どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

翼人04


「ねえ、ちょっと相談したい事があるんだけど……」
 やちよが二十歳になってから数ヶ月経ったとある朝。今日も今日とて医務室で過ごしていた彼女が、不安そうにそう切り出した。

  最近、やちよは少し調子を崩している。求愛期でもないのに翼が仕舞えず、その上体がだるくて熱っぽい。眠りは浅く、夜中に何度も目が覚めた。やけに喉が渇くわりには、水分を取ると気持ち悪くなる。そんな毎日。
 いろはの翼に包まれていればいくらかましになるのだが、それでも精々、目覚める回数が五回から三回になる程度だ。しかも一度目が覚めてしまえば、何かを口にするまで決して眠れる事はない。諦めて氷でも舐めようかと思う度、いろはの事が気にかかった。
 錠を外し変化を解放した獣人は、オフの状態。これは以前説明したが、それがイコールで眠りが深いというわけではない。自然体でいるので確かに気を緩めてはいるのだが、獣の本能が出てきている以上、眠りは浅く途切れ途切れになる。必然、身を起こす度にいろはを起こしてしまう事になり、それがやちよを申し訳ない気持ちにさせていた。
 これでまだ、いろはが普通の日常を送っているならばよかったのだ。けれど今の彼女は成人試験の真っ只中。急降下や急旋回、危険な飛行を繰り返し行わなければいけないその時期に、良質な睡眠を取れないのは致命的だ。試験自体は合格するまで続けてくれるので、落第などの心配はない。問題なのは、実技中に怪我をしないか、という事だ。いろはは心配いらないと言って笑うが、過去に実例がないわけではない。急降下からの切り返しに上手くいかず、そのまま地面に叩きつけられた翼人。命まで落としはしなかったが、脳をやられて重度の障害が残ってしまったと聞く。やちよはいろはにそうなって欲しくない。万全な状態で試験に臨んで欲しいのだ。
 実際、試験が近くなったら部屋を分ける姉妹も多い。だからやちよも少し前から部屋を出て、具合が悪い事もあるので医務室にお世話になっているのだが。
「相談ですか?」
 なんでしょう。そう言って微笑む親友に、やちよは少し眉を下げる。
 コロニー務めの校医は普通の校医とは違い住み込みだ。全寮制のコロニーでは夜中の緊急事態も多く、しかも獣人達は人間の医師には診られない。なので学校内の医務室とは言えども、手術から入院まで幅広く対応できるようになっていた。
 そこに赴任して約半年。ようやく様になってきたみふゆに、やちよはこう切り出してみる。
「風切り羽が落ちている事があるの」
 主語が抜けた。自分で思っているよりも冷静さを欠いているらしい。慌てて言葉を続けようとすると、みふゆが微笑んだまま片手を上げる。そしてその手でやちよの肩をぽんぽんと二度叩き、少しだけ首を傾げた。
「やっちゃん、誰がどこで何をしたゲームですよ」
 幼い頃から、やちよはたまに言葉が足りなくなる時がある。焦っている時や悲しい時、嬉しい時もそうかもしれない。感情が昂っている時は文法が滅茶苦茶になりやすく、その度みふゆがこうして落ち着かせてくれるのだ。
「誰が」
「……いろはが」
「どこで」
「いつかはわからないの。寝てる時かもしれない」
「何をした」
「……たぶん、自分で羽を抜いてる。ううん、千切ってるのかも」
 思うに、やちよは相当な重圧を背負っていたのだろう。血統書付の家庭に生まれ、しかも両親は極度の純血主義。七海の家は代々同じ鷹、もしくは鷲としか交わらず、それ以外の獣人と交わろうとした者は籍を抜かれるくらいだった。その本家に生まれたやちよは、両親どころか親戚中の期待を受けて、幼いながらに既に病んでいた。自身の不安を口にする事に異常な程の罪悪感を覚え、怪我をすれば真っ青になる。失敗なんてすれば、それがどんなに小さい事でも泣きそうな顔をした。自身にはどうしようもない深度評価ですら、何年も前から気にしていたのだ。その度みふゆがこうして宥め、やちよは徐々に落ち着いていった。
「その羽って持ってこられますか?」
「……たぶん。ゴミ収集は明日だし、今日はまだゴミ箱の中にあると思うわ」
「じゃあ持ってきてもらってもいいですか?」
「わかった」
 同じ血統書付でありながら、みふゆはいつも失敗だらけ。けれどそれを気にする素振りも見せなかったので、拍子抜けした部分もあったかもしれない。親の監視から離れたせいで、自分一人でもしっかりやらなければと思ったやちよ。親から解放されたおかげで、逆にのびのびとマイペースになっていったみふゆ。両極端だけれどどこか似た二人は、助け合う内に当たり前のように親友になっていった。
 みふゆに言われてぱたぱたと自室に戻っていくやちよの背中を見送りながら、くすくすと忍び笑いが漏れてしまう。いろはの事で心乱す彼女を見る度に、みふゆはどうしても微笑ましい気持ちになってしまった。だって、あの時のやちよの笑顔が脳裏に蘇ってくるのだから。

***

「みふゆ! 聞いて聞いて! 明日ね、妹が来るの!」
 そう言って満面の笑顔を浮かべるやちよに、みふゆもぱっと顔を輝かせた。そんなみふゆの隣でぽかんとした顔をしているのは、みふゆの妹である月夜だ。蹄人、鹿の血を持つ彼女は、双子の姉妹と共に一昨年コロニーにやってきた。
「やちよさんは妹がいないんですか?」
 不思議そうな彼女の言葉に、頷いたのはみふゆの方だ。完全に浮かれているやちよに説明を任せたところで、絶対に主語を欠いた言葉しか出てこない。
「ええ。血統書付は、性格的にも身体的にも相性が良い相手でないと、姉妹になれないんです。私の場合は早い段階で月夜さんがきてくれましたけど、人によっては十年近く単身の場合もあるんですよ」
 みふゆもやちよと同じで、コロニーに入った当初は姉がいなかった。なので同じ蹄人の大人から教育を受けたのだ。けれど次の年に月夜が入ってきてくれたので、単身の時期は一年だけだった。
「いろはって言うの。写真を見せてもらったんだけど、とっても可愛いのよ!」
「よかったですね。ずーっと待ってましたもんね」
「うん!」
 まるで少女のようだ。いや実際まだ十三歳の少女ではあるのだが、あまり少女らしい部分がなかったので余計にそう思う。コロニーに入った時から大人びていて、無表情でいる事も多かった。最近ようやっと年相応の笑顔を見せるようになってきたが、それだってたまにでしかない。そんな彼女が頬を染め歯を見せて、いとけない幼子のように笑っている。それがみふゆには嬉しくて仕方なかった。
「今日が十歳のお誕生日なんですって。その翌日には親御さんと引き離されてしまうのは可哀想だけど……ああ、やっぱり喜ぶのはよくないかしら?」
「そんなことないと思いますよ? 見知らぬところに連れて来られて、きっと不安だと思います。そんな時、自分に会えるのを楽しみにしていたという人がいれば、きっと救われます」
「……そう? そうかな。そうだといいな……」
 まるで恋をしているようだ。嬉しそうな顔から一転、不安そうに俯いて、みふゆの言葉に顔を上げる。しきりに両手を組み合わせる姿は照れくさそうで、そんなやちよを見ているだけで幸せな気持ちになった。みふゆの隣では、月夜もにこにこと嬉しそうにしている。完璧、という言葉で飾り立てられ続けてきた彼女が、こんなに色々な表情を見せるのなんて初めてだ。それを思えば、きっと誰でもこんな表情になるだろう。
「恋する少女ですね」
「だって未来のお嫁さん候補よ?」
「そういうのはキライかと思ってました」
「私はみふゆと違って運命を信じるタイプなの!」
 血統書付に宛がわれる姉、もしくは妹は、許嫁の意味合いも持っている。けれど法律で縛られるわけではないので、やろうと思えば自由恋愛だって不可能ではなかった。実際みふゆと月夜は別々に恋する相手がいるので、姉妹で結ばれるつもりはないようだ。それはそれで素敵だとは思う。けれど前言の通り、やちよは運命に憧れを持っていた。
 だって生まれは選べなかったのだ。宿命は辛かった。苦しみしかない十年はどうしようもなかった。ならばせめて、運命くらいは信じてみたい。素敵な未来が待っているのだと思っていたかった。それを他の誰にも言うつもりはなかったけれど、やちよはそうやって祈っていたのだ。
 楽しみだった、嬉しかった。けれどこの時のやちよは、それ以上に不安で仕方なかった。こうやって空元気を振り絞っていなければ、どうしても膝が震えて泣き崩れてしまいそうだったのだ。もし合わなかったらどうしよう。もっと苦しくなったらどうしようと、不安はいくらでも胸に積もる。けれど。
「いろは……いろはでいいかな。環さん? どうしよう。なんて呼んだらいい?」
「ふふ、名前で呼んであげるといいですよ。妹なんですから、他人行儀の方が緊張しちゃいます。ねえ月夜さん」
「そうですね。名前の方が親近感はあると思います」
「……さん付けの二人に言われてもね」
「ちゃん付けは、月咲ちゃんだけの特別ですから」
「ワタシも、やっちゃんは特別なんですよ?」
「はいはい、ありがとう」
 おちょくってくるみふゆを軽くあしらって、教師に見せてもらった写真を思い出す。四角い紙きれの中で、花束を抱えた少女が微笑んでいた。ピクニックに行った時の写真だろうか。母親に抱かれ頭に花の冠を乗せて、色とりどりの花を抱える可憐な少女。
(仲良くなれるかな……)
 そうだ。不安だ。不安で仕方ない。けれど写真の中で微笑む彼女に、すでに惹かれている自分がいた。それをやちよ自身でも止めようがなかった。一目惚れという言葉を生まれて初めて実感したし、それに気付けばどうしても胸が高鳴って仕方ない。空元気が本当の元気に変わっていくのを感じれば、照れくささに頬が緩む。知らず知らずのうちに手が心臓を押さえていて、それに気付けばもっともっと恥ずかしくなった。
「嬉しそうですね」
「ねー」
 恐る恐る顔を上げた先、二人に笑われて頬が熱くなる。けれどこの時のやちよは、からかう二人を怒ったりしなかった。どうしても緩んでしまう頬を自分でもどうしようもなくて、ただ笑いかける事しかできなかったのだ。
 そして、運命の日。
 満十歳の誕生日の翌日。親元から引き離された獣人の子供は、その日一日を使ってあらゆる検査を受ける。採血からレントゲン、視力や聴力、そして子供を作れるかどうかまで。酷い話ではあるのだが、国に……ひいては世界に管理されている獣人には、人権というものが殆ど無い。今大事なのは個体数を増やす事で、そのためには繁殖能力がなくては困るのだ。だからコロニーに入った時点で、妊娠が可能か、精液に種があるか、その両方をチェックされる。それらの機能が完成するのが十歳前後だから、コロニーに入るのは満十歳を迎えてからなのだ。そして一晩明けた後に検査結果が出て、必要な項目を全てパスしていれば姉の下に宛がわれる。
 それを知っているからこそ、やちよはその夜一睡もできなかった。ここまで来て駄目だったらどうしよう。一度そんな不安が首をもたげてしまえば眠れなくて、結局いろはに会うその瞬間まで、やちよはどきどきしたままだった。寮母が呼びに来て、待ちに待った御対面よ、と言われても、上手く笑えなかったくらいだ。
 なのにいざ寮の面談室に入って、一目彼女を見た瞬間、やちよは自然と笑顔になっていた。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。写真でしか、しかも一度しか見た事がなかった少女が、こうして目の前にいる。泣きべそをかいて不安そうで、目の周りは腫れて鼻水も出ていた。くしゃりとしかめられた顔はやちよが見惚れた笑顔とはまるで違ったけれど、それでもとても嬉しくなったのだ。
「まるでコインの裏表ね」
 そう言って笑う寮母に頷き返して、やちよは少し体をかがめる。
「……はじめまして、いろは。私はやちよ。七海やちよ」
「っう、ひぐ、う……っ、や、ちよ……っ?」
「うん、いろは。私ね、あなたをずっと待ってたの。ずーっと待ってた。会えて嬉しい」
「えぐ、う、うぅぅ……っうぇぇえん……っ」
 感動の対面とはいかなかった。いろはは一度やちよを見てくれただけで、あとは泣きながらカーテンの裏に隠れてしまう。すっかりと尻を向けてしまった彼女に寮母はやれやれと眉を下げたが、振り返った先のやちよを見て驚いた顔をしたのだ。だってやちよが、あのやちよが。教師を言い負かす事もある大人びた少女が。喜色満面に、にこにこといろはを見ていたのだから。
「いろは、ねえいろは」
 それどころかとても優しい声を出して、カーテンの傍にしゃがみこむ。その声にちらりと顔を出したいろはに微笑みかけて、彼女は言うのだ。
「私はいろはのお母さんの代わりにはなれない。でも頑張る。本当のお姉ちゃんじゃない。だけどそう思ってもらえるくらい一緒にいる。いろはが泣いたら撫でてあげるし、寂しかったら手をつないであげる。痛かったらだっこしてあげるし、どんな時だって一番最初に助けに行くから。だから、ね? 仲良くしてくれると嬉しいな」
「……」
 白い翼が、ふわりと大きく広がった。まだ少しだけ産毛の残る、けれど綺麗で大きな翼が、いろはの眼前でゆっくりと広がっていく。窓から差し込むのは真夏の太陽。三時過ぎの強い光は白い翼を輝かせて、それがやちよの輪郭をぼかせば目がちかちかした。
「やちよさん……?」
「うん」
「……いろは、です」
「うん。いろは。教えてくれてありがとう。いろははいい子だね」
「……」
 ぴたりと、涙が止まった。カーテンでぐしぐしと顔を拭いたいろはは、そのままもじもじとやちよの前まで歩いて来る。
「いろは」
「……うん」
 たった数歩の距離なのに、やけに時間をかけたものだ。一歩近づいては少し戻り、二歩近づいたと思ったらカーテンまで戻ってもう一度顔を拭いて。やっとの思いでやちよの前までやってきたいろはは、ちらりと視線を上げて、またすぐに俯いてしまう。そんな彼女の前に膝をつけば、小さな肩がびくりと震えた。
「いろは」
「……はい」
「今更だけど、いろはって呼んでもいい?」
「……ん」
「ありがとう」
「うん……」
 その肩に触れていいのか、迷ったのは一瞬だ。怖がらせないようにそっと手を伸ばせば、いろははそれをだっこの合図と思ったようだった。やちよが伸ばした手を通り抜けて小さな体全体がくっついてくれば、感動で涙が出そうになる。それ程の衝撃が、やちよの体を貫いた。
「……これからよろしくね」
「……うん」
 この歳の子供の平均からすれば、小柄な方だろうか。遠慮なしに抱きしめた体は軽く、柔らかかった。どこもかしこもまだふにゃふにゃとしていて、いかにも子供ですといったすべすべの肌が気持ちいい。だっこと勘違いして素直に体を寄せてきた割には、やちよの背中に触れる手はやけに遠慮がちだった。それに少し微笑んでから、一度だけ強く抱きしめてやる。腕にぎゅーっと力をこめたら、いろははかなり驚いたようだった。解放してやると同時にやちよを見上げた瞳は、丸く見開かれて今にも零れ落ちそうだ。それににこりと微笑みかけてやれば、ぱちくりと立て続けの瞬きが涙を弾く。濃い睫毛に乗った雫を煌めかせ、いろはは、やちよの妹は、ようやく小さな笑みを浮かべた。それは写真の中の笑顔よりはいくらも弱々しくて、あまりにも控え目ではあったけれど。
 やちよにとっては、生涯忘れられない笑顔になったのだった。


***


「持って来た、わ……いろは?」
 みふゆに言われた物を持って医務室に戻ったやちよは、そこで思わぬ人物を見つけて目を瞬かせた。いや、思わぬ人物と言うのは失礼だろうか。コロニーで生活している以上、彼女にだってここを利用する権利がある。けれど滅多な事ではここには近付かないので、少し驚いたのだ。
 みふゆが校医になってからというもの、いろはは医務室を若干避けるようになっていた。出会いが出会いだっただけに気まずいのか、あるいは彼女から自分の知らないやちよを聞くのが怖いのか。もしくはその両方の可能性もあるだろう。とにかく多少の怪我くらいだったら医務室には行かないので、一瞬目を疑ったくらいだ。
「やっちゃんに会いに来たんですって」
 何か怪我をしたのかと思って口を開くと、それを察したようにみふゆが先回りして教えてくれる。その隣で不自然に口を開いていたいろはは、その言葉を聞くと唇を引き結んだ。どことなく不機嫌な彼女に首を傾げつつも、やちよは室内に足を踏み入れる。
「休み時間?」
「はい」
 問いかけると、いろはは憮然としたまま頷いた。もちろん顔は笑顔のままだが、やちよにはその裏の不満が透けて見える。独占欲が強くてヤキモチ妬き。みふゆを未だ敵視しているのがわかればどうしても眉が下がった。
「いろは、来て」
「……なんですか?」
「ほら、ちゅー」
 そんな恋人の前まで歩いていって首に腕を回せば、彼女は素直に驚いた顔をする。それからちらりとみふゆを見て、すぐに錠を外すと翼を広げた。足が鷲のそれに変われば踵の位置が上がり、元々の頭一つ分あった身長差がもっと開く。やちよだけの大きな影は、今は少しだけ乱暴だった。翼ですっぽりとその体を覆い隠して、風が纏わりつき腕までもが伸ばされる。ぐいと強く抱き寄せられた次の瞬間には唇が触れて、それでも足りずに舌が侵入した。
「ん……っ」
 ぬるりと口腔内に入ってくる筋肉の塊は熱く、少しだけ甘く感じる。普通のキスのつもりだったのに深く愛撫されたのには驚いたが、考えてみればしばらくご無沙汰だ。この間のパーティーで友人が言った、いろはの翼なら密室が作れそう、という言葉が脳裏を過ぎれば、腰の辺りに甘い痺れが駆け抜けた。
「こら」
「わぇっ!?」
 けれど、そこまで。やちよを抱き寄せていた腕が急に離れ、いろはの体がふわりと浮く。それどころか自分の意思とは関係無しに錠がしまり直して、彼女は素っ頓狂な悲鳴を上げる事になった。
「病人相手に盛るんじゃない」
「ゆ、雪野……せん、せい」
 まだ幼体とはいえ、いろはは殆ど成長を終えている。百八十近い長身を抱き上げた事もそうなのだが、深度四の獣人に対して強制的に錠をかけ直すだなんて、中々できる事ではない。
 それをした張本人は涼しい顔で、いろはを抱き上げたまますたすたと出口まで歩いていってしまう。
「ここは怪我をした人と具合の悪い人が来るところ。わかるよね」
「……はい」
「出禁にされたくなかったら慎みなさい」
「はい……」
 そして足で扉を開けると、廊下にいろはを下ろして腕を組んだ。静かに叱りつける声は優しいが、あの目にじっと睨まれているのかと思うと少し不憫になる。態度も穏やかで、言葉の内容だって仕草だって、全てが柔らかい人だ。養護教諭としては満点。顔が怖くなければ、だけれど。
「環はまず、ちゃんと授業に出なさい。担任の先生が探してた。試験期間だからって普通の授業をさぼったら駄目」
「……はい」
「梓先生もちゃんと言わないと駄目だよ」
「えっ、あ、は、はい」
 いろは相手に言わなければいけない事は言いきったのだろう。不意にその矛先が変わり、鋭い目元がみふゆを射抜く。その瞬間に上擦った返事が聞こえ、いろはがきょとんと顔を上げた。
「同期がいるから気が緩むのはわかる。七海はもう成人もしているしいいけど、環にはもう少し厳しくしなきゃ」
「はい、あの、ご、ごめんなさい」
「ん。わかればいい」
 そして真っ赤なみふゆをまじまじと眺めて、段々と楽しそうな笑顔に変わっていく。その表情の変化をつぶさに見ていたやちよは、笑わないように堪えるので必死だった。先程までの苦手意識が一転。好奇心混じりの安堵が彼女を包み込むのが見て取れれれば、おかしくて仕方なかったのだ。
「環。いつまでそこにいるの?」
「っはい! はい、すみませんでした。失礼しまーす!」
 諌められて方向転換した背中すらどことなく楽しそうで、どうしても口角が上がってしまう。こちらに手を振ってから廊下を駆けていく彼女は見るからに浮かれていて、とうとうやちよは吹き出してしまった。
「ふ、ふふ……っ!」
「やっちゃん!」
 その理由を察したらしいみふゆに咎められるが、どうしても笑いが止まらない。必死になって口を押さえて顔を背けても、肩が震えるのを抑える事はできなかった。
「どうしたの?」
「な、なんでもないんです。ちょっと、思い出し笑い」
「そう?」
 渦中の人物は不思議そうな顔だ。じゃあ私は会議があるから、と出ていく後ろ姿を見送って、やちよはようやく涙を拭う。そして真っ赤なままのみふゆを見て、ちょいと首を傾げた。
「……告白はしたの?」
「……されました」
「された!?」
 けれど返ってきた言葉に、からかいの気持ちなんかすっかり吹っ飛んでしまう。なんという事だろう。急展開だ。
「ど、どうやって?」
「職場恋愛は嫌かって……」
「な、なんて?」
「嫌じゃないって……」
「そ、そしたら?」
「じゃあ結婚を前提に付き合って欲しいって……」
「積極的!!」
 ここ最近の体調の悪さなど、正直一瞬で吹き飛んでしまう。それくらいの衝撃がやちよの体を駆け抜けた。親友の恋にやっと進展が、なんてものではない。このまま一気にゴールしそうだ。
「み、みふゆはもちろん?」
「お願いしますって……」
「わーお」
 驚いた。驚きすぎて、なんなら少しキャラが崩れた。いや、みふゆの態度から、進展があったのかなとは思っていたのだ。けれどまさかそこまで話が進んでいたとは思わなかった。何より相手が微塵もそんな素振りを見せなかったものだから、両想いだとも思っていなかったのだ。
「雪野先生って合成獣(キメラ)よね?」
「はい。この間初めて変化を見せてもらいましたけど、なんだかすごい状態でした……」
 雪野かなえ。今年で確か三十歳。十年前……丁度やちよ達がコロニーに入った時に赴任してきた養護教諭で、それからずっとここで働いている。赴任してきた当初は、その強面のせいで近付く生徒などいなかったくらいの彼女だが、今ではある程度の人気を誇っていた。曰くミステリアスな雰囲気が素敵。曰くクールな対応に痺れる。曰くあの目に見つめられるとぞくぞくする。まあ多少コアなファンが多いのは否めないが、処置も素早く的確なので、やちよも絶対の信頼を寄せていた。
「……実は、一度告白したことがあるんです」
「なにそれ初耳なんだけど」
「その時はふられちゃいましたから……」
「なによそれも初耳だわ」
 みふゆの話をまとめると、つまりこういう事らしい。十の時に恋心を自覚して、誰かに取られる前にと告白へ踏み切った。けれどその時は幼さと年齢差を理由に断られて、十年経ってまだ好きなら、という返答を得るにとどまったそうだ。そして十年きっちり待った上で、今度はあちらからの告白に至った、と。
「……ずっと好きだったの?」
「どっちがですか?」
「雪野先生」
「うーん……はじめは微笑ましい程度だったらしいんですけど、段々意識はするようになったって」
「そんなに熱烈だったのね」
「ぶっ、ち、違います! ただ、あの、お手紙はずっと出していて……」
「…………古風」
 コロニーを卒業してからも、手紙のやり取りは続けていたらしい。そして養護教諭になって古巣に戻り、十年越しの恋を実らせたわけだ。
「素敵ね」
「本当にそう思ってますか?」
「思ってるわよ。本当に素敵。おめでとう」
「……ありがとうございます」
 やちよがにっこり微笑めば、みふゆもようやく穏やかな表情になる。ふんわりと浮かべた笑顔が本当に嬉しそうだったので、やちよの心もぽかぽかと温かくなった。幸せのお裾わけはどんな時でも嬉しいものだ。特に親友の幸せならば、喜びはいくらでも大きくなる。
 みふゆの実家やかなえの変化の事を考えると順風満帆とはいかなさそうだが、その辺りはやちよも役に立てるだろう。
「何と何が雑ざってるの?」
「メインは白クマで……あと、たぶん羊と獅子です」
「ごちゃごちゃね」
「深度は三なんですけどね。変化の時は殆ど全身変化に近いです」
「それ服が破れるんじゃないの?」
「……まあ、だから」
「……なるほど。そこまで進んだわけね」
「もう許してください……」
 合成獣。キメラと呼ばれる奇形体は、先祖返りの雑種に稀に生まれる突然変異だ。獣人は基本的には同種と番い、翼人なら翼人の子供を産む。けれどたまに別種と結ばれる者がいて、その間に生まれた子供、もしくは混血の血を引いた子孫に、両者の特徴が現れる事があるのだ。けれどそれはかなり稀な事。珍事中の珍事だ。まだそう長くない獣人の歴史の中でも、合成獣は三人程しか生まれていない。
「それにしても……かなり雑じってるわね」
「本人は奇天烈な親戚が多いって」
「なるほど?」
 獣人の遺伝は、基本的には生みの親に引き摺られる。いろはとやちよを例に取れば、いろはが子供を産めば鷲が、やちよが子供を産めば鷹が生まれる確率が高い。みふゆとやちよの間に子供が生まれたと例えれば、みふゆが産んだ場合羊が、やちよが産めばやはり鷹が生まれる可能性が高いわけだ。まあ、この例えはいろはを怒らせそうなので心の中だけに留めておくけれど。
 そういった遺伝の中で、それだけの種類が雑じる。そもそも他種族婚が多い一族自体が驚きだ。きっと自由な家風なのだろう。
「実家のご両親には言ったの?」
「まだです」
「いざとなったら口添えするから」
「ええ。そうしてくれるととても助かります」
 厳格なみふゆの親と、聞くだけで面白そうなかなえの両親。会った瞬間に新たな宇宙が生まれそうだと思う。つまり大爆発。それを思うと多少頭痛を覚えもしたが、やっと実った親友の恋だ。是非ゴールまで行って欲しいと思った。
「だいぶ話が逸れてしまいましたね」
 やちよに話してすっきりしたのだろう。ここ最近で一番穏やかな表情をしたみふゆが、そう言って苦笑する。流れを本来あるべき物に戻そうとする彼女に同じような笑顔を返して、やちよはパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
「これなんだけど……」
 そこから取り出したのは、黒い羽。最近よくゴミ箱に捨ててある、いろはの羽だ。根元の辺りで歪に千切られているそれをみふゆに渡し、やちよは当初の心配事を口にする。
「いつ抜いているのかはわからないの。でも最近よく落ちていて……」
 試験の真っ最中なのに、風切り羽を千切ってしまうなんて自殺行為だ。たった数枚抜けただけでも風を掴む力は弱くなる。それなのにここ最近、毎日大きな羽が捨ててあるのだ。
「うーん……」
 何かの病気だろうかと不安なやちよの前で、みふゆは神妙な顔をしている。千切れた羽を色んな角度から眺め、それから彼女は少しだけ首を傾げた。
「最後に交尾をしたのはいつですか?」
「……それ関係あるの?」
 すっかりと医師の顔だ。ごもっともなやちよの質問に、当然です、と頷き返すみふゆは、からかいなどない真剣な表情をしている。それを見て取って、やちよも真面目に記憶を辿った。
「二週間くらい……前? うん、たぶんそれくらい。そこからこっちで寝るようになったから」
「日中に顔を合わせる時間は?」
「時間が合えば昼食と……あとは授業が終わった後に少しだけ。夕飯を一緒に食べても、三時間から四時間くらいかしら」
「……なるほど」
 簡単な問診だった。しかも本人ではない。けれどみふゆは頷いて、きっぱりと結論を出す。
「失恋症候群ですね」
「し、失恋……っ?」
 そして出てきた言葉に、やちよはうっかり卒倒しそうになった。一気にさーっと血の気が引いて、傍のベッドにへたり込む。
 まさか。まさかだ。あのいろはが、やちよに内緒で別の恋をしていたと言うのだろうか。そしてなんやかんやふられて、今はそれに落ち込んでいると? たった二週間体を許さなかっただけで別の女に走るだなんて、どれだけ好色なのだろう。そもそもやちよの可愛いいろはをふったのはどこの女だ。どこに出しても恥ずかしくない立派な翼人に育て上げたつもりなのに、一体何が不満だと言うのだろう。
「やっちゃん?」
 翼だって大きいし筋肉だってついたし、なにより優しくてとても真面目だ。顔もいいし背も高いし足も長い。成績だって上位だし、深度も四なのに。何が不満だ。どこが不満だ。胸に関してとやかく言うならば、それは翼人の特徴だし仕方のない事だ。もしそんな理由でいろはをふったのなら容赦はしない。
「やっちゃーん?」
 ああそれにしてもいろはが失恋。自分以外に? いつのまに二股をかけられていたのだろう。やちよだけでは我慢できなかったのだろうか。それとも年上に飽きたとか? 親のようにしか思えなくなったのだろうか。いろはに飽きられないように努力はしてきたつもりだが、やはり若い女の方がよかったとか? そうなったらどうしようもないか。でも捨てられたら生きていけない。
「やっちゃん? 戻っておいで?」
「はっ」
 とんとんと肩を叩かれて、やちよははっと覚醒した。なんだか思考がとてもぐちゃぐちゃしていた気がする。なんなら親心と恋心が同居していたような……。
「やっちゃん。最初に言っておきますけど、いろはさんが失恋したのはやっちゃんに対してですからね?」
「……わたし?」
 最初に、と言うにはすでに思考が一巡した後だが、それはこの際捨て置こう。今はむしろ、みふゆの言った事の方が余程不可解だ。
「……さっきもキスしたのに?」
「……一から説明しましょうね」
 優しい顔をされてしまった。泣きそうなやちよの頭を優しく撫でて、みふゆが殊更柔らかい声を出す。それから手元にあった資料を引き寄せて、その一枚目をぺらりと捲る。
「いろはさんは雑種です。ずーっと翼人同士での交配が続いていますが、猛禽類だけに限定されていたわけではありません」
「うん……」
「数代前にオウム系の血が入っているんです。彼女はキメラじゃありませんけど、先祖返りですから。おそらく今回の事はそれが原因でしょう」
「……どういう事?」
 試験期間に入った獣人の基本データとカルテは、常に取り出しやすい所に置かれている。試験は大抵命懸けの物が多いので、咄嗟の大怪我に対応できるようにと準備が義務付けられているのだ。それにさっと目を通したみふゆが言うに、いろはのそれは毛引きと呼ばれ、オウムなどの知能の高い鳥類が見せる自傷行為らしい。
「あくまで一説なのですが、オウムは恋をする鳥だそうです」
「うん」
「そして人間と同じように失恋をする事もあります」
「うん」
「自分が恋した相手にふられた時、またはその相手に距離を置かれた時に、自分の羽を引き抜いたり噛み千切ったりするそうなんですね。ストレスから来る行為なんですが、中にはそれで丸裸になってしまう個体もいるらしいですよ。番が死んだら一気に衰弱して、後を追うように息を引き取る事もあるんですって」
 つまり、こういう事だ。やちよが体調を崩して医務室で過ごすようになった事で、いろはは精神的に多大なストレスを抱える事になった。恋した相手に自由に会えない。今までずっと一緒だった番から、たとえ善意だったとしても距離を置かれている。それが彼女にとってはたまらなく苦痛な事で、爪を噛むように羽を千切り取ってしまうのだ。
「首周りの羽をふくらませるのも、オウムやインコなどに多い行為です。一般的には親愛の証、安堵や好意の表現ですね」
 鳥類……とくに空を飛ぶ種類にとって、風切り羽は命にも等しい。それがなければ空を舞う事はできず、地に落ちれば簡単に天敵に喰い殺されてしまうだろう。本能的には絶対に避けるはずの毛引き行為は、緩やかな自殺にも等しかった。恋が叶わないなら命などいらない。会えないなら生きていたって仕方ない。それほど激しく、彼女はやちよに恋をしている。
「どうしよう……泣きそう」
「よしよし。よかったですねぇ。いろはさんはやっちゃんにべた惚れですよ」
「……うん」
「知能の高い鳥だけじゃなくて、鳥類は元々独占欲も執着心も強いですから。ちょっとやそっとじゃ浮気したりしません」
 距離を置いた後、身の置き場に選んだのが医務室というのもよくなかったのだろう。やちよが思っていたよりも、いろははみふゆの事を気にしていたらしい。獣としての本能から来る独占欲と、人間としての理性が訴える寛容。その二つの間で散々葛藤を続け、静かにストレスを抱えていった。
「心配だったんですよ」
「うん……」
 やちよの体調が悪いという事も、彼女の不安に拍車をかけただろう。
 いろはのたった一人の妹は、重い病気でずっと入院している。最初は軽い風邪のような症状で、ある日突然それが重くなったそうだ。急な高熱が三日続いた後に、精密検査でようやく病名がわかった。それからはずーっと、病院の中。……いつだったか、そう教えてくれた。
 ここのところ微熱が続いているやちよを見て、過去の記憶が蘇ったのだろう。顔を合わせる度に大丈夫か尋ね、強く勧めるものだから精密検査まで受けた。それでも何にも異常がないとわかってから、ようやく少し安心したようだ。
「夜中に起こしてしまってもいいじゃないですか。その分早く寝たらいいんです。お昼寝だってすればいい。このまま精神を病む方がずっと不健全です」
「……そうね」
 様々な不安が一気に押し寄せたいろはは、すっかり参ってしまっている。やちよの前ではそれを見せないように笑っているが、一人になるとどうしても気が塞いで仕方ないのだ。それを想うと胸が痛んだ。
「今日は部屋で寝るわ」
「それがいいと思います」
 体調の関係で、彼女を受け入れてやる事はできないだろう。けれどいろはは、そんな事に文句を言ったりしない。やちよに触れて羽を膨らませ、嬉しそうにキュルキュル鳴いてくれるはずだ。
「それにやっちゃんだって、いろはさんの傍にいた方が良いと思いますよ」
「私も?」
「ええ。翼、すっかり艶がなくなってます」
「……」
 指摘を受けて自身の翼を振り返り、そこでやちよは苦笑を零す。いつもはつやつやと光を照り返す白い翼が、今はどことなくくすんで見えた。
「毛繕いしてもらうといいですよ。愛情の確認にもなりますし」
「そうする」
 きっとやちよが頼めば、いろはは何時間でも飽きずに毛繕いをしてくれるだろう。指先で一枚一枚丁寧に、羽を掬っては毛並みを整えてくれる。
「仲良しで安心しました」
「またそれ?」
「だって、友達が幸せそうだと安心しませんか?」
「……違いないわ」
 想像だけで穏やかな顔をするやちよに、みふゆが小さく微笑んだ。それに似たような笑顔を返して、やちよは少しだけ未来を思う。
 いろはもいよいよ成人だ。コロニーを無事卒業できれば、国から結婚の許可が下りる。種を繋ぐ者として認められる。その日がもう目前に迫っているのだと思えば、どうしても心が躍った。結婚をすればもう、誰にも邪魔される事は無い。朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、ずっといろはと一緒にいられる。そう思うと、どうしようもなく幸せな気持ちになった。
 運命が彼女でよかったと。心の底からそう思っては、やちよはただ幸せに微笑むのだ。