を纏っているのだ。震えるいろはが、やちよのいろはが、今にも漏れ出しそうな野生を押さえ込んでいる。
『はは、は。頑張るなぁ。凄いなぁ。いいや、そこまで頑張ったんだし教えてあげる』
 そんな彼女を見て、男が笑った。狂気に満ちた表情でにぃっと唇を歪め、その唇から零れ落ちたのは信じられない言葉。
『司法取引したんだ』
 ざわり。傍観者達のざわめく気配。そして拭いようもない焦りの気配。それは男の言葉が真実である、何よりもの証拠だった。
『君に人権をやりたくないんだって。いや、どっちかって言うと、芋づる式に自分の罪を暴かれるのが嫌なのかな? だから俺に挑発させて、本性を引きずり出して、それで射殺するつもりだったんだよね。でも君はよぉく頑張った。俺にはこれ以上無理そうだし、自分だけ高みの見物も腹立つしさ。あとはご自分の力でやってもらおうじゃないの』
『そいつを黙らせろ!』
 男の言葉に声を荒げたのは、やちよと十七夜の上司だった。つまり……密猟者ハンターの統括。密猟者と戦う組織の、トップ。
『ははは、馬鹿だなぁ。そんな事言ったら、自分で吐いたような物なのに。ほぉらいろはちゃん。見てごらん? 君の両親が何処にいるか教えてあげる。今マイクの前に立ってる、綺麗なバッジをたぁくさん着けた奴のところさぁ』
 いい金になったよぉ。
 男の言葉に、いろはの顔から表情が消えた。ざわり、ざわりと髪の毛までもが重力を失い、瞳孔が開き切る。ゆっくりと振り返ったいろはに、もう表情は無かった。カッと見開かれた目は爛々と輝き、完全に理性を失っている。
「止まりなさいいろはっ!!」
 これが最後の警告だ。十七夜はもう、引き金に指を掛けている。いろはが少しでも動いたら、彼女は容赦なく引き金を引くだろう。やちよがそれを出来ないと解っているからこそ、彼女がやってくれる。彼女はきっと、いろはを殺す。やちよの代わりに。
「いろは、いろは、いろは……っ」
 それを察して必死に声をかけると、彼女の耳がピクリと震えた。慣れ親しんだやちよの声に、彼女が絶対の信頼を寄せる番の声に。今となってはたった一人となってしまった彼女の群れ、その仲間であるやちよの声に、焼き切れそうな理性が反応を返す。
(っなにか……!)
 何か、あと一つ、あと一つでいい。あと少し。あとほんの少しの衝撃があれば、彼女はきっと戻ってこられる。今にも飛び出していきそうで、それでもギリギリの位置で踏みとどまっている彼女に、何か一つ。
「早く連れて行け!! 無実の少女を人殺しにしたいのか!」
『わかっているが、くそっ暴れるな!』
「一対一で敵うか! そいつは対人戦のプロだぞ愚か者!! 全員でかかれ!!」
 十七夜が必死に怒鳴っている。マイクの向こうで多くの悲鳴が聞こえる。状況は大混乱だ。
「いろは……っおねがいよ……!」
 それでもやちよは、いろはだけを見ていた。目を逸らす事なんて出来なかった。もしも今彼女の命が散っていくならば、やちよはそれを見届ける義務がある。彼女を人の世界に連れてきたのはやちよなのだ。それが彼女を殺すなら、やちよはその最期を見届けなければいけない。
(そうしたら……それから、どうするの)
 自分自身に問いかけて、やちよは嗚咽を噛み殺す。いろはが死んだら、後を追おう。彼女を一人で逝かせはしない。やちよも一人、残りたくない。喪いたくないのだ。もう二度。やちよは四人も喪った。これ以上家族が死ぬのは嫌だ。一人遺されるのは嫌だ。いろはまで喪ったら、自分は、もう。
「……ああ」
 そこまで考えて、ようやく気づいた。やちよにとって、いろははもう家族なのだ。恋人だとか求愛だとか、夫婦だとか番だとか、難しい事ばかり考えていたからわからなかった。本能に尋ねようとしなかったから気付けなかった。
 いろはは、家族だ。二人は、群れだ。
 もうずっと、ずーっと前から、二人はとっくに番だった。
「――……っくぅー」
「っ……」
 胸が熱い。顔も熱い。涙が勝手に零れ落ちて、視界が揺らぐのが鬱陶しかった。ぐすり。鼻をすすり、乱暴に目を擦る。
「くぅー……?」
 万感の想いを込めて小さく、そして再度高く鳴いてみれば、いろはの肩がびくりと跳ねた。張り詰めていた気配がプツリと途切れ、耳どころかその両目がやちよに向けられる。
「……あってる?」
「……」
「ねえ、いろは。……あってる?」
「っ……!」
 それは、何度も何度も聞いた音だった。飽きる程、耳にタコが出来るほど、こうして再現出来る程に、毎日聞いてきた音だった。いろはが何度も囁いてくれた、音だった。
 ああ、これは求愛の音だ。愛を囁く音。高く掠れて甘えたそれは、誰かに恋焦がれる者だけが出せる、世界で一番愛しい音だ。
「……返事は?」
「っくぅー……」
「……うん」
「やち……」
「うん」
「っ……んと?」
「本当。今度こそ本当よ、いろは」
 引き金から指を退けた。安全装置をかけ直した。そして彼女を傷つけるための武器なんて捨てて、ただ両腕を広げてみせる。
「愛してるわ、いろは」
「っ……」
 いろははもう、迷わなかった。未だ銃口が向けられる中、その体が敵ではなくやちよに向き、躊躇う事無く歩み出す。
「っくぅー……っ!」
「っ、くぅー……」
「くぅー、くぅーっ、くぅー……っ!」
「…………くぅー」
 抱きしめられれば、胸が詰まった。物理的にも精神的にも苦しくて、涙がほろほろ零れてくる。そんなやちよの耳元で、いろはが高い声で何度も何度も愛を鳴いた。首筋にぐりぐりと頭を擦り付け、ぶんぶんぶんぶん尻尾を振って、やちよだけの獣は高く鳴いた。やちよの生涯になるいろはが泣いた。
「……くぅー」
 その耳元でおんなじように愛を鳴いて、やちよもギュッと彼女を抱きしめる。ああ、愛しさに溺れそうだ。やっと気付いた感情は、当たり前のようにやちよを包む。ずっと傍にあった温もりは、今も変わらずここにある。
 やちよの番は温かい。優しくて、温かくて、涙が出る程愛しくて、ただ……そう、ただただ、太陽の優しい匂いがした。

***

「さて」
 簡素な長机の向こう。たった数ヶ月ですっかりやつれてしまったかつての上司を見下ろして、やちよは艶然と髪を掻き上げる。彼の後ろにいる十七夜は銃の安全装置を弄び、カチリ、カチリという音がやけにうるさい。
「あなたのお友達は、終身刑が決まったみたいですね」
「っ……」
「それも重終身刑。地下の独房で今後一生陽の光を見る事もなく、機械に世話をされて生きていく」
 これでも随分温情のある措置だ。本来ならば密猟者は死刑。そして亜人の死体をコレクションした者も死刑なのだから。
「まあ、どちらが優しいかは個人の判断によるがな」
「……それもそうね。光も音もない世界で生きるなんて、数日で気が狂いそう」
 確実な証拠が揃い、なおかつ残虐性が高い者のみが受ける刑だ。この二人は今までずっと金と権力で逃れ続けてきたらしく、今回全ての罪を暴かれて実刑が確定した。外国の大使まで見に来ていれば、国の威信をかけて厳正なる裁判を行わざるを得ない。
「許して、許してくれ……! 私には妻子もいる……! 末の子なんてまだ五歳で……っ」
「いろはは生後一ヶ月だったわ」
「っ……」
 聞けば部下が人狼を手懐けたと、あちらこちらで自分の手柄のように吹聴したらしい。それがお偉方の耳に入り、随分褒められてもいたようだ。けれどそのせいで、今回外国の大使達が観覧するのを止められなかった。困った彼は刑務官と犯人に袖の下を渡し、首を並べていろはの暴走を誘おうとする。けれど肝心の両親の首がなかった事でいろははどこか冷静さを留めたまま。結局はそれが原因で自分の罪まで白日の下に曝してしまったというわけだ。
 どこまでも自業自得な男だと思う。
「いろははあの時、まだ生まれて一ヶ月だった」
「う……」
「たったひと月しか、家族と一緒に居られなかったの」
「……」
「あなたはいろはの目を見て、今と同じセリフが言える?」
「っ……、っ、あぁ……うぅぅ」
「あなたの口から謝罪の言葉が出るならば、口添えをしてあげようと思っていたわ。けれど結局、今日まで一度も聞けなかったわね」
「っちがう! 反省している! すまなかったと……!!」
「もう遅いに決まってるでしょう」
 自分もチャンスをもらえたから。そう言って、いろはが薄く微笑んだ。もし謝罪の言葉を述べるならば、彼らに温情を与えてやって欲しい。その言葉を聞いた皆の顔を、やちよは生涯忘れる事は出来ないだろう。その時のいろはの、悲しくなる程に凛とした横顔も。
「頼むもう一度チャンスを……っ!」
「おっと。七海に触るなよ。公務執行妨害で罪が増えるぞ」
「ちがう、ちがう……私はちゃんと、たのむ、チャンスをくれ」
「もう十分過ぎる程やった」
「一度チャンスをくれたんだ、もう一度だけ頼む。七海君は無理でも、君から……ったのむぅ!」
「……はは、おい七海、聞いたか」
「ええ。本当におめでたい人ね」
 誰にでもやり直すチャンスがあるはずだ。それを、他でもないいろはが言ったのだ。やちよの手に残る小さな牙の痕に触れて、少し照れ臭そうにそう言った。心の底から謝ったら、やちよはちゃんと許してくれたでしょう? と。
 そんないろはを、やちよは何よりも尊いと……思ったのだ。
「傑作だ。貴様は私達に好かれているとでも思っているのか? 密猟者を憎んでいる我々が、貴様のような汚物に温情を望むとでも?」
「どういう事だ? だって七海君が……」
 結果は残念な物だったが、これでいろはも納得してくれるだろう。少し悲しそうにはするかもしれないが、憎い仇である事は変わらない。これ以上いろはのような存在を作らないためにも、厳罰に処すべきだと納得してくれる。
「あなたが心から謝罪をしたならば温情を。そう言い出したのは、いろはよ」
 やちよの言葉に、彼ががっくりと力を抜いた。はー……とか細く息を吐き切って、後はもう何も言わない。今度こそ罪悪感で胸が潰れたらしいかつての上司を鼻で笑って、やちよは彼に背中を向ける。
「精々短い余生を楽しむ事ね。暗い暗い……檻の中で」
 これで全てが終わった。本当に……全てが。
 いろはの一件で、世界は一致団結した。錆び付いた歯車はいろはという存在が噛み合った事でぐるぐると勢いよく回り出す。各国が伝えたいろはの言葉は古い考えの人間の心まで動かし、権利復帰の声は張り裂けそうな程に大きくなった。
 そしてついに亜人達の権利復帰が認められ、野生で生きる全ての亜人種にも人権が与えられる事になったのだ。各種族、各群れのリーダーに話をつけるという大変な作業は残っているが、彼らはきっとすぐに受け入れてくれるだろう。いくら野生だ、人に慣れないとは言っても、やちよのような密猟者ハンター相手なら、素直に会話をしてくれる者達ばかりなのだ。街で人権を認められる話をしたら、自分から登録をしに来た者もいる。
 過去の共生関係は、人間よりも亜人達の方が正確に語り継いでいた。そして同時に、折り合いもつけていた。恨まず、憎まず、力を誇示することもせず、彼らはただ時を待っていたのだ。いつか運命は訪れると、甘んじて野生で生きる事を選んでいた。
 やはり彼らは貴い存在だ。
「これから忙しくなるな」
「そうね。世界中飛び回らなきゃ」
 密猟者ハンターは交渉人へと立場を変え、これからは亜人の生息地を調査、そして可能な限りの接触を試みていく事になる。
「いろははどうするんだ」
「本人に聞いてみるしかないけど……きっとついてくるでしょうね」
「ふっ、慌ただしい新婚旅行だ」
「経費で世界一周と思ったらお得でしょ?」
「違いない」
 もしかしたら一生かかるかもしれない。やちよは今後、一所に落ち着く事はない可能性だってある。
 けれどいろはは言ったのだ。番は常に一緒にいるものだと。今日の出がけにも散々ごねて、結局職場までついてきた。尋問は資格がないと出来ないと言ったら、じゃあ十七夜に任せればいいと言ったくらいだ。余程離れ難いらしい。
 季節は冬。いろははもう二歳になった。最近やけにくっついてくるから、そろそろ初めての発情期が訪れるのかもしれない。
「やっと手に入れた愛だ。離すなよ」
「……びっくり。あなたから諭されるとは思わなかったわ」
「これでもロマンティストでな」
 言葉は茶化すようだったが、十七夜は真剣な顔をしていた。心配性で意外と人情に篤い彼女を少し笑い、尋問室を出れば人だかり。何かと思ったらいろはが大勢の人間に取り囲まれ、すっかり怯えていたので笑ってしまった。
「ありがとう、あなたのおかげよ」
「いえ、あの」
「写真よりずっと綺麗なのねぇ」
「あ、ありが」
「おみみかぁいいねー!」
「ひゅ、ひゅーん……っ」
 世界で共通の法律を作る会議。その場に亜人代表として立った彼女は、今やヒーロー的存在なのだ。扱う魔法が光属性だった事も寄与して、一部の者からは聖女と持て囃されている。勿論敵だって居ないわけではないが、いずれはそれも少なくなっていくだろう。皆の意識が既に同じ方向を向いていたからこそ、今回大きく歴史が動いたのだから。
「! やち!」
「おまたせ」
 匂いに気づいて振り返った彼女が、微笑むやちよを見てぱっと顔を輝かせる。握手を求める人々に手を振って、てちてちと駆けてくる姿は可愛かった。
「やち、やち」
「はいはい」
「やちー」
 やちよと呼ぶのはやめたらしい。自分だけの特別な呼び方だと言って、舌足らずに「やち」と呼ぶ。そして呼ぶ度誇らしげな顔をして、嬉しそうに高く鳴くのだ。
「そういえば」
 顔を寄せてくる彼女に応えながら、やちよはふと思い至った。かねてより抱いていた疑問。けれどどこか尋ね辛く、ずっと先延ばしにし続けていた疑問。けれど、もういいだろうか。思いながら口を開き、やちよはようやく自分のための質問をする。我儘な質問。いろはを全部知りたいと、そう思ったからこその質問。
「あなたの名前、なんていうの?」
 それは、彼女の名前についてだ。いろはというのはあくまで十七夜が提案した名前であって、いろはの本来の名前ではない。やちよが呼ぶのを一度も否定しなかったから聞く機会がなかったのだが、二人が出会う以前、たったひと月だとしても、親から呼ばれていた名前があるはずだ。
「? ななみいろは」
「ごほん、んんっ、うん、そうだけどそうじゃなくて」
 そう思って問いかけたけれど、いろははきょとんとそう返してきた。同じ苗字にむせるのはこれでもう十数回目だ。聞く度どうにもむず痒くて、喉の奥がこしょこしょする。
人狼としてのあなたの名前よ」
「ああ」
 照れるやちよをニコニコと見つめ、言葉を受け取ったいろはが一つ頷いた。それからやちよの額に自分の額を押し付けて、嬉しそうにそっと囁く。
「はぅゆぃー」
「はうーいー?」
「はぅゆぃー」
「はうーうぃー?」
「はぅ、ゆぃー」
「は、ん……ちょっと離れて。えっと、はぅゆぃー?」
「うん。じょうず」
 公衆の面前だろうが気にしない。そんなところはいつまで経っても獣のままだ。唇どころか舌まで触れ合わせて番に発音を教え、成人した人狼が嬉しそうににこりと笑う。
「はぅゆぃー?」
「うん」
「どういう意味なの?」
 照れるやちよがどれだけ顔を背けても、その度上手に回り込まれた。最終的には諦めて尋ねれば、今度は少し考える顔。
「人のことばだと……うーん、わっか、かな?」
「わっか?」
「色んないみ、ある。切れないつながりを表すことば。世界、たいよう、丸いもの。えっと……ちょうわ。たまき、あと、かかわり」
 一つ一つを丁寧に数え、伝わる? と首を傾げる彼女は綺麗だった。ほんのわずかに上げた視線の先。すっかり大人になったいろはが優しく微笑んでいる。
「……いい名前ね」
「うん。りっぱな名まえ」
「あなたにぴったりだわ」
「そう?」
「ええ」
「うれしい。ありがと」
 くしゃり。牙を見せて笑って、いろはがそっと手を伸ばした。人目も気にせず抱き寄せて来る……のをするりとかわし、そのまま歩き出せば不満げな声。
「やちぃ……」
「はいはい拗ねないの。帰ったらね」
「かえる。すばやく」
 いい加減、十七夜のにやにやが我慢できないのだ。見れば他の同僚も似たような顔をしていて、やちよはぐっと奥歯を噛み締める。どいつもこいつもいい笑顔だ。アイスクイーンと渾名されたやちよが、顔を真っ赤にして照れるのが面白くて仕方ないらしい。
「やち」
「うん?」
「わたしたち、つがい?」
「……そうよ」
「ふーふ?」
「んんっ、ごほん、ええ、そうね。そう」
「じゃあ、かえったらしていい?」
「なにを?」
 茶化してくる同僚を睨み、時に蹴り飛ばしつつ駐車場に向かい、車に滑り込んだ所で手が伸びる。あっと思うまもなくその手に引き寄せられながら、耳元で甘い声を聞いた。
「こうび」
「っ!?」
 冬の終わり。森の獣たちは恋の季節だ。あっちこっちで高い鳴き声が響き、ハンターになって初めての年は、パトロールで目のやり場にとても困った。いろはもそろそろだろうと覚悟はしていたのに、いざ言われると破壊力がすごい。
「……こ、断ったら?」
「ことわっちゃだめ」
「でもあの、断られたら諦めるって前に……」
「やち、本気でいやがってない。おねがいしたらきいてくれるかお。わかる」
「っ……」
「おふろちゃんと入るから」
「そういう問題でも……ああもう……っ」
 せめて家に帰ってから言って欲しかった。ここから家まで車の中で二人っきりなのに、何を話したらいいのかわからない。やはり獣人の恋は性急だ。思いを通わせてすぐに子供の話になるなんて、人間ならあまりないだろう。
(……本気で嫌がってない、か)
 けれどまあ、そういう恋もいいかもしれない。やちよだってまどろっこしいのは苦手だ。愛を伝えてすぐに籍は入れたのに、子供は駄目だと言うのも可哀想だろう。ただでさえ散々人間のルールで縛ってきたのだ。これ以上本能を抑え込ませるなんてしたくない。
「あ、でも駄目よ」
「どうして?」
「私これから、世界を回らなきゃいけないもの」
「けんりふっき?」
「そう。色んなところを回らなくちゃ。せめて予定を立てて……」
「ううん。大丈夫」
 のんびりと車を走らせながら、少し真剣な話をしようとした時だった。助手席のいろはがあっけらかんとそう言うから、やちよは思わずぽかんとする。
「……なにが?」
人狼、にんしん二ヶ月。生まれて一週間したらしゃべる」
 なるほど。そうだった。つまり三ヶ月も猶予があれば、妊娠から出産、そして五歳児程度の子育ては可能なわけだ。
「わたし、一週間いえにこもるだけだから。やちのじゃま、しないよ?」
「え、あなたが産むの?」
「? わたしの方が力つよい。狼、つよいメスしか子供うまない」
「……それは、そうかもだけど」
 常に押されているから、てっきり自分がされる側かと思っていた。今日はいろはの言葉に驚いてばっかりだ。やっぱり人間と人狼は違う。
「やち、子供うみたかった?」
「ぶっ」
「きゅうブレーキあぶない」
「誰のせいだと……っ」
 まあどちらが産んでも大差はないか。そう思いかけたところで爆弾を落とされ、おかしな所でブレーキを踏んでしまった。幸いと後続車がなかったので事故にはならなかったが、それでも心臓がドキドキと音を立てている。
 隣のいろはは涼しい顔で後ろを振り返り、来てないよ、なんて教えてくれる程の余裕があった。それに従って再び車を走らせながら、やちよはなんだか苦虫を噛み潰してじっくり味わったような気分になる。この間の一件からいろははやけに余裕たっぷりで、それがなんとなく気に入らないのだ。
「……いろは、運転免許とって」
「? ……わかった」
「それで、私は後部座席に乗る」
「隣じゃないの?」
「妊婦と子供は後ろって法律で決まってるの」
「!」
 鼻を明かしてやりたい……わけではなく。産みたいか産みたくないか。その二択なら、産みたいと思った。すっかりと群れのリーダーのつもりでいるいろはが気に入らない気持ちも少しはあるが、それはまあいい。事実彼女の方が数倍力はあるのだし、リーダーは譲ろう。彼女の群れの一員として、やちよはこれからの生涯生きていく。そこに異存はない。ただ。
「私だってあなたを守りたいのよ」
「? 知ってるよ」
「……もう!」
 与えられるばかりは、嫌なのだ。やちよもいろはに与えてやりたい。他でもない自分が、いろはの群れを作っていきたい。彼女に選ばれた者として、彼女の番として。
「やち、明日休む」
「なんでよ、仕事よ」
「休む」
「だから……」
「明日立てない。だから休む」
「……」
 ちょっとくさい事を考えて勝手に照れそうになったところでそう言われ、やちよは思わず真顔になった。視界の端、いろはの手が既に小刻みに動いているのを見つければ、運転中にも関わらず頭を抱えたくなる。まず、産むとか産まないの話じゃない。人間と人狼の大きな大きな違いについて教えるところから始めた方が良さそうだ。
「いい? いろは。よく聞いて」
「うん?」
「人間はね、急にそれを受け入れられるようには出来てないの」
「……それ?」
「今あなたが準備してる棒よ!」
「え……えっ!? そうなの!?」
「そうよ!! 人間は色々と準備がいるの! だから、その、まだ大きくするのは早い!!」
「おふろでするかと……」
「しない!!」
「どうしようやち、わたしやり方知らない……」
「私だって殆ど知らないわよ!」
「やち、はじめて?」
「っ……そうよ! 悪い!?」
 ここまでずっと、戦い続けの毎日だったのだ。恋をする暇もなければ、しようとも思わなかった。そうでなくてもこれ以上失いたくないと、大切な存在を作らないようにしてきた。ついこの間まで生涯独り身のつもりだったし、自分でしたのもそう多くない。男も女も知らなければ、当然人狼だって知るはずもないわけで。
「だって今まで誰も好きだと思わなかったもの! イケメンもマッチョも美人も可愛いのもいたけど、響かなかったの!」
「……」
「この歳まで経験ないのは遅れてるかもしれないけど、でも、だって、仕方ないでしょ!!」
 世界の平均からすれば、やちよは大分遅い方だ。早い者は十四くらいで子供を産む。今更こんな思いをするくらいならその時に初体験くらい済ませておけばよかったと思わないでもないが、こればっかりはどうしようもないだろう。時は遡れるものではないのだ。
「やち」
「なによ!!」
「やち、こっち見て」
「だからなに……んっ」
「……うれしい」
 真っ赤になってギャーギャー吠えるやちよ相手に、いろはは心底嬉しそうな顔をした。
 だっていろはは、やちよが初めてが自分だなんて思っていなかったのだ。ある程度難しい言葉が理解できるようになってから、二人の違いを知るためにいくらかの本を読んでみたが、そのどれもが十代前半での行為について触れていた。
 人間は人狼と違い、生涯一人だけとパートナーでいるわけではないらしい。だから当然やちよの最初は自分以外だと思っていたし、それならせめて最後は貰おうと考えていた。なのに、初めて。それが思いの外嬉しくて、見つめる瞳はきっと蕩ける程に甘くなった。
「待っててくれて、ありがとう」
「っ……」
 幸せそうだ。絞り出すように優しい声でそう言われた時、やちよはなんだか泣きたくなった。いろはとは出会うべくして出会ったのだと、彼女に出会うために今まで必死に生きてきたのだと、そう……思えたから。
「うんめい?」
「……ふふ、そうかもね」
 とろり。優しい瞳で囁く彼女に、同じような囁きを返した。いろはとやちよ、例え違う世界、違う出会い方をしたとしても、必ず二人一緒になれる。根拠もないままそう思っては、やちよもとろりと目を細めた。
「……お風呂、入りましょう」
「うん」
「ベッドまで我慢してね」
「大丈夫。むりやり、だめ」
「うん、ありがと」
 いまや大きく美しくなった人狼が、高い声でくぅーと鳴いた。どこか甘えを含んだそれに同じような声を出して、引き寄せられるまま立ち上がる。二人、肩を並べて歩きながら、いろはが強請るからキスをした。ちろり、舌で彼女の唇を舐めてやれば、嬉しそうに尻尾が揺れる。
「いろは……」
 囁きに、応えは返らない。けれど甘く蕩ける赤い瞳には、やちよだけが映っていたから。それだけで十分過ぎる程の返事を貰えた気分になって、自然と笑顔になった。
「好きよ」
 狼は絆を尊ぶ。生涯一人のパートナーを大切にし続ける。なら、きっと、やちよは死ぬまで幸せだ。運命の環に守られて、やちよのいろはに愛されて、きっと死ぬ時ですら幸せなまま。
 まだ始まったばかりなのに、今からそんな予感がした。きっとそれは確信に近かった。
 それはあまりに突拍子もなく、なのにありきたりで手垢に塗れた感情ではある。けれど二人は一度、全てを喪ったのだ。そこから必死に歩み続けて、今ようやっとスタートラインに立った。
「くぅー……」
 だからそう思えた自分が何よりも誇らしく、そう思わせてくれるいろはの事が、心の底から愛しいと思う。
 自分が今、間違いなく幸せであるという実感こそが……ただ、とてもとても、幸せな物であると思ったのだ。

 

 

***

 

 

おまけ!!

「いろはまって! まて!」
「またない」
「まて! まって! おねがい待ってってばぁ……っ」
「だって、やちが誘った」
「ちが、あれは匂い嗅いでただけで……っ! ポップコーン臭だなぁって思ってただけでぇ……!」
「でもその気になった」
「っ大体あなた発情期じゃないじゃない!!」
「人間はいつもはつじょうき。つがいががはつじょうきならわたしもがんばる」
「ちがうって言って……っ、もう! 怒るわよ!?」
「本気でいやがったらやめる。でもやち、いいにおいのまま」
「どういう理屈よぉ……あっ」
「さそってる時、いいにおい。おこってる時と匂いちがう。やちはいつもさそってる。わたし、これでもがまんしてるんだよ?」
「ひぅ、いろは、やめ……っ」
「……ほら、わたしにむちゅう。だからかわいい。わたしのかわいい人」
「いろはぁ……っ」
「やち、すき」
「んん……っ」