どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

拾い猫01

 

 最初に見つけたのは、カラスの群れだった。深夜の住宅街に似合わない複数の羽音に足を止める。一羽、また一羽と路地裏に飛び込んでいく黒い姿を追いかけて、そこで彼女に出会ったのだ。

 

 

 今日も日付を跨いでしまった。やっとたどり着いた家は暗く、冷え切った空気に冬の足音。ぎりぎり外より暖かい、といった程度の室温に、ぶるりと肩を震わせる。
「さむ……」
 そろそろ暖房をつけるべきかな、と考えながら玄関の電気をつけ、そこでふわりと頬が緩んだ。
「ただいまぁ」
 だらしない猫撫で声には、正真正銘の猫の鳴き声が返ってくる。にゃぁん、と高い音がして、それからふわふわとした感触が足に触れた。
「遅くなってごめんね。すぐにご飯あげるからね」
 こつん、こつん、しきりに額を押し付けて甘える、小さな仔猫を撫でてやる。指先が触れた瞬間からごろごろと喉を鳴らす音がして、その喜びように目尻が下がった。
「おいで」
 そっと腕を広げれば、仔猫は素直に体を預けてくる。拾った当初よりもずっと重くなった体を抱いて、ようやっと廊下へ足を踏み入れた。
「よしよし、ただいま」
 きゅるる、きゅる、きゅる。喉を鳴らしながら鳴こうとしたのか、耳元で聞こえた声は少し不思議な音色になる。それに微笑んでキッチンに入り、新しく設置した小さなテーブルの上に仔猫を下した。そして手早くウェットフードを温めてやると、すり潰した薬を混ぜて目の前へ。
「ふふ」
 躊躇いなく小さな顔を突っ込む仔猫を一撫でして、ようやく人間の食事だ。二十四時間スーパーで買ってきた二百円の弁当はなんとも彩が悪いが、自炊する気力はないので我慢しよう。
「繁忙期が終わったら色々しないと……」
 新しい家族の寝床は、いまだお古の毛布だけだ。ドームベッドを買ってこようとずーっと思ってはいるのだが、中々時間がとれず後回しにしてしまっている。例年通りなら午前様もあと少しで終わるので、そうしたら買い物に行こう。
「ん、ちょっと、こら」
 レンジで温めた弁当をつまみつつぼんやりと考えていると、仔猫がてちてちと寄ってきた。必死に体を伸ばして、何度も鼻先を押し付ける姿に眉が下がる。
「あなたはだめ」
 まるでキスを強請るようだ。いつもいつも、食事を始めるとこうなってしまう。自身の食事もそこそこに、こうして顔を押し付けてくるのだ。それを片手でやんわり押し退けて、小さな体を床に下ろす。
「遊んでて。後で一緒にお風呂入ろうね」
 にゃぁん。
 今度の鳴き声は、不満とも了承ともつかぬ平坦なもの。何故だかやたらと風呂好きな仔猫に微笑みかけて、適当に食事を済ませてしまう。どうせ疲労のせいで全部は食べきれないのだ。
「名前もそろそろ決めなくちゃ……」
 三分の一程底が見えた弁当に蓋をして、テニスボールに遊ばれている姿を眺めやる。まだ乳離れ出来ていない状態の仔猫を拾ってから、もう一月だ。ぴんとくる名前がなくて後回しにしていたが、さすがにそろそろ名前をつけてやらなければならないだろう。
「血液検査もしてもらわないとね。ワクチンも」
 それにしても大きくなったものだ。拾った当初は片手よりも小さいくらいだったのに、今では両の手よりも大きくなっている。カラスに襲われて血まみれの上目ヤニだらけだった仔猫も、今は綺麗で愛らしい。拾った当日、車を飛ばして夜間病院に駆け込んだ時は、長くはもたないかもと言われたくらいだったのに。
「元気になってよかった」
 血管が細すぎて針が刺せない。だから輸血も難しい。いっそ安楽死させてやった方が。
 そういう獣医師に断固として首を振り、二日分の代休を消費して付きっ切りで面倒を見た。その甲斐あってか三日目の朝には自分で立ち上がるようになり、腹が減ったか弱々しい鳴き声まで上げたのだ。この手からミルクを飲んでくれた時などは、涙に世界が揺らいでいた。
「さ、お風呂入るよー」
 にゃぁん。
 獣医師の見立ては大袈裟だったのだろう。全身が血だらけだったが、意外にも傷は殆ど見当たらなかった。固まった血を無理矢理毟り取ろうとする仔猫をやむなくぬるま湯で洗ってやったが、目立ったのは脇腹と背中の小さなひっかき傷程度。首を捻りつつも安堵して、よかったよかったと笑ったのも記憶に新しい。
「すっかりお風呂好きの変なにゃんこになっちゃったねぇ」
 その時の湯が余程心地よかったのか、それから仔猫は風呂好きになった。服を脱いで下着姿になる頃には、いつの間にか蓋の上に居座っているのだ。洗顔のために風呂桶に溜めた湯に飛び込もうとするものだから、試しに入れてみたら喉を鳴らした。おかしな猫もいたものだと思いながら、それから毎日一緒に湯につかっている。
おかゆいところはありませんかー?」
 ごろごろ。
 すっかり仔猫専用になった湯桶に首から下を沈めて、マッサージを受ける姿は心地よさそうだ。こちらの言葉をわかっているのか、触って欲しい所があればちゃんと体を捻ってくれる。
「湯あたりしないようにね」
 今日は注文がないようなので、撫でていた手を引っ込める。そして自身の全身を清めて、そっと湯船に足を沈めた。
「はー……」
 繁忙期の間は、風呂に入るのが酷く億劫になる。けれど仔猫が楽しみにしているようなので、毎日ちゃんと湯を張っていた。お猫様々、といった気持ちだ。入るまでは億劫でも入って後悔をした事がないし、布団の中で足が冷えて眠れない事も減ったので、やはり湯につかるのは偉大な事だ。
「ん? こっちに入る?」
 失われた野生。そんな言葉さっと脳裏を過ぎる。桶から出てこちらに前足伸ばす仔猫を抱き上げると、すぐに喉が鳴った。全幅の信頼を寄せてくれる姿が嬉しくて、額と鼻に唇を押し当てる。そのままそっと湯船に小さな体を下してやると、仔猫は手足をばたばたさせた。
「……泳げるんだ」
 本当に奇妙な仔猫だ。抱き上げる手から抜け出して自由自在に湯の中を泳ぎまわる姿に、驚いたのは人間の方。
「私、泳げないのに。すごいね……」
 猫は水を嫌うというのはなんだったのだろう。ひとしきり泳いで戻ってきた仔猫に苦笑を零し、沈みゆく自身の姿を脳裏に描く。
「私が溺れたら助けに来てね」
 にゃぁん。
 冗談交じりに囁けば、仔猫は得意げに高く鳴いた。ドヤ顔をする小さな顔を指先で撫でくり回して、一人は一匹を抱え上げる。そして湯船から上がると、仔猫を一旦蓋の上へ。そこで勢いよく体を震わせて水分を飛ばす姿を見届けて、先にタオルで包んでやった。
「……賢いなぁ」
 人間が髪と体を拭っている間、仔猫はタオルの海で体を捩る。器用に全身をこすり付ける姿は、何度見ても感心するものだ。まだ生まれて三か月にもなっていないのに、タオルドライくらいは自分でやってくれる。
「人間で言ったら五歳くらいだっけ……。そう考えたら不思議でもないのかなぁ」
 この猫以外に猫を飼った事がないのでわからないが、賢い子なら新聞を持ってきてくれたりもするらしいので、個体差なのかもしれない。のんびりと考えながら寝間着をまとい、今度は一緒にドライヤーだ。
「逃げないの」
 風呂は好きだがドライヤーは嫌い。逃げようとする仔猫を胸元にくっつけて、まとめて温風に乾かされていく。蝉よろしく寝間着にくっついた仔猫は、進む事も降りる事もできずに渋い顔だ。このサイズならまだいいが、大きくなったら出来ない戦法だろう。
「ドライヤーしないなら、お風呂にも入れてあげないよ?」
 ぬぅん。
 今度は低い鳴き声だった。不満な気持ちを隠そうともせず、目を細めた仔猫が唸る。それに笑みを返してから、適当なところでその体を離してやった。風邪を引くほど濡れていなければいいのだ。あらかた乾けば、あとは自分で舐めてどうにかしてくれる。
「先にベッド行ってていいよ」
 不満げに体を震わせる仔猫に声をかけると、尻尾だけで返事をされた。必死に毛づくろいをする姿を眺めて、あとは人間の準備を整えていく。
「さ、私も寝よう」
 そうしてやっと全ての支度が終わったのは、時計の短針が二に近づいた頃だった。リビングの明かりを消して寝室に足を踏み入れると、お待ちかねだった仔猫が高く鳴く。ベッドの上から急かす姿に苦笑交じりで返事をして、毛布に潜り込めば喉を鳴らす音。
「……やちよ」
 なん?
 顔の横で丸まった仔猫にそっと呼びかければ、語尾上がりの声が返ってきた。ああ、もしかしたら、本当にこちらの言葉がわかっているのかもしれない。
「やちよ。今決めたの。あなたの名前」
 なぅん。
 不満は……なさそうだった。こちらの言葉にごろごろと喉を鳴らし、小さな舌が頬を舐める。それが肯定にも礼にも思えて、なんだか少し笑えてしまった。
「やちよ……」
 なーぅん?
 ぱたり、ぱたり。尻尾が動く。嬉しそうに。あるいは幸せそうに。
「……やちよ」
 にゃぁ。
 ごろごろという音が、耳に心地よかった。頬に触れる小さな体が温かい。呼べば答えてくれるのが嬉しくて、心までがほわほわと暖かくなった。
 とろり。自然と瞼が落ちていき、優しい気持ちで夢に落ちる。やっと本当の家族になれたような気がして、それがただ、無性に幸せで仕方なかった。

 


「いろは、いろは」
「ん、うーん……」
 なんだろう。何かがぺちぺちと触れている。アラームとは違う、高い音がする。
「いろは、おきるじかん」
「んー……」
「ぴぴぴなった。おきて」
「んぅー、あと二時間……」
「もう! いろはっ!」
「ひゃぇ!?」
 がりっ。
 鼻の頭を噛まれた。理解するよりも早く体が跳ねて、慌ててがばりと起き上がる。いつもの手荒いモーニングコールだ。
「うぅ……やちよぉ……いつも言ってるけどもうちょっと優しく起こしてよぉ」
「だってつっついてもおきない」
「それはそうだけど……ん?」
 何かおかしい。気付くまでに然程時間はかからなかった。いや、むしろ十分すぎる程時間をかけたのだろうか。どちらでもいいか。今はそれよりも大きな問題が目の前にぶら下がっているのだ。
「……やちよ?」
「おはよ」
「あ、うん、おはよう……あれっ?」
「なに?」
「え、あの、なにっていうか……えっ?」
 目の前に、女の子がいる。おそらく……五歳前後の。
「なにか、へん? うまくへんしん、できたとおもうけど」
「……」
 もう一度言おう。目の前に、女の子がいる。幼女と言ってもいい。人間の……とつけないのは、その頭に獣の耳がくっついているせいだ。なんなら尻尾も生えている。
 混乱で頭が上手く働かないが、とりあえずただの人間でも、ただの猫でもないという事だけは理解できた。
「……ワーキャットだったんだ」
「ふつうのねこ、ここまでかしこくない」
「……そう、ですよね」
 やっと絞り出した声には、とても冷静な声が返ってくる。ただの猫ではないと思ってはいたが、まさか本当にただの猫ではなかったなんて。
「ワーキャットなのに、なんであんなところにいたの?」
「……生まれてすぐに……へんしん、できなかったから」
「そっか……」
 ワーキャット。漢字で書くと、人猫。人狼の猫バージョンと言えばわかりやすいだろうか。かつては野生種しかおらず、性格も凶暴で人間との共存は不可能とされてきた種族だ。しかし一世紀ほど前から品種改良が進み、現代に至っては愛玩動物としての価値を見出されつつある。いわゆる金持ちの道楽なので庶民が飼えるチャンスなど殆どないので、お目にかかることすら難しい特別なペットだ。いろはも見るのは初めてだが、なるほど治癒力が高かったのも頷ける。ワー達は魔族なので、体を休められる環境が有りさえすれば、手術が必要な怪我ですら治ってしまう。
「それにしても……なんで急に変身できるようになったの?
「なまえ、くれたから」
 とはいえ生まれ持った弱さが一朝一夕でどうこうなるはずもない。やちよに魔石を与えた事もないので、レベルが上がったわけでもないはずだが。
 そう思って問いかければ、彼女は嬉しそうににこりと笑った。
「なまえ、くれたから。ちからがついたの」
「……え」
「けいやく」
「わぁ……」
 そうだった。昨日名前をやったのだ。力がある者が魔族に名前を与えれば、それは契約になる。自身の魂を半分分けてやる様なものなのだ。そしていろはは、力ある者だった。
「ワードラゴン、なんだね」
 ワードラゴン。人と龍のハーフ。それが、いろはだ。二十三年間ひた隠しにしてきたが、潜在能力は高いなんてものじゃない。飛龍種の子供なので水中は苦手だが、欠点と言えばそれくらい。体力も知力も魔力も相当な物だし、飛ぼうと思えば空も飛べる。
「……内緒にしてね?」
「なんで? つよいのに」
「だから嫌なの」
「……ふーん」
 いろはは人間として生きていきたい。今のところ、龍として生きるつもりはないのだ。そうなってくると強さが全てではなくなってしまう。むしろ強ければ強いだけ、人間には忌み嫌われてしまうのだ。何もしていないのに周りから人が離れていくのは、もう嫌だと思っている。
「ところで、じかん、いいの?」
「え……あっ!」
 やちよは、多くを聞こうとはしなかった。その代わりに時計を見上げ、こてんと可愛らしく首など傾げて見せる。その言葉に慌てて時計を見やり、いろはは慌ててベッドから飛び降りた。
「ち、遅刻!!」
 時刻はもう八時半を回っている。職場までは車を飛ばして三十分以上。九時半始業なので、今すぐ支度を始めてもギリギリ間に合うかどうか……といったところだろう。
「ご飯……! 昨日の残りでいっか! えっと、やちよ、やちよはいつものご飯でいいの!?」
「うん、でも」
「わかった! じゃあちょっと待ってて!」
 大騒ぎだ。おかげで、やちよの言葉を全て聞いている暇もなかった。
「いろは」
「わかったから!」
 なおも言い募るやちよにそれだけを言い置いて、慌ただしく準備を始める。洗面所と台所を行ったり来たりする間中、仔猫はちょこんとダイニングに腰かけて大人しくしていてくれた。
「いただきます!」
 温め返した弁当に箸を入れ、急いで一口目を頬張ったたところだっただろうか。先程まで大人しくしていたやちよが、急に動いた。
「んぐ……?」
 くるるるきゅう、きゅーう、るるる。ぐるる、きゅる。
 不思議な、鳴き声だった。喉を鳴らすのとも違い、ただ鳴くのともあきらかに違う。甘えたような、けれど懇願するような声で高く鳴いて、小さな体が伸びをする。
「……やち」
 あっと、思う間もなかった。いろはが顔を向けた瞬間に小さく薄い唇が触れ、次いでざらりとした舌が口腔内に滑りこむ。びくりと体を硬直させる間にも幼い舌が咀嚼中の食べ物を奪っていき、やがてそっと離れていった。
「……」
「……もういっかい」
「まっんぐっ! まって! げほっ!」
 何が起こったのかわからない。どういう経緯でそうなったのかもわからない。躊躇わずに寄ってくる仔猫に慌てて静止をかけると、きょとんとした顔をされてしまった。
「なんで!?」
「……なにが?」
「な、なんで食べてる途中の……っ」
「……? だってわたし、りにゅーきだから」
「離乳期だから……っ?」
「おかあさんから、そうやってごはんもらうじきだもん」
 そうだった。彼女は人間ではない。幻獣系種のいろはとは違い、動物系種のワーは、幼少期の殆どを獣の姿で過ごすのだ。そして親元にいる間は、大体獣そのものの育て方をされる。故に幻獣系種と違い、動物本来の生態が色濃く残っているのだ。
「離乳食はあげてるでしょ……?」
「でも、たべられるものとたべられないものは、こうやっておそわる」
「……うん」
 徹底的に人間として生きてきたいろはには、受け入れがたい感覚だった。けれど離乳が済む前に親から引き離されてしまった仔猫の事を想うと、強く拒絶もできなくなる。
「わかった。やちよの成長に必要なことなんだね……っでも、悪いんだけど私には馴染みがないから……一緒のテーブルで、一緒にご飯を食べるんじゃだめかな……」
「やだ……あいじょうぶそく」
「えぇ……?」
 提案は、にべもなく却下されてしまった。人型を取れてもやはり猫だ。こちらの都合なんておかまいなし。
「ただでさえ……いちにちじゅう、ほっとくじゃない」
「……う」
「あいがあるならくちうつしして。じゃなきゃもっといっしょにいて」
「うぅぅ……っ」
 究極の二択だ。そしてもう時間がやばい。いろはは瞬時に考えて、携帯を手に取った。そして上司の番号を押すと、それを耳に当てる。
「……あ、おつかれさまです環です。あの、とうとう体が限界で……はい、はい。すみません、はい。ありがとうございます。いえ、数日休みを頂ければ……はい。ありがとうございます。はい、代休の消化で……はい、お願いいたします……失礼します」
 上司の声は、心底憐れみを含んだものだった。怒られたりも一切せず、ひたすら「大事にしてね」と声をかけてもらえた。それだけに、ズル休みがどうにもいたたまれない。
「……今日からしばらく一緒にいるから、口移しはなし。それでいい?」
「うん」
 額に手を当てるいろはとは対照的に、仔猫は満面の笑みだ。それどころかするりと膝に上ってきて、そこでごろごろと喉を鳴らす。
「……もー」
「いいじゃない。ずーっとやすみなしだったもの」
「……そうだけど」
 なんだか上手い事はめられた気がする。まだ完全に乳離れできていない子供相手に、すでにたじたじだ。
「先が思いやられるなぁ……」
 ぼそりと呟くと、仔猫は面白そうににゃーんと鳴いた。大きな目をとろりと細め、ゆっくりと、時間をかけた瞬きをする。いろはがそれを愛情表現だと知るのは、これから大分経ってからだ。
 今はただ、二人。急にできた休日をどう過ごそうかと、あれこれ話し合うだけだった。