どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

翼人01

 

―背中がムズムズする、と言ったら、やちよが笑った。

 「突出期に入ったのね」
 この世界から鳥類と人間以外の哺乳類が消えて百余年。獣人と呼ばれる種族が生きるコロニーで、いろはとやちよは共同生活を送っている。獣人は普通の人間とは違うので、特別な環境がないと生活できない。なのである程度大きくなったら親元を離れ、姉とペアを組む事になっている。もちろん本当の姉ではないし、例え本当の姉がいたとしても、ペアにはならない。姉はあくまで教師に近く、獣人としての先輩でもあった。獣人として生きていけるように、必要な事を教えてくれる存在。
「うぅ……掻いてくださいぃ」
「だめよ。それに掻いたってどうせよくならないわ。突出期の間だけなんだから我慢しなさい」
「どれくらい続くんですかぁ」
「人によるけど……三日から一ヶ月くらいかしらね」
 真っ白な背中を向けてくる妹を見て、やちよは少し眉を下げた。
 突出期と言うのは、その人間に雑ざった動物の遺伝子が顔を出してくる時期の事。雑ざった遺伝子が犬や猫ならば耳や尻尾が、鹿などの角を持つ者だったら角が、鳥だったら翼が、海獣だったら鰭が。
 それぞれの野生が表に現れてくるこの時期は、獣人としての成人の時期でもある。
 やちよといろはは翼を持つ者だ。翼人の種族名を持つ存在は、突出期に入ると翼を得る。寝ていた肩甲骨が起き上がり、その先端が徐々に形を変えていくのだ。それはやがて皮膚を破り、彼女達を大空へと押し上げていく。
「だいぶ皮膚が薄くなってきてるし、きっと一週間くらいで終わるわよ」
「一週間も……」
「我慢我慢」
 皮膚を突き破って動物のパーツが出てくると言うと凄惨なイメージを抱きがちだが、歯が生えるのと同じなので痛みは殆どない。ただどうにもむず痒く、その間は服が擦れるのですら不快感を抱く。
「せめてトントンしてください」
「はいはい」
 何故動物達が絶滅してしまったのかは、今でもよくわかっていない。絶滅した当時は解剖をしてみたりクローンを作ってみたりと色々試してみたのだが、はっきりした原因もわからず、クローンに至ってはそもそも細胞分裂すらしなかった。その時代の人間達が悩みに悩んで悩み抜いて、人間の遺伝子と雑ぜる方法を考えついたのだ。
 空気に触れて劣化した遺伝子ではクローン化も難しくなるし、冷凍保存にも限度がある。難しい事はある程度省くが、いつの日か動物達を復活させるため、人間の体を培養機にして遺伝子を繋いでいこうという試みだ。
「少しはよくなった?」
「もっと」
「……もう。仕方ない子ね」
 突っ張った皮膚を優しく叩いてやりながら、やちよの顔に浮かぶのは微苦笑だ。四つ下の妹を甘やかす時、彼女はいつもこんな表情になる。
 血統書付のやちよにとって、いろはは待ちに待った妹だ。世界中が協力して行っている獣人計画は、人権と言う言葉からは程遠い。今現在何を差し置いても優先されるべきは「動物の遺伝子を繋ぐ」という一点だけで、そのためには個人の権利など邪魔なだけだ。血統書付は世界から大切に保護されるが、同時に自由恋愛の権利など殆ど与えられてはいない。
 彼女達は国が選んだ相手を宛がわれ、その者と結ばれて遺伝子を繋ぐ。より優秀な血筋を残すために、恋すら管理されるのが血統書付の宿命だ。
「大きくなったのは体ばっかりね。この甘えん坊」
「やちよさんが優しいんだもん」
「なによ。私が悪いの?」
「悪いなんて言ってないです。ただ、一因はあるなって」
「生意気」
「生みの親より育ての親って言うじゃないですか」
「やっぱり私が悪いわけね」
「悪いなんて言ってないってば」
 不貞腐れたやちよの声に、振り返ったいろはが優しい苦笑を浮かべた。眉を下げた柔らかな笑い方は、やちよをいつでも優しい気持ちにしてくれる。
「いろは」
「ん」
 その肩に顎を置くと、すぐに薄い皮膚同士が触れ合った。頭を傾けたいろはは強請る唇を二度食んで、触れた時と同じように音も立てず離れていく。それに合わせて目を開ければ、色素の薄い瞳が愛しげにやちよを見ていた。
 普通の姉妹は、あくまで学校の先輩と後輩の関係だ。新しい妹が入ってくればまだ姉がいる内から妹を持ち、姉が卒業すれば一番上の姉になる。けれど血統書付に宛がわれる姉もしくは妹は、それ以外の意味を持っていた。
 そもそもの事の起こりは、約百年前。ファーストチルドレンと呼ばれる獣人達が育ち、それぞれ結婚した後の事だ。当時の研究者達は、一部の人間が獣人になれば、その後は鼠算式に獣人が増えていくと思っていた。けれど獣人と普通の人間が交わったとしても、その子供が獣人として生まれてくる事はなかった。ただの一人もだ。結婚をし子供を生した獣人の中で、獣人の子供を授かったのはたった一組の夫婦だけ。それが、獣人同士で結ばれた二人だった。
 当時の権力者達は慌てた事だろう。ただでさえ遺伝子操作で生まれた獣人だ。世界のバランスを保つため、もしくはいつの日か、かつてあったバランスを取り戻すため、という大義名分の元、人権団体を黙らせたのだ。それが失敗しましたでは済まされない。すぐにセカンドチルドレンの計画が立ち上がり、そこから獣人全体の管理が始まった。
 まず、獣人を獣人以外と添わせるわけにはいかない。元々動物の遺伝子を繋いでいくのがこの計画の発端だ。それなのに自由恋愛をさせて血が途絶えてしまったら元も子もないだろう。けれど声高にそれを叫ぼう物なら、今度こそ世界中の反発を喰らうに決まっている。
 そうして出来たのが、コロニーだ。今でこそ学習機関として機能しているが、当時のコロニーはただの隔離施設だった。二次性徴を迎えてからの多感な時期。社会に向けて開かれる時期に視界を狭め、半ば強制的に恋愛対象を絞り込ませる。ただそれだけのための施設だったのだ。その時に生まれた許嫁制度が、形を変えて今に受け継がれている。それが、姉妹。
「……やっと成人ね」
「はい」
「長かったわ。色々と」
 やちよは血統書付だ。妹の経験はない。獣人は血筋で血統書付と雑種に分かれており、やちよは言うなればエリートなのだ。彼女の家系は動物の遺伝子が強く出やすい。獣人にとって、動物の遺伝子が強く出る家系は当然優秀な血筋になる。だから血統書をつけて他の獣人達より手厚く保護され、時に特別な扱いを受ける事もあった。
 その特別が全て良い事ばかりではないが、やちよは自分を幸せな者だと思っている。少なくとも、不幸とは程遠い位置にいる。
「四年待ったわ。そこから五年。長かった」
「えっと……ごめんなさい?」
「ふふ、謝る事ではないけれど」
 コロニーに隔離されても、やちよが姉を持つ事はなかった。その当時コロニーにいた先輩達の中に、やちよと相性が良い者がいなかったのだ。この場合の相性の良さとは、性格的な問題も遺伝子的な問題も全てひっくるめた物を指す。つまりやちよの遺伝子を後世に繋ぐ相手として足る存在がいなかったのだ。なのでやちよは姉を持たず、同じ血統書付の大人から直接高度な指導を受けて今に至っている。
 本来なら二人以上で入るはずの部屋に一人きり。しかも成人を迎えても解放される事はない。その孤独はどうしてもやちよを苛んだが、それでも彼女は自分を不幸であるとは思っていなかった。
 前述したが、獣人は全て管理されている。やちよがコロニーに入った時点で、遺伝子的に相性の良い相手はすでに生まれていた。それがいろはだ。雑種でありながら大型猛禽類の血が色濃く出た彼女は、生まれ落ちた瞬間からやちよの番候補だった。
 やちよがそれを知ったのは、コロニーに入ってすぐ。一人を寂しがり、どうして姉妹がいないのと繰り返し尋ねる幼いやちよに、担当の教育者が教えてくれたのだ。
 当時のいろははまだ六歳だった。コロニーに入るのは満十歳を迎えてから。四年の間に人間など簡単に変わってしまう事もある。特に子供なら尚更だ。遺伝子的な相性は良くても、性格的な相性が悪ければ妹にはならない。そう言われもしたけれど、やちよはそれからずっと待ち続けていた。たった一人、自分の隣にいてくれる存在を。
「初めて会った時の事を覚えている?」
「覚えてます。私は泣きじゃくっていて、やちよさんは満面の笑顔だった」
 初めて独りぼっちで一夜を明かした翌日だった。不安と心細さで涙が止まらないいろはの前に現れたやちよは、対照的にとてもとても嬉しそうな顔をしていたものだ。
 まるでコインの裏表ね。そう言って笑った寮母の声まで鮮明に覚えている。
「やちよさんはもう成人直前でしたよね」
「私は十三の時には突出期を終えていたからね」
「その時はもうちょっと翼の斑も多かったです」
「そうね。そうだった。あなたが黒だけじゃ寂しいって落書きしたわ。全然落ちなくて大変だった」
「初めて本気で怒られて大泣きしました」
「泣きやませるのに苦労したわ」
「羽を抜いちゃったこともありましたよね」
「ええ。すっごく痛かったわ」
「その節は大変失礼いたしました」
「いえいえ、こちらこそ」
 まだ、今のように翼を自由に出し入れはできなかった。動物的な本能を解放するよりも、押さえつける方が難しいのだ。まして翼人は、人体の構造上、翼を持つだけでは空を舞えない。魔法の補助を受けて初めて、空を自由に駆ける事ができるのだ。
「やちよさんはどれくらい訓練して飛べるようになったんですか?」
「そうねぇ。魔法の応用に少し手間取ったけど……うーん、半年くらいだったかしら」
「……それってかなり早いですよね?」
「そう? 飛行訓練は個別指導だし、私は同期に翼人がいなかったからよくわからないのよね」
「うちのお父さんとお母さんも、一年以上かかったって」
「そうなの。うちは両親も半年くらいだったって聞いた気がするわ」
「血統書付ってすごいなぁ……」
「いろはもすぐ飛べるようになるわよ。私が教えるんだもの」
 獣人を獣人たらしめている、もしくは獣人を優秀な存在と決定付けている能力のもう一つが、魔法だ。研究開始当時の記録に魔法の記述はないが、今では皆当たり前のように使用しているし、認識している。どこでどうやってその力が生まれたのか、確かな事はわかっていないが、これに関しては有力な説がいくつかあった。
 それが、退化の阻止と、進化の促進だ。
 翼があっても、爪や牙があっても、使わなければ退化してしまう。それを阻止するための新たな能力の開花。
 元より生き物は、窮地に立たされた瞬間に思わぬ能力を発揮する事がある。もしくは事故に遭って九死に一生を得た時に、今まではなかった才能を開花させる者も在る。
 便宜上魔法と呼ばれるこの能力は、もしかしたら超能力と称した方が正しいのかもしれない。翼人は風を操り、鰭人は水の流れを変える。普通の人間では難しい事をやらなければならない獣人程、自然を操る力はより強くなった。そして必要にもなった。退化しないため。進化のために。
「いろはの深度はどのくらいかしらね?」
「下半身だけ鳥は嫌です……」
「初めての全身変化になるかもしれないわよ」
「うーん……それはそれで嫌だなぁ」
「あら、どうして?」
「だって別の研究が始まりそうじゃないですか。やちよさんと引き離されるのは嫌だもん」
「……嬉しい事言ってくれちゃって」
「本心だよ?」
「知ってるわ」
 これを進化と呼ぶか退化と呼ぶかは、有識者の中でも意見が分かれている。百余年に渡る獣人同士の交配の結果、動物の血が異様に強く出る者が生まれ始めたのだ。血筋や血統書とはあまり関係がなく、突然変異と呼ぶのが近いかもしれない。けれど大抵の進化は、突然変異の個体から始まっていく。
 深度が深い者。例えば変化の時に足が蹄の形になったり、頭だけ獣のそれになったり、爪が鉤爪状に変化したり。そういう存在は深獣人と呼ばれ、日夜研究が続けられている。
 いつかは全身変化が現れて、それが動物復活へと繋がっていくのではないかと言う者もいた。
「私達の代でも、だいぶ深化は進んでいるもの。本当に近々全身変化が現れるかもしれないわ」
「そうですね。種族的な体格差も大分強くなってきていますし」
 種族的な体格差と言うのは、何も熊と兎のような異種間の中だけの話ではない。いろはとやちよは同じ翼人種だが、鷲の血が強いいろはの方が、鷹の血が強いやちよよりも少しばかり身長が高かった。突出期、動物の鳥で言えば羽ばたき練習をする時期でこれなので、巣立ちと同義である成人を迎える頃にはもっと身長差が開いているかもしれない。獣人は突出期から成人までの僅かの間に急激に成長する者が多いのだ。
「やちよさぁん」
「我慢しなさいってば」
「無理ですよぉ。かゆいんだもん」
 すでに自分より大きいのに甘えたがりな妹に眉を下げて、再度手を伸ばす。盛り上がった肩甲骨を叩いてやると、いろはは小さく唸り声を上げた。
「もう手術してもらおうかなぁ」
「確かにかゆみは引くでしょうけど、痕が残るわよ」
「痕が残ったら嫌いになる?」
「その程度の気持ちだと思う?」
「好きです」
「知ってる」
 いろはの十歳から十五歳まで。やちよの十四歳から十九歳まで。五年の間に二人が親密な関係になるのは、約束された事でもあっただろう。ただでさえ相性の良い相手が選ばれているのだ。徐々に、なんて表現は使えもしない。引き合わされて一年も経たない内に、お互いに相手を特別で唯一だと認識しつつあった。転がり落ちるように、と言うには少しだけ緩やかに、二人は手を繋いで唇を触れ合わせる関係になった。それこそ片翼であるかのように、寄り添っているのが当たり前になった。恐らく別の出会い方をしても惹かれ合っていただろうと確信を抱く程に、二人は一つになった。誰にもそれを止めようもなかった。
「服、着たら?」
「かゆすぎて無理です」
「せめて下くらい穿きなさいよ」
「下だけってちょっと微妙な格好じゃないですか?」
「言いたい事はわかるけど。だからって下着姿でいる事はないでしょう。その方がよっぽど微妙だわ」
「変な気分になる?」
「わかってるなら何か着て」
 獣人の貞操観念は普通の人間に比べればいくらか緩い。子孫を残す事を強制されているせいもあるが、何より元々子供が出来にくい種族でもあるからだ。積極的に行為に及ばなければ血を繋げない。
 獣人は、異様な程男子が生まれにくかった。今現在生きている獣人の男子の数は、全体の一パーセントにも満たないのだ。遺伝子操作によるファーストチルドレンですら、男子の獣人の成功例は一割に満たなかった。
 そうなれば当然のように一夫多妻を推奨する動きも出たのだが、当の男子側から強い反発を受けて方針は二転も三転もした。結局落ち着いた所が、同性同士でも子供ができるようにという二度目の遺伝子操作だ。そもそも一度、動物の復活のためという大義名分で遺伝子を散々弄ったのだ。再度遺伝子操作を行ったところで、さしたる反発は起きなかった。勿論望む者には一夫多妻、あるいは一妻多夫も認めるが、それはあくまで自由意思であって強制ではない。
 普通の人間は男子の出生率が異様に高く、獣人は女子ばかりが生まれる。世界は一対一の性比を守りつつも、徐々にバランスを崩しつつあったのだ。すでに世界全体の人口は最盛期の五割を下回り、この段に至っては、もはや反対がどうのと言っていられなかったのかもしれない。何か対策を講じなければ、獣人だけでなく普通の人類すら絶滅していた可能性だってある。存亡をかけた瀬戸際まで追い詰められて、人類は道徳よりも種を取ったのだ。道徳や倫理は、溢れんばかりに個体数が増えている時こそ意味がある。数が足りなければまず増やす事から始めなければいけない。
「今日はもう授業もないですし、しますか?」
「まだ点呼があるでしょう。いいから服を着て」
「むぐ……っ」
 楽しそうに目を細めるいろはの顔に部屋着を押し付けて、やちよは少しだけ頬を染める。背が伸びてから、やけにこの手の話題への食いつきが良くなった。初めて触れた時など真っ赤になって震えていただけだというのに。
「可愛くなくなった」
「やちよさんは可愛くなりました」
「今までは可愛くなかったって事?」
「違います。私にも可愛い部分を見せてくれるようになったって話」
 四歳の差。そして待ちわびた妹。やちよがいろはを可愛がりたがるのは当然だし、それを嫌だと思った事もない。ただ、成長するにつれて不満を抱くようになっただけ。
「やちよさん、私の前ではお姉さんぶるんだもん」
「実際あなたの姉なんだけど」
「そうですけど、今はもう恋人だもん。私だってやちよさんに甘えて欲しかったんです」
「……物好きね」
「嬉しいくせに」
 初めてやちよに会った時、いろはは思った。本当に天使っているんだな、と。まだ翼を上手く仕舞えないやちよは、背中に白い羽を広げたままだった。整った顔を嬉しそうに上気させて、はじめまして、と笑いかけてくる姿。それはあまりにも強い衝撃だったし、恋に落ちるのなんて一瞬だった。
 いろはが自分をやちよの番候補であると知ったのはいくらか後だが、出会いの瞬間からそうであればいいと思っていた。そしてそれが約束に変わった今、いろはが求めるのはもっと先、あるいは別の事だ。
 やちよは完璧に美しく、飛び抜けて優秀で、精神的にもとても強い人である。けれどそれは他人に見せる表の部分で、本当の彼女ではない。いろははやちよにとっての他人でなんて居たくない。手を伸ばす先は、煌びやかさに隠した素肌のやちよ自身だ。
「やちよさん……」
「だ、だからまだ点呼があるって……っ」
 いつもとは違う触れ方をしただけで顔を真っ赤にする彼女が、隠してきた少女のやちよだ。大人ではない。子供と言うには艶がある。いろはと同じように五年の歳月を重ねた、今のやちよの素顔。
「やっぱり、かわいい」
「いろ、ん……っ」
 少し性急な唇を受け入れながら、やちよはくらりとした。最近のいろはは出会った頃とはあまりにも違い過ぎて、たまにこうして目眩を覚えてしまう。それが恋心から来るものだと気付けば恥ずかしくて、今一素直になりきれないままだ。
 いろはの背がやちよのそれに追いつき始め、視線の位置が殆ど同じになった頃だっただろうか。今まで恋人を受け入れるままだった彼女が、急にやちよを組み伏せようとしてきた。あるいは急に先を歩きたがるようになってきた。これはなにも、肉体的な事だけを言っているわけではない。精神的な優位に立ちたがるようになってきたのだ。ふとした時にやちよの頬を撫でて、自分から唇を寄せるようになってきた。言葉でやちよを甘やかして、どろどろに溶かしたがるようになってきた。
 突然の下剋上に戸惑う間にあれよあれよと攻守を入れ替えられて、今に至る。
「……いろは?」
「やっぱり素直じゃない。こんなに期待した顔してる」
「っ……」
「点呼が終わってからね。その時のやちよさんを見ていいのは私だけだから」
 キス以上何もしてこないいろはに目を開ければ、からかい混じりにそう囁かれた。つり目がちの目元がすーっと細くなれば、やちよはただただ赤くなるしかない。思わず唇を噛めば、彼女はもっと楽しそうな顔になる。そして親指だけでやちよの頬を撫でると、もう一度、今度はごく穏やかに唇を重ねた。

 

***

 

 産毛混じりの翼が、ぶわりと大きな風を起こす。
「あっ……ぶない!」
「あ、ごめんなさいっ。まだ慣れなくて……っ」
 すんでのところでそれを避けたやちよが文句を言えば、いろはが慌てて振り返った。その拍子にまた風が起こり、やちよは慌てて身を屈める。
「ちょ、っと、閉じて閉じて!」
「う、上手く閉じられないんですよぉ」
「じゃあじっとしてて!」
 二週間程かかった突出期を終えて、いろはの翼がその全てを広げたのはつい二日前だ。たったそれだけの間にやはり身長も伸びて、今は彼女の視線の高さがやちよの生え際あたりだろうか。やちよ自身も突出期から成人までの僅かな間に十センチ以上身長が伸びたが、いろははそれ以上かもしれない。寝て起きる度に身長が伸びている気がするし、実際それも見間違いではなさそうだ。
 幼少期は人間らしくのんびりとした成長をして、突出期に入って動物の血が騒ぎだせば成長速度が一気に上がる。産まれてすぐに立ち上がろうとする草食動物のように、人の身ながら動物の野生に耐え得るため急速に体が作り変えられていく。それが獣人。
 その変化はさながら蛹から出て来る蝶のようで、事実いろはの翼は今朝ようやく乾いたばかり。
「落ち着いていろは。翼は腕と一緒よ。あなたは今腕を広げているだけ。意識して。翼を腕だと思うの。まず肘を曲げてみて」
「こ、こうですか?」
「っゆっくり!!」
 やちよの翼より一回り以上大きいそれは、少し動かすだけで強い風の流れを生み出した。空を飛ぶための魔法まで同時に発動しているので、彼女がほんの少し動くだけで台風の直撃を受けたようだ。
「ゆっくりよいろは。ゆっくり。傍に仔猫がいると思って。もしくは高価な美術品に囲まれていると思って」
「……い、いくらくらいのですか?」
「どっちも百万円はくだらない設定でお願い」
 咄嗟に翼を出して体を庇いながら、やちよは努めて冷静に語りかける。荒れ狂う魔力の不規則な流れを何とか読んで、相殺のために自身も魔法を行使した。いろはを中心にして渦巻く風に、逆回りの風を流しこんでいく。たまに流れが変われば同じように方向を変えて、ゆっくりと、けれど確実に、いろはの魔力を抑え込んだ。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの。私だってこうだったわ。誰もが通る道よ」
 他の種族にはない翼人だけの訓練が、飛行訓練だ。突出期の終わり頃から個別に始まるそれのために、今は特別な部屋を与えられている。
 先程の様子からもわかるように、突出期の体の変化とそれに伴う力の制御は、一朝一夕で簡単に身につく物ではない。翼人のそれは特に変化が凄まじく、例えるならば、それこそ腕がワンセット増えたような物なのだ。大抵の翼人はそれをどうやって扱ったらいいかわからず、普段の部屋では様々な物がなぎ倒される事になる。だから床に固定されたベッドがあるだけの、やたらと広い部屋に移されるのだ。
「こんな状態で試験大丈夫なのかなぁ……」
「弱気にならないの」
 正式な成人を迎えるためには、種族別の最終試験に合格しなくてはならない。いろはややちよのような猛禽類系の血を持つ翼人は、空中を高速で飛び回る疑似餌と、地面を不規則に逃げていく疑似餌を捕えられるようにならなければいけない。急降下や急旋回が必要な難易度の高い試験ではあるが、ある種では渡り鳥系の血を持つ翼人よりはマシだろう。彼女達の最終試験は「太平洋を越える」だ。似たような物で、鯨の血を引く鰭人も北極海まで泳いで行かなければならない。勿論身一つでだ。
「突風に吹かれて墜落とか……」
「私と繋がってるんだから大丈夫よ」
 体育の教師以外に姉についてもらって、最初は地面から浮き上がる訓練。そこから徐々に高さを上げていって、次は距離を飛べるように。そして急降下や急旋回を覚え、最終的に件の試験になるわけだが、道程は遠そうだ。
「やちよさんまで落っこちちゃったらどうしよう……」
「この翼で? 有り得ないわね」
 今から弱気ないろはの前で、やちよがぶわりと翼を広げる。全部を広げたら五メートル以上もある大きな翼は、太い骨に支えられていた。乱れ一つない羽根は雪のように白く、その先に黒の斑が少しだけ。確かに鷲の翼と比べればいくらか小さくはあるが、完全な成体のそれはいろはの翼など比べ物にもならない程に力強かった。本当に、いつ見てもうっとりする程綺麗な翼だ。
「台風の中だって飛べるのよ。この翼で飛んで、あなたを見つけた。この翼で一晩あなたを守ったわ。今度も必ず守ってみせる」
「……はい」
 ああ、敵わないなぁ、と思う。必死になって大人を目指しているのに、少しは大人に近付けたと思っていたのに、やはりいろははやちよの妹だ。いくら体が大きくなったって、全てを覆せるわけではない。今は、まだ。
 幼い頃の思い出が過ぎれば、どうにも苦くて酸っぱい気持ちを抱いた。その翼の庇護の下ここまで育てて貰ったのだと気付かされる度、どうしても少し焦ってしまう。
 昔。と言って十年も経ったわけではないが、いろはにとっては昔の事。どうしても両親が恋しくなって、夜にコロニーを抜け出した事がある。
 その日はとてつもない嵐が上陸していて、寮の玄関を開けるにも苦労する程だった。それでも、と言うべきか、それ故に、と言うべきか、いろはは突然に心細くなったのだ。
 窓を叩く大粒の雨と、荒れ狂い絶叫する風。大自然の唸り声に震えながら、それでもまだ、その時はやちよのベッドに潜り込む方が余程勇気が要ったのだ。
 心細さと恐怖と混乱。無我夢中で寮を飛び出し、百メートルも歩かない内にいろはは後悔した。大泣きの空はすぐ小さな体から温もりを奪い、気付いた時には視界すらも塞がれている。今自分がどこにいるのかもわからない中、やみくもに走り回れば余計に方向を見失っていく。ついには蹲って動けなくなってしまったいろはの、凍える唇から零れ落ちたのは、両親を呼ぶ声ではなかった。
 ―っやちよさん……っ。
 空と同じくらい大泣きして、必死に呼ぶのは姉の名前。ごうごうと唸り声を上げる風に掻き消されて大した音にはならなかったが、それでも必死になって彼女を呼んだ。
 ―やちよさぁん……っ!
 その声が届いたのかはわからない。けれど、彼女はやってきた。凄まじい嵐を物ともせず、ただ真っ直ぐに、必死な顔をして。
 ―っいろは!!
 その姿を見た瞬間、その手が力強く抱き寄せてくれた瞬間、いろはの不安は溶けて消えた。力強い翼も細い腕も、全てを使って抱きしめてくれた時、心の底からこの人の傍にいたいと思ったのだ。
「いろは。私を信じて。あなたは必ず飛べるようになる。誰よりも強く。誰よりも高く」
「やちよさんよりも、ですか?」
「ええ。私よりも高く遠く、強く飛べるようになるわ」
 それは全く根拠のない言葉だったけれど、今回もいろはは安心する。やちよがあんまりにも自信を持って告げてくるから、まるで本当の事のように思えて笑ってしまった。
「いろは」
 いろはが笑えば、彼女は満足そうな顔になる。いつの間にか落ち着き、心地良いそよ風程度になっていたいろはの魔法。それを越える瞬間、ふわりとなびいた髪が綺麗だった。
「いろは」
 蕩けるように甘い声が、涙が出る程優しい手のひらが、いろはに触れて伝えてくれる。それは勇気だったり、自信だったり、優しさだったり。……自惚れてもいいのなら、愛情だったり。
「好きよ」
 甘えるようにいろはの肩に頬を寄せて、少し掠れた声が響いた。翼を仕舞い、自身を守る為の魔法すら解いて、無防備な彼女がいろはにそっと擦り寄ってくる。腕に添えられた手のひらから、あるいは預けられた体重から、いろはがやちよを傷付ける事など有り得ないという絶対の自信を感じれば、どうしてもそれに応えたくなった。
「やちよさん」
 彼女の気持ちに応えたい。彼女の信頼に報いたい。それ以上に、いろははやちよを守れるようになりたい。
「やちよさん」
「……上手」
 そっと、細心の注意を払って翼を動かし、やちよの体を包み込む。いろはが作った影の中で笑った彼女は、囁くような声音で、ぎこちない妹を褒めてくれた。翼を動かすのに必死でだらりと下げたままの両腕を取り、自身の腰にそっと導く。
「抱きしめて。あなたの全部で、優しく」
「……っやちよさん」
 やっと、一歩目だ。いろはは、そしてやちよも、そう思った。
 部屋は電気が点いていて明るいのに、いろはの翼の中は夜のように真っ暗で、巣の中をも思わせた。絶対的な庇護は母鳥のそれにも似ているのに、その中で触れる彼女の体温はそれ以上の親しみに溢れている。
「最初からこう言えばよかったわね」
「……うん。そうかもしれない」
「仔猫よりも、高価な美術品よりも、私の方が大切?」
「当たり前じゃないですか。あなたはお金なんかじゃ買えません」
 少し荒療治ではあるが、とりあえず魔法の制御は問題ないだろう。少なくとも、先程のように全てを吹き飛ばしてしまうような事はない。
「くすぐったい」
「産毛が抜けきるまでは我慢してください」
 すでに翼の動かし方も習得しつつあるようだ。飛ぶにはまだまだ心許ないが、閉じられるようになれば日常生活は楽になるだろう。新しい体でより強くやちよを抱き竦めながら、いろはは満足そうな溜息を吐いた。いつかの反対に、今度は自分がやちよを包み込めたのだ。それが嬉しくて仕方ない。
「くすぐったいってば。動かさないでよ」
「……我慢して」
「いやよ。ほんとにくすぐったいもの。ほら離して」
 必死になって身を捩るやちよが、いろはの腕の中で声を上げて笑う。成体の黒い羽根の隙間から、ぴょんぴょん飛び出している産毛がくすぐったくて仕方ないのだ。
「ふふ、ふ、ちょっといろは。やだ、もう。怒るわよ?」
 けれどやちよが逃げようとすればする程、抱き寄せる力が強くなる。しまいにはわざと翼を動かしてくすぐってくるものだから、やちよは堪らずその肩を押した。
「悪戯しないの」
「だってやちよさんが可愛いんだもん」
「好きな相手に悪戯していいのは七歳までよ」
 子供のように歯を見せて笑うやちよが、どうにも愛しくて仕方ない。強く腰を抱き寄せて深い色をした瞳を覗き込めば、とろりと甘く見つめ返されて息が詰まった。
「やちよさん……」
 引き寄せられるように顔を寄せて、翼の影でキスをする。薄い唇を割って舌を差し込めば、やちよは少し笑ったようだった。わざと逃げ出す舌を追いかけて絡め取れば、鼻にかかった甘い声が上がる。
「大人のキスができるのにね」
「……どういうこと?」
 そのまましばらく愛撫してから口を離すと、おかしそうなやちよが言った。意味がわからず問いかければ、やけに大人びた笑顔が見上げてくる。
「翼は産毛だらけなのが、少し面白いと思ったの」
「面白い?」
「まだまだ子供なんだなって」
 言葉通り面白そうにそう言われ、いろはは素直にむっとした。自分ではまた一歩大人になれたつもりでいた分、やちよの態度や口振りが気に入らなかったのだ。
「やちよさん」
「なに?」
「実践訓練、付き合ってくれますよね?」
「実践訓練? いいけど、この時間に外に行くのは……」
 気を抜くとすぐに母親のような顔をする。勿論それだって嫌ではないが、いろははやちよと母子でいたいわけではない。望むのは対等と、恋人の立場だけだ。
「実践訓練は、なにも飛行だけじゃないでしょう?」
「いろは……? っきゃあ!」
 きょとんとした彼女を素早く抱き上げると、そのままベッドまで歩いていく。風の魔法は拘束にも使えるらしい。やはり実践はとても大事だ。
「やちよさん、何かって言うと私を子供扱いしたがるけど……一つ忘れてますよね?」
「な、なにを……?」
 抵抗できない彼女をそっとベッドに降ろし、体だけでなく翼も使って覆い被さっていく。そしていろはは極上の笑顔を浮かべると、やちよにだけしか聞かせない声で、熱っぽくこう囁くのだ。
「もう、繁殖能力はあるんですよ?」
 高いのに低く、どこか掠れた声が耳に滑り込めば、やちよはただただ赤くなるしかない。こんなに弱い拘束、解こうと思えばいつでも解けるだろう。そうしないのは、つまりそういう事だ。
「こっちも大事な訓練です。付き合って、くれますよね……?」
 わざとらしく甘えた声を出して、およそそれとはそぐわない笑顔を浮かべる。黒い翼が降りれば、やちよの視界には、やちよの世界には、いろは一人だけ。だからもう、頷くしかできない。空の脅威も最強ではなかった。より大きな影に空を見上げても、その時にはすでに鋭い鉤爪が喰い込む直前だ。
「……やさしくして」
「わかってます」
 せめて最後に懇願すれば、鷲が笑った。獰猛なのに、どうしようもない愛しさに滲んだ笑顔だった。