どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

ifマギレコ03


 全てを失った後に、一人の女性と出会った。その人は、終わりを告げる死神にも似た人だった。
 ――こんにちは。
 化け物に襲われ泣きじゃくるやちよの前に降り立ったその人の、場違いな第一声はそれだった。襲い来る者達を光の壁で軽くいなし、差し伸べる手に少しの躊躇い。困り笑顔の彼女はやちよを抱えたまま楽々と化け物を倒し、それからこう言ったのだ。
 ――あなたは何に絶望したのかな?
 その日は、祖母の命の期限を聞かされた日だった。

「いろはさん、私、ここに住ませてもらったら駄目ですか」
「だめ」
 あれから、数ヶ月。いろはから話を聞いて魔法少女になり、祖母の病を消し去ってから今日まで、色々な事があった。今まで見えなかった友人の指輪が見えるようになったり、その友人がこの町に行くと言って姿を消したり、いろはに恋をしたり。本当に色々だ。
「じゃあせめて、仲間にしてください。いろはさんのチームに入れて」
「……それもダメ」
「どうして」
「私は誰ともチームを組むつもりがないから」
「じゃあ助手は?」
役不足
「……じゃあ家政婦」
「諦めが悪いねぇ」
 いろはがこの町のトップだと知ったのは、初邂逅からしばらく後の事だ。消えた友人を探すためこの町に入り、複数の魔法少女に囲まれてからそれを知った。縄張りを荒らす者として粛清されかけ、咄嗟に名前を出したら皆の態度がころりと変わったのだ。
 ――なんだ、いろはの客か。
 そう言って大槌を引いた少女に案内され、彼女と二度目の出会いを果たす。その時やちよは決めたのだ。この人に取り入ろうと。
「ここに住まなくても、自由に町へ出入りできるようにしてあげたでしょ?」
「おばあちゃんの目を盗んで夜に抜け出すのが大変なの」
「ねむり、浅い方なの?」
「朝がはやいの」
 やちよが憮然として腕を組むと、いろはは、あー、と声を漏らした。やちよの祖母はまだそこまで高齢というわけではないが、それでも以前に比べればいくらも早寝早起きになった。夜は九時を過ぎれば船を漕いでいる時もあるし、朝は最悪四時くらいには起きてくる。耳が遠くなったわけでもないので、物音を立てないように家へ帰るのは至難の業だった。
「せめて夏休みの間だけでもここに置いてくれませんか」
「……お祖母さんになんて言うの」
「受験勉強」
「それって私の家に泊る理由になる?」
「こっちの予備校に通えばいいだけです。元々宝崎の高校を受験するつもりだし、前におばあちゃんとも話した事があるから」
 その言葉に、いろはは素直に驚いた顔をした。神浜市立大学附属学校の制服を着ているのだから、てっきりそのままエスカレーターを上ると思っていたのだろう。
「どうしてわざわざ?」
医大に行くなら宝崎の高校の方がいいから」
「お医者さんになりたいんだ」
「……まあ、まだまだ頑張らなくちゃ……いけない、けど」
 ぼそぼそとしたやちよの言葉を驚いたまま聞き、いろははややあってからとても優しい顔になる。そっと伸びてきた手のひらにくしゃりと前髪を乱されれば、やちよの心臓は簡単に高い音を立てた。
「すごいね」
「子供扱いしないで」
「そんなことしてないよ。七海さんが年上でも、私はきっと同じことを言ったと思う」
 指先で前髪を退け、見えた額に親指が触れる。こそり。くすぐる程度の力で数回同じ場所を撫で、それからいろはは眉を下げて眩しそうな笑顔を見せた。
「すごいね」
「……」
 たまにこうだから、困るのだ。普段は結構ドライなところがある癖に、ふとした時に至極優しい触れ方をしてくる。やちよもこれに落とされた。ただ優しい顔ばかりしてその実誰も信じていない人ならば、やちよは彼女を好きになったりしなかっただろう。彼女は心底から優しくて、けれど何かを理由に無理をしている。それがわかるからこそ、彼女を知りたいと思うのだ。もっと深く。許されるならば、その傷跡まで。
「あ、あの!」
「ん?」
「ウワサ、聞いた事ありませんか?」
 心臓の音がうるさかった。まるで耳の横に鼓動が来たようで、それがどうにも落ち着かない。頬がじわじわと熱を持ってくれば居ても立ってもいられずに、やちよは慌てて話題を変えた。額を撫でてくるいろはの手をやんわり退けさせて、けれど離しきれずに親指だけを握る。
「ウワサ?」
「会いたい人に、会えるっていう……」
 やちよとしては、苦し紛れの話題だった。自分の事で優しい顔をされるのが恥ずかしく、無理矢理捻り出した単なる話のきっかけ。けれどそう言った瞬間、やちよの手の中で、いろはの指先がぴくりと震える。
「……縁結びのお寺?」
「はい」
 心当たりがあるのだろう。当たり前か。この辺りのトップなのだから、些細な情報も耳に入っているはずだ。
鈴虫寺みたいなお寺があるとは聞いてるけど……」
「その噂の出所が、どうも宝崎みたいなんです」
「……それ、どこで聞いたの?」
 すっと。声が低くなった。平坦なそれに温度はなく、全身の毛穴が締まる。思わず顔を上げれば無表情のいろはと目が合って、やちよの喉がひゅっと音にもならない音を立てた。
「わ、私の、友達が……そういうウワサを、あ、集めてて……」
「梓……みふゆさん、だっけ?」
「は、はい」
「それで?」
「そ、その噂に……赤丸がついてた、から」
「……足取りをたどれるかも、ってこと?」
「……は、い」
 警戒されている。それはわかった。けれど何故? わからない。それでも必死に説明をすると、彼女は少し表情を緩めてくれた。それからやちよの手を少しだけ撫でて、ごめんね、と前置きをする。
「そのウワサを信じて、いなくなった子がいるの。そんなに広がってるなら対処しなくちゃと思って」
「……」
 本当にそうだろうか。それにしては、やけにぴりぴりとした雰囲気を纏っていた。けれど謝罪をされてしまった以上追及する事は出来なくて、小さく頷くに留めておく。
「……行きたい?」
「場所、知ってるんですか?」
「情報は入ってくるからね。時間とかも大体はわかってるよ」
 そう言って微笑む彼女はいつも通りだが、やちよにはその笑顔がどうにも胡散臭く見える。そこまで情報を持っていて、動いていないのも妙に気になった。
 誰ともチームを組まないとはいえ、環いろはという人間は周囲を守るために力を行使する人だ。そこに魔法少女だの一般人だのの差別はなく、誰かが不利益を被っているとわかれば即座に動いているはずなのに。
「今日の夜、行ってみようか」
「いいんですか?」
「うん。神浜までウワサが届いてるなら、早い方がいいから」
 訝しむやちよに対して、いろはは優しい顔をした。きっと考えている事など全部見通しているだろうに、深く言及する事もない。そして、質問を許しもしない。
「じゃあ、先にお買い物しちゃおうか。夕飯、食べてくでしょ?」
「……はい」
 この間から、やけにいろはを遠く感じた。たまに覗かせる闇は底が知れず、彼女を追いかければ追いかけるほど、その背は遠くなっていくようだった。

***

「ここ、ですか?」
「そう。もう閉まってるけど、お坊さんたちはいるから静かにね」
 夜。大通りの車もまばらになった時間帯に訪れた寺は、宝崎でもとりわけ有名な場所だった。近隣の市に住むものなら誰でも聞いた事があるだろう。正月の詣にはテレビ中継も入る所だ。
「お線香を立てて、祈るだけ……だったかな?」
「はい。みふゆのファイルにはそう書いてありました」
「じゃあやってみようか」
 そう言って微笑む彼女は、相変わらず不自然に優しいままだった。貼り付いた笑顔は仮面のようにも見えて、それが異様に恐ろしい。
「じゃあ、いくよ」
「はい」
 けれど今は、それに言及している場合ではないだろう。寺の夜は、決して静かとは言い難いのだ。住宅街にあるここでは夜の読経などはやっていないと思うが、それ以外の修業は行われている可能性もある。ならばさっさと事を片付けて、ここから離れてしまった方がいい。
(みふゆに会わせてください)
 煙は、どこか甘い匂いがした。微かな風に煽られたそれが、閉じた瞼の裏でもゆらゆら揺れている。周囲には殆ど音がなく、すぐ隣、駆け足の呼吸がやけに響く。
「……いろはさん?」
「……うい」
 まるで全力疾走をした後のようだ。思いながら顔を上げ、彼女の言葉を聞いて鳥肌が立った。
 ――世界が、一変している。
「みふゆ……」
 辺りは一面、水の鏡だった。静かな水面にいくつもの蓮が浮かび、紅白の鮮やかな花を咲かせている。月とも太陽ともつかぬ輝きが二つ空に浮かんでいて、それが鏡に映ればくらりとした。
「やっちゃん、久しぶりですね」
「……そうね」
 その、中に。やちよと同じくらいの歳であろう、一人の少女が立っている。照れ臭そうににこりと笑った彼女は姿を消した友人で、けれどやちよは曖昧に微笑んだだけだった。
「……安心したわ」
「何にですか?」
「あなたがみふゆじゃないってわかったから」
 水の鏡は真実を映し込む。少し俯いて現実を噛み締めながら、やちよは一つ、大きなため息を吐いた。
「みふゆが変な物に捕まったんじゃないかと思って心配していたけれど……そうね。あの子はそこまでやわじゃなかった」
「……」
「私、行くわ。現実を再確認できただけで、十分な収穫だった」
 水鏡に、みふゆの姿は映っていない。それを更に疑う事だって勿論できるが、やちよは何故か確信していた。これは探し求めた友人ではない。
 だって水は、浄化する物だ。毒すらも水に溶けて消える物が多い。美しい水であればある程、不純物を受け入れない。やちよは水を操る。その水を疑ってしまったら、もうどこにも進めなくなるだろう。
「やっちゃん」
「なに」
「ワタシはみふゆではありません」
「知ってる」
「でも、やっちゃんの映し鏡ではあります」
「……そうね。それはそうかも」
「そして彼女の映し鏡でもある」
「……彼女?」
 くるりと背を向けたやちよに、みふゆの形をした者は優しい笑顔を向けた。貼り付いてどこか生気がなく、けれど様々な想いを含んだ笑顔。首だけ振り返ってその表情を眺めながら、やちよは少し眉を寄せた。
 似ているのだ。とても。
「足りないものは、きっとやっちゃんが持っています」
「……なんの、話?」
「二人は、とてもお似合いですね」
 ――ぞわり。
 一瞬で、全身に鳥肌が立つ。
 二人。二人? ここにはやちよの他に、誰がいる? 一緒に来たのはたった一人だ。
「どういう意味」
「……気を付けてください。影は、いつでも傍にあるものですよ」
「待って!」
 呼びかけた時には、既に遅かった。みふゆだったものはあっさりと煙になり、ゆらゆらと掻き消えてしまう。その残像に一瞬手を伸ばしかけて、やちよはぐっと拳を握った。
「いろはさん……!」
 悩むのも考えるのも後回しだ。とにかく嫌な予感がする。早鐘を打つ心臓を押さえながら、やちよは必死に視線を彷徨わせた。そして、気づく。
「……なに、ここ」
 気づいてみれば、あまりにも恐ろしい。そこかしこに手を取り合った人が倒れ込み、けれど水鏡に映るのは一人だけ。皆が皆幸せそうな顔をしているくせに、全員悲しい独りぼっちだ。
「いろはさん……!!」
 その、遥か向こう。花が咲き誇る岸辺に、見慣れつつある背中が蹲っていた。その腕に小さな何かを抱いて、華奢な背中が震えている。
「いろはさん!」
 泣いているのだろうか。先程妹の名前を呟いていたはずだ。たとえ幻だとしても死んでしまった妹に出会えた彼女を引き戻すのは酷な事だが、それでもやちよはやらなければいけない。
「いろはさん! しっかり……っひ」
 意を決してその背中に近付き、震える肩を掴んだ瞬間。やちよは気付き、そして悲鳴を上げていた。
「な、に……っ?」
 いろはが抱いているもの。それは……白く小さな、骸骨だったのだ。
「うい、うい……っ」
「……っ」
 何故。どうして。周りの者達とはあきらかに様子が違う。やちよが会ったみふゆですら確かな実像を持っていたはずなのに、これは……彼女は。
「どういう、こと?」
 水鏡に映るのは、抱き合う二人だ。どこかいろはに似た少女が満面の笑みを浮かべて、姉をしっかりと抱き返している。歳の頃はやちよと同じくらいだろうか。嬉しそうに、本当に幸せそうに抱き合う二人が、吐き気を催す程の不快感でもってやちよの視界を焼き尽くした。
「ああ、よかった。もうこんなに大きくなって……っ! 大丈夫だようい。今度こそお姉ちゃんが必ず……っ」
「っいろはさん!!」
「っ!!」
 何かがおかしい。それはわかった。けれどその理由を深く追及している時間がない。いろはの体が徐々に透け始め、末端から煙に変わり始めていたからだ。
「いろはさんしっかりして!! それは妹さんじゃないわ!!」
「……七海、さん?」
「おねがい……っ! しっかり私を見て……っ、あきらめないで……っ!!」
「っ……」
 ゆらり。掴んだ肩すら実態が消えかけて、やちよは必死になった。さっと変身を解くとぼんやりとしたいろはを抱きすくめて、彼女の耳を自分の胸に押し当てる。
「聞いて……っ! 生きてる者はこういう音がするの。体温があるの……っ! 肉があって血があって、こういう感触がするの……っ!」
「……ぅ、あ」
「きづいて、もどってきて。お願いよ……っ!」
 諦めるものか。こんなところで手放したりしない。生まれて初めて、心から欲しいと思った相手なのだ。こんな、こんなところで、何かもわからないものに持っていかれたくはない。
「いろはさん……いろはっ」
「……っ!」
 必死になって呼びかけると、腕の中で華奢な体がびくりと震えた。その目にはっきりとした生気が戻った瞬間、彼女の腕の中で、骸骨がケタケタ笑いだす。
「なに……ういは?」
「もういないの。どこにも……いないのよ」
「……ああ」
 死神。
 それを形容するなら、その言葉しか有り得なかった。小さく白い骸骨は高く耳障りな笑い声を響かせ続け、やがては巨大な炎を纏う。ずるりずるりと背を伸ばしていくその体は、いろはの影と繋がっていた。
「……うい」
 水面には、相変わらず小柄な少女が映っている。抱き合った体勢から位置がずれれば、その手がいろはの手と一体化しているのがよくわかった。彼女は他の者とはあきらかに違う。それがわかった。そしてそれが、何故かも。
「ここで死んだら許さないから……っ!」
 この、少女は。いろはの命で作られているのだ。
 それに気づいた瞬間、頭にかっと血が昇った。死にたがりの彼女が憎らしくなった。やちよの存在は彼女にとって本当になんの意味もないのだと、それがわかったから泣きたくなった。
「くだらないなんて言わない……っ! 私にはいろはさんの痛みも悲しみもわからない! だけど、だけど……っ!」
 愛されている事を、理解しようともしない彼女が腹立たしかった。
「来なさい死神! 生きてる人間の感情がどれだけ強いか教えてやるわ!!」
 大切な人にとって、邪魔者でしかないのは……辛かった。

***

「生きて、ますか……」
「……うん」
 もう、立ち上がる事すらできない。肩で息をしながら、やちよは途切れ途切れに問いかける。それにぼんやりと返事をしたいろはは、ややあってからのろのろと顔を覆った。
「……こうなる、気がしてたの」
 初めてこのウワサを耳にした時から。
 仲間がいなくなった、と相談を受けた時、いろははすぐに動くつもりでいた。けれど詳しい話を聞いていく内に、自分一人では解決できないと悟ったのだ。
 だって、会いたい人に会えるだなんて、いろはにとって極楽以外の何物でもない。聞けば姿を消した魔法少女も魔女に襲われて両親を喪った者で、いろはは更に怖くなった。
 もしその世界で妹に会えたら? いろはもきっと同じように、二度と現世には戻ってこられなくなるだろう。
 一人では行けない。けれど一目、一目だけでも。救えなかった妹に会ってみたい。
 一日、また一日と日を伸ばしながら、それでも調査をやめる事は出来なかった。各方面から情報を集め、場所も時間も特定していた。もっと早くに、行こうと思えば行けたのだ。それでもいろははそうしなかった。怖くて怖くて仕方なかった。
「けが……してるね」
「固有魔法が、治癒だから……っすぐ、う、治ります」
「……うん」
 会いたい。けれど会いたくない。怖い。それでも行きたい。
 やちよがその話題を出してきた時、いろはは何故かほっとした。そして同時に、一番知りたくなかった事実に気づいてしまった。
「……わたし、死にたくなかった」
「いろは、さん……?」
「死にたくなかったの……っ、早く家族のところに行きたいって、何度も何度もそう思ったくせに、それでも本当は死にたくなかった……っ」
 自死して違う場所に行きたくない。そう湾曲して自身の気持ちを吐露した事があるが、そうではなかった。
 いろははただ、死にたくなかったのだ。本当は、ただ……それだけ。
「お父さんもお母さんも、ういも……っ! 生きたくて生きたくて仕方なかった……っ! みんなみんな、悔しいって言いながら死んでいった……っ! いやだって言いながら……目を閉じた。私はそうなりたくない……っ! 苦しんで死んでいくなんていや……っ! でも、でもそれが……」
「みんなを裏切っているみたいで、いやだった?」
「っ……」
 やちよのソウルジェムが、どんどん濁っていく。傷が治っていくのに比例して、綺麗な三日月が黒く澱んでいく。それに慌ててグリーフシードを押し付けながら、いろははぐっと唇を噛んだ。
「っ……バカみたい」
 やちよは相変わらず、肩で息をしている。大鎌で引き裂かれた肌からは、赤い血がいくらでも流れてきた。それでもいろはよりずっと生気のある瞳で、強い口調で、彼女が眉を吊り上げる。
「あなたは病気をして医者にかかる時、医者にも同じ病気になって欲しいと思うの?」
「……え」
「自分の苦しみも知らない奴が治療なんて馬鹿げてるって思う?」
「……いえ、思わない……です」
「交通事故で担ぎ込まれた時、医者にも同じ場所を怪我しろって思う!?」
「思わないです!」
 突然、手が伸びた。がっしりと頭を掴まれ、何かと思えば少女の顔が寄る。幼いながらに整った面差しが近づけば、いろはは素直にどきりとした。美人な分怒った顔は相当怖いが、美人であるが故に眺めていたくもなる。
「それと同じよ!!」
「は、はい」
「どんなに辛くても悔しくても、それはその人だけの感情だわ。誰かに押し付けていいものじゃない……っ! たとえどんなに悲しい最期を迎えたとしても、これから生きていく者にそれを押し付けたらいけないの……っ! っつ! 生きてる人も同じ……っ! 勝手に引きずられて、申し訳なく思うのは……っぐ」
「七海さん? 七海さん!」
「っ、ばか、みたいよ。影ばかり引きずって……っ! 勝手に申し訳なく思って……っ! 自分の命まで削って死者を呼び戻そうとするなんて、愚かでしかないわ……っ」
「っだ、だめだよ。あんまり喋ったら血が……っ!」
「うるさい!!」
「ひゃい!?」
 腹が立つのだ。悲しいのだ。心がぐちゃぐちゃで、涙が出る。痛くて苦しくて、何より悲しくて。
「ご家族が、妹さんが、悔しいって言ったのは……っ! あなたを一人遺していくから……っ」
「っ」
「あなたを悲しませるだろうから、悔しくてつらかったの……っ! あなたが泣くから、いやだって言ったのよ……っ!」
「……ぅ、あ」
「代わってなんて、思ってない。そう言われた? 違うでしょう。ごめんねって、そればっかりだった……っちがう?」
「……わたし」
「生きてよ」
 やちよには、いろはの痛みはわからない。同じように両親を亡くしてはいるが、それは物心つく前だったのだ。その分祖母に可愛がられて、何不自由なく暮らしてきた。そしていろはに出会って、喪われそうだった家族を取り戻した。
 やちよは、手から零れ落ちていく命を、まだ知らない。
「生きてよ。誰かのために死ぬくらいなら、私のために生きて」
「……七海さん」
「わたし、私は、いろはさんが好きだよ。すごく好き。はじめはこの町で自由に動き回る権利が欲しくて、あなたに取り入ろうとした。だけど今は……ただ、好き」
「っ……わたし、は」
「今は、返事はしないで。この状態で振られたら死ぬかもしれない」
「う、うん」
「ただ、ちゃんと考えて。本気だから。それだけ……お願いします」
「……うん」
 やちよはまだ、喪う痛みを理解できない。けれど、想像はついた。簡単に。
 あのままいろはを喪っていたら、きっとやちよの心は折れていただろう。冷たくなった彼女を抱いて、きっととろける程に泣くのだろう。二度と笑えないと思うくらいに、彼女の影を引きずり続けるのだろう。
「……いきてよ」
「……七海さん? 七海さん、っななみさん。やちよっ!」
 それは、いやだな、と思った。
 たとえ本人にどれだけ恨まれようと、今後一生微笑みかけてはもらえなくなったとしても、彼女を喪うのだけは。
 それだけは心の底から嫌だと……ただ思い、やちよは意識を手放した。

***

「……おきた?」
 何時間。いや、何日経ったのだろう。エアコンが稼働する低い音を聞きながら、やちよはとろりと目を覚ます。
 傍らにはいつもの困り笑顔を浮かべたいろはがいて、そっと手を伸ばすところだった。
「熱も下がったね。気分はどうかな?」
「……平気です」
 どうやらここは、彼女の部屋のようだ。いろはの向こう。彼女が使っているベッドが見える。
「ここ」
「妹のベッド。客間だと様子がわからないから、同じ部屋にしたの。ごめんね? ことわりもなく」
「……いえ」
「お祖母さんには連絡して、一度様子を見に来てもらってるから。酷い夏風邪で倒れたことにしてあるからね」
「……うん」
 冷たい手だ。夏なのに冷え切っている。けれどそれが妙に心地良くて、そっと、少しだけ擦り寄ってみた。
「……ありがとう」
 そんなやちよに優しい笑顔を向けて、いろはがそっと囁いてくる。驚いて彼女を見ればなんだか少し照れくさそうな笑顔を浮かべていて、思わず涙が出そうになった。
 今までの形だけの笑顔とは違う。頬を染めたそれは、心から浮かべた笑顔だとわかったから。
「気持ち、嬉しかった」
「う、うん……」
「返事はもう少し先でもいいかな? ちゃんと考えて、こたえたい」
「……はい」
 さらり、さらり。何度もやちよを撫でながら、その手が既に伝えてくれている。暖かく、優しく、そして愛しさを滲ませた……心。
 それでもまだ、迷いはあるのだろう。もしかしたら、これからいくらも時間がかかるかもしれない。それでもいろはは言ってくれたから。だからやちよは、のんびりと待つ事に決めたのだ。
 彼女の決心を……喜ばしく思いながら。
「ありがとう、やちよ。私……もう少し生きていようと思う」