どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

翼人06

 

 やちよが実家に帰ってしまった。

 「……」
「……大丈夫ですか?」
 未だに怪我が治らないままのいろはは、今日も今日とて医務室のベッドの上。死んだ魚のような目で横たわり続けるだけだ。みふゆがかけた声にも返事は聞こえず、本当に生きているのか少し不安になる。
「どう?」
「……雪野先生」
「……息してる?」
「待ってください……大丈夫、してます」
「うん。脈もあるね」
 会議の合間に顔を出したかなえが、みふゆの後ろからいろはをひょいと覗き込んだ。そして、何秒たっても瞬きをしない姿に心配そうな声を出す。それを聞いたらみふゆも不安になったので、二人は揃っていろはの生命反応を確認してみた。
「だいぶ衰弱しちゃったね」
「……ダミーエッグでも与えてみますか?」
「失恋症候群には効果がないよ」
 もはや生きているだけだ。食事も全く摂らないし、翼はぎざぎざだし、髪もぼさぼさ。ただ呼吸をしているだけのいろはは、本当に自殺したがっているように見えた。
「うーん……どうしようか」
「どうしましょうねぇ……」
 それが本人の意思ならば、二人だってきつく咎めて説得しただろう。けれどこれはいろはの体に流れる血の影響で、殆ど本能に近い。番と強制的に引き離されて、完全に参ってしまっているのだ。
「……何か連絡は?」
「今のところ、何も」
 やちよが実家に連れ戻されて、かれこれ二週間。たった数時間とは言え会おうと思えば会えた前回とは違い、今回は完全に面会謝絶状態だ。それ故いろはの衰弱は激しく、三日目から毛引きが始まり、五日目には風切り羽の殆どを噛み千切ってしまった。そして七日目には医務室から出る事もなくなり、今日はもう起き上がろうともしない。たまにえぐえぐとべそをかいていた時期の方が、余程健全だっただろう。
「こっちから連絡してみようか」
「症状が加速しませんか?」
「その時は会う手筈を整えるしかない」
「理由を与える事にならないでしょうか」
「最悪の場合は考えてる。他の先生達も皆戦うつもりだ。好き勝手させてたまるか」
「……そうですね」
 頷き合う二人の前、いろはは相変わらず何も言わなかった。ただ小さく体を丸めて、どことも解らない場所をぼんやりと眺め続けている。
「寮母さんに頼んで七海の実家に連絡してもらう」
「はい」
 ――さて。
 この辺りで、面会謝絶に至った経緯を説明しておくべきだろう。
 まず、やちよの父は娘の産卵を喜んだ。それはもう喜んで、連絡をした翌日には夫婦そろってコロニーに訪れたくらいだ。いろは以外を近づけようとしないやちよに文句を言う事もせず、医務室の入り口から持参のルーペで卵を眺め、にこにこしながら帰っていった。順序が逆転してしまって、と頭を下げるいろはにも、でかしたよくやったと称賛の言葉をかけたくらいだ。
 問題はむしろ、人間の介入だった。再三説明しているが、獣人には人権が殆ど無い。そしてその全てが、国……ひいては世界に管理され、血統書付ともなれば自由恋愛の権利さえ殆どない。やちよといろはは許嫁で、元より番うのが決定づけられた二人でもあった。
 さてここで、一つの質問をさせてもらおう。この記録をお見せしている当初から、再三述べてきた『管理』。これをしているのは、誰だろうか。答えは簡単に出るだろう。『人間』だ。そもそも獣人を作りだしたのは人間。獣人達が『普通の人間』と呼ぶ、ひ弱で脆い、人類だ。
 最盛期よりだいぶ個体数が減ったとはいえ、彼らは獣人よりも遥かに多い。そして『獣人計画』そのものが、数で勝る人類の管理下だ。彼らの目的はあくまで『絶滅してしまった鳥類と哺乳類を復活させる事』であり、獣人そのものを増やす事ではない。そしていつだか説明したとおり、卵から生まれる翼人は、軒並み深度が深くなる傾向にある。
 上記の内容、そしていろはがまだ成人前という事が要因、あるいは『隙』となって、二人の間に人間が介入してくる事になってしまったのだ。
 あちらの言い分はこうだった。
『コロニーは人間が運営する機関。コロニーで生活する全ての獣人の衣食住は、人間達が払う税金によって賄われている。よって、その中の物は全て人間の持ち物であり、今回産まれた卵も所有権は人間側にある』
 酷い話だ。深獣人の研究のために、やちよが産んだ卵を差し出せと言ってきたのだ。しかもそれはお願いですらなく、命令だった。
 人間側にも多少の焦りはあったのだろう。いろはは成人直前だ。成人して権利と仕事を持ってしまえば手の出しようがなくなる。社会に出る前に押さえつけてしまわなければと思ったらしく、急遽作成されたらしい命令文書にはこれでもかという程の抜け道があった。言及されていたのは殆どいろはの事ばかりで、やれ差し出さなければ成人させないだの、成人しなければ結婚は許さないだの、最悪永遠に封をかけるだの、まあ好き勝手な脅し文句が書き連ねてはあった。けれど既に獣人としても人間としても成人しているやちよには、大して言える事がなかったらしい。精々書いてあったのは、父親の立場を考えろ、という三下な文章だけ。しかも当の父親がその報せに大激怒して、じゃあ出ていけばいいんだろう! とやちよを卵共々家に連れ戻して、今に至る。
 卵を産んだ個体をコロニーで養っている、という事実だけが武器だった人間はそれで何も出来なくなってしまったわけだし、父親の判断は正しかった。最善手だったと言ってもいいだろう。
「でも、せめて一日に一回は連絡が欲しかったですね……」
 問題は、そこだ。娘と初孫を守る事に神経を注ぎ過ぎて、父親はいろはの事を完全に失念している。このままでは卵を守れてもその親が衰弱死、なんて悲しい現実が襲いかねない。
「そんな事になったら、やっちゃんになんて言えばいいか……」
 いろはも、ただ引き離されただけならばここまで衰弱はしなかっただろう。もしくは、卵を見ていなければここまで重症にはならなかった。時期が悪かったのだ。
 卵を見て、更にはそれを抱く番を見て、いろはの中には親としての自覚がむくむくと芽生えたばかりだっただろう。とても嬉しかっただろうし、恐らく意気込んでもいた。さあこれから家族を守っていくぞと思ったタイミングで、その対象が突然消えたのだ。相当ショックだったに違いない。
 それに、鷲や鷹といった大型猛禽類は、抱卵を始めた番に獲物を運ぼうとする本能がある。誇示行動と呼ばれる給餌はそのまま愛情表現であり、番同士の絆を深める大事な行為だ。大切に大切に、いつも以上の愛情をもって番に接する。そうする事がDNAに刻み込まれている。
 なのにいろははそれができない。その相手がいない。本能が番を探し守ろうとしても、その対象に触れられない。獣の血がどれだけいろはを急き立てても、守り愛すべき番が目の前にいないのだ。
 これでまだ、いろはが完全に獣ならばよかった。きっと本能だけに従って、やちよを探しに行けただろうから。けれど獣人は、獣であり人でもある。人間の部分が理屈を理解し、今自分が行ったところで付け入る隙を与えるだけだと納得していた。それがまた厄介なのだ。守りたいのに守れない。守るためには守ろうとしない方がいい。本能と理性の間で散々葛藤が繰り広げられ、理性が本能を押さえつけたからまずかった。
 抱卵期の強過ぎる庇護欲が発散できず、いろはの心は食い破られる。そして、本来その時期に確かめるべき絆と愛情を見失って、重度の失恋症候群を患った。そうしてあっという間に衰弱してしまったのだ。
「いろはさん……」
 ぼーっと虚空を眺め続けるいろはに、みふゆはしょんぼりと眉を下げる。
「……死んだら駄目ですよ」
 雑種は器が脆い。選んで濃い血を繋いできた血統書付とは違い、自然のあるがまま、血が薄まるのを気にせずに交配を続けてきた雑種は、獣としての器がだいぶ弱くなっている者が大半だ。それ故に、たまに産まれる先祖返りは辛い目に合う事が多かった。濃い血、強い野生を受けとめるだけの器がなく、本能が暴走する事がよくあるからだ。
 それを、鼠が象を操っているようなものだと例えようか。象が本能、鼠が理性。鼠がどんなに強くあろうとし努力しても、大きさ、重さ、力、全てにおいて敵わない。敵うわけもない。それでもいろはは本能を抑えている。今すぐにでもやちよの許に飛んで行きたい気持ちを必死に抑え、ここでただ横になっているのだ。
 鼠はもう限界だった。持てる力の全てを注ぎ、昼も夜もなく象を抑え続けている。本来は出来もしないはずの事、火事場の馬鹿力で一時的にできるかどうかという事を、一週間も続けているのだ。このままでは本当に心が壊れてしまう。
「死んだら駄目ですよ。やっちゃんを置いていったら、駄目ですよ……」
 獣人は……獣であり人間だ。魂を二つ持っている。どちらも揃って初めて獣人。どちらもあって、初めていろはなのだ。人間としての心が急速に疲弊している今の状態が続けば、いずれ彼女は壊れてしまう。そして人間としての心が壊れてしまえば、それはいろはという存在の死でもあった。バランスが崩れて獣だけになってしまえば、彼女はもうただの鷲だ。それでもやちよを守り愛するだろうが、きっと言葉は失ってしまう。やちよが愛を囁いても、それを理解して笑う事はない。
「……やちよさん」
「……」
「やちよさんに、あいたい……」
「っ……いろはさん」
 既に、バランスは崩れ始めている。いろはの心は殆ど限界だ。自傷をしている間はまだよかった。行動するだけの元気があったのだから。けれど今は、もう涙すら出てこない。たまにこうしてうわ言を呟き、ただ虚空を見つめているだけだ。早くなんとかしなければとは思うのだが、状況が中々それを許してくれない。
 あと何日もつか。最悪の事態を想定して、みふゆの脳裏に泣きじゃくるやちよが過ぎる。そんな時。
「みふゆ! 朗報!」
 笑顔で医務室に戻ってきたかなえが、大きな声でそう叫んだ。彼女にしてはかなり乱暴に扉を開け放ったものだから、みふゆは少し驚いたくらいだ。
「ど、どうしたんですか?」
「七海の実家が環を連れて来てくれって!」
「え……、え!?」
 実はあちらもあちらで連絡しようか迷っていたところだったらしい。
「七海も衰弱してるみたい」
「なん、え、どうして?」
「食事を摂らないらしい。説明は道中でするからとりあえず支度して。環、環!」
 それだけを言っていろはの所に走っていくかなえに、みふゆはぱちくりと目を瞬かせる。そして疑問符だらけの顔のままながら、言われた通りに支度を始めたのだった。


***


 抱え込んだ小さな命が温かい。浅い眠りの中でそう思いながら、やちよは小さく体を丸める。両手の中、自身の胸に押し付けた卵からは、振動も鼓動も感じなかった。けれど何かが確かにそこにいて、やちよはそれを守りたいと思っている。
(なにか、食べなきゃ……)
 全てがぼんやりしていた。体がふわふわして、起きようと思っても上手くいかない。目を覚ましたいと思うのに、どうしても瞼が開かないのだ。
(なにか……食べなきゃ)
 わかっている。何度もそう思うのに、食事が喉を通らない。人を寄せ付けないやちよのために、いつも部屋の前に置かれている料理。食べたいと思う。必要だとも思う。けれどどうしても、体がそれを受け付けない。
 これじゃない。食べては駄目。信用できない。
 自分の家だ。誰が毒を盛るはずもない。それでも体が、口にする事を避けた。違うというのだ。支離滅裂に。これではない。こんなものじゃない。足りない。足りない。これではない。
(……いろは)
 全身が、番の温もりを探している。彼女から齎される愛を探している。無意識の中から必死に手が伸びて、冷たいシーツを掴んで愕然とした。いない。いない。足りない。誰もやちよを守ってくれない。自分一人ではこの子を守りきれない。足りない。違う。無理だ。
(むりよ……)
 やちよ一人では。
(この卵は、孵らない)
 傍を離れられないやちよは、獲物を獲りに行く事もできない。卵から離れたらこの子は凍えて、死に篭ってしまう。けれどこのままこうしていたら、やちよも卵も死んでしまう。
(……ごめんね)
 あたたかい。振動も鼓動も感じないけれど、抱えた命は温かかった。けれどやちよは、卵を切り捨てるしかない。自分が生きるために、この命を諦めるしかない。決断するなら今だ。今決められなければ、卵を壊す事すらできなくなる。もう二週間近く、水しか口に出来ていないのだから。
(……できるかな。無理だろうな……)
 早く決めなければこのまま共倒れになってしまう。それはわかっていた。少し体重をかけるだけだ。それだけでいい事も解っていた。けれどやちよの体は動かない。頭ではそうするしかないと考えるのに、指先は優しく卵を撫で続けているのだ。守ろうとはどれだけ思っても、壊そうと決意は出来なくて。
 そうしてまた少し、朽ちていく。
(泣いてくれるかな……)
 やちよが死んだら、いろはは泣いてくれるだろうか。この身体を抱きしめて、悲しいと言ってくれるだろうか。離れていてすまなかったと、一緒に朽ちてくれるだろうか。
 考えながら、やちよは少しだけ笑えてしまった。いよいよ体がおかしくなってきたのか、かすかにいろはの匂いを感じた気がしたからだ。彼女の事が恋し過ぎて、いい加減狂ってしまったのかもしれない。
(あいたい……)
 ああ、考えるのはそればかりだ。一度思えばどれだけでもそう思う。
 卵から離れられないやちよは、自ら彼女に会いに行く事ができない。今ここを出たら、卵を奪われてしまう。だからただ巣に籠って、卵を温め続けている。
(せめて……)
 せめて、この子が産まれてくるまでは。そう思った。この卵がいつ孵るのかはわからないけれど、せめてそこまで生き延びたい。何も口に出来ずとも、求める愛が届かずとも。だって自分だけの卵ではない。これはいろはの卵でもあるのだから。
(いろは……)
 彼女はどうしているだろうか。会いたいと思っていてくれればいい。もしかしたらまた毛引きをして、綺麗な翼がぼろぼろになっているかもしれない。
(いろは……)
 小さい頃から、離れるのを嫌う子だった。いつもいつもやちよの後ろをくっついて回り、周囲からは本当の姉妹のようだと言われたものだ。甘えん坊でくっつき虫、忙しくして構ってやれないとすぐカーテンの裏に引き籠る。家の用事で二晩コロニーを空けた時など、食事も拒否して大変だった。いつもなら腕を広げれば簡単に吸い寄せられてくるのに、あの時は部屋の隅でどんよりしたまま。小一時間頭を撫で続け、冷え切った体をお気に入りのタオルケットで包んでやる。それからまた小一時間抱きしめ続けて、ようやく少し機嫌が盛り返した。
(ごはん……食べてなさそう)
 大好物のかぼちゃのスープと、木の実のパイ。温かい料理をやちよの手ずから与えてやって、体から少しずつ温めていく。たっぷり時間をかけてそれを食べきる頃に、やっとその手が伸びるのだ。寂しかった、と小さな体が甘えてくれば、やちよはどうしても苦笑してしまった。
(いろは……あいたい)
 涙が出そうだ。考えればまた少し、彼女の匂いが強くなった。どれだけ想ってもまだ足りない。どれだけ思い返しても、彼女が足りない。すん、と鼻を鳴らせば、またふわりと彼女の匂い。やちよが脆くなって、獣ばかりが研ぎ澄まされてきたのかもしれない。あるいはいろはの命が混じったこの卵から、彼女の匂いがするのかも。そう思ってはやっとの思いで薄目を開き、胸元に抱いた卵を顔の前まで引き寄せる。
「……?」
 そこで、やちよはようやく違和感に気がついた。意識の浮上と共に音が入ってくれば、その慌ただしさに疑問を抱く。響いたのは、あまりに日常からかけ離れた騒音だ。玄関の扉が乱暴に開く音、父の大声、母の悲鳴、数人の叫び声。そしてどたばたと、遠慮なく響く粗雑な足音。
(だれ……?)
 疑問は、すぐに疑心に変わった。一瞬にして神経が張り詰めて、畳まれていた翼が起き上がる。抱えていた卵を近くの籠にそっと移すと、やちよはほうほうの体で身を起こす。
(……どこまでやれる?)
 自身に問いかけて、少しも力が湧かない事に唇を噛んだ。二週間近く続く絶食のせいで、起き上がるだけでも息が切れる。もはや上半身を起こすのが精一杯で、卵をどこか安全な場所に移す気力すらない。
(それでもやらなきゃ……)
 奪わせたりしない。たとえ自分の命が尽きたとしても、この子だけは。思いながら大きく翼を広げ、そこでやちよははっとした。
「……いろは?」
 足音の合間に、自分を呼ぶ声がする。ぼんやりとして、薄い膜一枚張ったような現実の中。水の中にいるようなふわふわとした感覚の中、それでも確かに、彼女の声を聞いた。
 彼女の匂いが強くなる。いろはの気配が近付いて来る。ドアも窓も閉め切っていて、室内には風もない。そんな物感じられるはずもないのに、それでもやちよはいろはを感じた。全神経が、本能が、番をとらえた。
「っやちよさん……!」
 バン、と乱暴にドアが開く。必死になってベッドから降りようとしていたやちよの視界に、彼女が入ってくる。恋焦がれた番が、やちよのいろはが、泣きそうな顔でそこにいる。
「いろは……っ」
 翼はぼろぼろで、髪はぼさぼさで、その長身もいくらか細く弱々しくなった。冷え切った体は血の気がなく、その姿に涙が滲む。ベッドについていた両手を必死になって彼女に伸ばせば、いろはは弾かれたように走り出した。
「やちよさん……っ!」
 たった数メートルを転げるように駆け抜けて、いろはの両腕が伸ばされる。そして飛びこむようにやちよの体を抱き締めて、彼女は一つ、ギュウゥ、と鳴いた。抱きつく勢いは強く、どちらもそれを支え留めるだけの力が残っていない。そのまま二人、沈むようにベッドに倒れ込んで、互いの両手が掻き抱くように番を求めた。
「いろは……っいろは」
「やちよさん、やちよさん……っやちよさん」
 ぎしりと、音がする程だ。いろはが遠慮なく抱き潰してくるものだから、やちよの背骨は軋み、痛みすら訴える。苦しい、息が出来ない。肺の空気が一気に押し出されれば、酸素を求めて喉が痙攣した。あまりの力に息が詰まり息苦しさに涙すら滲んだが、それでもやちよは離れて欲しいだなんて思えない。自分から彼女を手放す事なんて、到底できやしなかった。今持てる限りの力を振り絞っていろはを抱けば、ギュウゥ、キュウゥ、と耳の傍で彼女が鳴く。必死になってやちよに体を押しつけてくるいろはは、震えて凍えて冷え切っていた。
「いろは……っ」
 その体を温めてやりたくて、やちよは夢中で彼女の体を撫で擦った。未だに巻いたままの包帯に気付いても、手を止めようなどと思えない。受けるいろはも嬉しそうで、痛いとも嫌だとも言わなかった。
「やちよさん、やちよさん……っ」
 傷は熱く、背中には激しい痛みを感じている。けれどそんなもの気にもならないくらい、いろはの思考はやちよだけで埋まっていた。愛しい、恋しい、心地良い。……あたたかい。彼女を感じるだけで、想うだけで、動かすのも億劫だった翼が広がった。それは自傷のせいで大分ボロボロになってしまっていたし、酷く不格好でもあったけれど。それでもやちよを包み込みたくて、痛みも気にせず翼を広げる。
「いろは……ああ、会いたかった」
「うん。うん。私も会いたかった」
 そのまま、覆い隠すように翼で影を作れば、やちよが嬉しそうに、キュウ、と鳴いた。それは初めて聞く、彼女の鳴き声だった。
「やちよさん……」
 彼女は力の制御が上手い。錠を開いているのに閉じたままのような、不思議な状態を作り出すのが上手かった。濃く強い野生の血を継ぎながら、他の誰よりも人間らしく、強固な理性を纏っている。そんなやちよが血に引き摺られ、獣としていろはを呼んだ。高い声でキュルキュル鳴いて、本能に振り回されるようにして番を求めた。好きだ恋しいと、その全身が叫んでいる。いろはに甘え、いろはを求めて、その手が必死に背中を掻いた。
「……っやっぱり、離れちゃだめだね」
 細い身体を我武者羅に抱き潰しながら、いろははぽつりとそう呟く。その声にやちよが頷いて、もっともっと縋りついて来るから。これ以上くっつきようなんてないのに、いろははもっともっとと体を寄せたのだ。


***


 すっかりと深い眠りに落ちているやちよを覗き込んで、いろはがうっすら微笑んだ。その背中を治療しながら、かなえもほっと息を吐く。後先考えずに抱き合ったせいで傷口は開いてしまったが、本人達が幸せそうなのでまあ良しとしよう。
「はい、縫い終わった。当分は激しい運動は控えて。交尾も駄目」
「抱卵期はしませんよ。やちよさんが受け入れてくれないと思いますし」
「君たちは不安」
「……はぁい」
 あの日の傷は、いろはの背中を深く斜めに横切っている。幾筋かの赤い溝は糸によって強引に引き寄せられ、醜く引き攣れ盛り上がっていた。刃物で切られた方がいくらかマシだ。もう少し綺麗な切り口ならば、ここまで痛々しい痕になる事はなかっただろうに。
「たぶん、痕が残る」
「いいです。勲章みたいなものだから」
「七海は気にする」
「でも好きでいてくれる」
 結局全ての基準はそこか。思いながら、苦笑が零れた。この二人の想い合い方は、穏やかなのか激しいのかよくわからない。傷痕にガーゼを押し当て包帯を巻いてやりながら、その肩越しに眠るやちよを眺めてみる。
 いろはが来た事で、やちよはかなり落ち着いた。ある程度近しい者なら部屋に入る事を許すようになったし、先程はみふゆに卵を預け、いろはに手伝ってもらって湯浴みを済ませたくらいだ。いくらか艶を取り戻した白い翼はまだ乾ききっていないが、いろはがせっせと風を送り続けているので心配はいらないだろう。その胸に卵を抱いて、やちよは穏やかな表情だ。先程むしり取ってしまった番の羽を片手に握り、それを口元に押し当てたまま眠っている。
「……かわいいなぁ」
 思わず漏れたのだろう。しみじみと呟くいろはに、かなえはもっと苦笑を濃くした。今泣いた烏がもう笑う。そんなことわざが頭に浮かんで、行き場のないまま溶けていく。
「研究所には私から意見書を出しておく」
「……意味あるんですか?」
「これでもれっきとした医者。学者としても認められてる」
「……」
「獣人研究であたしの右に出る者はいない。信じて」
「……はい」
 合成獣は、その存在の特異さから獣人側にも人間側にも属せない。獣人からは恐れられ、人間からは腫れ物のような扱いを受けるのだ。ただ、その事実はかなえに不利益ばかりをもたらすわけではなかった。どちらにも属さないという事は、どちらからの束縛も受ける事がない。獣人としてのルールも、人間としてのセオリーも、かなえにとってはまるで無意味だ。故に自由に動けるし、中立に位置する者の意見はどちらの要人もよく聞いた。
「ある意味雪野先生が一番怖いかも……」
「そんな事ない。あたしは争いが好きじゃないから、いつも争わなくていい方法を考える。喧嘩だって真っ先に逃げ出すし」
「喧嘩、弱いんですか?」
「強いよ。象人でも殴り殺せる。だからこそ力を使うのは嫌い。何かを守るために他の何かを痛めつけるのは良くない。全部失くす」
「……なるほど」
 重みのある言葉だった。過去の経験からそう言っているのだとすぐに察せて、いろはは小さく二度頷く。考えてみれば、かなえはいろはより一回り以上年上なのだ。難しい事は彼女に任せた方がずっと上手くいくだろう。
「ねえ環。少し協力してくれない?」
「どんなことをですか?」
「翼人の論文を書こうと思うんだ。翼を持つ者は、あきらかに他の獣人達とは違う」
 執着心、独占欲、そして依存。獣人に関する論文をいくつか仕上げてきたかなえですら、今回の事態は想定外だった。いや、事態を軽視し過ぎていたと言ってもいいかもしれない。
「太古は恐竜。君たちの祖先は地球の支配者だった。その時の哺乳類はまだ小さくて、恐竜が滅びるのを物陰でじっと待つしかなかったんだ。そして今、翼人だけが狙って深獣人を産む事ができる」
「……あの、難しい話はあんまり」
「あたしはね、環。君達翼人が、全ての始まりになるんじゃないかって思ってるんだ」
 この考えを誰かに話したのは初めてだった。あまりにも突拍子がないし、科学的根拠なんて無いに等しい。完全に勘だけで話をするのは苦手だったから。けれどこれ以上は、かなえ一人ではどうしようもない。根拠を得るには研究するしかないのだ。そのためには、この二人に協力を仰ぐのが一番いいと思った。
「話したくない事も聞くかもしれない。付き纏って嫌な思いをさせるかも。それでも協力してくれたら嬉しい」
 元々秘密主義が多い獣人の中でも、翼人はとりわけ秘密が多い。翼で番を隠すように、大切な物は全て覆ってしまう。だからこそ翼人ですら自分達の生態を理解しきれておらず、今回は全て後手ばかり。結果二人は短時間でかなり衰弱し、危うく卵諸共死んでしまうところだった。
「いいですよ」
 いろはもそれはわかっているのだろう。少しの逡巡はあったが、そう言って頷いてくれる。
「雪野先生の研究が、自分のためじゃないのはわかってます。私達のためにもなる。そして獣人全体のためにもなる。もしかしたら人間のためにもなるかもしれない。誰だって子供を奪われるのは嫌ですから。そうならないためにも、協力させてください」
「……ありがとう」
 強い瞳だった。かなえを見ているようで、それだけではない。今を見ているようで、遠い瞳だ。遥か先、もしかしたら世界全部を見て、いろはは薄く微笑んだ。
「私だけだったら……私だけが苦しいなら、人間なんて滅ぼしてしまえばいいと思ったかもしれない。自分達の方が圧倒的に強いんだから、力でねじ伏せればいいって思ったかもしれない。でも……この子が生きる未来が、幸せなものであってほしいから」
「……環」
「理解をしなきゃいけないですよね。人間も獣人も、お互いの事を。今のように物珍しく見てるだけじゃ、いつか絶対衝突しちゃう。今回それがよくわかりました。たぶんこれが最初の一歩だと思うから。だから私は、喜んで協力します」
 やちよさんの説得に少し時間をもらうかもしれませんけど。そう言って微笑んだいろはが、かなえにはとても眩しく見えた。他者に振り回されて散々嫌な思いをしたばかりだというのに、その他者のために心を砕こうというのだ。それは簡単な事ではない。とても尊く気高い行為だと思った。
「じゃあ、これからよろしく。あたしの事はかなえでいい」
「よろしくお願いします、かなえさん。私の事もいろはって呼んでください」
「うん、いろは」
 少し迷ってから手を差し出すと、いろはは躊躇いもせずにその手を掴んでくれる。しっかりと握手をした二人は顔を見合わせ、それから照れくさそうに笑い合った。


***


 ゆらり。微かな振動を感じて目を開く。ゆっくりと瞬きをすると、ごく近い距離からいろはがそっと微笑みかけてきた。
「……おはよ」
「おはよう」
 再会から一週間。かなえが報告書を提出してくれたおかげで、人間達はすっかり大人しくなっている。一度だけ、援助の申し出と謝罪を盾にしてずかずかと家に上がり込んできた事があったが、警戒心を剥き出しにしたやちよと、番を守ろうとするいろはの威嚇を見て、すぐに逃げ帰っていった。そしてそれがかなえの報告書の証明にもなったようで、その後は文書での謝罪を一回。そして二度と介入しないので許してくれとの懇願があったくらいだ。
「……動いた?」
「うん。動いた」
 二人の手の中、卵は少し軽くなってきただろうか。毎日触れているので解り辛いが、卵が軽くなるのは中の子供が成長している証だ。殻に開いた数万の穴から必死に呼吸をして、わずかな熱を放出している。ただの有機物だった塊が明確な命となっていくにつれ、呼吸が増えて二酸化炭素の排出量も増していくのだ。そうして徐々に内部の炭素を減らしながら、卵は軽く、子供は大きくなっていく。
「……いろははどれくらいだった?」
「ぴったり四十日。この子の方が少し早いかもしれない」
 卵生の話を聞いて、いろはの両親が持ってきてくれた抱卵日記。その中の記録よりもいくらか早い成長に、目を細めるいろはは嬉しそうだった。その頬にだいぶ赤みが戻って来たのを確認して、やちよもゆっくりと頬を緩める。
 二人揃って衰弱したせいで、体調を戻すのにはかなりの時間が必要になりそうだった。常に気が昂り、それ故に体力の消耗が激しいやちよ。いろはの手からしか食べ物を受け付けない今の状態では、彼女の体調まで気遣ってやれる余裕がない。それでもやちよより少し遅れて調子を取り戻しつつあるいろはは、見た目だけはすっかりといつものままに見えた。
「……翼人の執着心、ね」
「熊人は有名でしたけどね」
 かなえの報告書に目を通した二人は、その内容に思わず顔を覆ってしまった。この間の諸々が事細かに書かれているだけで大分恥ずかしいのだが、小さい頃のいくつかの事象にまで言及されていたので真っ赤になってしまったのだ。本人達は忘れていた事実まで掘り下げられれば堪ったものではない。
「というか……この間の事に触れる必要ってあった?」
「うーん、インパクト、かな」
インパクトねぇ……」
 ここで、かなえの報告書の〆。人間を諦めさせる決定打になった文章を紹介しておこう。
『特に、深度の深い翼人は、番を守ろうとすると周囲が見えなくなる。たとえ善意からくる行いであったとしても、二人を引き離そうとする人物、または番の許に向かうのを止めようとする人物が現れると本能が暴走する。怪我をしたBに触れようとした他者に対して、Aが暴風をぶつけた事があったが、この時の暴風は変化した状態の熊人を押しのける程であった。また、Aの許へ向かおうとするBを宥めようとした者は、全員病院送りとなっている。鳥類は巣を襲う外敵を何キロにも渡って執拗に追いかけ回す事もあるようなので、手を出すからには相応の仕返しを覚悟する必要があるだろう。再三の警告になるが、翼人の執着心を甘く見てはいけない。その執着心は、敵と認識された者にも向けられる。触らぬ神に祟りなし、だ』
 とまあ、こんな具合である。
「たしかに、いろはの執着心はすごいけどね」
「そうかなぁ……皆言わないだけで、番の前だったらこんなものだと思いますよ」
 実際いろはの母だって、父が帰ってくればずーっと傍にくっついたままだ。オウムの血が流れているのは母方なので、その影響も多少はあるかもしれないけれど。
「私の事、好き?」
「もちろん。聞く必要もないくらい」
 かくいうやちよだって、求愛期の間はいろはにべったりになる。抱きしめるどころか唇で触れていないと落ち着かないので、その間はキスの嵐だ。
「好きって言って」
「好きです」
「もう一回」
「……」
「? ……なに?」
「……やちよさんもあんな風になるなんて思わなかった」
 愛情の確認をするやちよをじっと覗き込んで、いろはは少し眉を下げる。どことなく切なげな……あるいは滲む喜びを抑えるような表情に、やちよもとろりと笑みを返した。
「自分でも思わなかったって言ったら……怒る?」
 やちよは自分を、もう少しドライで冷たい存在だと思っていた。両親に対しても特別な愛情は抱かず、精々育ててもらった恩を感じる程度。親しい友人に対しても腹の内を明かす事なんて滅多にないし、心の底から欲しいと思った物など一つもなかったから。
「怒らない。やちよさんも知らないやちよさんを見つけられたなら、それが私のせいなら、とっても嬉しいから」
「……いろは」
 いつの間にこんなに我儘になっていたのだろう。そう思うと、じんわりと涙が滲んだ。ずっといろはと一緒にいたせいで、甘えん坊のくっつき虫が移ったのかもしれない。
「おかしいなぁ……私、いつからこんなにいろはの事が好きになったんだろう……」
「知りたい?」
「うん」
「たぶん、初めからですよ」
 だって私もそうだったもん。そう言って、いろはが下手くそなウィンクをした。
「ふふ、うん。そうかも」
「でしょ? きっと別の出会い方をしても、惹かれ合ってたよ。私とやちよさんが出会って、別々でいられるわけないです」
 それは全く根拠のない言葉だったけれど、それでもやちよは納得する。いろはがあんまりにも自信を持って告げてくるから、まるで本当の事のように思えて笑ってしまった。
「……好きよ、いろは」
「うん。私も好き」
 以前のやちよなら、きっとこんな風にはならなかった。いろはと出会わずに大人になったやちよなら、こんな風に弱ってしまう事はなかった。本能に引き摺られ押し倒されて、めそめそ泣きながら朽ちていく事なんて有り得なかった。
「私、弱くなったわ」
「ううん、ちがうよ」
 それをやちよは弱さだと思った。けれどいろはは違うと言った。
「弱くなったんじゃない。思い出しただけ。私が甘え方を思い出したみたいに、やちよさんも思い出しただけだよ」
「……なにを?」
「一人ぼっちじゃないんだって」
 やちよは一人でも強く在れると思っていた。けれどいろははそう言って笑うのだ。
「……そっか」
「うん」
「そっかぁ……」
 思い出しただけ。戻ってきただけ。やちよの中にずっとあって、それでも見ないようにしてきたもの。
 それをようやく、受け入れられただけ。
「……ありがとう、いろは」
 言って、微笑めば。いろははとても眩しそうな顔をする。
「……好きだよ」
 それから少しだけ頬を染めて幸せそうに笑い、そう言ってくれたのだ。
 くしゃりと歯を見せて、いとけなく笑う彼女。それはまるで、あの写真の中の、いつか見惚れた少女のようだった。