どっぐらんの裏側

今まで書いた物まとめたり、ちょっと長めの独り言呟いたり。※無断転載禁止

神とその巫女になった少女の話08

 

 七つ前は神のうち。
 日ノ本にて古くより言い伝えられてきた言葉で御座います。この世に生まれ出でて七つを数えるまでは、まだ神様からお預かりしているだけ。幼子は人より余程神に近い場所に在り、いつこの世を去ってしまうともわからない。そのような意味合いの言葉で御座います。
 まだ医療の発達していない時代、子が長じるには格別の難しさが御座いました。「七つまではしっかりと気を付けてやらねばならぬ」という戒めと同時に、「喪ったのではなく神様にお返ししたのだ」と思いたい人々の心が、切々と宿った言葉で御座いましょう。
 疱瘡、結核、コロリ……現代においては撲滅、または予防法などが発見されている病でさえ、当時の人々にとっては死の病で御座いました。免疫力のある大人ですらそれらの病にばたばたと倒れていく時代で御座います。子など五人の内二人が無事に育てばまだ良い方で、家によっては何人産んでも一人も育ち上がらぬ事も御座いました。
 その上子を産む側である母親も、今よりずっと死に近かった時代で御座います。度重なる死産や流産により子を授からなくなる事もあれば、産褥熱に命を落とす事も珍しく御座いません。産み落とすだけでも命がけ、そして長ずる事も難しい。まさしく子は宝。神様よりの授かり物で御座いました。
 現代でも残る七五三の風習は、古来より受け継がれてきた切実な祈りの形でも御座いましょうか。子の健やかな成長を祈り、また神に祈る事でその守護を乞う。七歳、五歳、三歳に詣をする由来は平安時代まで遡りまするが、ここでは割愛させて頂きましょう。
 此度の物語では、子を想う親の、そして誰かを想う周囲の者の、強い祈りをお話させて頂きたく存じます。神とその巫女になった少女の許へ、ふっと訪れた小さな命について。しばし皆様のお時間を拝借し、ゆるりとお話させて頂く事といたしましょう。

 

続きを読む

神とその巫女になった少女の話07

 

 大正時代の結婚について、皆さまはどのようなイメージをお持ちで御座いましょう。女に自由意思はなく、貴族の娘ともなれば許嫁や婚約者がおり、まだ少女の内から結婚して子供を産む。対する男は妾を持ち花街へ出かけ、割合と自由に過ごしている、と思う方もいらっしゃるかもしれません。
 けれど当時の貞操観念は今とは比べようもない程で御座いまして、特に結婚などは一度しましたら滅多な事で離縁は叶いませんでした。これは女だけでなく男も同じで、貴族の令嬢を娶ったならばそれ相応の態度が必要となって参ります。そして当時の男達は余程遊び慣れた者でもない限り、生涯一人の女を愛する事を誓う者の方が多御座いました。後の記録は華やかな面が取り沙汰され安う御座いますれば、当時を生きた方々にとってはいい迷惑でもあるのやも知れません。なにせ女に現を抜かす者は”軟派者”と揶揄された時代で御座いますから、世間の目を考えましても仲睦まじい夫婦である方が余程良い事であったので御座います。
 とはいえ、同じ結婚と申しましても、女と男が決して対等であったわけでは御座いません。嫁して三年子供ができねば、例え夫の方に原因があろうとも”うまずめ”等と誹りを受け、実家に返される女もおりました。また、夫の浮気は許されたとしても、妻の浮気は決して許されません。酷い時には死罪もあり、男女平等などという言葉はまだまだ遠い未来の話で御座いました。
 例え夫が浮気をしても暴力をふるっても、それに抵抗した瞬間、罰せられるのは女です。離縁に留まったとしても”我慢できぬ女が悪い”と怒り出す父もおりました。男子が絶対の時代で御座いますれば、已むを得ない風潮でもあったでしょう。けれど確かに、女にとっては生きづらい時代でもあったので御座います。
 けれど、何もそう息苦しい事ばかりでも御座いません。人々が西洋文化に傾倒しつつあったこの時代、貴族の親の中にも娘を想う相手と添わせてやろうという者も現れつつありました。この舞台の役者たる環家の面々はまさしくそうで御座いましたし、そうでなくとも下手に駆け落ちされるくらいなら、まだ男の方を一度貴族の養子にするなどして正式に結婚させた方が、世間体も良く皆幸せになれると思う者もちらほらと居りました。
 また、女の方にも全く自由意思がなかったわけでもなく、会ってみて人柄が一切合わぬと感じれば、父に申し出て話を白紙に戻してもらう者も少しは御座います。身分違いの恋も江戸の頃に比べれば易くなってきておりまして、時代は緩やかに、けれど確実に”未来”に向かって歩みを進めつつあったので御座いました。

 

続きを読む

神とその巫女になった少女の話06


 江戸の時代、人々がまだ信心深く、神社参拝のために休みが与えられていた頃。神の力が未だ隆盛であった時代から、数えるところ僅か半世紀余り。この物語の舞台となります大正の頃には既に人の心は神から離れはじめ、また多くの神社が取り壊された後で御座います。
 西暦一九〇六年、皇紀二五六六年、明治にしまして三九年。当時の内閣によって出された勅令に”神社合祀(じんじゃごうし)”と云う物が御座いました。神社ごとに格と序列をつけ、小さな物から取り壊していく。合祀が決定した神社の祭神は残留が決まった大きな神社に移され、実に七万もの神社が取り壊しの憂き目に遭ったので御座います。
 日の本全土に二十万はあろうかという神社の数を減らすこの政策は、人々と神の心を遠くするきっかけとも相成りました。日々祈っていた神社が取り壊され、氏神が遠い地に行ってしまった氏子達。その中には、参拝に行くのが困難な者も出てまいります。無理矢理住処を変えられた神の中には、世を憂いて自ら土地を去った存在も在ったでしょう。
 時代の流れと共に当然のように押し寄せる合理主義の波。叶う叶わないのわからぬ神仏への祈りよりも、科学による文明の進歩と利便性に、人の目はどんどんと曇ってゆきました。
 けれどこの勅令。何も悪い事ばかりではございません。各自治体に依存していた神社の管理を国が一括して行うようになった事で、確実に救われた神社も勿論御座いました。広い土地を持ち、管理費だけで年間かなりの額が出ていくような大きな神社。それらが”現代”においても変わらず形を残しているのは、少なからずこの政策の恩恵あっての事で御座います。
 一つの神社に経費を集中させる事で、安定した財産を成す。それにより継続的な経営が確立された事で、威厳と信心がより一層高まった神社も御座いました。
 物事は常に表裏一体。影ある所には必ず光浴びるモノが在り、光が照りつける場所には必然濃い影が生まれるもので御座います。立ち位置が違えば抱く感情も変わる。ほんの一歩分の距離で生死の分かるるのもまた、仕方のない事では御座いましょう。
 さて、この物語の舞台に立ちませる狐の神。彼女は何も、この政策によって力を弱くしたわけでは御座いません。それより以前、恐らく戦国乱世の頃には、もう社は井戸に投げ捨てられた後で御座いました。けれどそれ故に、神と少女は出会ったので御座います。
 狐神の社は、元は極々小さな神社にございました。もし彼女の社が明治の時分に失われていなければ、恐らく真っ先に取り壊しに遭っていた事で御座いましょう。さすれば少女と出会う事もなく、恐らくこの神の事。世に未練もなく、あっさりとその存在を消してしまっていた事でしょう。
 これもまた運命の悪戯。全てが悪い事ばかりではなく、沈む時もあれば軽やかなる時分も御座います。物事は常に表裏一体。僅かな歯車の狂いから二人は出会い、そしてまた僅かな狂いから別たれて、今もカラカラ回り続けている最中で御座います。今噛み合う歯車が正しい形で収まっているのかは、不調が起きてみなければわからないもの。この物語は何処へと向かうので御座いましょう。
 神とその巫女になった少女の話。一つの悲しい事件を乗り越え、より強固な絆で結ばれた二人。今までは少女の住まう屋敷とその周辺での出来事ばかりお見せして参りましたが、この度は少し場面を移してみる事に致します。
 これは、ある日の小旅行での一幕。とある再会、そして新たな出会いのお話で御座います。

 

続きを読む

神とその巫女になった少女の話05


 此処日の本は世界に比べて神の多い風土で御座いますれば、当然信仰の形も様々で御座います。風を畏怖する者、樹木を崇める者、水を神聖とする者、星に祈る者。八百万、全ての存在に感謝を続ける風土で御座いますれば、当然視える者もそれなりに多い国では御座いました。故に、この国には”魔女”と云う者が居りません。古代卑弥呼の時代より、視える者、聞こえる者は神聖なる神の使いであり、神の御言葉を賜る存在は丁重に保護され匿われてきたので御座います。
 そしてまたこれも、古代卑弥呼の時代より、神託と政治は切っても切り離せぬ関係で御座いました。故に戦国の世に至る頃までは、真に力ある巫女を一所に集め、朝に夕に神託を乞うていた時代も御座いました。
 そしてこの巫女が逃げ出しますと”抜け巫女”等と揶揄されまして、捕まれば引き戻されるか遊郭へ、酷い時にはそのまま殺されてしまう事すら御座います。と、申しますのも、先程にも述べましたるように、神託と政治は切り離せぬ物。つまり一所に集められた巫女達は、何故神に御言葉を賜るのか、すなわち時の政治家が真に憂いているのは何事であるのかを知っているからで御座いました。国家機密を握ったまま逃走なぞされては堪った物では御座いません。ならばいっそ処刑を……というのが、日本における”魔女狩り”でも御座いました。
 さて、大正の世に入りまして、人々の心が”サイエンス”に傾倒致しますれば、当然のようにこのような残酷な出来事は少なくなって参ります。されども人々の心はまだ完全に神から離れた訳でもなく、それを申しますれば”現代”を生きておられます皆々様方も同じ事かとは存じます。人は心のどこかで神を信じ、人知を超えた現象を目撃する事に憧れにも近い気持ちを抱いて居りました。
 そしてその中には、叶うならば神を降ろせる存在になりたいと、叶いもしない願いを抱く物も存在するので御座います。
 本日は、舞台に立ちまする神と巫女の身に忍び寄った、とある事件についてお話して参りましょう。

 

続きを読む

神とその巫女になった少女の話04

 

 この時代の学業と申しますれば、男と女では大分差異がございました。男はあくまでより良い職を得るため。あるいは将来お国の役に立つために、医者や官僚、学者や政治家を目指して勉学に励む物で御座います。対する女は家庭に入って後に苦労しないため、家事や裁縫、編み物や生け花などを中心に、僅かばかりの国語と数学を学ぶに留まっておりました。
 そしてこの時代、貧富の差は悲しい程に大きく、超えられない壁と云う物が存在致します。学ぶだけの頭はあるのに金がないので勉学はできない、という者も多くおりました。そこで出てきますのが”書生”と云う制度で御座いました。華族や貴族、資産家達は、学ぶ意思と将来性のある若者を屋敷に住まわせまして、食事や部屋を与え、あるいは学費を出してやり、勉学を助けてやったので御座います。
 これをただ金のある者の娯楽のようにも思われる方もいらっしゃいましょう。けれど将来有望な若者を育てる事はお国のためにもなりますし、高貴な人間にとっても得のある話であったのです。自らが世話をした書生が著名な学者や医者になれば自身の評価も上がりますし、そこから官僚や政治家が出たとなれば今後の事業の何某かで強いパイプを得る事にも繋がります。そして住まわせている間のメリットとして、屋敷の自衛、と云う側面も持ち合わせておりました。
 なにも、全ての貴族、全ての資産家が大きい家を持ちたいわけでも御座いません。この物語の舞台に立ちます少女の父親など、六畳半が二間あれば十分と云うような人物でも御座いました。けれど上流階級に身を置く以上、自分より高貴なお方、場合によっては徳川宗家の方であったり、皇族の方であったりを招く機会が無いとは言い切れないのです。そうなって参りますれば質素な家を持つ訳にもいかず、やれ客間、やれ遊技場、テニス場に車庫にワインセラーに……屋敷が大きくなる訳で御座いました。
 さて、そうなって参りますと、次に気になるのは防犯面で御座います。まだ現代のように”警備会社”等と云う物も御座いませんので、自身で金を出して人を雇うのも良いのですが、そうなると安全な時は完全に給料泥棒です。しかも金で雇われて護衛をするような輩はより大金を積まれれば簡単に寝返る者も御座いまして、中には守るべき主人の元から権利書などを盗み出し、他の貴族の元へと行ってしまったような者もおりました。
 広い屋敷の自衛をどうするか。そこで書生が一役買ったので御座います。強盗とて、男手が多い屋敷にはあまり侵入したくありません。しかも当時の男性達は、皆そこそこの武道や自衛術を身につけている物で御座いました。そうでなくとも体育の鉄棒では大車輪くらい出来て当たり前、というような、男子頑強たれという教育方針の真っ只中で御座います。皆血気盛んで、学生同士の派閥争いや乱闘などは今よりずっと多かった物で御座いました。
 しかも書生たちは、衣食住の一切をその屋敷の主人に世話して貰っている状態です。屋敷や主人に不利な事があれば当然自分の学業も不安になってくるわけですから、滅多な事では裏切りません。故に、書生を何人か招き入れて世話をしてやる事は、高貴な方にとって、一石二鳥にも三鳥にもなったわけで御座います。
 そして当然、この物語の舞台に立ちます少女の住まう屋敷でも、数人の書生が共に生活を続けておりました。

 

続きを読む

神とその巫女になった少女の話03

 

 皆々様におかれましては”ペット”をお飼いの方々も多数いらっしゃる事かと存じます。そもこの日の本におけるペットの歴史を掘り下げますと実に縄文の頃まで遡りまして、犬はその頃から人間の友で御座いました。されどその頃においてはまだ”愛玩”には至らず、敢えて言葉として述べるならば”家畜”としての飼育に留まるのみで御座います。平安の頃より”愛玩”する生き物として猫が飼われるようになり、かの有名な藤原氏の一族の中にも猫を寵愛する方がいらっしゃったようで御座いました。平安の頃においては猫は神聖な生き物でございまして、大切な経典を食い荒らす鼠を狩ってくれる存在として、非常に大切にされておりました。”猫王”等と申しまして、神格化された存在も御座います。
 対する犬はと言えば、実は江戸の後期に至るまで番犬以上の意味をあまり持たずにおりました。犬公方と揶揄された五代将軍徳川綱吉公の施行しました生類憐みの令の時代を除き、その殆どは野良犬同然。あるいは高貴な方々のステータスとして大型犬のみが高値で取引されるような具合で御座いました。
 さて、ここで話は舞台の二人に戻ります。狐を拾いました少女は両親の許可を得てその手当をして参りましたが、今やその毛並みも美しく、しなやかな体躯も活き活きとしたもので御座います。となれば当然、狐の今後の身の振り様に話は及んで参ります。そしてそれは奇しくも、少女の今後へとも繋がって行く事と相成りました。
 今回は、神に降りかかった小さな災難と、その後に起こった一つの事件についてお話して参りましょう。

 

続きを読む

神とその巫女になった少女の話02

 


 さてさて斯くも奇妙な物語。今や幕は上がり切り、舞台の役者も正しき位置に立ち並びました模様で御座います。神とその巫女は十年近くの時を経て再び本来在るべき関係に相成りますれども、時代はまさに近代化の只中。人々の中には神や仏や妖怪等と云う存在を信じない者も増えて参った時分で御座います。深川、本所、浅草等、下町の名残ある場所では未だ信心深い者も多御座いましたけれども、丸の内、銀座、日本橋と云った商業オフィスの立ち居並ぶ近代的な通りでは”滅多な事”と狐狸妖怪の類の話はめっきり口数も少なくなって参りました。開国から明治の四五年を経て大正に入りましたこの時分、人々の心は”サイエンス”と云う物に捕らわれつつあったのです。
 此の頃には洋式の建物も当たり前となって参りまして、先に上げ連ねました商業オフィスの立ち居並ぶ地域等はまさしく近代化の象徴とも呼べる美しい街並みと相成って御座いました。銀座をぶらつく……所謂”銀ぶら”と呼ばれる言葉が生まれたのもこの時期で御座います。帝都の書生達は時間が有れば銀座へ繰り出し、時には悪い遊びもした事で御座いましょう。
 さて、この時代と申しますれば、女性の社会進出はまだ然程進んでおらぬ時分でございます。されども皆々様が想像する良家の子女と、この時代を生きた彼女達の中では、恐らく大層な”認識の差”と云う物が御座いましょう。箱入りで物静か、男の後を三歩遅れてついていく。大和撫子のイメージはそのような形である方もいらっしゃる事かと存じます。けれど、当時の女性もそれは逞しい物で御座いました。スキーに登山、テニスに水泳。男性の目がない場所では、少し怪しい会話も飛び交います。そして何よりも彼女達が関心を持ち花を咲かせたのは恋の話。今より自由が少なかった時代、断る余地はあったにせよ、恋愛婚より見合い婚の方が多御座いました。少女達は恋と云う物に強い憧れと、夢を抱いていたので御座います。時には他の全てを投げ打ってしまえる程に……。

 

続きを読む